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銀霜帝国記~転生したので、筆と剣で天下を取りにいく~  作者: tenntenn


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22/22

第22話 山の匂いと、役所の「落とし物」

 村の広場で役人が「山狼やまおおかみへの注意」と「柵の補強」を淡々と告げて帰った翌日、村は表面だけ平静を取り戻したように見えた。牛小屋の血臭は藁と土で隠され、噛み跡の残る柵は新しい縄で縛り直され、男たちは「とりあえず今夜は大丈夫だろう」と言い合いながら畑へ戻っていく。だが、僕の目にはそれが、傷口に布を当てて「塞いだ」と思い込んでいるだけに見えた。布の下で熱は残り、うみは溜まる。熱の正体を言い当てない限り、いつか布ごと破れる。


 広場の説明は、きれいすぎた。役人は「狼は腹が減ると村に降りる。冬に入る前のこの時期は特に注意が必要だ」と言った。確かにそういう季節はあるのだろう。でも、話の端々にある“整いすぎ”が引っかかった。噛み跡の深さ、足跡の大きさ、そして何より、一晩で二頭という異様さ。役人はそれらに触れず、村人が口にしかけた「狼だけじゃないのでは」という疑念を、視線と咳払いで押し戻していった。


(口にしない、ってことは……あるんだよな。狼じゃない“何か”が)


 そして、師匠は――説明のあいだ、広場の外れの影で黙っていた。村人の背中越しに、師匠の鼻先がわずかに動くのを見た。嗅ぐ。まるで、言葉を聞くより早く、空気の中の答えを拾っているみたいに。


 役人が去り、村人が散ったあと、師匠は僕の横を通り過ぎるときに小さく言った。


「獣の匂いの中に、鉄と油の匂いが混じっとる」


 それだけだった。説明も結論もない。けれど、背筋に冷たいものが走った。獣なら獣の匂いで済むはずだ。鉄と油――武具か、灯火か、あるいは薬や道具。つまり、人の匂いだ。


 その日から、僕は村の動きを“外側”から見るようになった。畑で鍬を振るう手はいつも通りでも、耳は広場の噂を拾う。女たちが井戸端で交わす小声、子どもが真似して歌う役人の口調、男たちが酒の勢いで言いかけて飲み込む単語――「あやかし」とか、「山のぬし」とか、言ってしまえば役所の目が怖い言葉たち。


 噂は、形を変えて広がる。最初は「狼が増えた」。次は「狼が賢い」。そのうち「狼じゃない」。そして最後に、誰かが言い切る。


「山に、妖獣ようじゅうがおる」


 言い切った瞬間、周囲が静まり返り、誰かがわざと大きな咳をした。視線が集まり、言った本人が「いや、冗談だ」と笑ってみせる。笑いは乾いて、すぐに消えた。村は笑って忘れるふりをする。忘れたふりをすることで、今夜の飯が喉を通るからだ。


 そんな空気の中で、師匠だけが変わらない。ほこらの裏手で僕の足をいじめ、間合いを測らせ、呼吸を崩すなと叩く。言葉の量は少ないのに、やらされることは増えていた。前よりも“場面”が増えている。人間相手の棒から、獣を想定した角度、闇を想定した位置、音を立てない足の置き方。まるで師匠は、村の空気より先に、次に起きる段取りを知っているようだった。


 その日の稽古の終わり、師匠は棒を肩に担いだまま、祠の石段に腰を下ろした。風が木々の間を通り抜け、落ち葉が一枚、僕の足元でくるりと回る。師匠はそれを見もしないで言った。


青嶺せいれい。村の外れのさわ、覚えとるな」


「はい。まきを拾いに行くとき、遠回りで通ります」


「あそこに、役所の奴が落とし物をしとる」


 落とし物、と師匠は言った。だが、師匠の口から出る「落とし物」は、たいてい“人が隠したいもの”の言い換えだ。僕は何も聞き返さず、ただ頷いた。師匠は頷きの速さで僕の腹を探るみたいに、目を細める。


