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舞踏会の夢 3

 ナディルはその日、侍女たちが用意してくれた、それまで着たこともないくらいの美しい衣装に身を包んだ。

 淡い透き通るような緑に、金の糸で花の模様を縫い取りしたドレス。花の間には、宝石で作られた小さなビーズが星空のようにきらめく。それは、デュプリー公爵から届けられたものだった。

 真珠を散りばめた薄布を肩にまとい、エメラルドの繊細な首飾り、お揃いの耳飾りを付ける。

 形よくまとめた漆黒の髪には、それによく映える金の冠。

 そして指には、アーヴァーン王家の者であることを示すルビーの指輪。金色の竜がルビーを抱え込んでいる形状のものだった。


 エリュースには、黒で統一された衣装が用意された。

 銀の刺繍入りの上着、ズボン、黒の革靴。そして、闇よりも暗い色をしたマント。

 銀の髪はトパーズのピンで留められ、頭にはルビーの目と金の鱗をした生きた竜が乗せられる。

 

 太陽が山々の上にかかる頃、二人は質素な馬車に乗り込み、離宮を後にした。

 正式にこの宮殿を出るのは、何年ぶりなのだろう。

 ナディルは馬車の窓から、遠ざかる門を眺めて思った。


「きれいだ……」


 エリュースが、ナディルを見つめる。

 ナディルは、顔を赤くした。

 傾いた太陽の光が、彼の髪を薄い赤銅色に染めている。

 あなたも、とてもきれい。

 ナディルは、心の中で呟いた。


「きょうは、あの鈴は付けておられないのですね?」


 ナディルは、エリュースに訊ねた。

 いつも彼が付けている金の鈴の位置には、別の金細工の首飾りがかけられていた。


「舞踏会ですので、遠慮しました。演奏をしてくださる方々にも失礼ですしね。でも、持ってはいますよ」


 エリュースは、小さくたたまれた布の包みを、胸元からちらりと取り出して見せる。

 音が鳴らないようにそうしているのだと気づいて、ナディルは微笑んだ。


「それは、あなたのお守りか何かなのですか? いつも付けておられますね」


「私の家に代々伝わる鈴です。由来などはよく知りませんが、気に入っているので付けているのです」


 エリュースは鈴を直し、再びナディルを真っすぐ見つめた。


「あなたは……アーヴァーンの女王になるかもしれない方なのですね」


 彼が言った。


「次の国王は、兄だと思います」


 ナディルは、視線を落として答える。


「なぜあなたの父君は、後継者をまだ決めないのかな。今のうちに決めてしまえば、あなたはあんな辺鄙な建物に閉じ込められる必要はなくなるでしょうに。あなたが病弱だと偽って離宮にいるのは、王位継承争いに巻き込まれないようにとの、周囲の配慮なのでしょう?」


 ナディルは、頷いた。


「そう。その争いから遠ざけるため、お父さまが私を離宮に住まわせたのです。私が十歳のときでした」


「国王は、自分自身で王位継承者を決めることは出来ないのさ」


 エリュースの頭から降りて、今は居心地のよいナディルの膝の上に丸くなっているガガが言った。


「王位継承者を決めるのは、人ではなくルビーなんだ」


「ルビー?」


「アーヴァーン王家に伝わるルビー。正当な王位継承者が触れると、光り輝くと言われています」


「では、あなたがそのルビーに触れて、それが輝けば、あなたが次の国王というわけですね」


「でもそれは、兄さまかもしれません。でなければ、弟か妹の誰かかも……」


「ただ、今までの例からすると、後継者はすべて正妃の子供だったらしい」


 ガガが説明する。


「アーヴァーンの国王の正妃は、たとえ亡くなろうと、その女性ただ一人だけ。そして正妃の子供は、ナディルただ一人ってわけさ。元側室が正妃と同じ振る舞いをして、どんなに幅をきかせていてもね」


「ではいっそ、あなたがそのルビーに触れればよろしいのではないですか? 父君を含めた皆の前で。 そしてルビーが輝けば、父君にも後継者だと認めていただけばよいのです。そうなれば争いなどは起こらないでしょう?」


