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銀霜帝国記~転生したので、筆と剣で天下を取りにいく~  作者: tenntenn


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第7話 初稽古は容赦なし

 翌朝。


 まだ空が群青色から薄い灰色に変わる途中の時間、僕――青嶺せいれいは、裏山の石段の下に立っていた。


 湿った土の匂い。

 葉の裏についた夜露が、風に揺れて小さく震える音。


 眠気は、もうとっくにどこかへ行っていた。

 胸の奥で鳴っているのは、期待と、不安と、妙な高揚感だけだ。


(逃げるなら、今のうちだよな)


 自分でそうツッコミを入れてから、苦笑する。


 ここまで来て逃げたら、一生後悔する。

 それくらいのことは、前世の失敗で嫌というほど学んだ。


 石段の上から、ぎし、と木がきしむ音が聞こえた。


「来たか」


 低く、よく通る声。

 顔を上げると、石段の途中に蒼玄そうげんの姿があった。


 昨日と同じ、灰色の麻衣。

 ただ、腰に帯びているのは木剣ではなく、今日は長めの竹の棒だった。


「おはようございます、蒼玄さん」


 思わず、前世式にぺこりと頭を下げる。

 蒼玄は、ふん、と短く鼻を鳴らした。


「まず一つ。わしを“さん”付けで呼ぶな」


「えっ」


「弟子が師を呼ぶときは、“師匠”か“先生”じゃ。どっちでも好きにせい」


 いきなりの訂正。

 けれど、不思議と嫌な感じはしない。線引きがはっきりしただけだ。


「……じゃあ、“師匠”で」


「よし。じゃあ行くぞ、弟子」


 あっさり認められて、少し肩の力が抜ける。

 蒼玄はくるりと背を向け、石段を引き返していく。


「立っとらんと、ついて来い」


「あ、はいっ」


 慌ててその背中を追いかけた。


 


◆ ◆ ◆


 


 祠の裏手の空き地は、昨日と同じだった。


 違うのは、朝露で少し土がしっとりしていることと、中央に丸太が一本転がっていることくらいだ。


「まずは、土の上に立て」


 蒼玄に言われて、空き地のまん中あたりに立つ。

 足の裏から、冷たさとざらつきが伝わってくる。


「木剣は、今日は使わん」


 そう言って、蒼玄は細めの竹の棒をひょいと持ち上げた。

 長さは僕の身長より少し短いくらい。片手でも扱えそうな軽さだ。


「えっと……それで、何を?」


「お前の体の“クセ”を洗い出す」


 蒼玄は、僕の正面に立った。

 距離は、竹の棒を伸ばせば余裕で届くくらい。


「構えろ」


 短い一言に、僕の背筋がしゃんと伸びる。


 両足を肩幅より少し広めに開き、右足を半歩前へ。

 重心を落とし、上半身はぶれないようにしながら、両手を胸の前に持ってくる。


 素手のときの、僕の標準的な構えだ。

 前世で見た格闘技と、この世界での喧嘩の記憶を混ぜ合わせた、なんちゃって流派。


 蒼玄は、僕の全身をじろじろと眺め、ふん、と鼻を鳴らした。


「悪くない。自己流にしては、よくまとまっとる」


「本当ですか?」


「だが――」


 竹の棒が、ふっと動いた。


 


 パシンッ。


 


「っ……!」


 左のすねに、軽い衝撃。

 一瞬遅れて、じんわりとした痛みが広がる。


「膝が伸びすぎじゃ。重心が高い」


 痛みの説明をするように、淡々とした声。


「ここから打ち込まれたら、簡単に脚を払われる」


 蒼玄は、さっき僕が立っていた位置を、同じような格好で再現してみせる。

 わずかな膝の角度の差を、目の前で比べて見せられると、否応なく理解できた。


「もう一度構えろ」


「はい」


 今度は、さっきよりも少し膝を曲げる。

 太ももにじわっと負荷が乗る。


(これ、ずっと続けたら、明日確実に筋肉痛コースだな)


 そんなことを思った瞬間――。


 


 パシッ。


 


