第6話 裏山の祠と隠遁の老人
裏山の平地での朝稽古が、僕の日常にすっかり溶け込んでから、どれくらい経っただろう。
走って、鍛えて、畑で体を使って、夜は字と本。
それを一日でもサボると、胸の奥がざわざわ落ち着かなくなるくらいには、この生活にハマってしまっていた。
けれど、ある朝ふと、剣を振る腕が空を切る感触に、物足りなさを覚えた。
(……結局、全部「自己流」なんだよな)
枝を削っただけの即席の木剣。
前世で動画で見た武道の構えと、この世界の噂話から拾った「型」の断片を、無理やりつなぎ合わせた動き。
走力や筋力は、村の誰にも負けない自信がある。
けれど、「武術」と胸を張って呼べる何かを、誰かからきちんと教わったことは、一度もなかった。
(文の方は、福根爺さんが“基礎の外枠”を教えてくれてる。じゃあ、武の方は?)
武階の世界には、門派がある。
華山だとか、崑崙だとか、武当だとか、村の大人たちが酒を飲むときに時々名前を出す、遠い山々の武術の家。
銀霜帝国の中央まで行けば、そういう正統派の道場にだって、いつか縁を持てるかもしれない。
けれど、今の僕はまだ、辺境の小さな村の少年にすぎない。
(この村で、武の“師匠”なんて、そうそう――)
そこまで考えたところで、ふと、数日前に耳にした子どもたちの会話を思い出した。
「なあなあ、この前、裏山の祠の近くで、変な音聞こえたんだってよ」
「まただよ阿虎。この前は“夜中に鬼火が出た”って言ってただろ」
「今度はマジだって! 村はずれの孫婆ちゃんが言ってたんだ、『祠のジジイが、夜な夜な刀を振り回してる』って!」
「それ、ただの酔っ払った村人じゃないの?」
「でもよ、婆ちゃん、前は『あの人は昔武林にいた』って言ってたぞ……」
――祠のジジイ。昔、武林。
わざとらしく怖がって見せる阿虎の顔を思い出しながら、僕は無意識のうちに、自分の木剣を握り直していた。
(自己流に限界を感じてるタイミングで、それっぽい話を聞かされるのは……正直、反則じゃないか?)
迷うべきかもしれない。
でも、迷っている時間ももったいない。
翌朝、いつもよりさらに早く布団を抜け出した僕は、いつもの平地ではなく、そのさらに奥――村の子どもたちが「近づくな」と言う、裏山の祠へと足を向けていた。
◆ ◆ ◆
裏山の一番奥まったところに、その祠はあった。
薄暗い杉林を抜けると、急に視界が開ける。
岩肌を削ったような小さな段になっていて、その突き当たりに、苔むした石段が伸びている。
石段の上。木と石で作られた、簡素な小祠。
屋根の端には、風雨で削れた獣の彫刻。
けれど、僕の目を引いたのは、別のところだった。
(……思ったより、きれいだな)
もっと、蜘蛛の巣だらけで、草ぼうぼうの場所を想像していた。
けれど実際は、石段の苔は端に追いやられ、祠の周りの雑草も、最近刈られたばかりのように短い。
誰かが、定期的に掃除をしている。
子どもたちが言っていた「祠のジジイ」が、少なくとも空耳ではないという証拠だった。
石段を一段上るごとに、土の湿った匂いと、木の古い匂いが強くなる。
胸の鼓動が少し早くなっているのは、早足のせいだけではない。
(最悪、ただの気難しいお爺さんかもしれないけど……それはそれで、話くらいは聞いてくれるかもしれないし)
半分自分に言い聞かせながら、最後の段を上がったとき――。
風を裂く音が、耳を打った。
シュッ。
それは、僕が裏山で自分の木剣を振るときの、十倍は鋭い音だった。
思わず、祠の横手からそっと覗き込む。
祠の裏手に、小さな空き地があった。
中央に立っているのは、一人の老人。
痩せてはいるが、骨と筋肉の線がはっきりと浮き出た体。
灰色の髪を後ろでひとまとめにし、古びた麻の衣を膝あたりで結わえている。
その腕が、木剣を振るたびに、空気が形を変える。
一太刀ごとに、大きく踏み込んでいるわけではない。
足は、半歩、半歩と小さく動くだけだ。
けれど、見ていると、不思議なことに「どこからでも斬り込める場所に、常に立っている」ように見えた。
(……なんだ、これ)
一振り。
一振り。
一振り。
そのたびに、僕の中で、今まで自分がやってきた“剣ごっこ”が崩れていく。
無駄がなく、それでいて、すべての動きに「生き残るための必然」がある。
きれいだ――と、純粋に思った。
見とれていた、そのとき。
「いつまで、そこから覗いているつもりだ」
木剣の音が、ぴたりと止まった。
老人の声は、思っていたよりもよく通る声だった。
僕は、息を飲んだ。
(……バレてたか)
そっと後ずさり――しようとした瞬間。
足元の小石が、軽く跳ねた。
カツン。
「うおっ」
