第3話 文と武の階段の話
——銀霜帝国の制度の歪みと重さを、初めて「現場」で見た日。
徴税が終わり、夕焼けがすっかり色を失ったころ、村にはいつもより静かな空気が漂っていた。
どの家も戸口の灯りはついているのに、笑い声は少ない。
代わりに、小さなため息と、米俵を数える声があちこちから漏れてくる。
うちの家も例外じゃなかった。
◆ ◆ ◆
「……今年も、ぎりぎりだな」
夕飯の後、父さん――劉大山が、囲炉裏の脇で小さく呟いた。
粗末な木の机の上には、今日の徴税で空になった米袋と、まだ残っている袋とがきちんと分けられている。
前世の僕なら、「予算残高」とか「決算締め」とかいう言葉で処理していた光景だ。
今は、単純に「今年の冬を越せるかどうか」の境目に見える。
「青嶺、お前、腹は足りたか?」
父さん――劉大山が、湯飲みを片手にこちらを見る。
「ああ。大丈夫」
「もっと食いたきゃ言えよ。成長期だろ」
「父さんは?」
「俺は……まあ、ちょっとくらい減っても死にはしねぇよ」
そう言って笑うが、さっきから、父さん――劉大山は米袋の方にちらちらと視線を送っている。
劉青嶺としての記憶が教えてくれる。
こういうとき、父さんは本当に自分の分を減らして、僕に多めによそおうとする人間だ。
(……ちゃんと増やさないとな)
米の量も、この家の余裕も。
そう思っていると、戸口の方から、コンコンと軽く叩く音がした。
「劉のおっちゃん、いるかー?」
聞き慣れた声だ。
「おう、いるぞ。入れ」
父さんが返事をすると、戸がきしむ音を立てて開き、二つの頭が覗いた。
趙阿虎と、趙阿文だ。
「失礼しまーす」
「お邪魔しまーす」
阿虎は遠慮ゼロでずかずかと上がり込み、阿文は一応靴の泥を落としてから入ってくる。
「どうした、お前ら」
父さん――劉大山が笑いながら言うと、阿虎がにやっとした。
「じいさんがさ、また昔話するって言ってる。
『徴税の後は、若いもんに“文と武の話”を聞かせるのが筋だ』とかなんとか」
「ああ、あの黄のじいさんか」
父さんがすぐに察したようだ。
村で一番の長老――黄福根。
みんなからは「黄じい」とか「黄爺」と呼ばれている。
若い頃にあちこちを放浪して武林を見てきたとか、都の手前まで行って科挙の試験場を覗いてきたとか、いろんな噂がある老人だ。
「青嶺、行ってこい」
父さん――劉大山がすぐに言った。
「いいの?」
「ああ。どうせ、黄爺の話は損にはならん。
どうせ夜はそんなにすることもねぇだろ。寝る前にちょっと頭使ってこい」
「父さんは?」
「俺は隣んちに顔出してくる。みんな今日の徴税で疲れてるしな。
酒、ちょっとだけ飲んでくる」
「『ちょっとだけ』ね」
わざと疑わしげに言うと、父さん――劉大山は頭をかいた。
「……ほどほどにな」
そう言って、僕は外套を引っかけて家を出た。
◆ ◆ ◆
黄福根の家は、村の中央に近い、小さな祠の横にある。
戸を開ける前から、子どもたちのざわめきと、年寄りの低い笑い声が聞こえてきた。
「お、青嶺も来たか!」
先に来ていた李昌が手を振る。
その隣には、さっき見たばかりの阿虎と阿文。
部屋の中央には、小さな囲炉裏。
その向こう側で、白いひげを蓄えた黄福根があぐらをかいて座っていた。
「遅かったな、青嶺」
黄福根が、細いがよく通る声で言う。
「すみません、父さんに一言通してから来ました」
「律儀なこった。……まあ座れ。場所はどこでもいい」
僕は阿虎の隣に腰を下ろした。
囲炉裏から立ち上る煙と、炭の匂いが鼻をくすぐる。
「で、今日は何の話なんだよ、黄じい」
阿虎がわくわくした顔で身を乗り出す。
「この前は、武林の“天下第一人”の話だっただろ?