 今度は右腕の内側だ。


「力みすぎじゃ。肩から先が棒になっとる」


「いっ……!」


「拳は握っても、腕は縄のように柔らかく保て。棒のような腕には、すぐに力が伝わりすぎて折れる」


 言葉と一緒に、竹の棒が僕の肩のすぐそばをかすめていく。

 ひやりとした感覚だけを残して、その先は空を切った。


「……今の、当てようと思えば当てられました?」


「当然じゃ」


 即答。

 蒼玄はわざとらしく大きなため息をついた。


「わしは、弟子を壊したいわけじゃない。だから、“稽古の打撃”と“殺しの打撃”は、ちゃんと分けとる」


「……よろしくお願いします」


「よろしくされんでも、そうする」


 そんなやり取りを繰り返しながら、蒼玄の竹の棒が、僕の体の周りを遠慮なく走り回った。


 脛。脇腹。肩。二の腕。ときどき、手の甲。


 どれも、本気で打ち込めば骨にひびが入りそうな場所ばかりだ。

 けれど、実際には「痛いけど折れない」絶妙な力加減で止まっている。


(容赦ないな……いや、これでもだいぶ“容赦してる”んだろうけど)


 打たれるたびに、蒼玄の指摘が飛んでくる。


「足と腰の連動がちぐはぐじゃ。足だけ踏み込んで、腰が残っとる」


「……はいっ」


「目線が散るな。わしの手元と足元を同時に見るのは諦めろ。“流れ”で捉えろ」


「流れ……」


「そうじゃ。動きは点じゃなく線になっとる。いちいち全部の点を追うな。線の向かう先だけを掴め」


 言われてみれば、前世の会議資料だって同じだった。


 一枚一枚の数字に溺れたら、全体の流れを見失う。

 だからこそ、まず「全体の線」を捉えてから、必要な点にだけ目を凝らす。


(それを、体でもやれってことか)


 そう思った瞬間、竹の棒がふっと止まった。


「ほう」


 蒼玄が、少しだけ目を細める。


「面白い顔をしとるな、青嶺」


「え、どんな顔してました?」


「“ああ、これ、あれと同じだな”と何かに気づいた顔じゃ」


 図星すぎて、苦笑いしか出てこない。


「まあよい。続けるぞ」


 そこから、さらに一刻いっときほど、打たれ続けた。


 打たれて、直されて、また構えて。

 繰り返すうちに、呼吸の仕方と重心の置き方が、少しずつ変わっていくのが分かる。


 肩の力を抜き、肘を柔らかく保ち、腰で全体を支える。

 頭では理解していても、体がそれに追いつくまでには時間がかかる。


(でも――)


 何度目かの構え直しのとき、ふと気づいた。


 さっきまでより、蒼玄の竹の棒が「当たりにくく」なっている。


 完全に避けられているわけではない。

 けれど、直撃のはずが、ほんの指一本分だけずれて、痛みが弱くなっている。


 蒼玄も、それを分かっているのか、ふっと口元を緩めた。


「ようやく、“打たれる側の稽古”から“かわす側の稽古”に移り始めたな」


「……さっきまでのは、打たれる側だったんですね」


「人間、痛くならんと学ばんもんじゃ」


 言い切り方があまりに当然で、笑うしかなかった。


 


◆ ◆ ◆


 


 ひと通りの打ち込みと指摘が終わった頃には、僕の全身には、すでにじんわりとした痛みが広がっていた。


 でも、骨が折れたような痛みではない。

 “まだ動けるけど、ここを使うとズキっと来る”という、ぎりぎりのラインだ。


 蒼玄は、竹の棒をぽん、と肩に乗せた。


「よし。じゃあ、最後に一つだけ、遊びじゃ」


「遊び、ですか?」


「一太刀だけ、打ち込んでこい」


 デジャヴのような台詞。

 昨日と同じ――と言いかけて、違和感に気づく。


「昨日は、“木剣で斬りかかってこい”でしたよね」


「今日は素手でいい。拳でもてのひらでも蹴りでも、好きにせい」


 そう言って、蒼玄はその場に立った。

 足を肩幅に開き、両手はだらりと下げたまま。


 構えてさえいない。

 けれど、それでも「そこに壁がある」ような圧を感じる。


(さっきまで、散々打たれたばかりだしな……)


