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銀霜帝国記~転生したので、筆と剣で天下を取りにいく~  作者: tenntenn


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3/18

第3話 文と武の階段の話

 ——銀霜帝国ぎんそうていこくの制度の歪みと重さを、初めて「現場」で見た日。


 徴税が終わり、夕焼けがすっかり色を失ったころ、村にはいつもより静かな空気が漂っていた。


 どの家も戸口の灯りはついているのに、笑い声は少ない。

 代わりに、小さなため息と、米俵を数える声があちこちから漏れてくる。


 うちの家も例外じゃなかった。


 


◆ ◆ ◆


 


「……今年も、ぎりぎりだな」


 夕飯の後、父さん――劉大山りゅう・だいざんが、囲炉裏の脇で小さく呟いた。


 粗末な木の机の上には、今日の徴税で空になった米袋と、まだ残っている袋とがきちんと分けられている。


 前世の僕なら、「予算残高」とか「決算締め」とかいう言葉で処理していた光景だ。


 今は、単純に「今年の冬を越せるかどうか」の境目に見える。


青嶺せいれい、お前、腹は足りたか?」


 父さん――劉大山りゅう・だいざんが、湯飲みを片手にこちらを見る。


「ああ。大丈夫」


「もっと食いたきゃ言えよ。成長期だろ」


「父さんは?」


「俺は……まあ、ちょっとくらい減っても死にはしねぇよ」


 そう言って笑うが、さっきから、父さん――劉大山りゅう・だいざんは米袋の方にちらちらと視線を送っている。


 劉青嶺りゅう・せいれいとしての記憶が教えてくれる。

 こういうとき、父さんは本当に自分の分を減らして、僕に多めによそおうとする人間だ。


(……ちゃんと増やさないとな)


 米の量も、この家の余裕も。


 そう思っていると、戸口の方から、コンコンと軽く叩く音がした。


りゅうのおっちゃん、いるかー?」


 聞き慣れた声だ。


「おう、いるぞ。入れ」


 父さんが返事をすると、戸がきしむ音を立てて開き、二つの頭が覗いた。


 趙阿虎ちょう・あーふーと、趙阿文ちょう・あーうぇんだ。


「失礼しまーす」


「お邪魔しまーす」


 阿虎あーふーは遠慮ゼロでずかずかと上がり込み、阿文あーうぇんは一応靴の泥を落としてから入ってくる。


「どうした、お前ら」


 父さん――劉大山りゅう・だいざんが笑いながら言うと、阿虎あーふーがにやっとした。


「じいさんがさ、また昔話するって言ってる。

 『徴税の後は、若いもんに“文と武の話”を聞かせるのが筋だ』とかなんとか」


「ああ、あのこうのじいさんか」


 父さんがすぐに察したようだ。


 村で一番の長老――黄福根こう・ふくこん

 みんなからは「黄じい」とか「黄爺こうや」と呼ばれている。


 若い頃にあちこちを放浪して武林ぶりんを見てきたとか、都の手前まで行って科挙かきょの試験場を覗いてきたとか、いろんな噂がある老人だ。


青嶺せいれい、行ってこい」


 父さん――劉大山りゅう・だいざんがすぐに言った。


「いいの?」


「ああ。どうせ、黄爺こうやの話は損にはならん。

 どうせ夜はそんなにすることもねぇだろ。寝る前にちょっと頭使ってこい」


「父さんは?」


「俺は隣んちに顔出してくる。みんな今日の徴税で疲れてるしな。

 酒、ちょっとだけ飲んでくる」


「『ちょっとだけ』ね」


 わざと疑わしげに言うと、父さん――劉大山りゅう・だいざんは頭をかいた。


「……ほどほどにな」


 そう言って、僕は外套を引っかけて家を出た。


 


◆ ◆ ◆


 


