原作の知識
健吾は不満げに舌打ちをし、ドアを大きく開けて道を譲った。
罠の匂いがする。こいつが素直に引き下がるはずがない。
だが、ここで引き返せば結衣の安否は確認できない。
結衣を助けなければならない理由は、原作に書かれていなくとも、俺には痛いほど分かっていた。
『結衣ちゃんに何かあったら、私、生きていけない』
華音は、結衣を実の妹のように可愛がっており、以前そんな風に口にしていた。
華音の悲しむ姿は見たくなかった。
無論俺にとっても大事な後輩だ。人懐っこく明るい性格で、誰からも好かれていた。
『先輩、私、彼氏できたんですよ!』
『そうか。良かったじゃん』
『むぅ……少し軽くないですか。たしかに先輩には華音先輩がいますもんねっ!』
結衣が少し怒ったような、それでいてどこか寂しそうな言い方をしていたのを思い出す。
結衣に彼氏ができたことは嬉しかったが、結衣が選ぶ彼氏にしてはチャラすぎると思っていた。まさか、これが原作の強制力というやつなのだろうか。
付き合ったと報告されてからわずか2週間で彼女はこんな状況に陥ってしまった。
原作の知識によれば、結衣は健吾の言いなりになり、すでに薬漬けにされている可能性がある。
危険な状況だとはいえ、大切な後輩を見捨てるわけにはいかない。その切実な思いが、自分でも驚く程、涼太の背中を強く押していた。
華音は安全な場所にいる。俺一人の身なら、最悪乱闘になっても切り抜けられる。涼太にはそのような自信があった。
「俺の後ろに立つな。少しでも妙な真似をしたら、即座に通報する、そのままそこで待ってろ」
俺は健吾を牽制しながら、靴を脱いで部屋に上がり、薄暗い廊下を進み、2階の奥の寝室へと進んだ。
簡易的な防音室なのだろうか。分厚い内開きドアを開けると、ベッドの上に結衣が倒れるように眠っていた。
ドアを閉められる恐れはない。あいつは玄関にいる。
「結衣! おい、大丈夫か!」
思わず駆け寄り、肩を揺さぶる。息はあるが、全く目を覚まさない。不自然なほどの深い眠り……睡眠薬だ。
やはりこいつは危険だ。結衣を連れ出して一刻も早く警察へ——。
そう判断し、結衣を抱き起こそうとした瞬間だった。
——バタンッ!!
背後で、寝室の重厚なドアが勢いよく閉められた。
慌ててドアノブを回すが、ビクともしない。外からカンヌキか何かで物理的に施錠された音だった。
「なっ……! 開けろ!!」
『お兄さん、すげー勇気あって男らしいねぇ。まさか俺の脅しにも屈せず、単身で助けに来てくれるなんてさ』
ドアの向こうから、健吾ともう一人の嘲笑を含んだ声が響いた。
『一人で来るとかこいつアホっすね健吾さん』
『正義感が強すぎるのは考えものだぜ?こんな風に周りも見えなくなっちまう。その女を見捨てられないってわかってたから、こっちもやりやすかったわ』
「ふざけるな! こんなことをしてタダで済むと思っているのかよ! すぐに警察に通報するからな!」
俺はスマホを取り出し、110番をタップした。
しかし——画面は『圏外』を表示していた。
『あー、無駄無駄。その部屋、俺が趣味っていってDIYして組み立て式の完全防音・電波遮断の特別室だから。結衣がいくら叫んでも外に漏れないようにさ。外側から頑丈な南京錠もかけてあるから、扉をぶち破るのも無理だ。その女、中々隙を見せなくてよ。回りの方から着々と準備してて、折角今日ヤれると思ったのによ。まあでも狙ってたもう一人が来てるからいいか』
背筋に氷のような冷感が走った。
最悪だ。俺は原作の知識を信じすぎた。ここは現実、アニメの世界ではないのだから、普通なら仲間を一人ぐらい連れてくるのはあり得ることだ。
的確な判断をしたつもりだった。華音を安全な場所に置き、自分が危険を引き受け、後輩を救おうとした。だが、その行動こそが、健吾にとって俺を無力化するための最適なスイッチだったのだ。
『さてと。お兄さんが一人でここに来たってことは、お目当ての華音センパイは、外のどこかで待ってるんだろ?』
「……ッ!! やめろ!!華音には手を出すな!!」
俺は我を忘れ、ドアを力任せに蹴りつけた。ガンッ!という鈍い音が響くが、分厚い扉は微塵も揺るがない。
『馬場、先に行って車回しといてくれ』
『うっす。了解っす。』
『お兄さんのおかげで、最高の口実ができたよ。今からセンパイを迎えに行ってくるわ』
「おいッ!!やめろッ!!」
足音が遠ざかっていく。
涼太は部屋の奥にある小さな窓に飛びついた。隙間から外の景色が見える。
健吾が家を出て、華音が待つコンビニの方へ歩いていくのが見えた。
やめろ。行くな。逃げろ、華音……!!
涼太は窓の縁を握りしめ、声にならない叫びを上げた。
視線の先、コンビニの前で健吾が華音に話しかけた。
距離が遠く声は聞こえないが、健吾は酷く慌てた様子で身振り手振りを交え、家の方を指差している。
華音の顔が青ざめ、口を両手で覆うのが見えた。彼女は涼太が自分の代わりに危険な部屋へ行き、結衣を助けようとしたことを知っている。
結衣が錯乱して、俺に危害を加えたとかいう類の嘘を伝えているのだろうか。
嘘であったとしても、それは圧倒的な真実味を持っているだろう。
涼太はそのように考えた。
そして、華音はパニックに陥ったまま、健吾に細い腕を引かれて馬場が運転しているであろうワンボックスカーへと乗り込んでしまった。
バタン、とドアが閉まる音が、遠く離れたこの部屋まで響いたような気がした。
「あああああっ!! くそっ! くそおおおおおッ!!」
エンジンがかかり、車がゆっくりと発進する。
あの車がどこへ向かうのか、原作を知る涼太には痛いほどわかっていた。病院などではない。健吾の仲間の溜まり場か、山奥の廃墟か。どちらにせよ、二度と引き返せない地獄だ。
涼太の合理的な計算。華音を守るための指示。結衣を救おうとした正義感。
その全てが完璧な裏目となり、最悪のパズルのピースとして組み合わさってしまった。
現実の悪意はその善意を逆手に取り、状況はより絶望的な底へと沈んでいく。
薄暗い密室の中で、意識のない結衣だけが静かに寝息を立てている。
涼太の拳から流れた血が、冷たい床にポタポタと滴り落ちた。




