第8話 剣は「死なずに残るため」の道具
目が覚めた瞬間、布団の中でちょっと身じろぎしただけで、全身が一斉に文句を言い始めた。脛も脇腹も肩も腕も、鈍い痛みがじんじんと波のように広がっていく。
(……やっぱり、加減してないよな、蒼玄のじいさん)
脇腹のあたりを指先でそっと押してみる。軽く触れただけなのに、肺の奥まで響くような痛みが走って、思わず息が止まった。
「これはただの殴られ損じゃないか?」
口の中で小さくこぼしてから、その言葉を自分で打ち消す。
(いや、全部“意味のある痛み”のはずだ)
前の世界――省庁のオフィスで感じていた頭痛や肩こりは、出口のよく分からない疲労の蓄積だった。書類の山とモニターの光に晒されながら、どれだけ我慢しても、「強くなった」という実感とは結びつかなかった。
でも、今の痛みは違う。昨日、蒼玄に木の棒でどつかれた場所は、そのまま「弱点のマッピング」になっている。足の運びが遅れた場所、視線が泳いだ瞬間、無意識に上体が浮いたタイミング――そこを正確に叩かれている。
(つまり、“当てやすい自分”の形を、全部、身体に刻まれたってことか)
そう考えると、痛みの意味が少しだけ変わって見えた。脳裏に、前世で作っていた「リスク分布図」が浮かぶ。事故や炎上の起こりやすい部署を赤く塗ったあの資料と、今の全身の打撲の位置は、どこか似た役割をしている。ここは危ない。ここをさらすな。そういう警告が、皮膚の下に直接書き込まれている感じだ。
布団から半身を起こし、藁の軋む音を聞きながら、ゆっくりと足を床に下ろす。土の冷たさが、足裏にじかに伝わってきた。冷水に足を浸したような感覚が、一気に眠気をさらっていく。
(僕は、何のために剣を学んでるんだっけ)
寝ぼけた頭でそんなことを考える。村を守るため。自分を守るため。それは間違いなく本心だ。けれど、そこで思考を止めてしまうと、どこかで足をすくわれそうな気がしていた。
剣は武器だ。人を助けもするし、人を殺しもする。その刃を握る側に立つなら、「何のために振るうか」をはっきりさせておかないと、どこかで自分ごと折れてしまう。
(僕が欲しいのは、ただの“強さ”じゃない)
そこまで考えかけて、意識的に思考を切った。あんまり遠くのことを朝一から考えても、ろくな結論は出ない。
「とりあえず、今日も行くか」
小さく呟いて立ち上がる。床に置いてあった簡素な服を手早く身につけ、戸口の向こうから聞こえてくる父さんのいびきに耳を澄ます。まだ深い眠りの音だ。
(起こしたら、“そんな朝早くからどこ行くんだ”って止められるに決まってるしな)
そう思いながら、軋まない場所を選んで歩き、土間に降りる。草鞋を手に取り、音を立てないようにそっと戸を開けた。
◆ ◆ ◆
外は、まだ夜と朝のあいだだった。空の高いところだけが、薄い群青色から白へと溶け始めている。東の空には細く光の帯が走り、その下で山の稜線が墨で引いた線のようにくっきりと浮かび上がっていた。
土の道には夜露が降りていて、足を踏み出すたびに、ひやりとした感触が伝わってくる。畑のほうからは、牛の鼻を鳴らす音と、鶏の羽ばたくバサバサという音がかすかに聞こえた。まだ村の家々は眠っているが、空気全体が、ゆっくりと目を覚ましつつあるように感じられる。
冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。肺の奥が少しひりついた。昨日の稽古で打たれた脇腹が、呼吸に合わせてずきずきと抗議する。
(文句言うな。お前のおかげで、今日はちょっとだけ早く動けるんだ)
自分で自分の身体にそう言い聞かせる。今、ここで感じている痛みは、“後で楽をするための前払い”だ。そうラベリングすると、だいぶマシになる。