「余計な英雄心は出すな。見て、嗅いで、覚えて帰れ。触るな」


「触らない、ですね」


「どうしても触りたくなったら、指じゃなく枝で触れ。枝は捨てられる」


 師匠の言い方は、いつも現実的で、たぶんそれが一番怖い。現実的であることは、過去に現実の血と火を見た者の癖だ。


 村へ戻る途中、柵の補強をしていた父――劉義りゅう・ぎとすれ違った。父は縄を肩に担ぎ、汗で額のしわが深くなっている。僕の顔を見ると、「また裏山か」と笑いかけたが、その笑いは以前より短い。


「青嶺、気をつけろよ。役所が来たってことは、面倒なことが近い」


「役所が来たから、ですか」


「役所は、何もないときには来ない。何かあるときに来て、何かないふりをする」


 父の言葉が、師匠の嗅いだ匂いと、静かにつながった気がした。父は師匠ほど鋭くはないが、村で生きてきた勘がある。勘は理屈より早い。


(やっぱり、“狼”の話だけじゃ済まない)


 沢へ向かうのは、夕方にした。人目を避けるためではない。単純に、村の仕事が片づいた時間帯がそこだったからだ。空はまだ明るいが、木陰は早く伸びる。こういう“境目”の時間帯は、音がよく通る。遠い枝の折れる音が、近くに感じる。


 沢は、村の外れから少し山へ入ったところにある。普段は子どもが魚を追い、女が洗い物をし、男が喉を潤す場所だが、今は誰も近づかない。家畜がやられた日から、沢は“山の口”になってしまった。山の匂いが、村の匂いと混ざる場所。境目はいつだって怖い。


 沢の手前で、僕は足を止めた。何かがある。匂いが違う。獣の匂いではない。土と水の匂いでもない。鼻の奥に刺さる、淡い油と、金属の冷たさ。


(師匠の言った通りだ)


 目を凝らすと、沢沿いの石の陰に、布の端が見えた。布は濡れ、泥がつき、自然のものに紛れようとしている。けれど、紛れきれていない。紛れきれていないということは、落としたか、捨てたか、急いだか。


 僕は師匠の言葉を思い出し、指を使わず、細い枝を拾って布を引いた。布の下から出てきたのは、小さな革袋だった。口は紐で縛られている。革の質は村のものより良い。油が染みていて、雨でも中身を守るようになっている。役所の道具袋――そう見える。


(触るな、だよな)


 袋の外側だけ、枝で軽く押してみる。中で硬いものが触れ合う音がした。金属だ。小さいが数がある。ぜにではない。銭なら音が違う。もっと薄く、乾いた音がする。これは、厚みのある、重い音。


 袋の脇に、布とは別のものが落ちていた。紙片だ。濡れて、端が溶けている。筆の墨がにじんでいるが、いくつかの字は読めた。


「……巡検じゅんけん


 それから、「禁言きんげん」という二文字が、かろうじて残っている。巡検は巡回する役人、禁言は口止め。村の広場でやっていたことを、紙にして持ち歩いていたのか。あるいは、もっと別の相手に渡す予定だったのか。


(わざわざこんな場所で、落とす?)


 落とし物なら、戻って探すはずだ。役所の人間が、重要な紙と袋を落として「まあいい」とはならない。なら、戻れない理由がある。戻ると見られる。戻るとバレる。あるいは――戻ってこれない。


 背中に、冷たい汗が浮いた。僕は袋と紙片をそのままにし、布だけを枝で引き直した。元の位置に、元の角度に、できるだけ近づける。これは隠すためじゃない。誰かが「ここにある」と気づくべき相手が、気づけるようにするためだ。師匠が言ったのは「見て覚えて帰れ」。つまり、ここに何かあることを知っている“誰か”がいる。その誰かに、知らせる必要がある。


 沢を離れる前に、僕は周囲の足跡を見た。土は湿っていて、踏めば形が残る。沢の石には泥の跡がつく。人が通れば、あとは残る。だが――見える足跡は少なかった。


 足跡が少ないということは、通った人が少ないか、痕を消すのが上手いか、あるいは通ったのが“人ではない”か。


 沢の下流側、石の並びが少し乱れている場所があった。そこだけ、水が濁っている。枝が折れている。何かが引きずられたような筋が、泥に残っている。筋の幅は、人が倒れたときの肩幅に近い。けれど、そこに手の痕がない。爪が引っかいた痕もない。抵抗した痕が薄い。