 黄福根こう・ふくこんの家は、村の中央に近い、小さな祠の横にある。


 戸を開ける前から、子どもたちのざわめきと、年寄りの低い笑い声が聞こえてきた。


「お、青嶺せいれいも来たか!」


 先に来ていた李昌り・しょうが手を振る。

 その隣には、さっき見たばかりの阿虎あーふー阿文あーうぇん


 部屋の中央には、小さな囲炉裏。

 その向こう側で、白いひげを蓄えた黄福根こう・ふくこんがあぐらをかいて座っていた。


「遅かったな、青嶺せいれい


 黄福根こう・ふくこんが、細いがよく通る声で言う。


「すみません、父さんに一言通してから来ました」


「律儀なこった。……まあ座れ。場所はどこでもいい」


 僕は阿虎あーふーの隣に腰を下ろした。

 囲炉裏から立ち上る煙と、炭の匂いが鼻をくすぐる。


「で、今日は何の話なんだよ、黄じい」


 阿虎あーふーがわくわくした顔で身を乗り出す。


「この前は、武林ぶりんの“天下第一人てんかだいいちじん”の話だっただろ?

 今日はもっと派手なのがいい!」


「お前はいつも派手なのがいいと言うな」


 黄福根こう・ふくこんがひげを撫でて笑った。


「だが、今日はちっと違う。

 徴税の後だ。こういうときは、ぶんの話をしてやるのが、わしの流儀よ」


 囲炉裏の火が、ぱちりと音を立てる。


文階ぶんかい武階ぶかい、だな」


 その言葉を聞いた瞬間、僕の背筋がわずかに伸びた。


 劉青嶺りゅう・せいれいとしての記憶にも、前世の官僚としての記憶にも、深く関係する単語。


青嶺せいれい、お前は知っておるか」


 黄福根こう・ふくこんが、まっすぐ僕を見る。


銀霜帝国ぎんそうていこくを動かしている二つの梯子――

 ぶんの梯子と、の梯子の話じゃ」


文階ぶんかい武階ぶかい、ですよね」


「そうよ」


 黄福根こう・ふくこんは、ゆっくりとうなずいた。


 


◆ ◆ ◆


 


「まずは、ぶんから話そうかの」


 黄福根こう・ふくこんは、囲炉裏の火に手をかざしながら続けた。


銀霜帝国ぎんそうていこくには、科挙かきょという試験がある。

 お前たちも名だけは知っとるだろう?」


「うん。頭いい人が受けるやつだろ?」


 阿虎あーふーが、ざっくりすぎる説明をする。


「もうちょいマシな言い方しろよ」


 阿文あーうぇんが肘で突く。


「字が読めて、本がいっぱい読める人たちが受ける試験、って感じか?」


 李昌り・しょうが、少し控えめに口を挟んだ。


「そうじゃな。ざっくり言えばそうじゃ」


 黄福根こう・ふくこんは笑ってから、指を一本立てた。


「だがな、科挙かきょはただの試験ではない。

 あれは、“文階ぶんかい”と呼ばれる梯子に足をかけるための門だ」


 僕は自然と、頭の中でノートを取るような感覚になっていた。


(来た。階層構造の説明)


科挙かきょには、いくつか段階がある。

 村やごうごとにやる小さな試験――童試どうし

 ぐんしゅうごとの大きな試験――郷試きょうし

 みやこで行われる会試かいし

 最後に、皇帝陛下こうていへいか自らが試す殿試でんし。」


 黄福根こう・ふくこんは、畳の上に指で小さな四段の階段を描いた。


「この四つを上から下まで昇りきった者が、“進士しんし”と呼ばれる。

 進士しんしになれば、官僚としての道が開ける。

 ここまで来て、やっと文階ぶんかいの“入口”に立ったことになるのじゃ」


「入口、なんだ?」


 阿虎あーふーが驚いた声を上げる。


「それ、もう十分すげぇだろ」


「そう思うじゃろ? だがな」


 黄福根こう・ふくこんは、指をもう一本立てた。


文階ぶんかいは、そこからさらに九段階に分かれておる。

 下から第九文階だいきゅうぶんかい第八文階だいはちぶんかい……と上がっていき、

 最上位が第一文階だいいちぶんかいじゃ」


「九つもあるのかよ……」


 阿文あーうぇんが顔をしかめる。


「じゃあ、進士しんしはどの辺なんだ?」


「普通はな、第八文階だいはちぶんかいあたりから始まることが多い。

 才覚と運があれば、最初から第七文階だいななぶんかいをもらえることもあるがの」


 僕は頭の中で、「係長」「課長」「部長」といった言葉を、勝手に文階ぶんかいに対応させていた。


(第九文階がヒラ。第八が主任。七が係長……くらいか?