裏山への小道に足を向ける。草の間に敷かれた石段は、夜露と苔で滑りやすくなっていて、一段一段、踏みしめながら登っていく。石の角に足を取られれば、そのまま尻もちをついて山の下まで転がりそうだ。
(ここで足を滑らせて転んだら、蒼玄に“山に来る前に足腰鍛え直してこい”って言われるな)
半分本気、半分冗談でそんなことを考えながら、呼吸を整える。冷たい空気を吸い込み、少し温まった空気を吐き出す。そのリズムに合わせて足を運ぶと、身体の芯がだんだんと温まってくるのが分かった。
やがて、木々のすきまから、例の小さな祠が見えてきた。村の誰もが「昔からある」としか言わない、由来不明の祠。苔むした石段の先、森に抱かれるようにして静かに建っている。花を供える者もいれば、子どもの遊び場にして怒られる者もいる、そんな場所。
その裏手から、かすかな風切り音が聞こえた。空気を裂く、短く鋭い音。
祠の横を抜けて裏に回り込むと、そこに蒼玄がいた。
蒼玄は一本の木剣を手に、ゆっくりと型を流していた。ゆっくり――といっても、動きに淀みはまったくない。足が地面を踏むたびに、重心が滑るように移動し、上半身はほとんどぶれない。剣先は、いつでも「誰かの喉元」に届く位置を、淡々と通り過ぎていく。
切っ先が止まった場所を想像すると、そのたびに、誰かの命がそこで終わっている光景が自然と浮かぶ。派手さはない。それでも、見ているだけで背筋が冷えるような剣筋だった。
(何だろうな、この“無駄のなさ”)
前の世界で、仕事のできる上司と、そうでない上司を見分けるのに、そんなに時間はかからなかった。判断が早い人は、余計な言葉や会議を挟まない。核心に必要な情報だけを拾って、すっと決裁する。
今、目の前で剣を振っている蒼玄からも、同じ匂いがした。余計な動きが一つもない。「誰かを斬るため」と「自分が死なないため」だけに凝縮された動き。
ふと、蒼玄の手の甲が目に入った。皮膚は分厚くなり、古い切り傷が白い筋になって残っている。袖口から覗く前腕にも、何本かの線が走っていた。浅い傷だけじゃない。深く抉られたような跡も混じっている。
動きが止まり、蒼玄がふと持ち手を変えたとき、肩口の布の隙間から、もう一本の長い傷跡が覗いた。斜めに走るその線は、「一度きりでは済まない刃の軌道」そのものに見えた。
(この人、やっぱり“ただの隠居”なんかじゃない)
歩き方も、いかにも年寄りらしい「腰の曲がり方」ではなく、いつでもすぐに動き出せる兵士のような立ち方だ。足の裏全体が地面に乗っているようでいて、実際には重心が常に前にかかっている。
蒼玄は数合ほど型を流した後、ふっと息を吐いてから木剣を下ろした。
「来たか、青嶺」
振り返った視線が、まっすぐに僕を射抜く。眠気は、その一瞬で完全にどこかへ吹き飛んだ。
「おはようございます、師匠」
「立てるか」
「……たぶん、昨日よりはマシです」
そう答えると、蒼玄の口元が、わずかに上がった。
「なら上出来だ。立てるうちは、鍛えられる」
短い言葉なのに、それだけで、身体の奥に火がつく。前の世界で上司に言われた「頑張れ」とは、全然違う重さだ。こちらが頑張らないと、普通に死ぬ可能性がある。それくらいの真剣さで言われている。
その日の稽古は、いつものように準備運動から始まった。腕を回し、腰をひねり、膝を屈伸させる。村でやっている簡単な体操に、前世で知っているストレッチをこっそり混ぜる。
太ももの裏を伸ばしながら、両足の角度を少し変えてみる。片方だけ内側に捻ってみると、踏み込みのときの安定感が変わる。そういう小さな差を、身体の中にメモしていく。
