第十三話 怒りの森、赦しの雨
怒りは、火より先に
心の奥で“森”になることがあります。
燃えているわけではないのに、
近づくと飲まれそうになる重さ。
触れたら棘になる言葉。
壊れたくないのに、壊れそうになる夜。
今夜の入口は、
そんな“怒りの森”に迷い込んだ青年の前に開きました。
赦す必要はありません。
忘れる必要もありません。
ただ、壊すほうへ行かないように
そっと雨が降る夜を、
静かに見届けてください。
第十三話 怒りの森、赦しの雨
怒りは、火より先に森になることがある。
その夜の入口は、山のふもとの遊歩道に現れた。
異界の森は、雨の降る直前のような重さをしていた。
葉は黒に近い緑、地面には深い赤茶色の泥。
怒りが空ではなく、地面の下にたまっているようだった。
奥にいたのは、二十代前半くらいの青年だった。
拳を握りしめ、木の幹を殴ろうとしては止め、止めてはまた殴ろうとしている。
「来るな」
低い声だった。
「優しいこと言うならいらない。そんなの、なんにも戻さない」
「うん」と私が言う。
「戻らないよな」
彼はそこで少しだけ顔を上げた。
森のあいだから黒い蔓のようなものが伸びてくる。
怒りが形になったものだ。
雫が一歩前へ出ようとしたとき、澪がその袖をそっとつかんだ。
「待って。今は近づくと飲まれる」
雫は少し驚いて澪を見る。澪は目をそらしたまま、でも手は離さない。
「怒ってていいよ」と宙が青年へ言う。
「じゃあ、なんで苦しいんだよ」
「怒ってるからだよ。怒りって、自分の心も焼くから」
「じゃあ、どうしろって」
宙は少し考えてから、空を見上げた。
「赦さなくていい。まだ」
その言葉に、森全体が一瞬静まった。
「赦せないときに、赦さなきゃって言われるの、いちばん苦しいから。
でも、壊すほうへ行かないで。そこだけ、今は守って」
空のない空から、細い雨が降りはじめた。
赦しではない。でも怒りを少しだけ冷ますための雨だった。
青年はその雨の中で、ようやく膝をついた。
「……壊したくない」
「うん」と宙。
「だから、ここに来たんだね」
帰り道、雫が澪のほうを見て言う。
「さっき、ありがとう」
「別に」
その足元の水たまりだけがやたらときれいに揺れていた。
怒りは、悪いものではありません。
大事なものを失ったとき、
理不尽に傷つけられたとき、
守りたかったものが壊れたとき、
怒りは自然に生まれます。
けれど、
その怒りが心の奥で森になってしまうと、
自分自身まで焼いてしまうことがあります。
宙が言った
「赦さなくていい。まだ」
という言葉は、
怒りを否定しないための風でした。
壊したくないと思えた瞬間、
細い雨が降りはじめ、
森は少しだけ呼吸を取り戻しました。
雫と澪の小さなやりとりも、
怒りの森の中で灯った
とても静かな救いでした。




