第9話 退き方を知る者が、生き残る
裏山の祠の裏手に立つと、土の上には昨日の稽古の跡がそのまま残っていた。踏み固められた足跡、棒を叩きつけた場所のえぐれ、僕が何度も転んだ地点の土の乱れ。朝露がその上に薄く光っていて、昨日の痛みがそのまま景色になったように見える。
(ここで頭から突っ込んで、ここで足を滑らせて、ここで尻もちついたんだよな)
そう思うと、身体のあちこちが条件反射みたいにうずく。特に脇腹と尻――土の硬さを、まだ皮膚が覚えている。
祠の屋根の端から、冷たい雫がぽたりと落ちた。木々の葉のあいだから差し込む光は弱く、まだ朝は山の影の色をしている。そこへ、坂道の上のほうから、ゆっくりとした足音が近づいてきた。
蒼玄が、いつもの薄い灰色の衣をまとって現れた。腰には紐、片手には二本の木の棒。寝起きに見えるところは一つもない。足どりは静かだが、踏まれた土は素直に沈み、音を吸い込む。
「青嶺」
名を呼ばれ、背筋が自然と伸びる。
「おはようございます、師匠」
「まずは、昨日の続きじゃ」
短くそう言うと、蒼玄は棒の一本を、ためらいなくこちらへ放ってきた。昨日と同じ軌道。僕は痛みを覚悟していた分だけ、落ち着いて両手を伸ばすことができた。
手のひらに、木の重みが心地よく収まる。指を軽く握ると、節の部分がじんとしびれた。
「昨日言ったこと、覚えとるな」
「“剣は死なずに残るための道具”――ですよね」
「そうじゃ。今日は、“どう退くか”を身体に叩き込む」
蒼玄は地面にしゃがみ込み、小石で土の表面に線を一本引いた。ぎゅっ、と乾いた音を立てて、土の色の中に白い筋が刻まれる。
「ここを“死線”とする」
人が一人、そこに立てるくらいの幅を持った線だった。蒼玄はその向こう側に立ち、こちらを見据える。
「敵がこの線を越えてきたとき、お前がやることは何じゃ」
「……斬り返す?」
思わずそう答える。剣といえば斬るもの、という素朴な発想が先に出た。
「状況による」
蒼玄は即答した。
「前に出たほうがいいときもある。だが、今日は“退くべき場面”を想定する。例えば、敵が自分より明らかに格上、数も多い、後ろに守る者がいる――そういうときじゃ」
言いながら、蒼玄は死線の向こう側で棒を構えた。身体はわずかに前傾し、足はいつでも踏み込める位置に置かれている。
「お前は、この線から三歩下がる。その三歩で、死なずに済む位置まで退く。同時に、棒で最低一撃、相手の動きを鈍らせる。やってみい」
「いきなりハードル高くないですか」
「文句を言う口があるうちは、まだ余裕がある。構えろ」
いつも通りの返しに、苦笑いが喉の奥で引っ込んだ。棒を両手で握り、死線のこちら側で足を開いて構える。土は少し湿っていて、靴底に粘りつく感触がある。
蒼玄の足先が、死線の上にふっと乗った。視線が自然とそこへ引き寄せられる。
次の瞬間、蒼玄が一歩踏み込んできた。その一歩が、妙にゆっくりに見える。死線を越える動きだけが、周囲の景色から切り離されたみたいに目立っていた。
(来る)
脳がそう判断した瞬間、身体が動いた。右足を半歩引き、左足を斜め後ろへ送る。それに合わせて上体をわずかに傾け、棒を横から差し入れてくる相手の腕を払うように動かす。
ガン、と木がぶつかる音。蒼玄の棒がわずかに軌道を変え、僕の肩の横をすり抜けていった。
「一歩目は悪くない。二歩目、遅い」
すぐに二撃目が来る。今度は頭上からの振り下ろしだ。
(間に合わない)
そう思った瞬間には、もう身体が反射的に動いていた。二歩目、三歩目をまとめて後ろに飛ぶように踏み込み、頭を下げながら棒の腹で相手の手元を押し上げる。
だが、後ろの地面の感触が予想と違った。
かかとが石の角を踏んで、バランスが一気に崩れる。
「っと――」
体勢を立て直す前に、視界が斜めになり、空と木々がぐるりと回った。次の瞬間、背中に硬い土の感触。額の目の前には、蒼玄の棒の先が、ぴたりと止まっていた。