(引きずられた? でも、暴れてない)


 頭の中で、役所の人間がここで何かに襲われ、黙ったまま運ばれていく絵が浮かぶ。浮かんだ瞬間、胃のあたりが冷えた。狼なら噛む。血が出る。叫びが出る。だが、これは“そういう荒れ方”ではない。


 僕は沢の石にしゃがみ込み、濁った水面を見た。水の匂いに混じって、別の匂いがある。甘い、焦げたような匂い。薬草を煮詰めたような匂い。村の煎じ薬とも違う、もっと強い匂い。


(妖獣の匂い……? いや、僕にはまだ分からない。分からないけど、師匠なら)


 村へ戻る道すがら、空の色が少しずつ鈍くなっていくのを感じた。山の影が濃くなると、村の音が目立つ。鍋を叩く音、子どもが呼ばれる声、犬の吠え。人の生活の音は、安心の音だ。けれど、安心の音が大きいほど、その外側の静けさが怖くなる。


 祠へ上がる道に差しかかったところで、師匠が先に立っていた。まるで僕が戻るタイミングを知っていたみたいに、木の根に腰を下ろし、じっとこちらを見ている。僕が口を開く前に、師匠が言った。


「見たか」


「はい。革袋と紙がありました。“巡検”と“禁言”が読めました。あと……引きずられた痕みたいなのが沢の下に」


 師匠の目が、一瞬だけ細くなる。怒りではない。確認の鋭さだ。


「匂いは」


「油と鉄。あと、甘く焦げたような……薬みたいな匂いが少し」


 師匠は、祠の石段に立てかけていた棒を取った。その動きが、いつもの稽古前より静かだった。静かな動きは、周囲に気を配っている動きだ。


「その甘い匂いは、狼の匂いじゃない。人の匂いでもない。……“呼ぶ匂い”だ」


「呼ぶ匂い?」


 師匠は、僕の顔を見ず、山のほうを見たまま言う。


「獣は腹で動く。妖獣は腹だけじゃ動かん。腹と、縄張りと、……匂いで動くものもおる。匂いで“ここへ来い”と言われたように、下りてくる」


 師匠の言葉が、広場の役人の言葉を一気に薄くした。役人は季節と腹の話しかしない。師匠は匂いと縄張りの話をする。どちらがこの現場に近いかは、僕でも分かる。


「役所は、それを口にしない。口にすれば、面倒が増える。面倒が増えると、上の顔色が変わる。上の顔色が変わると、誰かが責任を取らされる。責任を取らされる奴は、だいたい現場だ」


 師匠は淡々と言う。淡々としているのが怖い。師匠はこれを何度も見たのだと分かる。火が燃え、旗が焼け、名が消え、責任だけが残る――そういうものを。


「師匠、あの袋……」


「触るなと言うた。お前は守った。上出来じゃ。触った瞬間、匂いが移る。匂いが移ると、面倒が増える」


 師匠は棒を肩に担ぎ直し、祠の裏へ歩き出した。僕もついていく。祠の裏手は、山の音がよく聞こえる。木々の擦れる音、遠い鳥の声、そして、どこかで石が転がるような音。


 師匠は立ち止まり、地面に小さな円を描いた。いつもの説明の仕方だ。石と枝と土。大きな地図ではなく、足元の地図。


「沢はここ。村はここ。狼の痕はここからここへ。役所の匂いはここで切れる。……切れる場所があるということは、そこから先は“別の匂い”が上書きしとる」


「上書き」


「獣の鼻は正直じゃ。だが、正直な鼻ほど、混ぜられた匂いに引っ張られる。匂いは目に見えんからな。見えんものほど、恐い」


 師匠は円の外側に、もう一つ小さな点を打った。


「山の上に、穴がある。じゃない。巣なら狼が逃げ込む。逃げ込むなら村へ降りん。……“追い出された穴”だ」


「追い出された?」


「何かがそこに入ってきて、狼が追い出された。追い出された狼が、腹を満たすために村へ降りた。だが、狼の動きが妙に揃っておるのは、ただ追い出されたからじゃない。匂いで引っ張られとる」


 師匠の言葉が、頭の中で線になる。狼が村へ降りる理由が、一本ではなくなる。腹だけじゃない。追い出しと匂い。つまり、原因は山の上にある。


(村の問題じゃなくて、山の問題だ)