蒼玄は何も言わないが、横目でじっと見ているのは感じた。
「よし、棒を持て」
蒼玄が地面に立てかけてあった木の棒を一本、こちらに放ってよこす。慌てて受け止めた瞬間、脇腹に痛みが走って顔が歪んだ。
「痛いか」
「普通に痛いです」
「痛くなくなったら、そのときはもう成長せん。痛いうちは伸びる」
そう言って、蒼玄は自分も棒を手に取る。軽く構えた姿だけで、こちらの喉元に冷たいものが当てられた気がした。
「今日はまず、“当たらんようにする稽古”だ。昨日、よく叩かれたところは、どこじゃ」
「全部、ですけど」
「なら、全部守れ」
蒼玄の足が、すっと半歩前に出た。次の瞬間、棒の先が僕の肩を目がけて飛び込んでくる。
「っ!」
反射的に上体を引き、棒を横に滑らせて受け流す。肩ギリギリをかすめた木の感触が、耳元で風を鳴らした。
すぐさま、脇腹に向けて二撃目が来る。今度は、昨日叩かれた場所が先に反応した。痛みの記憶が、無理矢理身体を動かす。
足を半歩横に送って、棒を下から弾き上げる。木と木がぶつかる乾いた音が、裏山に小さく響いた。
三撃目、四撃目。蒼玄の棒は、昨日と同じように容赦なく振り下ろされる。けれど、全部が全部クリーンヒットするわけではなくなっていた。肩に、脇腹に、かすり傷で済む打ち込みが増えている。
(軌道が見えないわけじゃない。ただ、身体が間に合わないだけだ)
木が空を切る音と、蒼玄の足音。二つのリズムを頭の中で重ねる。右足が地面を踏むときは、上から。左足が滑るときは、横から。そうした「傾向」を少しずつ掴んでいく。
「……昨日より、当てにくくなったな」
蒼玄がぼそりと呟いた。
「師匠の棒、昨日より手加減してません?」
「気のせいじゃ。わしが本気なら、お前はここにおらん」
言い方は軽いが、その目は笑っていない。棒の先は、いつでも僕の急所を狙える位置を外していない。ほんの少し軌道をずらせば、骨の一本や二本は簡単に折れるだろう。そういう距離感だ。
息が少し上がってきたところで、蒼玄が手を止めた。
「青嶺」
「はい」
「この稽古、本番で役に立つと思うか?」
問い方は淡々としているが、ただの世間話ではないことは分かる。木の棒を両手で握ったまま、少しだけ考えてから口を開いた。
「……多分、役に立たないときもあると思います」
「ほう?」
「相手が、僕よりずっと格上なら、避ける前に斬られるでしょうし。逆に、こっちの力が圧倒的に上なら、ここまで細かく避ける必要もないかもしれない。でも――“どこを狙われやすいか”を覚えるのには、役に立ちます」
「なぜじゃ」
「昨日と今日だけでも、“さっき叩かれた場所”は、反応が早かったです。つまり、弱点を知った分だけ、次は死ぬ確率が下がる。それなら、この痛みは無駄じゃないと思います」
言ってから、自分でも少し笑いそうになった。前の世界で、数字とリスクを見比べながら、予算案や政策の「死なせる部分」と「守る部分」をシミュレーションしていた感覚に、どこか似ている。
蒼玄は、しばらく黙って僕を見ていた。やがて、短く鼻を鳴らす。
「悪くない答えじゃ」
そう言うと、棒を肩に担ぎ直し、少しだけ顎を上げた。
「青嶺、一つ聞く」
「なんでしょう」
「お前は、何のために剣を学ぶ?」
前にも似たような質問をされた記憶がある。けれど、今度は少し違う重さを感じた。木々の間から差し込む朝の光が、蒼玄の横顔の皺をくっきりと浮かび上がらせている。
「自分を守るため。家族を守るため。村を守るため」
それは迷いなく出てきた。けれど、そこで言葉を止めると、蒼玄の目が「それだけか」と問いかけてくる。
少しだけ息を吸い込んだ。
「……それから、“言葉”を通すため、だと思います」