 エリュースが言った。


「無理だよ。ナディルにルビーを触らせまいと、躍起になってるやつらがいるんだから。宮廷って、そういうところだよ」


「私は、ずっと離宮で暮らすのもいいと思っています。別に王位を継承しなくても」


 ナディルは呟いた。


「ナディルったら、またそんな後ろ向きなことを。それか安全な場所にさっさとお嫁に行って、だんなになる人にしっかり守ってもらって、和やかに暮らすんだね」

 と、ガガ。


 エリュースは黙り込み、外の景色に目をやった。


 太陽が、ゆるゆると角度を変えていく。

 魚の鱗のような雲が、ことごとく薄紅に染まり、金糸で縁取りされたように輝いた。


「今宵は満月です。油断をすると私は猫になる」


 エリュースは、静かに言った。



 大広間に現れた二人の新客に、人々は思わず声を上げ、そして見惚れた。

 ざわめきが入り口近くから、波のように広がって行く。

 一人は、淡い緑のドレスを着た、黒髪の貴婦人。

 貴婦人と呼ぶにはまだ早いあどけなさが、口元と体の線に残っている。

 金の仮面の下から覗くのは、翡翠を思わせる不思議な緑の目。

 もう一人は、黒いマントを優雅に揺らめかせて歩く、見事な銀の髪の若者だった。

 ルビーの金の竜が、さながら輝く兜のように、若者の頭部を覆っている。

 黒猫の仮面の下できらめく目は、透明な黄色の宝石だった。


「あれは……あのご婦人は、ナディル王女さまだ」


 ひとりの老貴族が呟く。


「ナディルさま? まあ、お顔が拝見できないのが残念ですわ」


「でも、きっとおきれいよ。母君に似ておられるでしょうから……」


 貴婦人たちが、囁く。


「では、あの貴公子は?」


「はて、あのような銀髪、若手の貴族の中におったろうか?」


「染めているのか……あるいは鬘かもしれませぬな」


「とすれば、そういうことをしそうなのは、イアン伯爵あたりか。それとも、セルビス候……。外国の貴族かもしれぬ」


 ナディルは、国王の前で礼儀正しく腰をかがめ、丁寧に挨拶をした。

 国王の隣には、少し頬をこわばらせた妃。その隣には彼女の子供たちが、ナディルの正体を知らずに座っている。

 ナディルよりも年下の子供たちは、素直な憧れの眼差しをナディルに注いだ。


「よく来てくれた……」


 国王は、ナディルの頬に軽く手を触れた。

 ナディルと同じ黒髪。幼い頃いつも身近で見ていた、森の木々の緑の目。

 それは何年たとうと変わらなかったが、顔には皺が刻まれ、あの頃ほど声に張りはない。

 年を取られた。

 ナディルは仮面の下から、父親を見つめる。


「楽しんでおいで」


「はい」


 ナディルは、微笑んだ。

 何という短い会話なのか。久しぶりに会ったというのに。

 いつか父と思う存分語り合い、笑いさざめく時が来るのだろうか? この城のどこかで。

 ナディルは、ふと思った。

 

 四人の貴公子が、国王との拝謁を終えたナディルの前に並ぶ。


「どうぞ姫君、お相手を」


「ぜひ、私と」


 彼らは、手を差し出した。

 鴉の仮面、ライオンの仮面、山犬の仮面、そして竜の仮面。きらびやかな異国の服に身を包んだ若者たち。

 服装から推測すると、彼らはアーヴァーンの周辺の国の王侯貴族たちらしい。

 ナディルの正体を知って近づいてきたのは明らかだった。

 エリュースは、彼らとナディルの様子を見守る。


「あれはきっと、ナディルの花婿候補たちだよ」


 ガガが言った。


「ナディルが出席するというので、招待されたんだ。やっかいだな。彼ら、仮面を付けていても、だいたい正体はバレバレだもんな。ナディルが選んだヤツが、これから宮中で幅を……エリュース?」


