第五話 青の呼吸だよ
人は、ときどき
“息の仕方”を忘れてしまうことがあります。
責めつづけた心は、
色をなくした塊になり、
胸の奥で静かに沈んでしまう。
宙の青い風は、
その塊を無理に壊したり、
明るく塗り替えたりはしません。
ただ、
その人がもう一度
“呼吸を思い出せるように”
そっと寄り添うだけです。
今夜の入口は、
長いあいだ謝りつづけた人の部屋でした。
第五話 青の呼吸だよ
五月の終わり、空気は少しずつ湿りはじめていた。
その夜の入口は、古い団地の一室に開いた。
向こう側の部屋は、壁が少しずつ灰色に色を失い、床には薄い霧のようなものがたまっていた。
椅子に、四十代半ばほどの男がひとり座っている。
胸のあたりに、色をなくした塊が沈んでいる。
長いあいだ自分を責めつづけた人の心にできる、冷たい洞穴のようなものだった。
宙の身体がゆっくりほどけていく。
肩、指先、髪の影。その全部が細かな青い光になり、やわらかな風となって部屋へ満ちていった。
男の胸の灰色の塊に、細いひびが入る。
ひびの奥で、小さな映像が揺れていた。
春の川辺。紙コップの珈琲。白いスカーフの女性。
向かい合って笑っている若い頃の男。
たぶん、もう戻らない時間だ。
「……ごめん」
男の喉から、ひどく小さな声がもれた。
誰に向けたのか分からない。過去の相手か。自分か。間に合わなかった時間そのものか。
「ねえ」とえれんが小声で私に言う。
「こういうとき、私の出番ある?」
「あると思うか?」
「分からない。でも、黙ってるのも苦手」
えれんは男の前にしゃがみ、少しだけ困ったように笑った。
「ずっと謝ってると、息するの忘れません?」
その一言に、私ははっとした。
男の呼吸は、本当にほとんど止まりかけていたのだ。
宙の風が戻り、男の肩をそっと包む。
そして、いつもの言葉を、いつもよりずっと静かに言った。
「すー……はー……青の呼吸だよ」
私はその声に合わせて、自然に息を吸った。
あくあも、えれんも。部屋の空気そのものが、少しずつ呼吸を思い出していく。
男の胸がゆっくり上下した。
伏せられていた写真立てが、ひとりでに起き上がる。
そこに写っていたのは、白いスカーフの女性と並んだ、少し若い男の姿だった。
男の頬を、一筋の涙が落ちた。
「……まだ、思い出してもいいんだな」
「いいよ」と宙。
「忘れないの、つらいけど」
「うん。でも、ぬくもりまで捨てなくていい」
部屋を出ると、夜気が少しだけやわらかく感じられた。
あくあは団地の窓を見つめながら言う。
「救うって、明るくすることじゃないんですね」
「うん」と宙がうなずく。
「息が通るようにすることかもしれない」
謝りつづける心は、
ときに呼吸を止めてしまうことがあります。
過去を悔やむことは悪いことではないけれど、
その重さが胸の奥で固まってしまうと、
世界の色が少しずつ消えていく。
宙の“青の呼吸”は、
その固まった場所に
そっと風を通すためのものです。
忘れないことは苦しみになるけれど、
ぬくもりまで捨てる必要はない。
誰かの呼吸が戻る瞬間は、
大きな奇跡ではなく、
ただ静かに胸が上下するだけの、
とても小さな灯りなのだと思います。




