一筋の希望
静寂が耳鳴りを起こすほどの、薄暗い防音室。壁一面に隙間なく貼られた吸音材が、音だけでなく僅かな希望すらも吸い込んでいるかのようだった。
華音が奪われた。その絶望的な事実が、黒い泥濘のように涼太の思考を覆い尽くそうとする。しかし――その泥に沈み切る前に、涼太の内で何かが冷たく弾けた。
(パニックになっている暇はない)
自らの無力さに絶望する時間を、彼はわずか数秒で切り捨てた。深く、長く息を吐き出す。肺の奥底に溜まった淀んだ空気を押し出すと同時に、異常なほど冷徹な理性が脳髄を支配していくのを感じた。華音を救うためには、一秒でも早くこの手作りの密室から脱出しなければならない。
彼は立ち上がり、部屋の隅の簡易ベッドを見下ろした。そこには、健吾に睡眠薬を飲まされた結衣が、死んだように昏々と眠っている。
「結衣。起きろ」
声は低く、感情を排していた。涼太は少し躊躇ったが、結衣の白い頬を平手で強く張った。パァン、と乾いた音が防音室に虚しく響く。一度、二度。
しかし、薬の効き目は深く、結衣の首が力なく揺れるだけで長い睫毛が震える気配すら無い。
「手荒な真似をして悪いが、命には代えられない」
涼太は傍らに転がっていた飲みかけのペットボトルを掴み、残っていた冷たい水を容赦なく彼女の顔面に浴びせた。
「ひぶっ!?」
唐突な冷感と窒息感に、結衣の体がビクンと跳ねる。
「げほっ、ごほっ……え、あ……?」
気管に入った水を吐き出しながら、結衣はうっすらと目を開けた。焦点の定まらない瞳が、薄暗がりの中で涼太の顔を捉える。
「涼太、先輩……?」
その弱々しい声を聞いた瞬間、涼太の胸の奥底で張り詰めていた糸がふっと緩んだ。無意識のうちに、彼は身を屈めて結衣の華奢な体を強く抱きしめていた。
「えっ……せ、せんぱい……?」
突然の抱擁と、顔が濡れている状況に結衣は混乱し、顔を赤らめた。涼太はすぐに彼女から体を離し、真剣な眼差しで結衣の両肩を掴んだ。
「落ち着いて聞け。手短に話すぞ」
涼太の切迫した気迫に呑まれ、結衣はこくりと息を呑んだ。
「お前は健吾に睡眠薬を飲まされた。そして今……華音が、健吾に連れ去られた。健吾の目的地に心当たりはないか? 言ってくれ」
「え……かのん、先輩が……?」
結衣の瞳孔が開く。まだ朦朧としていた意識が、恐怖によって急速に覚醒していくのがわかった。彼女は震える手で自身の頭を抱え、必死に記憶の糸をたぐり寄せた。
「……あ、あいつ、前に言ってたんです。『極上の女が手に入ったら、先輩たちの廃ロッジに持っていく』って……!」
廃ロッジ。その単語を聞いた瞬間、涼太の脳内に雷のような衝撃が走った。
――『原作』の裏設定。
健吾という男は、単なるたちの悪い不良学生ではない。彼の背後には、裏社会に片足を突っ込んだタチの悪い半グレの先輩グループが存在している。そして彼らのアジトこそが、隣町の山奥に点在する廃墟群だ。もし華音がそこに連れ込まれれば、健吾一人ではなく、複数の男たちの毒牙にかかることになる。
(場所は割れた。次は脱出だ)
涼太は立ち上がり、分厚い防音ドアに向き直った。
ドアを蹴り破るのは物理的に不可能だ。吸音材の下には頑丈な板が仕込まれているだろう。換気用の小さな窓にはめ殺しの鉄格子があり、ピクリとも動かない。
絶望的な状況だが、今の涼太の思考は氷のように澄み切っていた。
『俺が趣味でDIYした部屋』
健吾が自慢げにそんな感じに言った言葉が脳裏に蘇る。素人の施工。つまり、どこかに必ず致命的な欠陥があるはずだ。
涼太はポケットからスマホを取り出し、ライトを点灯させた。暗闇を切り裂く白い光が、ドアの隙間を舐めるように動く。
「……案の定だ」
内開きに設定されたドアの蝶番。そのネジ山が、あろうことか室内側から丸見えになっている。
「結衣、ヘアピンか硬貨を出せ。すぐにだ」
「は、はいっ!」
結衣は慌てて自分の制服のポケットを探り、十円玉を取り出して涼太に手渡した。