間の抜けた声を出した自分に内心でツッコミを入れながら、僕は観念して、祠の裏の空き地に足を踏み入れた。
◆ ◆ ◆
近づいてみると、老人の雰囲気は、さらに異様だった。
年齢は、六十か七十か。
背は高くも低くもなく、村の大人たちと同じくらい。
けれど、立っているだけで「そこに空白ができている」ように感じる。
目が、鋭かった。
前に役人が村に来たときの、上から値踏みするような目とは違う。
この老人の視線は、何かを探すように、僕の外側と内側を同時に見ているような感覚があった。
「……すみません。勝手に見てました」
僕は、素直に頭を下げた。
怒鳴られるか、追い返されるか。
そう思っていたのに、返ってきた言葉は意外だった。
「謝る前に、名を名乗れ」
短く、それだけ。
「――青嶺です。村の……その辺の、ガキです」
「知っている。お前の親父は、大山だろう」
「えっ」
思わず顔を上げると、老人は鼻を鳴らした。
「あの男の足音は、忘れん。若い頃は、もっとがさつじゃったがな」
父さん――大山の若い頃を知っている。
つまり、この老人は、少なくとも二十年以上は前から、この村かその近くにいたことになる。
「で。青嶺。お前は、何をしにここへ来た」
木剣の先が、地面を軽く突く。
それだけなのに、「逃げても無駄だ」と体が理解する圧があった。
嘘をついても、たぶん一瞬で見抜かれる。
そう直感して、僕は正直に答えた。
「剣を、教えてほしくて来ました」
老人の目が、わずかに細くなる。
「ほう。誰に、だ」
「……あなたに、です」
ほんの一拍の沈黙の後、老人はふっと笑った。笑ったといっても、口の端が少し上がっただけだ。
「わしが、剣を振っていたからか」
「はい。村の噂も聞きました。ここに、昔、武林にいた老人が住んでいるって」
「子どもらの口の軽さは、相変わらずじゃな」
老人はため息をつき、木剣を肩に担いだ。
「剣を学びたいガキなど、この世には腐るほどおる。英雄になりたい、天下第一人と呼ばれたい、金がほしい、女にモテたい……。お前も、そのどれかか」
あえて、茶化すような言い方。
試されているのがわかった。
僕は一度息を吸って、自分の中の言葉を探した。
ここで、適当なことを言っても仕方がない。
この老人には、多分、綺麗事だけでは通じない。
「英雄にも、天下第一人にも、興味はないです」
「ほう?」
「金はあれば嬉しいですけど、それだけのために剣を振るのは、なんか違う気がします」
老人の視線が、わずかに変わる。
からかい半分だった目が、少しだけ真面目になる。
「じゃあ、何のためじゃ」
来た。
この質問をされることは、ここに来る前から、どこかで予想していた。
だから僕は、前世の記憶も、この世界での日々も、全部ひっくるめて、自分の答えを口にした。
「“言葉”のためです」
「……は?」
思わず、老人が眉をひそめる。
僕は続けた。
「この国は、文と武で動いています」
銀霜帝国。
科挙で選ばれた官僚たちが、文で法と制度を形作る。
武林十二門派と武階の高い武人たちが、武で外敵と内乱を抑える。
「文階が高くて頭が良くても、武のない言葉は、空回りして終わることが多いです。前の世界でも、そうでした」
会議室の光景がよみがえる。
どれだけ合理的で筋の通った意見を出しても、最終的には「政治判断」の一言でひっくり返された、あの感覚。
「この世界でもきっと同じです。文だけで上に立とうとしても、武に無視されたら、言葉は届かない」
「……ふん」
「でも、武だけあっても、何を守るのか、何を変えたいのかが曖昧なら、結局どこかで誰かに利用されるだけです。剣は強くても、言葉を持たなければ、誰かの都合のいい道具のままです」
目の前の老人が、どんな過去を生きてきたのかは知らない。
けれど、その顔に一瞬浮かんだ影が、「多分この人も、それを知っている」と教えてくれる。
「だから、僕は、文も武もほしいです」
できるだけ、飾らずに言う。
「剣は、相手の耳を開かせる“ノック”だと思っています。
ちゃんと話を聞いてもらうための、“前置き”です」
その上で――。
「そのあとで、何を言うかを決めるのが、文です」
剣だけを振り回しても、ただ人を斬るだけ。
文だけで戦っても、聞いてもらえなければ意味がない。
「文聖になりたいです。言葉で国を動かせるくらいの。
でも、剣も持たない文聖は、この国ではすぐに潰されると思うので……」
僕は、木剣を握り直した。
「剣を学びたいです。それも、“文を通すための剣”として」
言いながら、自分でも「面倒くさい理屈だな」と思う。
けれど、それが今の僕の、本音だった。
老人は、しばらく無言だった。
風の音と、木々の葉擦れだけが、祠の裏の空き地を満たす。
(やりすぎたか……?)