 エリュースは驚くガガを頭に乗せたまま移動し、貴公子たちの輪の中に加わった。そして、彼もまたナディルに手を差し出す。

 ナディルは微笑んで、迷うことなくエリュースの手に自分の手を預けた。

 呆気に取られる貴公子たちの前を、二人は滑るように通り過ぎる。


「踊れるの、エリュース?」


「少しなら」


「嘘だろ。ま、まさか、本気で踊る気?」


 ガガがエリュースの頭の上で、じたばたする。


「しっかりつかまっておいで」


 エリュースは、ガガに言った。


 人々の間から、ほうっという、溜め息とも感嘆の声とも取れる声が漏れた。

 黒髪の姫君と銀の髪の貴公子は、音楽に乗って、くるくると大広間を回った。

 そこで踊っているどの組み合わせよりも軽やかに、そして優雅な足取りで。

 エリュースは、ナディルが思ったとおりに先回りして動き、ナディルを導く。まるで、もう何度も舞踏会で一緒に踊っていたように。

 ナディルは安心してエリュースに体を預けた。

 彼の手が、ナディルに触れている。力強くナディルを支えるのは、彼の腕。

 銀の髪がふわりとなびいて、猫の仮面の下の黄水晶の鋭い目が、ナディルに注がれる。

 彼の視線を受けて、頬と耳が燃えるように熱い。

 舞踏は王女として、幼い頃からうんざりするくらいに練習を重ねたので、無意識でも音楽に合わせて体は動いた。

 けれどもエリュースに見つめられていると思うと、妙に意識し、緊張してぎこちなくなってしまう。


 きらびやかな衣装と宝石を付けて踊っている、動物や魔物の仮面をかぶった人々。

 広間にむせるように漂うのは、貴婦人たちが付けた花の香り。貴公子たちが髪にふりかけた匂い水の香り。

 天井から吊り下げられた炎の塔のような照明が揺らめいて、広間を気だるげに照らし出す。

 仮面を付けて正体を隠した人々と、彼らの輪郭を忠実に床に再現した影たちは、音楽と酒に酔いしれながら、淡い光の中を回り続ける。

 不思議な光景だった。

 それを望んだのは、ナディル自身だったのだが。

 そのどこか幻のような景色の中で、ナディルとエリュースは何度も見つめ合う。

 光に照らされて、仮面の中で一際美しく宝石のように輝く、エリュースの黄水晶の目。

 それはナディルにとって、一瞬で終わってしまう、とても短い夢のような時間だった。


 音楽がやむと、拍手が起こった。

 それは、一緒に踊った相手に対する感謝とねぎらいの拍手であり、踊った人々をたたえる拍手だったが、その大半はナディルとエリュースへのものだった。

 国王の隣に陣取る王家の子供たちも、無邪気に一際高く手を打ち鳴らす。


「ありがとう、エリュース。あの四人の中の誰か一人を選んで踊るというわけにはいきませんでしたから」


「一つの行動にも意味を嗅ぎ取られるというわけですか。面倒ですね、王族の方は」


 エリュースが言った。


「足は、大丈夫ですか?」


 ナディルが訊ねると、黒猫の仮面は頷いた。


「ええ。もう治っていますよ。私は通常の人間より怪我が治るのは早いのです」


「それはやっぱり、猫さんだから?」


「そういうことですね」


 仮面の下の黄色い目が微笑む。

 その時、声が響いた。


「侯爵……?」


 お喋りをしていた人々は、声の主に気づいて慌てて口をつぐみ、黙り込んだ。

 広間が唐突に、しんと静まり返る。


「ファルグレット侯爵?」


 声がもう一度、音のしない空間に響く。

 国王の声だった。

 エリュースは、仮面の下から国王を見つめた。

 何かの魔法にかけられて石になってしまったのかとナディルが心配するくらい、エリュースは動かなかった。

 人々は息を呑んで、国王と謎の貴公子を眺める。

 エリュースと国王の間には、自然と道のような空間が作られ、遮るものは何もなかった。

 ぴんと張り詰めた空気が、その道を覆う。


「お知り合いなのですか?」


 国王の隣に座っていた妃が訊ねる。国王は、夢から覚めたような顔つきになった。


「思わず声をかけてしまった。すまぬ。人違いであった」


 国王が呟いた。


「昔、そなたのような銀の髪と黄水晶の目の若者が、この宮殿にいたという。私が子供の頃、曽祖父から聞いた話だ。遠い昔のことであり、そなたがその侯爵であるはずもないのだが。ふと曽祖父の話を思い出してしまった」