 体が重い。

 でも、ここで“疲れてるからやめます”と言える性格なら、とっくにこんな生活はしていない。


「じゃあ、一太刀――いや、一撃だけ、いきます」


「よかろう」


 僕は、深く息を吸った。


 さっきまでの稽古のおかげで、自分の重心がどこにあるか、前よりははっきり分かる。

 どこに力を乗せれば、効率よく前へ出られるかも、少しだけ掴めてきた。


(正面から行っても、どうせ潰される)


 だから、僕はあえて、斜めから回り込む形を取った。


 観衡眼――と呼んでいる、自分の観察癖を最大限に発揮する。


 蒼玄の足幅。

 重心の位置。

 肩の力の抜け具合。

 視線の向き。


 どこにも、大きな隙はない。

 それでも、人間の体は、完全な「無駄のない構え」を長く維持できるものではない。


 息を吐く瞬間、わずかに肩が揺れる。

 体重をかけ直すとき、一瞬だけ重心が浮く。


(そこだ)


 僕は、あえてゆっくりと踏み込んだ。

 真正面からではなく、蒼玄のやや右側。彼の利き腕とは逆の方向。


 肩を落とし、腰を回し、足で地面を蹴る。

 拳ではなく、掌底しょうていを選んだ。


 拳で行くと、外したとき自分の指の方が折れそうだったからだ。


 掌底が、蒼玄の胸のあたりに向かって走る。


 ほんの一瞬だけ――届く、と確信した。


 その瞬間。


 蒼玄の体が、ふわりと消えた。


 消えた、というのは誇張かもしれない。

 でも、本当にそう感じたのだ。


 目の前にあったはずの「壁」が、霧のように横へずれている。


「――っ!」


 慌てて体勢を立て直そうとしたときには、すでに遅かった。


 背中に、軽い衝撃。


「いっ……!」


 バランスを崩し、そのまま前のめりに倒れ込む。

 土の感触が、視界いっぱいに広がった。


「今のは、“悪くない”どころか、“かなり良かった”部類じゃな」


 土の匂いを鼻いっぱいに吸い込みながら、僕は顔だけを上げた。


 蒼玄が、僕のすぐ後ろ――さっきまで僕がいた場所の少し脇に立っていた。


「どうやって、避けたんですか」


「避けとらん」


「え?」


「お前の目が、わしの“今いる場所”を見とらんだけじゃ」


 言っている意味が、一瞬分からない。


「さっき稽古中に言ったじゃろ。“流れで捉えろ”と」


 蒼玄は、僕がさっき踏み込んだ軌道を真似してみせる。

 その動きに合わせるように、半歩だけ、体をずらす。


 ほんの半歩。

 それだけで、さっきの掌底は完全に空を切る。


「お前は、“過去の位置”を見ておる。今のわしの位置ではなく、“一瞬前にいた場所”を殴りに行っておるんじゃ」


「……あ」


 前世の会議室に、よく似た場面があった。


 「今月の数字がこうだから」と、過去のグラフだけ見て話し続ける上司。

 その間に、現場ではすでに状況が変わっている。


(あれと同じだ)


「わしに一撃を当てたいなら、“相手が次にいる場所”を殴れ」


 蒼玄の声は、完全に実戦のそれだった。


「今の動きなら、お前の観察眼と頭の回し方なら、それもすぐにできるようになる」


 観察眼。

 頭の回し方。


 蒼玄の口から、その二つの言葉が出たとき、胸の奥が少しだけ熱くなった。


「……褒めてます?」


「さあな」


 またそれだ。

 けれど、さっきよりも、ほんの少しだけ柔らかい言い方だった。


「立て」


「はい」


 土を払って立ち上がると、全身のあちこちが、じんじんと存在を主張していた。


 すね。太もも。肩。腕。背中。


 さっきまでの稽古と、今の一撃で、体のあらゆるところがうるさい。


 でも、不思議と、「もう動けない」というほどではない。


(これくらいなら……明日も、多分動ける)


