第5話 狂ったルーティンの始まり
第5話 狂ったルーティンの始まり
あの朝、裏山の小さな平地で、息が切れるまで走って腕立てをして――。
家に帰るころには、手足は棒みたいになっていたのに、胸の奥だけは妙にすっきりしていた。
(……これ、毎日やったら、どこまで行けるんだろう)
そう思ったところから、僕の「狂ったルーティン」は始まった。
◆ ◆ ◆
今の僕――青嶺は、数えで九つだ。
前の世界の感覚で言えば、小学校三、四年生くらい。
この銀霜帝国の村の感覚だと、「もう畑の戦力に数えてもいい年」らしい。
そして、銀霜学院の入学が許される年齢は、十三歳から十六歳まで。
(九歳から十三歳まで、およそ四年。四年あれば、人はかなり変われる。あの地獄の省庁で、いやでも知った)
前の世界では、配属されてから三年もすれば、同期の目つきが変わっていくのを何度も見た。
希望が抜け落ちていくやつもいれば、妙に図太くなっていくやつもいた。
なら今度は、その「変化」を、自分で選べばいい。
文の頭も、武の体も。十三歳までに、「学院側が放っておけないレベル」にしてやる。
そう決めた翌日から、僕の一日はきっちり三つに割られた。
朝:体づくり。
昼:畑と文字。
夜:本と考えごと。
誰に言われたわけでもない、自分だけの時間割だ。
◆ ◆ ◆
夜がまだ残っているうちに、目を開ける。
藁の布団から顔を出すと、冷えた空気が一気に肌にまとわりついた。
「……さむ」
思わず声に出る。けれど、その冷たさが、眠気をまとめてさらっていってくれる。
そっと布団から抜け出して、軋む板を踏まないように足の裏で場所を探りながら、板戸に手をかける。
ぎい、と軋む音を可能な限り小さくして、外へ出る。
空はまだ青とも黒ともつかない色で、村全体がうすい霧の中に沈んでいるみたいだった。
遠くで、犬が一声だけ吠える。
(一本目)
心の中でそうカウントして、裏山の方角へ駆け出した。
最初の頃、家から裏山に続く上り坂は、それだけで肺が焼けるかと思うほどきつかった。今でも楽ではない。
でも、「どこからしんどくなるか」が体で分かってきた。
息が上がり始める前に、一度だけ呼吸を整える。足音が土を叩くリズムに、息を合わせる。
(吸う、二歩。吐く、二歩。……いや、今日は三歩ずつでもいける)
足を運びながら、ずっと「自分の中身」を観察していた。
足の重さ。膝の可動域。肩の力の入り方。心臓の鼓動の速さ。
前の世界では、数字とグラフと睨めっこしていた。今は、その対象が自分の体に変わっただけだ。
裏山の平地に着くと、まずは大きく息を吐く。
「……ふう」
そこから、準備運動。首を回し、肩を回し、腰をひねり、膝と足首を一つずつ確かめる。
(ここをサボると、いつか絶対どこか壊す)
前の世界で、休憩と睡眠を削り続けた結果、最後にあっさり倒れた自分を思い出す。
ああいう「ある日突然の終わり方」だけは、もう二度とごめんだ。
準備が終わったら、本番だ。
腕立て伏せ、腹筋、背筋、スクワット。
最初の一週間、腕立ては十回が限界だった。腕が震えて、胸が床から上がらなくなる。
腹筋も二十回で、腹の奥がつってしまう。それ以上やると、次の日畑仕事ができなくなりそうだった。
だから――毎日「少しだけ」増やす。
(昨日十回がぎりぎりだった。今日は十回を普通にできた。じゃあ十一回目だけ、頑張って足してみよう)
そうやって、限界を一歩だけ押し上げる。
回数だけ増やす日もあれば、同じ回数を「ゆっくりやる」日も作った。
腕立てなら、三つ数えながら下ろし、三つ数えながら上げる。
スクワットも、腰を落とす途中で一度止めて、足が震えるギリギリまで耐える。