「今ので、お前の頭は割れておる」
「……ですよね」
息を整えながら答える。胸の鼓動が、さっきより速くなっている。
「退くときに限って、足元がおろそかになる。よく死ぬパターンじゃ」
蒼玄は棒を下げ、僕の足が引っ掛かった石をつま先でどかした。
「退くと決めたら、まず最初に確認するのは“敵”じゃない。“足元”じゃ」
「敵じゃないんですか」
「敵を見るのは当然じゃ。そのうえでじゃ。困ったことに、人間は“逃げる”と決めた瞬間、前を見るのをやめてしまう。目の前が怖いからな。“後ろに行きたい”という思いだけで足を動かせば、たいてい、今みたいに転ぶ」
言われてみれば、さっきの自分がまさにそれだった。振り返りもせず、「遠ざかりたい」という気持ちだけで大きく跳んだ。
「前だけ見るな。足元、横、後ろ――どこに何があるか、先に見ておけ」
「そんな余裕、あるんですか」
「余裕がないときは、最初から退けん。退くと決めた瞬間に、“どこまで退くか”を決めておけ。そこまでが生きていい範囲じゃ」
そう言うと、蒼玄は死線の後ろに、さらに一本線を引いた。距離は、子どもが三歩、少し大きめに下がったところくらいだ。
「ここまで退けたら、生き残れる位置。そこを決めずに退くと、ずるずる下がって、いずれ崖から落ちる」
前の世界の会議室が、ふと頭をよぎる。撤退のラインを決めないまま、状況に流されて泥沼にハマった案件たち。誰も「ここまできたら引こう」と決めないから、ずっと傷口を広げ続けていた。
(ラインを引かない撤退は、ただの逃げか)
蒼玄は棒を軽く振って構え直した。
「もう一度じゃ。今度は、最初に“どこまで退くか”目で決めてから動け」
「……はい」
死線の後ろ、二本目の線。そのさらに手前に、大きめの石が転がっている。あそこまで退ければ、足場を踏みしめて一度体勢を立て直せる。
(あそこだな)
視線で位置をマークしてから、蒼玄の足元を見る。蒼玄のつま先が、死線に触れた瞬間、今度は全身が自然に動き出した。
一歩目、半身を引いて相手の腕を払う。棒がぶつかる感触を、手の中で受け止める。
二歩目、斜め後ろにすべるように退き、同時に棒の先で相手の手首を軽く弾く。手首を弾いた瞬間、蒼玄の手の力がわずかに散るのが分かった。
三歩目、大きめの石をかかとで踏み、そこでぐっと踏みとどまる。
木の棒同士がぶつかる音が二度、三度。最後の一撃をかわしたところで、ぴたりと静かになった。
気づけば、さっき引いた二本目の線の少し手前で、僕はちゃんと立っていた。
蒼玄の棒は、僕の肩の横で止まっている。
「……まあ、生きとるな」
蒼玄が、ほんの少しだけ口角を上げた。息が荒い。だが、さっきみたいに尻もちをついているわけではない。
「今の三歩を、身体に刻め。同じように、地形が違っても、敵の間合いが違っても、“生きて退く三歩”を探せるようになるまで繰り返す」
「そんなに、違うもんですか」
「違う。砂利の上と泥の上、坂道と平地、室内と野っぱら。全部、足の運びが変わる。だが、“目で先に退き先を決める”癖だけは同じじゃ」
蒼玄の声は、いつもより少しだけ熱を帯びていた。
◆ ◆ ◆
退き方の稽古は、それから何度も繰り返された。死線と退きの線の距離を変え、地面の凹凸の位置を変え、時にはわざと背後に木の幹を置かれたりもした。
背後に幹があるときは、二本目の線がその少し手前に引かれる。退きすぎれば、背を木にぶつける。退き足りなければ、蒼玄の棒が頭をかすめる。
「背中に壁があるときは、そこで死ぬ者が多い」
蒼玄はそう言って、僕の額の前でわざと棒を止めてみせた。幹と棒のあいだには、紙一枚ぶんも隙間がない。
「退く先がないと思い込んで、前に飛び出して死ぬか、その場で固まって死ぬか。どっちかじゃ。じゃが、本当は“横へ退く”という道もある」
そう言って、蒼玄は幹の横をすべるように移動し、別の位置から棒を突き出してきた。