今日はもっと派手なのがいい!」
「お前はいつも派手なのがいいと言うな」
黄福根がひげを撫でて笑った。
「だが、今日はちっと違う。
徴税の後だ。こういうときは、文と武の話をしてやるのが、わしの流儀よ」
囲炉裏の火が、ぱちりと音を立てる。
「文階と武階、だな」
その言葉を聞いた瞬間、僕の背筋がわずかに伸びた。
劉青嶺としての記憶にも、前世の官僚としての記憶にも、深く関係する単語。
「青嶺、お前は知っておるか」
黄福根が、まっすぐ僕を見る。
「銀霜帝国を動かしている二つの梯子――
文の梯子と、武の梯子の話じゃ」
「文階と武階、ですよね」
「そうよ」
黄福根は、ゆっくりとうなずいた。
◆ ◆ ◆
「まずは、文から話そうかの」
黄福根は、囲炉裏の火に手をかざしながら続けた。
「銀霜帝国には、科挙という試験がある。
お前たちも名だけは知っとるだろう?」
「うん。頭いい人が受けるやつだろ?」
阿虎が、ざっくりすぎる説明をする。
「もうちょいマシな言い方しろよ」
阿文が肘で突く。
「字が読めて、本がいっぱい読める人たちが受ける試験、って感じか?」
李昌が、少し控えめに口を挟んだ。
「そうじゃな。ざっくり言えばそうじゃ」
黄福根は笑ってから、指を一本立てた。
「だがな、科挙はただの試験ではない。
あれは、“文階”と呼ばれる梯子に足をかけるための門だ」
僕は自然と、頭の中でノートを取るような感覚になっていた。
(来た。階層構造の説明)
「科挙には、いくつか段階がある。
村や郷ごとにやる小さな試験――童試。
郡や州ごとの大きな試験――郷試。
都で行われる会試。
最後に、皇帝陛下自らが試す殿試。」
黄福根は、畳の上に指で小さな四段の階段を描いた。
「この四つを上から下まで昇りきった者が、“進士”と呼ばれる。
進士になれば、官僚としての道が開ける。
ここまで来て、やっと文階の“入口”に立ったことになるのじゃ」
「入口、なんだ?」
阿虎が驚いた声を上げる。
「それ、もう十分すげぇだろ」
「そう思うじゃろ? だがな」
黄福根は、指をもう一本立てた。
「文階は、そこからさらに九段階に分かれておる。
下から第九文階、第八文階……と上がっていき、
最上位が第一文階じゃ」
「九つもあるのかよ……」
阿文が顔をしかめる。
「じゃあ、進士はどの辺なんだ?」
「普通はな、第八文階あたりから始まることが多い。
才覚と運があれば、最初から第七文階をもらえることもあるがの」
僕は頭の中で、「係長」「課長」「部長」といった言葉を、勝手に文階に対応させていた。
(第九文階がヒラ。第八が主任。七が係長……くらいか?