(壊れるまでやるのが“狂気”なんじゃない。壊れないギリギリを毎日積み上げる方が、よっぽど狂ってる)
汗が目に入りながら、そんなことを考える九歳児は、我ながらどうかしている。
でも、そうでも思っていないと、途中で「今日はここまででいいか」と甘えたくなるのも事実だった。
◆ ◆ ◆
数ヶ月もすると、変化は目に見えるようになってきた。
井戸で袖をまくったとき、腕が前より太くなっている。力を入れると、筋肉の線が皮膚の下で浮かぶ。
腹に軽く力を入れると、平らな板のような固さを感じた。太ももに指を立てて押すと、前はふにゃりとしていたのに、今は弾力がある。
それ以上に変わったのは、「息切れの仕方」だ。
最初の頃は、裏山一周で肺が焼けて何も考えられなくなっていた。
今は、距離を伸ばしても、息が荒い中にまだ「一歩分の余裕」が残っている。
(武階で言えば、前は第九武階の武徒の底辺。今はようやく、第八武階の武士見習いくらいか)
正式に誰かに測ってもらったわけじゃない。
でも、自分の中の「余裕」が、前とは違う段に乗ったのがわかる。
◆ ◆ ◆
朝の修行を終えるころ、村にようやく朝日が降りてくる。
「おーい、青嶺、もう起きてたのか」
井戸で顔を洗っていると、父さん――大山がのしのしと歩いてくる。
がっしりした肩、日に焼けた顔。歳は四十前後のはずなのに、前の世界で見てきた同年代の男より、ずっと「働いている体」をしている。
「今日も裏山か。ほんと好きだなお前は」
「好きっていうより……やってないと落ち着かないかな」
「九つのガキの台詞じゃねぇな」
そう言いつつも、大山の口元は少し緩んでいた。
「まあ、体が丈夫になるぶんには文句ねぇ。ほら、飯食ったら田んぼ行くぞ。今日は南の畦直さねえと、水が抜けちまう」
「うん」
井戸水を頭からかぶると、火照った体が一気に冷えた。全身を覆っていた重りが、一枚剥がれ落ちたような感覚になる。
◆ ◆ ◆
昼は、ひたすら現場仕事だ。
鍬を握って土を割る。田に入って泥に足を取られながら、苗を植えていく。
収穫のときには、束ねた穂を背負って運ぶ。
それぞれが、朝の筋トレの「実戦編」だった。
(腕だけで鍬を振ると、すぐにばてる。腰を中心にして、足からの力を鍬に伝えた方が、ずっと楽だ)
父さんや村の大人たちの動きをじっと観察する。
足の幅。腰の回し方。鍬を振り上げる角度。
自分の動きと見比べて、「楽そうな部分」と「無駄な部分」を探す。
同じ一振りでも、力の流れがうまく繋がっていると、驚くほど疲れない。
逆に、どこかで引っかかっていると、すぐ腕がパンパンになる。
(武術の型と同じだな……)
まだ正式な門派で剣を学んだことはない。
けれど、体の使い方の「理屈」は、文の勉強と同じように筋が通っている。
そうやって畑で試した感覚は、後で裏山の鍛錬にも持ち込まれる。
鍬の一振りが、そのまま剣の一閃に繋がる。そういうイメージで、日常と修行をつなげていった。
◆ ◆ ◆
畑仕事の合間、短い休憩時間がある。
木陰に集まり、水を飲み、干し肉や饅頭をかじる。
「なあ青嶺、今度の“悪党ごっこ”、お前が武林盟主な!」
声をかけてくるのは、いつも通りの阿虎だ。筋肉より先に口が動くタイプの幼なじみ。
「おれ、今度は“天下第一人”やるからな!」
「だから、それ悪党じゃなくて英雄側だって」
隣で突っ込むのは、阿文。阿虎より少しだけ慎重で、でもやっぱりうるさい。
昌は、その後ろで苦笑いしながら饅頭を食べている。
彼らと話しながらも、僕の頭の隅では別の計算が進んでいた。