 そう思ったのを、蒼玄は見逃さなかった。


「痛いか?」


「痛いです」


「帰って冷やせ。冷やすものがなければ、井戸水でもかけとけ」


「はい」


「それと」


 蒼玄は指を二本立てた。


「今日分かったことを、二つ、言う」


 僕は、思わず姿勢を正した。


「一つ。お前は観察が得意じゃ。目で見て、頭で組み立ててから動く。これは、お前の武器になる」


「……ありがとうございます」


「だが、それは同時に“弱点”にもなる」


 ああ、やっぱり。


「頭を使いすぎる。考えてから動いておる」


「それは……」


「悪いと言っとるわけじゃない。文の道では、その“考える癖”は絶対に必要になるじゃろう」


 ぶんの階段。

 科挙かきょの問題。制度の分析。現場の把握。


 前世でも、今世でも、それは僕の武器だ。


「でも、武の道では、考えている間に斬られる」


 蒼玄の言葉は、淡々としていた。


「さっきの掌底も、お前はちゃんと正しい理屈で動いとった。だが、“理屈を全部なぞってから”動いとる」


 言われてみれば、そうだった。


 相手の足幅を見て。

 重心を見て。

 視線を見て。

 どこに隙があるかを分析してから動いた。


「これから稽古を続けるうちに、“理屈を飛ばして体が勝手に動く”ようにしていく。それが、武の“型”と“反復”じゃ」


 前世で覚えたブラインドタッチの感覚に、少し似ていると思った。


 最初は、どの指でどのキーを押すか、いちいち意識していた。

 でも、何十万回と打ち続けるうちに、考える前に指が勝手に動くようになる。


(あれを、今度は体でやるってことか)


「二つ目」


 蒼玄は、僕の足元を指さした。


「お前の足と腰は、素直じゃ」


「……素直?」


「そうじゃ。変な癖がついておらん。変な門派で中途半端に学んだ者より、よほど直しやすい」


 変な門派、という言葉に、少し笑いそうになる。


「走り込みと筋トレを、自分で工夫してやっとるのも悪くない。地面を踏む感覚も、わしの想像以上に“生きた足”をしとる」


「それは、畑のおかげだと思います」


「だろうな。畑と荷運びは、何よりの基礎稽古じゃ」


 父さんたちにも、一応感謝しておこうと思った。


「だから――」


 蒼玄は、竹の棒を肩に担ぎ直した。


「お前は、“足腰と観察眼”を主軸に鍛える」


「足腰と……観察眼」


「そうじゃ。お前の視線は、もう戦場でも通用する素質がある。あとは、それに体を追いつかせるだけじゃ」


 蒼玄の言葉は、過剰な褒め言葉ではなかった。

 事実をそのまま述べている、という口調だった。


「明日からは、最初に“打たれ稽古”、次に“かわし稽古”、最後に一撃の遊びじゃ」


「……毎日ですか?」


「嫌か?」


 即答は、できなかった。

 体は悲鳴を上げている。

 でも、心の方は、もっと稽古を重ねたがっている。


「……嫌じゃないです」


「よし」


 蒼玄は、あっさりと頷いた。


「今日はここまでじゃ」


「ありがとうございました、師匠」


 深く頭を下げる。

 前世では、ここまで素直に「ありがとうございました」と言えた相手は少なかった。


 蒼玄は、祠の方へと歩きながら、ふと振り返った。


「青嶺」


「はい」


「忘れるなよ」


「何を、ですか」


「お前が剣を学ぶ“理由”じゃ」


 文を通すための剣。

 剣を持つ文。


 自分の言葉が頭の中で反響する。


「理由を忘れなければ、途中で多少転んでも、また立ち上がれる」


 蒼玄の背中は、朝日に縁取られていた。


「理由を忘れた剣は、ただの刃物じゃ。誰かの手の中で、適当に振り回されるだけになる」


 それは、前世の「ただの歯車」と、どこか同じ匂いがした。


「だから、痛みを覚えるときは、ついでに“何のためにここにいるか”も一緒に思い出せ」


 そう言い残して、蒼玄は祠の中へと消えていった。


 


◆ ◆ ◆


 