いや、この国の組織図はもっとグチャグチャだろうけど)
「で、その上には何があるんだ?」
阿虎が、わくわくした顔で身を乗り出す。
「第一文階って、どんな人なんだよ」
「第一文階ともなれば、宰相や丞相――
国の文を束ねる者たちじゃ。
その下の第二文階、第三文階でも、
地方の長官や大きな役所の長を務めることになる」
黄福根の声が、少しだけ低くなる。
「だがな。
文階には、正式な九段階のほかに、もう一つだけ“特別な呼び名”がある」
「特別?」
僕の胸が、かすかに高鳴る。
「それが――文聖じゃ」
囲炉裏の火が、ぱち、と音を立てた。
「文聖って……本に出てくるやつ?」
李昌が、おそるおそる口を挟む。
「昔、天下の学問をまとめたとか、法律を作り直したとかいう――」
「そう。“聖人”と呼ばれるような文人のことじゃ」
黄福根は、ゆっくりとうなずいた。
「文聖というのは、官位の名前ではない。
第一文階だからと言って、誰もがそう呼ばれるわけでもない。
一代に一人出るかどうか。
この銀霜帝国の歴史をひっくり返しても、
文聖とまで呼ばれた者は、片手で数えられるくらいじゃ」
一代に一人。歴史上数人。
前世で言えば、「制度そのものを変えてしまった学者」とか「近代法体系の祖」とか、そういうクラスだろう。
(トップ・オブ・トップ、ってやつだな)
「文聖って、具体的に何した人なんだ?」
阿文が真面目な顔になる。
「例えば――」
黄福根は一本一本、指を折っていった。
「古い税制を捨て、新しい税の仕組みを作った者。
領主や武林の横暴を抑える法律を整えた者。
科挙の内容を改め、“血筋”よりも“才”を重んじるように変えた者。
そういう者たちじゃ」
(あ、それ全部、この国に今必要なやつだ)
思わず心の中でツッコミを入れる。
徴税で肩を落としていた父さん――劉大山の顔が浮かんだ。
「文聖ってのはな、“文字を書くのが上手い人”じゃない。
“文字で世界を変えた人間”のことを言うんじゃ」
黄福根の目が、一瞬だけ鋭く光った。
「だからこそ、文聖と呼ばれた者は、
死んだあとも、何百年とその名前が残る」
(……名前が残る、か)
前世では、僕の名前なんて決裁文書の端っこにすら残らなかった。
せいぜい部内のチャットログに、「青嶺くん、あの資料どうなった?」と残るくらいだ。
それも、数年もすれば消される。
(文聖……いいな)
心の中で、その言葉を転がしてみる。
たった二文字なのに、やたらと重たい。
でも、「そこまで行けたなら、さすがに満足だろ」とも思った。
◆ ◆ ◆
「次は、武の話だ」
黄福根が姿勢を変えた。
囲炉裏の火が少し弱まったのを見て、そっと炭をくべる。
「銀霜帝国には、武階と呼ばれる梯子もある。
これは、武林や兵たちが、自分や他人の強さを測るためのものじゃ」
「それ、聞いたことある!」
阿虎が食いついてきた。
「この前、じいさんが言ってたやつ!
第九武階が武徒で、第八武階が武士で――」
「よく覚えておるな。よし、順番におさらいしていこう」
黄福根は指を折っていく。
「一番下が、第九武階――武徒。
兵として最低限の鍛錬を積んだ者たちじゃ。
その上が第八武階――武士。
ここから先は、“ただの農民”とは一線を画す力を持ち始める」
「その上が、第七武階――三流、だっけ?」
阿文が口を挟む。
「そうじゃ。
三流は、外功――体そのものを鍛えた連中じゃ。
ちゃんとした武人と呼べるのは、第七武階からじゃな」
「第六武階が二流。
第五武階が一流……だよね」
李昌が、恐る恐る確認するように言う。
「そう。よう覚えとる」
黄福根は満足そうにうなずいた。
「二流ともなれば、外功に加えて内功――
気を扱う術も覚え始める。
一流になれば、内功を武器や肉体にまとわせて戦える。
剣を振るだけで、剣罡と呼ばれるオーラが走るようになる」
「それ、前に聞いた! 山賊十人を一人で倒した、とかいうやつ!」
阿虎が目を輝かせる。
「おう。そういう連中じゃな」
黄福根は笑い、少し間を置いた。
「だが、上はまだある」
「ここからだろ、本番は」
僕は心の中で呟く。