(今年の雨の日は、例年より少し少ない。このままいくと、水路の管理を油断した村から、ひび割れが出る)
父さんたちの会話を思い出す。
去年、役所から来た書状。「今年も例年通りの年貢を納めるように」という一文。
そこには「不作の場合の配慮」なんて、一文字も書かれていなかった。
(ここで一回でも大きく不作が続いたら、この村は簡単に詰む)
わざわざ口に出したりはしない。ただ、そういう「もしも」の線を、頭の中で何本も引いておく。
銀霜学院に入るとき、いつかこの国の制度に口を出すとき――そのときに、「机の上だけの絵」で勝負するつもりはない。
泥と汗の匂いを知ったうえで、文を振るった方がいい。
◆ ◆ ◆
昼の仕事が早く終わった日は、村の端に住む老爺の家に向かった。
元・下級官吏の福根。今は腰を悪くして引退し、小さな畑と机を相手に暮らしている老人だ。
「やあ爺さん、今日も字、教えて」
「おう、青嶺。まったく、よう来る坊主じゃ……そこに座れ。墨をすれ」
福根は、口ではぶつぶつ文句を言うくせに、墨や紙はいつもきちんと用意して待っていてくれる。
硯に水を垂らし、墨をゆっくりとすっていく。石と墨がこすれ合う音が、部屋の中で一定のリズムを刻む。
「いいかの、青嶺」
福根が、筆を取り、紙に一文字だけ書く。その筆運びは、年齢を感じさせないほど滑らかで、迷いがない。
「字っちゅうのはな、その人間の中身が出る。せっかちなやつは、はねも払いも落ち着きがない。腹の座っとるやつの字は、どっしりしとる」
「じゃあ、爺さんの字は?」
「丸くなった老人の字じゃ。昔はもっととんがっておったわ」
そう言って笑う目は、どこか遠くを見ていた。
「ほれ、真似して書いてみい」
僕は、福根の書いた字を横目に見ながら、筆を構える。腕を動かす前に、一度呼吸を整える。
どこから線を引き始めて、どこで止めるかを、頭の中で一度なぞっておく。それから、紙に墨を落とす。
最初の頃は、筆が震えて線が歪んだ。止めたい位置で止まりきれず、墨がにじんだ。
でも、何十日、何百字と積み重ねるうちに――前よりも「迷いが少ない線」を引けるようになっているのが分かった。
「ふむ。前より、よくなっとる」
福根が、僕の字を見て頷く。
「前のお前の字はの、どこか急いどった。“早くどこかに行かなきゃいけない”みたいな、落ち着かん線じゃった。今は……行き先を決めた人間の線になりつつある」
「行き先、か」
「科挙を受けるにしろ、受けんにしろ――字の裏に“何を考えとるか”が見えんと、上の連中は信用してくれんぞ」
字の裏側に、考えがにじむ。文でも、武でも、きっと同じだ。
剣を振るうとき、「何を斬りたいのか」が曖昧なら、動きもぶれる。
文を書くとき、「何を通したいのか」がぼやけていれば、読む側の心にも届かない。
それを、筆と紙で少しずつ体に刻んでいく感覚があった。
◆ ◆ ◆
夜が来ると、油灯の下が僕の世界になる。
小さな炎が、紙の上と本の文字を照らす。福根から借りた経書もどき、村に伝わる英雄譚、古びた兵法書。手に入る文字のあるものは、片っ端から読んだ。
最初は、一行読むだけで目が滑った。
けれど、毎日少しずつ読み続けていると、脳みそがだんだん「この世界の文」を前提に動き始める。
(この条文、《じょうぶん》は、税の話をしているわりに、農民の負担側の視点が一切ないな)
(この昔話、《むかしばなし》の武将、《ぶしょう》は、兵を捨て駒にしているのに、そこが美談扱いされている。時代背景としては分かるけど、今の銀霜帝国の状況には合わない)
前世で政策文書を読んでいた頃と同じように、僕はこの世界の本の中身を、「現実と照らし合わせる癖」をやめなかった。