 エリュースは微笑み、国王に向かって丁寧に挨拶をした。

 緊張が解け、人々は笑い合い、再び音楽が始まる。

 けれども、エリュースは踊ろうとはせず、ナディルに言った。


「そろそろ帰りましょう、姫君。早めに切り上げたほうがよろしいです。あなたにとっても、そして私にとっても……」


「あれま。もう帰るの?」


 エリュースの頭にしがみついているガガが、訊ねる。

 ナディルは頷いた。


「そうですね。病弱のナディル王女は、一曲踊っただけで帰らなければなりません。体にさわりますもの」


「ま、でないとおかしいよね、確かに」


 ガガが同意した。



 藍色の空には、輝きを増した月が貼りついていた。

 鏡を思わせるその月は、非の打ちどころがないくらいの円を描いている。

 仮面をはずしたナディルは、馬車の座席に深く腰を下ろした。

 エリュースは、月の光を浴びないようにマントのフードを深く被り、馬車に乗る。

 ガガはエリュースの頭から、ナディルの膝へと移動した。


「エリュース。一緒に来てくれたことを感謝します」


 ナディルは言ったが、エリュースは窓の外の、満月の光で薄く覆われたアーヴァーンの風景に顔を向けていた。


「あなたの踊りはとても素敵でした。どこかで習ったことがおありなのでは?」


「少し興味があったのでお供しましたが、あの場所は夢。幻想です。私にとっては。美しく妖しげで、近寄りがたい世界。私を拒否するもの」


 エリュースが呟く。


「だが、あなたにとっては現実だ。あなたはあの世界に生きている。そして、生きねばならない」


「エリュース……」


「私は、明日、発ちます」


 ナディルは、闇色のフードを見つめた。

 彼の表情は、フードとその奥に立ちはだかる黒猫の仮面に隠されて見えなかった。

 耳の奥に痛みのようなものが走り、口の中に何か熱い固まりが沸き上る。

 固まりはゆっくりとナディルの目に喉に、そして全身へと広がって行った。

 ナディルは自分の手が震えていることに気づき、両手を無表情に見下ろした。

 それは、いつか聞かねばならぬ言葉。そして、ナディルが恐れていた言葉だった。

 わかっていたのだ。いつかエリュースが告げるであろうことを。

 わかっていたのに……。

 かなわぬことは承知の上、それでもその日がまだ来ぬようにと本気で願っていた。

 その日が伸びるように。たとえ一日でも。

 けれども、時間は流れて行く。

 手にすくった砂が一粒ずつ落ちていったとしても、最後の一粒が落ちてしまう時は必ず来る。

 彼は去ってしまう。自分の元から彼の世界へ。彼の属する自分の知らない世界。そして、自分の知ることのない未来へと。


 ナディルの目から涙がこぼれて、手の甲に落ちた。

 それは夜の空気に触れてたちまち冷え、ナディルの手はそれに刺されたように痛んだ。

 なぜ体が震えるのだろう。なぜ涙がこぼれる?

 彼が去って行くことは、彼が来た時から知っていたのに。


「そう……。行くのですね」


 ナディルは呟いた。

 そして手で唇を押さえて、目を閉じる。

 そうしていなければ、取り乱して叫び声を上げそうだった。

 エリュース、行かないで、そばにいて。

 ずっと私のそばに……。ひとりにしないで……。


 たとえどんなに泣き叫んでも無駄なこと。どうすることも出来ぬことだ。

 エリュースを困らせ、そして自分自身をももっと苦しめ、惨めにさせるだけの愚かな行為。

 こらえねばならない。王女として。

 そういうものはすべて涙にでも押し込め、体から出してしまわねばならない。

 そうだ。涙ならいい。涙なら……。


 ガガの頭の上に、ナディルの目からこぼれた涙がぽつりと落ちる。

 そしてガガは、薄緑のドレスの中に、涙で出来た新しい模様が密やかに増えていくのを、黙り込んだままじっと眺めた。


 やがて馬車は、離宮に到着した。



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