 いや、この国の組織図はもっとグチャグチャだろうけど)


「で、その上には何があるんだ?」


 阿虎あーふーが、わくわくした顔で身を乗り出す。


第一文階だいいちぶんかいって、どんな人なんだよ」


第一文階だいいちぶんかいともなれば、宰相さいしょう丞相じょうしょう――

 国のふみを束ねる者たちじゃ。

 その下の第二文階だいにぶんかい第三文階だいさんぶんかいでも、

 地方の長官や大きな役所のおさを務めることになる」


 黄福根こう・ふくこんの声が、少しだけ低くなる。


「だがな。

 文階ぶんかいには、正式な九段階のほかに、もう一つだけ“特別な呼び名”がある」


「特別?」


 僕の胸が、かすかに高鳴る。


「それが――文聖ぶんせいじゃ」


 囲炉裏の火が、ぱち、と音を立てた。


文聖ぶんせいって……本に出てくるやつ?」


 李昌り・しょうが、おそるおそる口を挟む。


「昔、天下の学問をまとめたとか、法律を作り直したとかいう――」


「そう。“聖人”と呼ばれるような文人のことじゃ」


 黄福根こう・ふくこんは、ゆっくりとうなずいた。


文聖ぶんせいというのは、官位の名前ではない。

 第一文階だいいちぶんかいだからと言って、誰もがそう呼ばれるわけでもない。

 一代に一人出るかどうか。

 この銀霜帝国ぎんそうていこくの歴史をひっくり返しても、

 文聖ぶんせいとまで呼ばれた者は、片手で数えられるくらいじゃ」


 一代に一人。歴史上数人。


 前世で言えば、「制度そのものを変えてしまった学者」とか「近代法体系の祖」とか、そういうクラスだろう。


(トップ・オブ・トップ、ってやつだな)


文聖ぶんせいって、具体的に何した人なんだ?」


 阿文あーうぇんが真面目な顔になる。


「例えば――」


 黄福根こう・ふくこんは一本一本、指を折っていった。


「古い税制を捨て、新しい税の仕組みを作った者。

 領主や武林ぶりんの横暴を抑える法律を整えた者。

 科挙かきょの内容を改め、“血筋”よりも“才”を重んじるように変えた者。

 そういう者たちじゃ」


(あ、それ全部、この国に今必要なやつだ)


 思わず心の中でツッコミを入れる。


 徴税で肩を落としていた父さん――劉大山りゅう・だいざんの顔が浮かんだ。


文聖ぶんせいってのはな、“文字を書くのが上手い人”じゃない。

 “文字で世界を変えた人間”のことを言うんじゃ」


 黄福根こう・ふくこんの目が、一瞬だけ鋭く光った。


「だからこそ、文聖ぶんせいと呼ばれた者は、

 死んだあとも、何百年とその名前が残る」


(……名前が残る、か)


 前世では、僕の名前なんて決裁文書の端っこにすら残らなかった。


 せいぜい部内のチャットログに、「青嶺くん、あの資料どうなった?」と残るくらいだ。


 それも、数年もすれば消される。


文聖ぶんせい……いいな)


 心の中で、その言葉を転がしてみる。


 たった二文字なのに、やたらと重たい。


 でも、「そこまで行けたなら、さすがに満足だろ」とも思った。


 


◆ ◆ ◆


 


「次は、の話だ」


 黄福根こう・ふくこんが姿勢を変えた。

 囲炉裏の火が少し弱まったのを見て、そっと炭をくべる。


銀霜帝国ぎんそうていこくには、武階ぶかいと呼ばれる梯子もある。

 これは、武林ぶりんつわものたちが、自分や他人の強さを測るためのものじゃ」


「それ、聞いたことある!」


 阿虎あーふーが食いついてきた。


「この前、じいさんが言ってたやつ!