そのうち、読むスピードも変わっていく。一字一字を追っていたのが、文節単位で意味をつかめるようになり、さらに段落ごとに「この段落の言いたいこと」を一言にまとめられるようになってくる。
頭の中に、自然と「目次」ができる感じだ。
(これなら、科挙の勉強にも、そのまま使える)
銀霜帝国の科挙は、前の世界の国家公務員試験に似ている。膨大な文章を読み、要点を押さえ、自分なりの答えを組み立てる。
この夜の読書タイムは、そのまま将来の試験勉強に直結している。
ただ「合格のため」だけじゃない。この国の仕組みを、上からも下からも見られるようになるための訓練でもあった。
◆ ◆ ◆
こうして、一日が三つのブロックに割られた生活が、何ヶ月も続く。
朝の裏山。昼の畑と文字。夜の本。
それが、七日続けば一週間。四週間続けば一月。一月が三つ、四つと重なるころには――僕の中身は、確実に変わっていた。
体の変化はわかりやすい。
裏山を一周どころか、村をぐるっと回ってから山に登っても、足が止まらなくなった。肩で息はするが、肺が悲鳴を上げる感じではない。
ある日、井戸で水をかぶっていたら、阿虎が目を丸くした。
「おい青嶺、その腹なに!? 前より固そう!」
「いや、前よりちょっと鍛えただけだよ」
「ちょっとでそうなるかよ! おれのも触ってみろ!」
触らせてもらうと、阿虎の腹はまだ柔らかかった。比較して、自分の腹がどれだけ変わったかがよくわかる。
見せびらかすつもりはない。
でも、「変化」がちゃんと他人にも見える形になっているのは、素直に嬉しかった。
頭の方も、静かに変わっていった。
字の勉強では、覚えた漢字の数が増えただけじゃない。「この字はこういう文脈でよく出てくる」という感覚が付いてきた。
読書では、一度読んだだけで「この段落の要点はここだな」と印をつけられるようになる。前世で身につけた要約力が、こっちの世界でもうまく再利用されていた。
そして、もう一つ。人の動きが「パターン」として見えるようになってきた。
ある日の夕方、村の空き地で、僕たちはいつものように棒切れを振り回していた。
「今日の“山賊”はおれな! 青嶺、正義の剣客やれ!」
阿虎が木の棒を振り回しながら笑う。
「はいはい。じゃあ、さらわれた村娘は阿文な」
「なんでおれなんだよ!?」
阿文が抗議している隙に、阿虎が勢いよく飛び込んでくる。
その瞬間――。
(左足が先に出る。肩に力が入りすぎ。突きの直前で、一瞬止まる)
阿虎の動きが、頭の中でスローモーションのように分解される。突き出される前に、半歩だけ横へ。勢いを殺さないように、ちょっとだけ棒で受け流す。
阿虎の体が前のめりになったところで、彼の背中に棒を軽くポン、と当てる。
「いってぇ!? なんで避けられんだよ!」
「阿虎はね、突く前に肩が上がるから。“今からここに来るぞ”って、自分で教えてるんだよ」
口に出してから、自分でも少し驚いた。僕は今、自分の頭の中でやっている分析を、そのまま言葉にしていた。
(これをもっと鍛えたら、本当に“鑑定”みたいなことができるかもしれない)
相手の歩幅、筋肉のつき方、呼吸のリズム。そういうものを見て、「どの程度の武階か」「どんな癖があるか」を瞬時に見抜く。
今はまだ、「友だち相手の読み合い」の域を出ない。
でも、この感覚を意識して育てていけば、武階が上がるほどに武器になる。
◆ ◆ ◆
一年が過ぎた。
僕は数えで十歳。背はぐっと伸びて、父さんの腰あたりまで来るようになった。
肩幅も少し広がり、手足の線に「子どもと少年の境目」が見え始めている。