「足は前後だけに付いておるわけではない。左右にも付いとるじゃろう」
「……それ、子どもに言う台詞じゃないですよね」
「お前はまだ子どもじゃろうが」
そう言われてしまうと、何も言い返せない。
何度もつまずき、何度も棒で頭や肩をはたかれ、それでも少しずつ、足の運びが滑らかになっていくのが自分でも分かる。土のわずかな盛り上がりや、石の位置に、足裏が敏感になっていく。
(前に出るばかりが強さじゃない、か)
身体で理解しながら、頭のどこかでそんなことを考えていた。前の世界では、「攻めの姿勢」が口癖の上司がいた。あの人は、撤退や中止という言葉を嫌っていた。「前向きに検討」と言いながら、破綻した計画を押し通し、最後に現場を疲弊させた。
今、蒼玄が教えているのは、それとは正反対の強さだ。
休憩の合図が出たのは、太陽が山の端から顔を出し、鳥の声が一段と賑やかになってきたころだった。蒼玄は大きな木の根に腰を下ろし、僕は少し離れた石に座って息を整えた。喉がカラカラに乾いている。
水筒代わりのひょうたんを受け取り、水を一口飲む。冷たい水が喉を滑り、胃のあたりに落ちていく。汗で火照った身体に、その冷たさが心地よかった。
「師匠、一つ聞いてもいいですか」
「何じゃ」
「さっき、“卑怯な逃げ方”と“生き残るための退き”は違うって言ってましたけど……実際のところ、どこからが卑怯なんですか」
自分でも少し意地の悪い質問だと思った。だが、気になったのは本当だ。この銀霜帝国では、名誉や顔の問題が、命より重く扱われる場面が少なくない。
蒼玄は、ひょうたんを受け取りながら、少しだけ目を細めた。
「面白いことを聞くな」
「気になったので」
「卑怯かどうかは、他人が決める。“あいつは卑怯だ”と言いたい者は、いくらでもおる。だが、自分で自分を卑怯者と呼ぶかどうかは、少し違う」
蒼玄は足元の小石を指先で弄りながら続けた。
「戦場で逃げ出す者は、大きく分けると三つじゃ。一つは、最初から自分だけ助かることしか考えておらん奴。一つは、怖くなって頭が真っ白になり、何も考えずに逃げる奴。もう一つは、“今ここで死んだら、もっと多くが死ぬ”と分かっていて退く奴」
指で摘んだ小石を、少し先の地面に放る。石は土の上を転がって、死線の向こう側で止まった。
「一番目は、長くは生き残れん。どこかで見捨てられる。二番目は、運が良ければ生き残ることもあるが、自分では何も選んでおらん。三番目は、退いたあとに“責任”を背負う」
「責任……ですか」
「そうじゃ。仲間を置いて退いたなら、その選択の後始末を、自分で引き受ける。そういう覚悟があるかどうかで、“卑怯”と“退き”の線は変わる」
前の世界の上司たちの顔が、また勝手に頭に浮かんだ。部下に責任を押し付け、自分だけ安全な場所に避難する人たち。自分の判断で撤退させたくせに、それがうまくいかなかったとき、知らん顔をする人たち。
(ああいうのが、本当の卑怯か)
蒼玄の言う「三番目」のタイプは、僕の知る限り、前の世界では少数派だった。
「……師匠は」
思わず、そう口にしていた。
「昔、退いたことがあるんですか」
蒼玄の目が、ほんの一瞬だけ細くなる。次の瞬間には、またいつもの淡々とした表情に戻っていた。
「何度もある」
短い答えだった。
「勝てん戦もある。守りきれん場所もある。全部に剣を振るって突っ込んだら、とっくに死んどるわ」
そこで言葉を切り、少しだけ視線を遠くへ滑らせる。
「……昔な、“正派”と名乗る連中と、“邪派”と呼ばれとった連中が争ったことがある」
唐突に出てきた単語に、思わず背筋を伸ばした。正派。邪派。武林でよく語られる、光と闇のラベル。
「どっちが正しいか、紙の上では決められておった。“正派”は礼と義を重んじる者たち。“邪派”は、人倫を外れた外道の集まり」
蒼玄は、そこまで言って、ふっと笑った。その笑いには、皮肉と疲れが少し混じっている。