 第九武階だいきゅうぶかい武徒ぶとで、第八武階だいはちぶかい武士ぶしで――」


「よく覚えておるな。よし、順番におさらいしていこう」


 黄福根こう・ふくこんは指を折っていく。


「一番下が、第九武階だいきゅうぶかい――武徒ぶと

 兵として最低限の鍛錬を積んだ者たちじゃ。

 その上が第八武階だいはちぶかい――武士ぶし

 ここから先は、“ただの農民”とは一線を画す力を持ち始める」


「その上が、第七武階だいななぶかい――三流さんりゅう、だっけ?」


 阿文あーうぇんが口を挟む。


「そうじゃ。

 三流さんりゅうは、外功がいこう――体そのものを鍛えた連中じゃ。

 ちゃんとした武人と呼べるのは、第七武階だいななぶかいからじゃな」


第六武階だいろくぶかい二流にりゅう

 第五武階だいごぶかい一流いちりゅう……だよね」


 李昌り・しょうが、恐る恐る確認するように言う。


「そう。よう覚えとる」


 黄福根こう・ふくこんは満足そうにうなずいた。


二流にりゅうともなれば、外功がいこうに加えて内功ないこう――

 を扱う術も覚え始める。

 一流いちりゅうになれば、内功ないこうを武器や肉体にまとわせて戦える。

 剣を振るだけで、剣罡けんごうと呼ばれるオーラが走るようになる」


「それ、前に聞いた! 山賊十人を一人で倒した、とかいうやつ!」


 阿虎あーふーが目を輝かせる。


「おう。そういう連中じゃな」


 黄福根こう・ふくこんは笑い、少し間を置いた。


「だが、上はまだある」


「ここからだろ、本番は」


 僕は心の中で呟く。


第四武階だいよんぶかい――武宗ぶそう

 ここから先は、“一人で一軍に匹敵する”とさえ言われる連中じゃ」


 部屋の空気が、わずかに張り詰めた。


武宗ぶそうともなれば、自分の内力だけでなく、

 周囲の自然のさえ取り込んで戦場を支配する。

 いくさの流れを一人で変えることもある」


武林十二門派ぶりんじゅうにもんぱ宗師そうしクラス、だよな」


 阿文あーうぇんが、声を落として言う。


「そうじゃ。

 この国に、今、武宗ぶそうと呼べる者が何人おるか――

 わしらみたいな田舎者には分からんが、そう多くはあるまい」


武宗ぶそう……“目標のひとつ”)


 心の中で、その言葉を別の色で囲む。


第三武階だいさんぶかいは、武聖ぶせいと呼ばれる。

 の道そのものを体現したような存在じゃ。

 “武を学ぶなら、まずあの人間の動きを真似しろ”と言われるような者たちよ」


武聖ぶせいって、歴史書にたまに出てくる名前?」


 李昌り・しょうが、身を乗り出す。


「そうじゃ。

 ただ強いだけではない。

 戦いを終わらせる者。

 の意味そのものを問う者。

 そういう連中が、いつしか“せい”の字をつけて呼ばれるようになる」


「……かっけぇな」


 阿虎あーふーが、素直な感想を漏らした。


「で――」


 黄福根こう・ふくこんは最後の一本の指を立てた。


第二武階だいにぶかいは、“超絶頂ちょうぜっちょう”などと呼ばれることもある。

 だが、その上――第一武階だいいちぶかいには、正式な名がある」


武帝ぶてい


 僕は、自然とその二文字を口にしていた。


 黄福根こう・ふくこんが、ちらりとこちらを見る。


「そう。“武帝ぶてい”じゃ」


 囲炉裏の火が、また一つはぜる。


武帝ぶていというのはな、“みかど”じゃ。

 この世のどこかに、“今も生きている”と言う者もおるし、

 “いや、あれはただの伝説だ”と言い張る学者もおる」


「じいさんは、どう思うんだ?」


 阿文あーうぇんが尋ねる。


「お前、見たことあるのかよ、武帝ぶてい


 阿虎あーふーが半分冗談のように言う。


「さすがに、わしも“直接会った”とは言えんがな」


 黄福根こう・ふくこんは、にやりと笑った。


「ただ――昔、武林ぶりんをふらふらしていた頃に、一度だけ、

 『あれはもう人の動きじゃねえ』という剣を見たことがある」


 部屋が、一瞬静まり返る。


「山賊の頭目でも、名のある門派の掌門しょうもんでもない。

 名も知らぬ旅の武人ぶじんじゃった。

 だが、その男が刀を抜いた瞬間、

 “ああ、これはわしと同じ世界の話ではない”と、肌で分かった」


「それって……」


「その男が武帝ぶていだったかどうかは、わからん。

 ただ――“武帝ぶていというものが実在するとしたら、ああいうものかもしれん”