少し不安になりかけたとき、老人が鼻を鳴らした。
「……やっぱり、あいつの息子じゃな。面倒くさいことばっかり言う」
「あいつ?」
「大山のことじゃ。若い頃から、“どうして道はこうなっとるのか”“どうして武人はこうでなきゃならんのか”と、いちいちうるさい奴じゃった」
想像したこともない父さんの姿に、思わず目を瞬かせる。
「で。文を通すために、剣を学びたい、と」
「はい」
「文で国をいじりたい、そのために、武で生き残りたい、と」
「……はい」
老人は、ふう、と長い息を吐いた。
それから、木剣を構え直す。
「青嶺」
「はい」
「剣を学ぶ者に、最初に教えることがある」
「最初に……?」
「“何のために剣を握るかを忘れるな”じゃ。お前は、今それを言った。筋は通っとる」
木剣の先端が、僕の胸の前にすっと向けられる。
「だがな」
その目が、鋭く細くなる。
「口でどれだけ立派なことを言おうが、体がついてこんやつは、何人も見てきた」
僕は、ごくりと唾を飲み込んだ。
「そこでだ」
老人は、くるりと木剣を逆手に持ち替え、柄を僕に差し出してきた。
「一本、打ち込んでみろ」
「……え?」
「わしに向かって、全力で一太刀。文だの理屈だの抜きじゃ。お前の“今の武”で、わしを斬るつもりで来い」
冗談ではない目だった。
試しに軽く打ち込んだら、次の瞬間、叩き伏せられる未来が見える。
でも――ここで逃げたら、それまでだ。
僕は、深呼吸をひとつしてから、木剣を受け取った。
手に伝わる木の感触は、いつもの自分の木剣とほとんど同じ。
違うのは、目の前にいる相手だ。
(相手は……少なくとも、武宗クラス以上。下手をすると、武聖の可能性もある)
劉青嶺としての記憶と、村の噂話が教えてくれる。
「祠のジジイ」は、昔どこかの門派でそれなりの地位についていた。戦場にも出たことがある。そんな断片的な話が、いくつか耳に入っていた。
(勝てるわけない。でも、これは“勝負”じゃなくて、“試し”だ)
足を肩幅に開き、膝を軽く緩める。
木剣を中段に構え、老人との距離を測る。
間合い。
前足を半歩出せば届く距離。
老人の足の位置、重心の置き方、肩の力の抜け具合。
観衡眼――と、僕が勝手に名前をつけた、自分の癖。
相手の動きの“前触れ”を拾うために、全身を観察する。
(多分、真正面からは一切通じない)
なら――。
僕は、わざと一瞬視線を逸らした。老人の左肩の方を見る。
「左から行く」と、自分の視線で相手に教える。
同時に、右足にだけ、わずかに力を溜める。
その一瞬のズレで、相手の意識の端を引っかく。
前世の会議で、相手の興味をわざと違うテーマに逸らしてから、本題を差し込むときによく使っていたやり方だ。
そして――踏み込む。
土を蹴る音と同時に、木剣が走る。
腰から肩、肩から腕へと力を伝え、斜め下から斬り上げる軌道。
老人は、動かない。
(――もらった!)