「言葉?」
「どれだけ正しいことを言っても、聞いてもらえない状況って、あるじゃないですか。この国で本気で“おかしいことはおかしい”って言うなら、最低限、自分の身を守れる力が必要だと思います。だから、剣は――“話を通すための道具”でもある、っていうか」
言いながら、自分でも少し言葉を探している感じがした。前の世界で、正論を並べても、最後には「政治判断ですので」で一蹴された会議室を思い出す。あのとき、自分には何も持っていなかった。だから、引き下がるしかなかった。
蒼玄は目を細めた。
「自分を守るため。周りを守るため。話を通すため。……どれも間違いではない」
そこで一拍、間が空いた。風が木々の葉を揺らし、ざわりと音を立てる。
「だが、その前に一つだけ、忘れるな」
蒼玄は棒の先で地面を軽く突いた。
「剣は“死なずに残るため”の道具だ」
その言葉は、思ったよりも静かに耳に入ってきた。けれど、胸の奥で何か重たいものにぶつかった感覚がある。
「死なずに、残るため……」
「そうじゃ。勝つための剣と、生き残るための剣は違う。勝ったところで死んでしまえば、そこで終わりじゃ。どれだけ立派な大義を掲げようと、墓の中からは何も変えられん」
淡々とした口調だったが、その奥にあるものは軽くない。蒼玄の目は、今この裏山の光景ではなく、遠いどこかを見ているようだった。
「……昔な」
蒼玄がふいに口を開いた。
「戦に出たことがある」
その一言で、空気の温度がわずかに変わった気がした。蝉の声が遠ざかり、風の音だけが近く感じられる。
「どこの誰と誰が争った、どの城がどうなった――そんな話はどうでもいい。ただ、雪の上に血が広がる光景だけは、もう二度と忘れられん」
蒼玄の視線の先には、ただの山の斜面と木々しかない。けれど、その目の奥では、別の景色が燃えているのが分かった。
「勝った、ということになっておった。敵の旗は倒れ、こっちの旗が城壁に立った。文に書けば、それで『某年某月、我らが勝利』とまとめられる」
淡々とした語り口。だけど、その裏にある冷たいものは隠しきれていない。
「じゃが、城の中にあったのは、焼けた家と、黒くなった死体ばかりじゃった。味方も敵も関係なく、転がっておった。その中に、わしの知っとる顔も混じっておった」
雪の上に並ぶ、血に染まった足跡。倒れた兵の手から滑り落ちた剣。焼け落ちた梁の下で、もう動かない誰かの姿。そういう断片的な情景が、蒼玄の声に重なる。
「誰が勝ったか、ということは、あとから紙に書く者が決める。じゃが、“誰が残ったか”は、そこで決まる。残らんかった者は、何も主張できん」
前の世界の記憶が、そこでひとつ結びついた。会議室で、責任の所在を誰かに押し付けて、自分だけはうまく立ち回る上司たち。失敗の報告書から、都合の悪い名前が消されていく様子。紙の上の「事実」は、いつだって、その場に残った人間の都合で書き換えられていた。
(……ああ、そうか)
僕は木の棒を握り直した。
(“勝つか負けるか”じゃなくて、“残るか消えるか”か)
勝ち負けの記録は、紙に書けばひっくり返せる。けれど、その場に生きていたかどうかだけは、誤魔化せない。
「だから覚えておけ、青嶺」
蒼玄は僕をまっすぐ見た。
「剣は人を斬る道具じゃない。“自分が、死なずに残るため”の道具じゃ。残った者だけが、その先の世界で、何かを変える機会を持つ」
その言葉は、胸の奥に、重い錘のように沈んだ。簡単には消えそうにない種類の重さだ。
「もう一つ、覚えておけ」
蒼玄は棒を肩から下ろし、地面に縦に突き立てた。
「死なずに残る、ということは、ただ卑怯に逃げ回ることとは違う」
「……どう違うんですか」