 と、そう思ったのは確かじゃ」


 黄福根こう・ふくこんの目が、遠くを見ている。


 囲炉裏の火の光が、その横顔を赤く照らしていた。


 


◆ ◆ ◆


 


文階ぶんかいには、文聖ぶんせい

 武階ぶかいには、武聖ぶせい武帝ぶてい。」


 黄福根こう・ふくこんは、指で畳に二本の線を描いた。


「この国は、この二つの梯子を昇った連中が動かしておる」


 一本は、文字と法律と税の梯子。

 もう一本は、剣と兵と血の梯子。


 二本の線は、畳の上で交わることなく平行に伸びている。


(交わらない――はず、なんだよな)


 普通なら。


 でも、僕はその線を、頭の中で勝手に交差させていた。


「質問いいですか?」


 僕――劉青嶺りゅう・せいれいは、手を挙げた。


「なんじゃ」


文聖ぶんせいって、は弱い人が多いんですか?」


 周りの子どもたちが「え?」という顔をする。


「逆に、武聖ぶせいとか武帝ぶていって、文字は読めない人が多いんですか?」


 阿虎あーふーが「お前、何聞いてんだ」と小声でつついてくる。


 黄福根こう・ふくこんは、少しだけ目を細めた。


「面白いことを聞くのう、お前は」


 ひげを撫でながら、ゆっくりと言葉を選ぶ。


文聖ぶんせいの中には、若い頃にをかじった者もおる。

 だが、最後までも極めた、という話はあまり聞かん。

 逆に、武聖ぶせいの中には、字の読める者も少なくない。

 だが、“ふみいただき”と呼ばれるほどの者はおらん」


 まあ、そりゃそうだ、という答えだ。


 一つ極めるだけでも一生がかりなのに、二つ同時に頂点に立とうなんて、

 普通は考えない。


「お前はどうしたいんだ、青嶺せいれい


 黄福根こう・ふくこんが、真正面から聞いてきた。


 囲炉裏の火の音が、やけに大きく聞こえる。


 阿虎あーふー阿文あーうぇんも、李昌り・しょうも、息を呑んで僕を見る。


(どうしたいのか、ね)