 師匠はそこで、僕をちらりと見た。まるで、ここから先の判断を僕に渡すみたいに。


「青嶺。お前はどうする」


「……村の男たちに言うのは、まだ早いと思います。役所が“口にしない”ってことは、口にした瞬間に面倒が増える。面倒が増えると、村が巻き込まれる」


 師匠は黙って頷いた。


「でも、放っておくのも危ない。狼はまた降りるかもしれないし、狼じゃない“何か”が降りるかもしれない。だから……手順が必要です」


「手順、か」


 師匠の口元が、ほんの少しだけ上がった。褒めるというより、安心に近い表情だ。


「よし。手順を作れ。狼の見回りのときと同じじゃ。合図、退路、役割。村全体を動かすなら、なおさら順番がいる」


 師匠はそこまで言って、急に声を落とした。


「それと、もう一つ。役所の巡検じゅんけんで“戻ってこない奴”が出るかもしれん。出たら、村は揺れる。揺れたときに、誰が口を滑らせるか、誰が噂を広げるか、誰が英雄になりたがるか……全部、妖獣より先に見ておけ」


 人間のほうが危ない、という言い方だった。妖獣は獣の論理で動く。人間は名誉と恐怖と保身で動く。動きが読みにくいのは後者だ。


 その夜――と、ここで「瞼を閉じる」話に逃げるのは簡単だ。でも、今は逃げたくなかった。村の空気が変わり始めたのは、夜の闇ではなく、人の動きのほうだったからだ。


 翌日、村の入口に、また役所の者が来た。昨日の説明をした役人とは別の顔だ。若い下役が二人、荷を担いでいる。村の男たちは「またか」と眉をひそめる。女たちは子を家へ入れる。犬が落ち着かず吠える。


 下役は村長の家に入っていき、しばらくして出てくると、広場ではなく柵のほうへ向かった。見るからに“確認”の歩き方だ。村の中を回って安心させるのではなく、柵を見て、何かを書きつけて、帰る。その動きが、妙に事務的で、妙に急いでいる。


 師匠はその様子を、いつものように少し離れた場所から見ていた。風上に立つ。匂いを嗅ぐ位置だ。師匠の鼻先が、昨日と同じようにわずかに動く。


(師匠は、役人の言葉じゃなく“匂い”を見てる)


 下役が柵の外側を覗き込み、何かを見つけたように顔を強張らせた。その瞬間、もう一人が肩を掴んで止めた。止めた手つきが、優しさではない。命令の手つきだ。見つけても、言うな。口にするな。そういう合図。


 村人の視線が集まる。誰かが「どうだった」と聞く。下役は笑って誤魔化す。「狼の足跡が少しあるだけです。大丈夫です」――大丈夫、という言葉は、言えば言うほど不安を増やす。村人はそれを知っているが、知っていても欲しくなる。大丈夫と言ってほしいから聞く。聞くから嘘が増える。


 下役が帰り支度を始めたとき、師匠が僕の横で、息を吐くように言った。


「昨日の沢の匂いが、あいつらの袖に少し付いとる。……拾いに行ったな」


「拾いに?」


「落とし物じゃよ。落とし物を拾った奴が、今も生きておればいいがの」


 その言い方は、願いというより、確認だった。師匠の言葉が空気に落ちた直後、広場の端で、子どもが「ねえ、妖獣ってなに?」と無邪気に聞いた。母親が青い顔で口を塞ぐ。村の空気が、さらに一段薄くなった。


 昼過ぎ、村長の家から、男が一人走ってきた。村の男衆の中でも口が堅い、王三おう・さんだ。顔色が悪い。息が上がっているのに、声を落として言う。


「……巡検の役人が一人、戻ってねえ」


 広場が、音を失った。誰かが「狼にやられたのか」と言いかけ、別の誰かがその口を塞ぐ。狼にやられたなら狼のせいで終わる。妖獣なら、終わらない。終わらない話は、村を飲み込む。