村の大人たちの僕を見る目も、少し変わった。
「青嶺、前よりずいぶん逞しくなったなぁ」
「この前なんか、一人で肥料の袋二つも運んでたぞ。あれ、普通の大人でもきついのに」
「字も上手くなったしな。福根の若い頃を見てるみてぇだ」
大袈裟だとは思うが、悪い気はしない。
同年代の子たちからは、別の方向で頼られるようになっていた。
「青嶺、この算術の問題、どうやって解くんだ? 頭がこんがらがってきた」
「この荷車さ、ちょっと押すの手伝ってくれねぇ? お前が後ろから押すとさ、すげぇ楽なんだよな」
体力があるから頼まれ、頭が回るから相談される。
でも、僕はいつも意識して、「少しだけ余裕を残す」ようにしていた。
本気を出せば、もっともっと先まで走れる。
本気を出せば、阿虎たちとの「遊びの喧嘩」も一瞬で終わらせられる。
けれど、今はまだ、村の中で「突出しすぎる」必要はない。
(目立つべき場所は、この村じゃない。銀霜学院だ)
今の目標は、「十三歳で銀霜学院の門をたたけるところまで、自分を引き上げること」。
この村を今すぐ変える力を見せつけるのは、その後でいい。変えたくなったときに、本当に変えられるだけの力を持っている方が、ずっと大事だ。
◆ ◆ ◆
ある晩、いつものように福根の家で字の稽古をしていたときのことだ。
「青嶺、お前の字は変わったな」
福根が、僕の書いた紙を眺めながらぽつりと言った。
「前はな、“急いでどこかへ走ってる字”だった。今は、“行き先を決めて、その方角を向いとる字”になっとる」
「そんなに違うの?」
「わかるとも。儂ぁ、その字で飯を食っとったんじゃ」
福根は、指先で僕の字の一部を軽くなぞる。
「科挙を受けるにしても受けんにしてもな。上にもの言うときは、“この字を書いたやつは、何を見て、何を考えてるか”が透けて見えんといかん」
「何を見て、何を考えてるか、か」
「文だけじゃねぇぞ。武もじゃ。剣を振るうとき、何を斬りてぇのか曖昧なやつはな、いざというとき腰が引ける」
それは、多分その通りだ。
裏山で木の枝を振っているときでも、「ただ振る」だけの日と、「こういう敵を想定して振る」日では、全然疲れ方が違う。
後者の方が、短時間でも消耗が大きい。けれど、得られる感覚も濃い。
(文も、武も、“何のためか”をはっきりさせる)
それが、この一年で少しずつ自分の中に根を張ってきたものだと気づく。
◆ ◆ ◆
夜、家に戻ると、油灯を一本灯す。揺れる炎を見つめながら、今日一日のことを頭の中で巻き戻す。
朝の足音。畑での土の感触。福根の筆遣い。読んだ本の一節。
それらを、心の中の棚に一つずつ並べていく。
(今日のランは、序盤でペースを上げすぎた。明日は最初もう少し抑えて、後半に余裕を残そう)
(福根の話に出てきた昔の武官、《ぶかん》。あれ、多分、文階も武階も高かったはずだ。正史を自分の目で読めるようにならないとな)
前の世界では、「明日」が積もっていくのが怖かった。やり残した仕事、終わらない資料、増えていく案件。
今は、「明日」に投げる課題が増えるほど、自分が伸びる余地が増えていく気がする。
窓の外から、虫の声と、遠くの川の音が聞こえた。藁の布団に体を沈めると、今日鍛えた筋肉の疲労が、じわっと広がる。
それを、嫌だと思うより先に――。
(明日も走る。明日も鍬を振る。明日も字を書き、本を読む)
そう決めて、目を閉じる。
誰かから見れば、確かに「狂った生活」かもしれない。
けれど、その狂い方を、自分で選べていることが――今の僕にとって、何よりの救いだった。
評価していただけますと幸いです!!
よろしくお願いします!