 祠を後にして山道を下る頃には、太陽が東の空から顔を出し始めていた。


 村の方からは、いつもの朝の喧騒が聞こえてくる。


「おーい、青嶺!」


 土の道の向こうから、聞き慣れた声が飛んできた。


 同じ村の悪ガキ仲間、阿虎あーふーだ。

 大きな桶を肩に担ぎ、こちらに手を振ってくる。


「朝っぱらからどこ行ってたんだよ。裏山の方から戻ってきたってことは……まさか、祠のジジイのところか?」


 目ざとい。

 さすが、村の噂話担当と言っていいくらいの情報屋だ。


「まあ、そんなところ」


「マジかよ……。お前、呪われねえか?」


「呪われるかどうかは、これから次第だな」


「は?」


 阿虎がきょとんとした顔をする。


 僕は笑って首を振った。


「なんでもない。ちょっと、修行を始めたってだけ」


「また変なこと言ってるよコイツ。まあいいや、今日、田んぼの方手伝いに来いって親父が言ってたぞ」


「了解。先に家で水浴びて、朝飯かきこんでから行く」


「ちゃんと食えよ。最近また痩せたって、村の婆ちゃんが噂してたぞ」


「……余計なお世話だ」


 そう言いながらも、心のどこかで少し嬉しかった。


 村での生活。畑仕事。友達。


 その全部をこなしつつ、朝には祠で稽古をし、夜には本を読む。


 今日から、そこに「師匠と竹の棒」が加わっただけだ。


(文の鍛錬も、サボるわけにはいかない)


 体を鍛え、武を磨き、制度を学び、文を深める。


 やることは増えた。

 でも、それはどれも、僕が望んで手に入れた「忙しさ」だった。


 家の戸を開けると、父さん――大山だいざんが、いつものように飯をかき込んでいるところだった。


「おう、青。今日も早えな」


「ちょっと、山の方で走ってきただけだよ」


「走るだけで、その足の泥はつかねえだろうが」


 父さんの目が、僕の脛についた泥と、ところどころ赤くなっている皮膚に気づく。


「ケンカでもしたか?」


「ちょっと、転んだだけ」


 そう言うと、父さんはじっと僕を見て、それ以上何も聞かなかった。


「転ぶなら、前に転べ。後ろに転ぶと頭打つからな」


「……覚えとく」


 転ぶ場所も、方向も、自分で選ぶ。


 前の世界では、そんなことさえ許されなかった。


 今は――たとえ師匠に竹の棒でボコボコにされても、それは自分で選んだ道の上での痛みだ。


 そこが、大きく違う。


(考えること、観察すること。それに、体の反復を足す)


 飯をかきこみながら、蒼玄に言われたことを頭の中で整理する。


 観察力と、頭の回転は、僕の強み。

 でも、考えすぎれば、それが足を引っ張る。


(だったら――考える量を減らすんじゃなくて、“考えなくてもいい部分”を増やせばいい)


 文で言えば、九九みたいなものだ。


 いちいち「三かける七は」と頭の中で計算していたら、計算問題はいつまでたっても終わらない。

 だから、何度も何度も繰り返して、「考える前に出てくる」状態を作る。


 武でも、同じことができるはずだ。


 足の運び。

重心の移動。

肩と肘の脱力。

打たれたときの受け流し。


 全部、反復で体に叩き込んでしまえば、その分、頭は「相手の流れ」と「次の一手」を考える余裕を持てる。


(文で使う“頭のリソース配分”を、武にも応用する)


 前世の官庁で、限られた人数と時間の中で資料を作り、会議の準備をし、現場との調整をしていたときの感覚が、妙な形で役に立つとは思わなかった。


「何をニヤニヤしながら飯食ってんだ」


 父さんのツッコミに、我に返る。


「いや、ちょっと、いいこと思いついた」


「いいことなら、さっさと食ってからにしろ。冷めるぞ」


「はーい」


 今日の朝飯は、粥と漬物と、昨夜の残りの煮物。

 そこに、これから先、何百回も繰り返すであろう「狂ったルーティン」の一日が、積み重なっていく。


 祠の師匠、蒼玄。

 竹の棒。

 打たれた痛みと、そこから学んだこと。


(明日は、今日より、半歩でいいから前に進む)


 そう決めて、僕は粥を飲み込んだ。

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