「第四武階――武宗。
ここから先は、“一人で一軍に匹敵する”とさえ言われる連中じゃ」
部屋の空気が、わずかに張り詰めた。
「武宗ともなれば、自分の内力だけでなく、
周囲の自然の気さえ取り込んで戦場を支配する。
戦の流れを一人で変えることもある」
「武林十二門派の宗師クラス、だよな」
阿文が、声を落として言う。
「そうじゃ。
この国に、今、武宗と呼べる者が何人おるか――
わしらみたいな田舎者には分からんが、そう多くはあるまい」
(武宗……“目標のひとつ”)
心の中で、その言葉を別の色で囲む。
「第三武階は、武聖と呼ばれる。
武の道そのものを体現したような存在じゃ。
“武を学ぶなら、まずあの人間の動きを真似しろ”と言われるような者たちよ」
「武聖って、歴史書にたまに出てくる名前?」
李昌が、身を乗り出す。
「そうじゃ。
ただ強いだけではない。
戦いを終わらせる者。
武の意味そのものを問う者。
そういう連中が、いつしか“聖”の字をつけて呼ばれるようになる」
「……かっけぇな」
阿虎が、素直な感想を漏らした。
「で――」
黄福根は最後の一本の指を立てた。
「第二武階は、“超絶頂”などと呼ばれることもある。
だが、その上――第一武階には、正式な名がある」
「武帝」
僕は、自然とその二文字を口にしていた。
黄福根が、ちらりとこちらを見る。
「そう。“武帝”じゃ」
囲炉裏の火が、また一つはぜる。
「武帝というのはな、“武の帝”じゃ。
この世のどこかに、“今も生きている”と言う者もおるし、
“いや、あれはただの伝説だ”と言い張る学者もおる」
「じいさんは、どう思うんだ?」
阿文が尋ねる。
「お前、見たことあるのかよ、武帝」
阿虎が半分冗談のように言う。
「さすがに、わしも“直接会った”とは言えんがな」
黄福根は、にやりと笑った。
「ただ――昔、武林をふらふらしていた頃に、一度だけ、
『あれはもう人の動きじゃねえ』という剣を見たことがある」
部屋が、一瞬静まり返る。
「山賊の頭目でも、名のある門派の掌門でもない。
名も知らぬ旅の武人じゃった。
だが、その男が刀を抜いた瞬間、
“ああ、これはわしと同じ世界の話ではない”と、肌で分かった」
「それって……」
「その男が武帝だったかどうかは、わからん。
ただ――“武帝というものが実在するとしたら、ああいうものかもしれん”
と、そう思ったのは確かじゃ」
黄福根の目が、遠くを見ている。
囲炉裏の火の光が、その横顔を赤く照らしていた。
◆ ◆ ◆
「文階には、文聖。
武階には、武聖と武帝。」
黄福根は、指で畳に二本の線を描いた。
「この国は、この二つの梯子を昇った連中が動かしておる」
一本は、文字と法律と税の梯子。
もう一本は、剣と兵と血の梯子。
二本の線は、畳の上で交わることなく平行に伸びている。
(交わらない――はず、なんだよな)
普通なら。
でも、僕はその線を、頭の中で勝手に交差させていた。
「質問いいですか?」
僕――劉青嶺は、手を挙げた。
「なんじゃ」
「文聖って、武は弱い人が多いんですか?」
周りの子どもたちが「え?」という顔をする。
「逆に、武聖とか武帝って、文字は読めない人が多いんですか?」
阿虎が「お前、何聞いてんだ」と小声でつついてくる。
黄福根は、少しだけ目を細めた。
「面白いことを聞くのう、お前は」
ひげを撫でながら、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「文聖の中には、若い頃に武をかじった者もおる。
だが、最後まで武も極めた、という話はあまり聞かん。
逆に、武聖の中には、字の読める者も少なくない。
だが、“文の頂”と呼ばれるほどの者はおらん」
まあ、そりゃそうだ、という答えだ。
一つ極めるだけでも一生がかりなのに、二つ同時に頂点に立とうなんて、
普通は考えない。
「お前はどうしたいんだ、青嶺」
黄福根が、真正面から聞いてきた。
囲炉裏の火の音が、やけに大きく聞こえる。
阿虎も阿文も、李昌も、息を呑んで僕を見る。
(どうしたいのか、ね)
前世のこと。