「本当に卑怯な者は、危なくなったら全部放り出して、一人だけ逃げる。そういう奴は、いずれどこかで足をすくわれる。“死なずに残る”者は、退くべきところで退き、守るべきところで踏ん張る。そのために、剣も足も頭も使う」
その言葉は、前の世界の「撤退戦ができない上司」の顔を勝手に思い出させた。損切りができず、全部を抱え込んで、結局現場だけが潰れるパターン。
(退きどきが分かってないと、剣でも死ぬし、仕事でも死ぬのか)
妙に納得してしまい、苦笑が漏れそうになった。
「……今から教えるのは、“退き方”の型じゃ」
そう言って、蒼玄は棒を抜き取ると、一歩下がりながら構えた。つま先と踵の向きが、さっきまでの構えと違う。前足は敵のほうを向き、後ろ足は斜めに外へ開いている。
「前へ出る剣ばかり磨いとると、いずれどこかで突き刺さって抜けんようになる。生き残る者は、“退きながら戦う術”を知っとる」
そこで、蒼玄は一歩前に出て、同時に斜め後ろへ滑るように下がった。足の運びは、まるで水の上を移動しているみたいに滑らかだ。棒の先は、見えない相手の腕を払うように動き、そのまま相手の間合いからするりと抜け出していく。
前足が地面を離れる寸前、後ろ足の指先で地面を強く押している。そのわずかな力の入れ方が、体全体を軽くする。
「いいか、青嶺。三歩でいい。その三歩を、確実に“生きて退く三歩”にする稽古じゃ」
蒼玄は同じ動きを、速度を変えて何度か繰り返して見せる。ゆっくり、普通、少し早く。そのたびに、足の角度と棒の軌道が、ほんのわずかに変わっている。
「一歩目は、相手の刃を外すため。二歩目は、相手の間合いから出るため。三歩目は、自分の体勢を立て直すためじゃ。どれか一つ欠けても、逃げたつもりで背中を斬られる」
説明を聞きながら、頭の中で動きを分解する。一歩目で相手の利き腕側に重心をずらしているから、二歩目で斜め後ろに抜けやすい。三歩目では、既に次の構えに入っている。
「やってみろ」
棒を構え、蒼玄の真似をする。前足を出し、後ろ足を斜めに引く――つもりだったが、足がもつれて、その場で変な回転をしてしまった。
「おっと」
地面に尻をつき、背中に冷たい土が当たる。少し湿った土の匂いが鼻に入った。
「今のは“転がって死ぬ三歩”じゃな」
蒼玄が小さく笑う。声だけは愉快そうだが、目はしっかりと動きを観察している。
「前足と後ろ足を同時に動かそうとしたな。最初の一歩目で“軸”を決めるんじゃ。軸が決まっとらんと、どっちが逃げる足で、どっちが体を支える足か分からん」
「軸……」
「前の世界とやらで、何か書いたりしておったんじゃろ。筆でもそうじゃ。紙の上にすっと線を引くとき、手首だけで動かすか、肘から動かすかで全然違うはずじゃ。どこを“止めて”、どこを“動かす”かを決める。足も同じじゃ」
例えが妙に的確で、思わずうなずきそうになる。前の世界で、資料の図をきれいに描くために、ペン先ではなく肘の動きを意識したことを思い出す。
「もう一度」
今度は、一歩目でしっかりと軸足を決めることだけを意識する。前足を一寸だけ出し、後ろ足で地面を押す。そのとき、頭がぶれないように。
二歩目で、斜め後ろへ滑る。三歩目で、腰を正面に戻す。
「……おお、さっきよりは“マシな逃げ方”になったな」
蒼玄が言う。息が少し上がってきた。逃げる動きなのに、前に出るときと同じくらい、いや、それ以上に体力を使う。
(前に出る一歩は、勢いでなんとかなる。でも、退く一歩は、勢いだけじゃ足りない)
頭の中で、そんな言葉が浮かぶ。退くには、冷静さがいる。どこまで下がればいいか、どこから先は下がってはいけないか、それを決める判断が。