 師匠は、広場の外れから一歩も動かず、ただ鼻で笑った。


「ほれな」


 その言葉が怖かった。まるで、こうなると分かっていたみたいに。いや、分かっていたのだ。匂いで。


 村の男たちは集まり、見回りを増やすだの、役所に知らせるだの、勝手に山へ入るなだの、言葉を投げ合った。投げ合うほど、統一が崩れる。崩れた瞬間に死ぬのは、いつだって現場だ。


(手順だ。手順が要る)


 僕は深く息を吸った。呼吸を整えるのは、戦うためだけじゃない。場を見渡すためだ。視野を狭めれば、声の大きい者に引っ張られる。声の大きい者は、たいてい危険を連れてくる。


 村長が言った。「二手に分かれて探す」。その言葉に、師匠が小さく舌打ちした。二手に分かれるのは、探す範囲を広げるための合理だ。だが、合理は“相手が合理で動く”ときにしか強くない。相手が獣や妖獣なら、合理は罠になる。分かれた瞬間に、狩られる。


 師匠が、僕の耳元だけに届く声で言った。


「青嶺。お前は、村の手順を作れ。探すな。追うな。守れ。……探すのは、わしがやる」


 師匠がやる、と言った。師匠はいつも「英雄になるな」と言うのに、自分は英雄の役を背負おうとする。その矛盾が、胸の奥に刺さった。刺さったが、今ここで師匠を止める言葉が見つからない。止めれば村が崩れる。止めないと師匠が危ない。どちらも現実だ。


 僕は言葉の代わりに、師匠の足元を見た。師匠の足は、いつもより少しだけ前に重心がある。戦に向かう足だ。逃げる足ではない。退く足でもない。危険の匂いに向かう足。


(師匠……)


 師匠は僕の視線に気づいたのか、棒を軽く叩いて言った。


「心配するな。わしは死なずに残る。……残り方を知っとるからな」


 その言葉に、僕は返事ができなかった。師匠が“残り方を知っている”というのは、きっと、誰かを残せなかった経験の裏返しだからだ。


 村の男たちが山へ入る前、僕は声を張った。喉が裂けない程度に、しかし曖昧にならない程度に。


「山へ入る人は、三つ守ってください。合図を決める。退路を決める。絶対に一人にならない。見つけても追わない。叫ぶより先に、位置を伝える。松明は二本で一組。片方が消えたら戻る」


 男たちが一瞬、こちらを見る。若い僕が何を、と言いたげな顔も混じる。だが、山狼の夜を一緒に見た者たちは頷いた。父も頷いた。父は僕に、目で「お前はここに残れ」と言った。残れ、は守れ、だ。


 師匠はその場からいつの間にか消えていた。消え方が、山の影に溶ける消え方だった。あの年で、あの足。あの気配の薄さ。村人が「ただの隠居」と思い込むのが逆に不自然だ。


 広場が騒がしくなる中、風向きが変わった。山から冷たい風が下りてくる。草と土と水の匂いに、あの“甘く焦げた匂い”が薄く混ざった気がした。僕は無意識に、沢の方向を見た。


(匂いが……近い?)


 その瞬間、村の入口のほうで、馬のひづめの音がした。役所の者か、それとも別の誰かか。村人の視線が一斉にそちらへ向く。蹄の音は、急いでいる音だった。逃げている音ではない。追われている音でもない。間に合わないと分かっていても、走らせる音だ。


 土煙つちけむりの向こうに見えたのは、朝に来た下役の片方だった。馬から飛び降り、転びそうになりながら叫ぶ。


「戻れ! 山へ入るな! 上が――上が“禁”だ!」


 禁、という単語が空気を裂いた。禁言の禁。禁足の禁。禁の字は、村人の腹を冷やす力がある。なぜ禁なのか、という理由が語られないまま禁だけが落ちるからだ。理由のない禁は、恐怖と同じ形をしている。


 下役の顔は青い。袖口に泥がつき、指先が震えている。その震えは狼の恐怖ではない。人間の恐怖だ。怒られる恐怖、消される恐怖、責任の恐怖。


 僕は一歩だけ前に出た。大きく出ない。英雄にならない距離で、しかし聞き逃さない距離へ。


「山で、何があったんですか」


 下役は僕を見る。子どもを見る目ではなく、“口が滑りそうな相手”を見る目だった。だからこそ、僕は言葉を足した。役所の言葉で、逃げ道を作ってやる。


「巡検の方が戻ってないって聞きました。役所としては、どう処理するんですか」


 処理、という言葉に、下役の目がわずかに揺れた。村人がざわめく。処理という言葉は冷たいが、冷たい言葉ほど役所の人間は安心する。感情の話ではなく、手続きの話にできるからだ。