銀霜帝国の制度。
徴税で肩を落とした父さん――劉大山。
村の人たちのため息。
それらを一気に飲み込んでから、僕は言った。
「文聖になりたいです」
あえて、迷いのない声で。
阿虎が「はあ!?」と叫び、阿文が目を見開く。
李昌は口をぱくぱくさせて、声にならない声を出していた。
「お前な……文聖って、さっき“一生に一人出るかどうか”って話、聞いてたか?」
「聞いてました」
「それなのに言うのか?」
「それなのに言いたいから、言ってます」
いざ口に出してみると、不思議とスッと胸に収まった。
前世で、「出世したいですか」と聞かれたときよりも、ずっと素直に。
「それから」
僕は続けた。
「武宗にもなりたいです」
部屋の空気が、もう一段階凍った。
「文聖になりたくて、武宗にもなりたい?」
黄福根が、ゆっくりと復唱する。
「はい」
「頭おかしくね?」
阿虎が、正直な感想を漏らした。
「文だけでも無茶なのに、武まで極めるって……」
「バカか天才かどっちかだな」
阿文が、半分呆れたように笑う。
李昌は、ぽつりと言った。
「……でも、青嶺なら、言うだけなら似合ってる気がする」
「フォローになってるのかそれ」
苦笑が漏れる。
けれど、黄福根は笑わなかった。
ただ、僕をじっと見ていた。
「お前は、なぜ文聖になりたい」
静かな声だった。
僕は少しだけ視線を落とし、言葉を選んだ。
「この国の“文”を動かしたいからです。
税の仕組みも。法も。科挙のあり方も」
父さん――劉大山の背中。
米俵の減った蔵。
村人たちの諦めに近い顔。
「紙の上の文字で、人の暮らしを軽くも重くもできるのなら、
その紙を書く側に回りたい。
そして、できるだけ“軽くする”方に動かしたいです」
前世で、何度も悔しい思いをしたからこそ、出てきた言葉だった。
「じゃあ、なぜ武宗だ」
黄福根の声が、さらに一段低くなる。
「知があれば、武はいらんのではないか?」
「知だけじゃ、誰も聞いてくれないからです」
迷いなく答えが出た。
「前の世界で、僕は“文”の中にいました。
でも、どれだけ正しいことを言っても、力がなければ押しつぶされるだけでした。
権力とか、立場とか、“声のでかさ”とか」
あの会議室。
「政治判断ですので」と言ってすべてを飲み込んだ、あの重たい空気。
「だから、今度は“剣”も握ります。
言葉を通すための力として。
誰かを殴るためじゃなくて、“文を殺させないため”の武として」
囲炉裏の火が、ぱちぱちと音を立てた。
「文聖であり、武宗でありたい。
そうすれば――」
一瞬、言葉が詰まる。
でも、引き下がるわけにはいかなかった。
「この国の制度そのものに、手が届くと思うからです」
自分で言っていて、「ああ、相当な大言だな」とも思う。
でも、ここで「嘘でしたー」と笑うくらいなら、最初から言わない。
◆ ◆ ◆
しばらくの沈黙のあと、最初に笑ったのは黄福根だった。
「……はっはっはっは」
腹の底から出るような笑い声だった。
「青嶺、お前、面白いな」
「笑い事ですか?」
「笑い事だ。
だがな――」
黄福根は笑いを収め、真顔になった。
「大言を吐くやつは嫌いじゃない。
特に、ちゃんと“何をしたいか”まで言葉にできるやつはな」
細い目が、まっすぐ僕を射抜く。
「いいか、青嶺。
この村には、“科挙様の家”と呼ばれる家が一つある」
「……あの、郷試に受かった人の家ですよね」
劉青嶺の記憶が、すぐに答えを出してくれた。
昔、この村から一人だけ郷試に合格し、都近くまで出世した男がいた。
彼の家は今でも、村のちょっとした誇りになっている。
「そうじゃ。あいつも大したもんだった。
だが、“文聖になりたい”とまでは言わんかった」
「たいていの人は言わないと思います」
「お前が初めてじゃ、この村では」
黄福根は笑い、
「それとな――」
と、声を落とした。
「この村にはもう一つ、昔話がある。
若い頃、武林に飛び込んで、ある門派の掌門弟子にまでなった男の話じゃ」
「そんな人、いたの?」
阿虎が目を丸くする。
「いたとも。
ただ、そいつは途中で怪我をしてな。