「覚えとけ、青嶺。退くことは、負けることじゃない。何も考えずに突っ込むほうが、よほど愚かじゃ」
その言葉は、今まで聞いてきた「根性論」とはまったく違う響きを持っていた。前の世界で、“撤退”という言葉を口にした途端、「君はやる気がないのか」と責められた会議を思い出す。あのとき、退くことは“負け”だと決めつけられていた。
(ここでは、“生き残るための退き”が、ちゃんと技として教えられるのか)
それが、妙に嬉しかった。
そのあともしばらく、蒼玄との「退きながらの打ち合い」は続いた。前に出て打ち込もうとすると、すぐに棒が飛んできて足を払われる。慌てて下がろうとしても、角度が悪ければ斜面に足を取られる。
何度も転び、何度も土をかぶり、そのたびに蒼玄の短い指摘が飛ぶ。
「今のは退きすぎじゃ。背中を崖に預けるな」
「二歩目で止まるな。三歩まで下がってから振り向け」
「逃げる方向を“敵から遠いほう”だけで決めるな。“次に有利になる場所”を選べ」
一つひとつの言葉が、前の世界の「危機管理」の会議で聞きたかった指示そのものだった。
やがて、太陽が木々の間から顔を覗かせ始めたころ、蒼玄がようやく棒を下ろした。
「今日はここまでじゃ」
全身汗まみれで、膝ががくがくしている。けれど、昨日とは違う種類の疲労だった。
「蒼玄、さっき言ってた“死なずに残る”って話ですけど」
言いかけて、言葉を選ぶ。あまり踏み込みすぎると、こちらが聞く資格のない領域に入ってしまいそうな気がした。
「何じゃ」
「……文も、同じなんですかね」
それだけ尋ねる。蒼玄は少しだけ眉を上げた。
「同じじゃろうな」
それだけ言って、山の下のほうを見やる。
「文にしろ剣にしろ、その場から逃げ出した者は、もう何も言えん。腹を切って詫びるのは立派に見えるが、その後始末を、誰かに押し付けるだけじゃ。ほんまに責任を取るのは、“残って片を付ける者”のほうじゃろう」
その言葉に、胸のどこかがざわりと揺れた。前の世界で、「今回の件の責任を取って辞職します」ときれいに去っていった誰かの背中を思い出す。そのあと、現場に残されたのは、尻ぬぐいをする側の人間たちだった。
(ここでは、剣も、責任も、“残るほう”に価値がある)
汗で濡れた額を拭いながら、そんなことを思った。
山を下りるころには、朝の光がすっかり強くなっていて、村の子どもたちの笑い声があちこちから聞こえていた。土の道には、朝露をはじいた小さな足跡がいくつもついている。
道の先では、二人の子どもが石ころを蹴り合って、小競り合いをしていた。片方が石を相手の足元に転がし、もう片方がよろけて尻もちをつく。それを見て、周りの子どもたちが笑う。
前だったら、反射的に間に入って止めに行っていたかもしれない。けれど今は、少しだけ立ち止まり、距離を測る。声の調子。手の出し方。どこまでが“遊び”で、どこからが“本気”に変わるか。
しばらく見ていて、すぐに分かった。これは、ただのじゃれ合いだ。誰も相手を本気で傷つけようとはしていない。
僕はその場を通り過ぎながら、心の中で蒼玄の言葉を反芻した。
(いつか本当に剣を抜くとき、僕は“死なないため”に振るう)
誰かを守るためかもしれないし、自分の言葉を通すためかもしれない。そのときに、無駄に死んで終わるつもりはない。
そう思うと、今、身体じゅうに残っている痛みも、少しだけ誇らしく感じられた。今日は「死なずに退く三歩」を覚えた。その三歩が、いつかどこかで、僕の命と、誰かの未来を繋ぐかもしれない。
(……明日も、叩かれに行くか)
そう心の中で苦笑しながら、僕は家へと足を向けた。
評価していただけますと幸いです!!
よろしくお願いします!