 前世のこと。

 銀霜帝国ぎんそうていこくの制度。

 徴税で肩を落とした父さん――劉大山りゅう・だいざん

 村の人たちのため息。


 それらを一気に飲み込んでから、僕は言った。


文聖ぶんせいになりたいです」


 あえて、迷いのない声で。


 阿虎あーふーが「はあ!?」と叫び、阿文あーうぇんが目を見開く。


 李昌り・しょうは口をぱくぱくさせて、声にならない声を出していた。


「お前な……文聖ぶんせいって、さっき“一生に一人出るかどうか”って話、聞いてたか?」


「聞いてました」


「それなのに言うのか?」


「それなのに言いたいから、言ってます」


 いざ口に出してみると、不思議とスッと胸に収まった。


 前世で、「出世したいですか」と聞かれたときよりも、ずっと素直に。


「それから」


 僕は続けた。


武宗ぶそうにもなりたいです」


 部屋の空気が、もう一段階凍った。


文聖ぶんせいになりたくて、武宗ぶそうにもなりたい?」


 黄福根こう・ふくこんが、ゆっくりと復唱する。


「はい」


「頭おかしくね?」


 阿虎あーふーが、正直な感想を漏らした。


ぶんだけでも無茶なのに、まで極めるって……」


「バカか天才かどっちかだな」


 阿文あーうぇんが、半分呆れたように笑う。


 李昌り・しょうは、ぽつりと言った。


「……でも、青嶺せいれいなら、言うだけなら似合ってる気がする」


「フォローになってるのかそれ」


 苦笑が漏れる。


 けれど、黄福根こう・ふくこんは笑わなかった。


 ただ、僕をじっと見ていた。


「お前は、なぜ文聖ぶんせいになりたい」


 静かな声だった。


 僕は少しだけ視線を落とし、言葉を選んだ。


「この国の“ふみ”を動かしたいからです。

 税の仕組みも。おきても。科挙かきょのあり方も」


 父さん――劉大山りゅう・だいざんの背中。

 米俵の減った蔵。

 村人たちの諦めに近い顔。


「紙の上の文字で、人の暮らしを軽くも重くもできるのなら、

 その紙を書く側に回りたい。

 そして、できるだけ“軽くする”方に動かしたいです」


 前世で、何度も悔しい思いをしたからこそ、出てきた言葉だった。


「じゃあ、なぜ武宗ぶそうだ」


 黄福根こう・ふくこんの声が、さらに一段低くなる。


があれば、はいらんのではないか?」


だけじゃ、誰も聞いてくれないからです」


 迷いなく答えが出た。


「前の世界で、僕は“文”の中にいました。

 でも、どれだけ正しいことを言っても、力がなければ押しつぶされるだけでした。

 権力とか、立場とか、“声のでかさ”とか」


 あの会議室。

 「政治判断ですので」と言ってすべてを飲み込んだ、あの重たい空気。


「だから、今度は“剣”も握ります。

 言葉を通すための力として。

 誰かを殴るためじゃなくて、“ぶんを殺させないため”のとして」


 囲炉裏の火が、ぱちぱちと音を立てた。


文聖ぶんせいであり、武宗ぶそうでありたい。

 そうすれば――」


 一瞬、言葉が詰まる。


 でも、引き下がるわけにはいかなかった。


「この国の制度そのものに、手が届くと思うからです」


 自分で言っていて、「ああ、相当な大言だな」とも思う。


 でも、ここで「嘘でしたー」と笑うくらいなら、最初から言わない。


 


◆ ◆ ◆


 


 しばらくの沈黙のあと、最初に笑ったのは黄福根こう・ふくこんだった。


「……はっはっはっは」


 腹の底から出るような笑い声だった。


青嶺せいれい、お前、面白いな」


「笑い事ですか?」


「笑い事だ。

 だがな――」


 黄福根こう・ふくこんは笑いを収め、真顔になった。


「大言を吐くやつは嫌いじゃない。

 特に、ちゃんと“何をしたいか”まで言葉にできるやつはな」


 細い目が、まっすぐ僕を射抜く。


「いいか、青嶺せいれい

 この村には、“科挙様かきょさまの家”と呼ばれる家が一つある」


「……あの、郷試きょうしに受かった人の家ですよね」


 劉青嶺りゅう・せいれいの記憶が、すぐに答えを出してくれた。


 昔、この村から一人だけ郷試きょうしに合格し、都近くまで出世した男がいた。

 彼の家は今でも、村のちょっとした誇りになっている。


「そうじゃ。あいつも大したもんだった。

 だが、“文聖ぶんせいになりたい”とまでは言わんかった」


「たいていの人は言わないと思います」


「お前が初めてじゃ、この村では」


 黄福根こう・ふくこんは笑い、


「それとな――」


 と、声を落とした。


「この村にはもう一つ、昔話がある。

 若い頃、武林ぶりんに飛び込んで、ある門派の掌門弟子しょうもんでしにまでなった男の話じゃ」


「そんな人、いたの?」


 阿虎あーふーが目を丸くする。


「いたとも。

 ただ、そいつは途中で怪我をしてな。

 武宗ぶそうには届かず、村に戻ってきた」


「そいつ、今どこにいるんだ?」


「ここだ」


 黄福根こう・ふくこんが、自分の胸を親指で指した。


 部屋の空気が、また一瞬止まる。


「まじかよ!」


「じいさん、自分で言う?」


 阿虎あーふー阿文あーうぇんが同時に叫ぶ。


 僕も、正直少し驚いていた。


武宗ぶそうには届かなかった、か)