武宗には届かず、村に戻ってきた」
「そいつ、今どこにいるんだ?」
「ここだ」
黄福根が、自分の胸を親指で指した。
部屋の空気が、また一瞬止まる。
「まじかよ!」
「じいさん、自分で言う?」
阿虎と阿文が同時に叫ぶ。
僕も、正直少し驚いていた。
(武宗には届かなかった、か)
でも、そこまで行った人間が、今、目の前にいる。
それだけで、この村は十分に「特別な場所」だと思えた。
「だから、お前が武を学びたいと言うなら、教えることは山ほどある。
文を学びたいなら、わしの知っとる限りの話は全部してやる」
黄福根が、にやりと笑った。
「ただし――」
「ただし?」
「途中でやめたら、わしは一生お前を笑いものにするからな」
「じいさん、性格悪いな」
阿文がぼそっと言った。
「それくらい言っとかんと、本気にならんだろうが」
黄福根はそう言ってから、僕を見る。
「どうする、青嶺。
文聖兼武宗を目指すって大言、撤回するか?」
「しません」
答えは決まっていた。
「じゃあ、決まりだ」
黄福根は、囲炉裏の火にもう一度炭をくべた。
「明日から、朝はわしのところに来い。
文字の書き方から、文の読み方まで教えてやる。
その後、裏山で体を動かせ。
武の基礎は、夕方に見てやる」
「え、明日から!?」
阿虎が驚いた声を上げる。
「お前も来ていいぞ、阿虎」
「マジで!? 行く!」
「阿文と昌も、来たきゃ来い。
どうせ、お前らも暇を持て余しておるじゃろう」
「暇ではねぇけど……まあ、面白そうではあるな」
阿文が口元を緩める。
「ぼ、僕も……行っていいですか」
李昌が、おずおずと手を上げる。
「もちろんじゃ。
ただし――」
黄福根は、今度は四人まとめて睨んだ。
「これは“遊び”じゃない。
文の読み書きを覚えれば、徴税の帳簿も読める。
武を覚えれば、自分と周りを守る術になる。
どっちも、“中途半端”は許さん」
「はい!」
僕は、誰よりも先に返事をした。
喉が焼けるように熱かった。
◆ ◆ ◆
黄福根の家を出ると、夜気が肌に冷たかった。
空には、まるで霜のように細かな星が散っている。
阿虎が、両手を頭の後ろで組んで歩きながら言った。
「なんか、とんでもねぇことになってきたな」
「お前が一番ついてこれるか不安なんだけど」
阿文が呆れたように言う。
「俺をバカにすんなよ!
文はともかく、武なら負けねぇからな、青嶺!」
「じゃあ、朝の訓練、一緒に走ろうか」
「げっ、もう決めてんのかよ、お前」
そんな他愛ない会話をしながら、三人と一人はそれぞれの家に帰っていく。
最後に残ったのは、僕だけだった。
家に入る前に、一度だけ夜空を見上げる。
銀色に近い月と、霜のような星々。
(文聖であり、武宗になる)
心の中で、もう一度だけはっきりと言葉にする。
口には出さない。
今、声にしてしまうと、どこか安っぽくなってしまいそうだったからだ。
でも、胸の奥には、確かに火が灯っていた。
藁と土の匂いのする、この小さな村から。
銀霜帝国のてっぺんに伸びる、二本の梯子の両方を登りきる。
その無茶な目標が、妙に自然に、自分の中に収まっていた。
戸を開けると、父さん――劉大山が、囲炉裏の前でうたた寝していた。
口の端には、ほんの少しだけ酒の匂い。
でも、顔は穏やかだった。
(まずは、この人に“楽にしてもらう”ところからだな)
そう思いながら、そっと毛布をかける。
火の気を確かめ、自分の寝台に潜り込んだ。
藁の感触が背中に当たる。
遠くで、犬の遠吠えが聞こえた。
目を閉じると、黄福根の声と、
文聖・武宗という言葉が、何度も頭の中で反芻された。
眠りに落ちる直前、僕はぼんやりと考える。
(科挙と武林。
文階と武階。
それに、この村の税と、父さんの肩の重さ)
どれも別々の話のようでいて、全部どこかでつながっている。
(全部まとめて相手にするには――)
そこで意識が途切れた。
翌日から始まる、朝の読み書きと裏山の訓練のことを、
このときの僕は、まだ少しだけ甘く見積もっていた。
評価していただけますと幸いです!!
よろしくお願いします!