そう思った瞬間。
世界が、ひっくり返った。
◆ ◆ ◆
気づいたときには、僕は仰向けに倒れていた。
青空。祠の屋根。枝の間からこぼれる朝の光。
頬には冷たい土の感触。
胸は、さっきまでの踏み込みよりも激しく上下している。
「……今のは、悪くなかった」
頭の上から、老人の声が降ってきた。
首を動かして視線を上げると、老人が右足のつま先で、僕の木剣を軽く押さえていた。
「視線で“左から来る”と見せかけておいて、右足に溜めて、斜め下からの斬り上げ。九つにしては、よく練られた一太刀じゃ」
「……でも、当たりませんでした」
「当たるか」
老人は、鼻で笑った。
「わしが、それくらいで斬られるようなら、とっくに土の中じゃ」
言われてみれば、そりゃそうだ。
「だが、お前の目と足の使い方は、素直でいい。無駄な力みが少ない」
老人は、木剣をどけてくれた。僕は上体を起こす。
「それに――」
老人の目が、じっと僕を見据える。
「倒されたのに、目が折れておらん」
「……倒されたのは、最初から覚悟してましたから」
「ほう?」
「勝負じゃなくて、試しだって分かってたので。負けたくないのは、ここから先の方です」
そう答えると、老人はふっと目を細めた。
「面倒くさいガキだ」
「よく言われます」
「だろうな」
しばらくの沈黙。
そのあとで、老人は小さく笑った。
「――面白い」
その一言には、さっきまでと違う熱があった。
「青嶺」
「はい」
「わしは、蒼玄という」
初めて聞く名前だった。
けれど、どこかで聞いたことがあるような気もする。昔、村の老人が酔った勢いでこぼしていた「蒼」の字のつく武人の話が、頭の片隅をかすめた。
「昔は、ちょっとばかり剣を振って飯を食っておった。今は、こうして山の祠でくすぶっとる、ただの爺だ」
蒼玄。
その名を、心の中で何度か転がす。
「わしは、弟子を取るつもりはなかった」
蒼玄は、木剣を肩に担ぎ直した。
「弟子を取れば、そいつの生き死にに、責任を持たねばならん。武の道は、半端に教えればそいつを殺すし、徹底的に教えても、やっぱりどこかで血を見ることになる」
淡々とした言葉の端々に、いくつもの「別れ」の影が見えた。
戦場で斃れた仲間かもしれない。弟子かもしれない。
そういうものを、きっとこの老人はたくさん見てきた。
「だから、やるつもりはなかったんじゃが――」
そこで、蒼玄は口元だけで笑った。
「“文を通すための剣がほしい”なんぞと言い出す馬鹿は、あまり見たことがない」
「……褒めてます?」
「さあな」
蒼玄は、僕をまっすぐに指さした。
「青嶺。三つだけ条件を出す」
「条件?」
「一つ。ここで教えることは、勝手に他人に吹聴するな。特に、“わしが師匠だ”などと名乗り歩くな」
「……はい」
「二つ。わしがやれと言ったことは、理由も聞かずに、まずやれ。理屈はあとから教える」
それは、少し引っかかった。
けれど、前の世界でも、師匠筋の上司に最初に叩き込まれたのは、「まずやれ、質問はあとだ」だったのを思い出す。
「三つ」
蒼玄の目が、少しだけ柔らかくなった。
「剣を振るう理由を、途中で投げ出すな」
ああ、と僕は思った。
この人はやっぱり、“何のために”を一番気にしている。
「……わかりました」
迷いなく、頷く。
蒼玄は、ふっと息を吐いた。
「面倒くさいガキに、面倒くさい弟子の条件を渡してしまったわ」
「最初から、そう言ってましたよね」
「うるさい」
木剣の先で軽く肩を小突かれ、思わず笑いが漏れる。
「明日から、朝の鍛錬の前にここへ来い」
「“前に”?」
「お前の自己流の体づくりは否定せん。むしろ、よくやっとる。だが、武は“型”と“間合い”と“生き残る知恵”じゃ。そこは、わしが叩き込む」
そう言って、蒼玄は背を向けた。
「来るかどうかは、お前が決めろ。誰に強制されてやる鍛錬は、ただの拷問じゃ」
その背中を見ながら、僕は即答した。
「来ます」
蒼玄の足が、ほんの一瞬だけ止まる。
「明日の朝、いつもの時間に、石段の下で待機してます」
「……本当に面倒くさいやつじゃな、お前は」
それだけ言って、蒼玄は祠の中へと消えていった。
◆ ◆ ◆
祠を出て、山道を下る頃には、空はすっかり明るくなっていた。
村の方からは、いつもの朝の音が聞こえてくる。
鶏の鳴き声。桶を運ぶ音。大人たちの怒鳴り声と笑い声。
(……師匠、か)
口の中で、その言葉を転がす。
文の方には、すでに「師匠と言っていい大人」がいる。福根爺さんだ。
武の方にも、ようやく、その言葉を素直に使える相手ができた。
胸の奥が、軽くなっていくのが分かる。
背中には、蒼玄から借りたままの木剣が一本。
手のひらには、さっき土に叩きつけられたときの痛みが、まだすこし残っていた。
でも、その痛みは、嫌なものではなかった。
(明日からは、裏山の平地に行く前に、祠に寄ることになる)
朝の時間は、今まで以上に詰まるだろう。
体は、今よりもっときつくなる。
それでも――。
足取りは、不思議と軽かった。
評価していただけますと幸いです!!
よろしくお願いします!