 でも、そこまで行った人間が、今、目の前にいる。


 それだけで、この村は十分に「特別な場所」だと思えた。


「だから、お前がを学びたいと言うなら、教えることは山ほどある。

 ぶんを学びたいなら、わしの知っとる限りの話は全部してやる」


 黄福根こう・ふくこんが、にやりと笑った。


「ただし――」


「ただし?」


「途中でやめたら、わしは一生お前を笑いものにするからな」


「じいさん、性格悪いな」


 阿文あーうぇんがぼそっと言った。


「それくらい言っとかんと、本気にならんだろうが」


 黄福根こう・ふくこんはそう言ってから、僕を見る。


「どうする、青嶺せいれい

 文聖ぶんせい兼武宗ぶそうを目指すって大言、撤回するか?」


「しません」


 答えは決まっていた。


「じゃあ、決まりだ」


 黄福根こう・ふくこんは、囲炉裏の火にもう一度炭をくべた。


「明日から、朝はわしのところに来い。

 文字の書き方から、ぶんの読み方まで教えてやる。

 その後、裏山で体を動かせ。

 の基礎は、夕方に見てやる」


「え、明日から!?」


 阿虎あーふーが驚いた声を上げる。


「お前も来ていいぞ、阿虎あーふー


「マジで!? 行く!」


阿文あーうぇんしょうも、来たきゃ来い。

 どうせ、お前らも暇を持て余しておるじゃろう」


「暇ではねぇけど……まあ、面白そうではあるな」


 阿文あーうぇんが口元を緩める。


「ぼ、僕も……行っていいですか」


 李昌り・しょうが、おずおずと手を上げる。


「もちろんじゃ。

 ただし――」


 黄福根こう・ふくこんは、今度は四人まとめて睨んだ。


「これは“遊び”じゃない。

 ぶんの読み書きを覚えれば、徴税の帳簿も読める。

 を覚えれば、自分と周りを守る術になる。

 どっちも、“中途半端”は許さん」


「はい!」


 僕は、誰よりも先に返事をした。


 喉が焼けるように熱かった。


 


◆ ◆ ◆


 


 黄福根こう・ふくこんの家を出ると、夜気が肌に冷たかった。


 空には、まるでしものように細かな星が散っている。


 阿虎あーふーが、両手を頭の後ろで組んで歩きながら言った。


「なんか、とんでもねぇことになってきたな」


「お前が一番ついてこれるか不安なんだけど」


 阿文あーうぇんが呆れたように言う。


「俺をバカにすんなよ!

 ぶんはともかく、なら負けねぇからな、青嶺せいれい!」


「じゃあ、朝の訓練、一緒に走ろうか」


「げっ、もう決めてんのかよ、お前」


 そんな他愛ない会話をしながら、三人と一人はそれぞれの家に帰っていく。


 最後に残ったのは、僕だけだった。


 家に入る前に、一度だけ夜空を見上げる。


 銀色に近い月と、霜のような星々。


文聖ぶんせいであり、武宗ぶそうになる)


 心の中で、もう一度だけはっきりと言葉にする。


 口には出さない。

 今、声にしてしまうと、どこか安っぽくなってしまいそうだったからだ。


 でも、胸の奥には、確かに火が灯っていた。


 藁と土の匂いのする、この小さな村から。

 銀霜帝国ぎんそうていこくのてっぺんに伸びる、二本の梯子の両方を登りきる。


 その無茶な目標が、妙に自然に、自分の中に収まっていた。


 戸を開けると、父さん――劉大山りゅう・だいざんが、囲炉裏の前でうたた寝していた。


 口の端には、ほんの少しだけ酒の匂い。

 でも、顔は穏やかだった。


(まずは、この人に“楽にしてもらう”ところからだな)


 そう思いながら、そっと毛布をかける。


 火の気を確かめ、自分の寝台に潜り込んだ。


 藁の感触が背中に当たる。

 遠くで、犬の遠吠えが聞こえた。


 目を閉じると、黄福根こう・ふくこんの声と、

 文聖ぶんせい武宗ぶそうという言葉が、何度も頭の中で反芻された。


 眠りに落ちる直前、僕はぼんやりと考える。


科挙かきょ武林ぶりん

 文階ぶんかい武階ぶかい

 それに、この村の税と、父さんの肩の重さ)


 どれも別々の話のようでいて、全部どこかでつながっている。


(全部まとめて相手にするには――)


 そこで意識が途切れた。


 翌日から始まる、朝の読み書きと裏山の訓練のことを、

 このときの僕は、まだ少しだけ甘く見積もっていた。

評価していただけますと幸いです!!

よろしくお願いします!

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