「少し下がってろ」
涼太はスマホのライトで光源を確保すると、十円玉を蝶番の安っぽいプラスネジに差し込んだ。
「硬ぇな……っ!」
涼太は歯を食いしばり、全身の体重を十円玉にかけるようにして腕を捻った。ギギ……と微かな金属音が鳴る。指先に激しい摩擦がかかり、十円玉のギザギザが皮膚を容赦なく削り取っていく。
一本、また一本。
指の皮が破れ、血が滲み出しても、涼太は決して手を止めなかった。凄まじい集中力が痛覚を麻痺させていた。
(こんなにも冷静な自分が、今までいただろうか)
涼太はネジを回しながら、自身に驚いていた。記憶の断片が戻ってからというもの、やけに頭が回る。それに力も入る。自分が自分でないような不思議な感覚すらあった。
数分間の格闘の末、ガコン、と鈍い音を立てて最後のネジが抜け落ちた。
涼太は血まみれの手で蝶番のピンを引き抜くと、重い防音ドアの隙間に硬貨を挟み込み、テコの原理を利用して枠ごとメシャリと外すことに成功した。
リビングへと飛び出すと、真っ先にスマホの画面を確認した。圏外のマークが消え、アンテナのピクトグラムが立っている。時刻を確認する。あの瞬間から、すでに二十分という致命的な時間が経過していた。
涼太は即座に110番通報をした。
『はい、110番です。事件ですか?』
「事件です。隣町の山の廃ロッジに、女子高生が誘拐されました。犯人は複数の半グレ集団です。すぐに向かってください」
『現在の詳しい状況と、あなたの身分を……』
受話器の向こうの警察官は、マニュアル通りの手順を踏もうとしている。
「俺は今からそこへ向かいます。詳細は後でいくらでも話す! とにかくパトカーを回してくれ!」
涼太はそう一方的に叫び、通話を切った。
警察の到着を待っていては確実に手遅れになる。彼の中で警告音が鳴り響いていた。背後にある
『NTR』という悪趣味なシナリオ特有の、「警察の初動の致命的な遅さ」という強制力が働く可能性がある。自らの手で未来をねじ伏せるしかない。
「結衣……すまない」
涼太は玄関で靴を履きながら、不安げに立ち尽くす結衣を振り返った。
「俺はこれから、華音のところに行く。結衣はここで待っていてくれ。警察が来るはずだから」
涼太の真っ直ぐな瞳に見つめられ、結衣は溢れそうになる涙を必死に堪えて頷いた。
「わ……分かりました。先輩……私を助けてくれて、その……ありがとうございます」
結衣は震える両手で自らの胸元をぎゅっと握りしめ、深く頭を下げた。
涼太は自身の財布に入っていた現金と、結衣に借りた一万円札を掴み取り、ポケットにねじ込んだ。
表通りに出ると、運良く「空車」のランプを灯したタクシーが近づいてくるのが見えた。涼太は車道に身を乗り出すようにして大きく手を振り、急停車させる。
後部座席に飛び乗るなり、彼はポケットからぐしゃぐしゃになった一万円札の束を取り出し、運転席と助手席の間のスペースに乱暴に叩きつけた。
「万札は全部アンタにやる。釣りはいらない」
「えっ、お客さん、どちらへ……」
「隣町の、山道まで」
涼太の眼光は鋭く、破れた指先から滴る血にも構わず、前傾姿勢で運転手を睨みつけた。
「信号は可能な限り無視してくれ。とにかく、出せる限りのスピードで隣町の山奥まで飛ばしてくれ!」
そのただならぬ気迫に完全に気圧され、運転手は生唾を飲み込んだ。
タクシーのエンジンが唸りを上げ、夜の街へと急発進した。
街灯の光が、窓ガラスを流線型になって次々と後方へ飛び去っていく。急カーブのたびに体が大きく揺さぶられるが、涼太は前を真っ直ぐに見据えたまま動かなかった。膝の上で強く握りしめた拳には、指先の傷から再び血が滲んでいる。
(華音……)
心の中で、愛しい少女の名を呼んだ。
(どうか、無事でいてくれ。俺が必ず助けるから)
最悪のシナリオを書き換えるための、夜闇を切り裂くような疾走が始まった。