「じゃがな。実際のところ、村を焼いとったのは“正派”の旗を掲げた連中じゃった」
言葉が一瞬、喉の奥で止まった。
「邪派のほうは、どうだったんですか」
「邪派と呼ばれとった男が、一人、子どもを庇って死んだ。わしの目の前でな」
焼けた家。倒れた梁。炎の向こう側で、誰かが小さな影を庇って崩れ落ちる光景が、言葉に合わせて浮かんでくる。
「旗に何と書いてあろうと、名乗りがどうであろうと、剣そのものは何も語らん。振るう者の中身が、あとから“正しい/間違っとる”の評価になるだけじゃ」
蒼玄は、ひょうたんの口を閉じて、立ち上がった。
「名乗りなんぞ、どうとでも飾れる。本当に“正しい”かどうか決めるのは、そこに生き残った者たちじゃ」
その言葉には、重苦しさだけでなく、どこか突き放したような冷静さも混じっていた。誰が正しいと名乗ろうが、生き残った側の物語だけが歴史になる――そんな現実を、何度も見てきた者の声だ。
◆ ◆ ◆
その日の午後、村に戻る道すがら、子どもたちの喧嘩に出くわした。
土の道の真ん中で、二人の少年が取っ組み合いをしている。片方が相手の襟首を掴み、もう片方が必死に相手の腕を振りほどこうとしていた。
「お前が先に押したんだろ!」
「押してねえよ! お前の足が勝手に転んだんだ!」
泣きそうな声と怒鳴り声が交じり合う。周りでは、同じくらいの年の子どもたちが、少し離れた場所から様子をうかがっていた。誰も止めに入ろうとしないが、本気で面白がって煽っているわけでもない。
(前だったら、とりあえず止めに入ってたな)
そう思いながら、少し距離を取って立ち止まる。蒼玄に教わった「退き先を見る」癖が、自然と働いた。どこまでが“遊び”で、どこからが“危険”に変わるか。その境目を探るように、二人の動きを観察する。
殴り合いになっているわけではない。石を投げたり、棒を振り回したりもしていない。ただの、肩と肩のぶつかり合いだ。
一度、片方が相手を押し倒し、倒れたほうが土の上で大きく叫んだ。
「痛ってえな、このやろう!」
その声には、確かに怒りはある。だが、殺意までは乗っていない。顔つきも、涙目ではあるが、どこか子ども特有の「今だけ本気」の色をしていた。
押し倒したほうが、少しだけうろたえたように手を引っ込める。それでも意地があるのか、すぐには謝らない。代わりに、鼻を鳴らしてこう言った。
「お前が先にぶつかってきたんだろ!」
「だからって押すなよ!」
やりとりは続く。だが、拳は振り上げられない。周りの子どもたちも、どこか安心したような顔で「またやってる」と笑っている。
(これは、まだ剣を抜く場面じゃない)
そう判断し、僕はその場を通り過ぎることにした。ただし、耳だけは後ろに残しておく。声の調子が変われば、すぐに引き返せるように。
しばらく歩いたところで、後ろから笑い声が聞こえてきた。
「お前の顔、土だらけだぞ!」
「そっちこそ! 鼻の穴まで真っ黒!」
喧嘩は、どうやらそのまま笑いに変わったらしい。足を止めずに、そのまま小道を歩き続ける。
(全部の争いに剣を持ち込んだら、それこそ滅茶苦茶だな)
蒼玄の言葉が、頭の中で繰り返される。剣は、「死なずに残るための道具」。つまり、本当に抜くべき場面は限られている。
怒りに任せて振るう剣。正しさを証明したいだけの剣。誰かに見せつけるためだけの剣。そういうものから、一歩距離を取れるかどうか。それが、多分この先の自分の“生存率”を変えていく。
村の外れまで来たところで、別の光景が目に入った。少し年上の少年が、井戸のそばで小さな子どもの持っている木の剣を奪い取ろうとしている。
「貸せよ。それ、お前にはまだ早いだろ」
「やだ! 父ちゃんに作ってもらったんだ!」
小さいほうは必死に木の剣を抱え込んでいる。大きいほうは、腕を伸ばして取り上げようとしていた。力の差は、見ていて明らかだった。
(これは……)
一瞬迷い、足を向ける。
「おはようございます」
わざと少し大きめの声で挨拶すると、二人ともびくりと肩を揺らして振り向いた。
「青嶺兄ちゃん」
小さいほうが、ほっとしたような顔をする。大きいほうは、露骨に不満そうに眉をひそめた。
「何だよ、青嶺。別にたいしたことじゃねえだろ。ちょっと貸せって言ってるだけだ」
「貸せって言われたほうは、嫌だって言ってるけど?」
「こいつが、へたくそだから教えてやろうと思って――」
言い訳の途中で、軽く首をかしげる。
「じゃあ、“教えてやるから貸せ”ってちゃんと言った?」
「……言ってねえ」
「だったら、“取ろうとしてる”って思われても仕方ないんじゃない?」
大きいほうは、口を開きかけて、何も言わずに閉じた。顔に浮かんだのは、怒りというより、気まずさに近い色だ。
(ここで、力ずくで止めたら、“青嶺が人の喧嘩に口出しした”で終わる。こいつの中には、何も残らない)
それは、蒼玄から教わった「退き方」とは少し違うかもしれないが、「どこまで出るべきか」を測る感覚は似ていた。
「貸すか貸さないかは、持ち主が決めることだろ。嫌なら“嫌だ”って言っていい。貸したいなら“貸してもいいけど壊すなよ”って言えばいい」
小さいほうに向けて言うと、大きいほうがバツが悪そうに頭を掻いた。
「……いいよ、もう。別の棒でいいし」
そう言って、井戸の近くに立てかけてあった別の枝をひょいと手に取り、その場を離れていった。
残された小さいほうは、木の剣を抱きしめたまま、僕の顔を見上げる。
「ありがとう、青嶺兄ちゃん」
「自分で嫌って言えたんだから、俺はちょっと言葉を足しただけだよ」
そう言って頭を軽く撫でると、小さいほうは照れくさそうに笑った。
(これも、“剣を抜かないで済んだ一件”かもしれないな)
そんなことをぼんやり考えながら、家のほうへと歩き出す。
夕方、家に戻ると、父さんが畑から帰ってきていた。背中には汗がにじみ、顔には土の筋がついている。肩には鍬が乗っていて、その重みを当然のように受け止めていた。
「おう、青嶺。今日も裏山か」
「うん。ちょっと、体を動かしてきた」
「えらいもんだ。若いうちに動いとけば、年取ってから違うぞ」
父さんはそう言って笑い、肩を軽く叩いてきた。思わず顔をしかめると、「ああ、悪い悪い」と慌てて手を引っ込める。
「どこ打ったんだ」
「ちょっと、石にぶつけただけ」
適当な言い訳をしながら、今日一日の稽古の感触を頭の中で並べ替える。死線、退きの線、三歩の内訳、足裏の感触。蒼玄の言葉。
「なあ、父さん」
「ん?」
「父さんって、畑で“ここまでやったら今日は終わり”って決めてる?」
唐突な質問だったが、父さんは特に不思議がる様子もなく、「ああ」と頷いた。
「そりゃ決めるさ。ここまで耕す、ここまで草を取る、ってな。決めとかんと、日が暮れても終わらん。体も壊す」
「途中で、“もうちょっとだけ”ってならない?」
「なるな。だが、“もうちょっと”を続けると、そのうち“もう立てん”ところまで行く。そうなる前に、やめとくんだ」
父さんは、鍬を土間の隅に立てかけながら笑った。
「若いときは、それが分からんで、何度も腰をやったわ」
その言葉に、今日の蒼玄の「退き先を決める」という話が重なる。
(畑でも、剣でも、やっぱり“どこまでやるか”を決めるのが大事なんだな)
夕食の支度を手伝いながら、僕は今日一日の出来事を、頭の中でゆっくり咀嚼していった。
前に出るだけが強さじゃない。退くことも、守ることも、時には逃げることも、ちゃんと考えて選べるようにならなきゃいけない。それは、剣の話であり、この国で生きていくうえでの話でもある。
(まずは、目の前の一太刀と、三歩の退き方から、だな)
湯気の立つ鍋から立ちのぼる匂いを吸い込みながら、そんなことを心の中で呟いた。
評価していただけますと幸いです!!
よろしくお願いします!