 下役は唾を飲み込み、声を落とした。


「……処理は、上がやる。村は、黙って柵を守れ。山の話はするな。妖の字を口にするな」


 妖、という字を下役が自分から言った瞬間、村人の顔色が変わった。口にするなと言いながら口にしてしまった。恐怖のとき、人は禁じた単語を先に言ってしまう。禁じた単語が、頭の中で一番大きくなるからだ。


 下役はその失言に気づいたのか、唇を噛み、馬の手綱を握り直して村長の家へ走っていった。村人は固まったまま、誰も追えない。追えば、禁を破る。


 僕は広場の端に目をやった。師匠はいない。だが、師匠の不在が、逆に存在感になって胸に残る。師匠はきっと今、匂いの元へ向かっている。役所が口にしないものの正体へ。


(師匠が嗅いだ“呼ぶ匂い”。役所が落とした袋。戻らない巡検。禁の字。全部、一本の線だ)


 村は、広くなった世界の入り口に立ってしまった。江湖こうこや門派の話を、地図の上の遠い点として聞いていたときとは違う。遠い点が、匂いと足跡と禁の字になって、村の土に落ちてきた。


 僕は父のほうを見た。父は山へ入ろうとしていた男たちを手で制し、村長と話し合うために動き始めている。父の背中は大きい。だが、その背中も今は揺れて見えた。揺れの原因は恐怖ではない。判断の重さだ。村を守る判断は、家畜を守る判断より重い。


 そして僕の足元には、師匠に叩き込まれた“手順”がある。合図、退路、役割。剣を抜かないための足。死なずに残るための間合い。英雄譚のためではなく、明日の畑と子どもの笑い声を残すための技。


 僕は、村の中で一番静かな場所を探した。静かな場所で、全体が見える位置。壁に背を預けない位置。逃げ道が二つある位置。梁爺りょうやみたいに、自然に立てる位置へ。


 そこに立つと、風がもう一度変わった。山からの風が、わずかに熱を含んだ気がした。き火の匂いではない。草が焦げる匂いでもない。もっと嫌な、皮の焦げる匂い。鉄が熱せられる匂い。


(……山で、何か燃えた?)


 燃えた、という発想が浮かんだ瞬間、師匠が祠の前で言った言葉が、胸の奥で嫌に響いた。


(もう二度と、あの時のような焚かれ方はしたくない)


 焚かれ方。火。燃える旗。北の山中。師匠の過去の断片が、今の匂いと重なる。重なったまま、まだ形にならない。形にならないからこそ怖い。形にならないものは、手順にできない。


 広場の中心で、村長が震える声で言った。「今夜は全戸、灯りを落とすな。子どもを外へ出すな。男は交代で柵を見ろ」。村人が頷く。頷きながら、目は山のほうを見ている。山のほうは、いつも通り木々が揺れているだけに見える。見えるだけ、だ。


 僕は、祠へ続く山道のほうを見た。師匠が消えた方向だ。師匠の姿は見えない。だが、見えないからこそ、目が離せない。


(師匠……匂いの先に何がある)


 そのとき、村の入口の見張りが叫んだ。「誰かが来る!」。今度は蹄の音ではない。足音だ。複数の足音。急ぐ足音。けれど、村人の足音とは違う。軽い。土を蹴る位置が違う。訓練された足運びの音。


 木々の間から現れたのは、旅装束の一団だった。数は少ない。三人か四人。腰に刀を下げた者がいる。顔を隠すように布を巻いた者がいる。隊商の匂いとは違う。江湖の匂いだ。村の空気が、一段だけ引き締まる。村人は恐怖で固まるのではなく、本能で「格が違うものが来た」と理解して固まる。


 先頭の男が、村長に向けて言った。


「ここで“匂い”を嗅いだ。山の口が開いてる。……村に、剣が使える老人が一人いるだろう」


 その言葉で、僕の背中に冷たいものが走った。師匠の存在が、村の内側だけの秘密ではなくなった。匂いで嗅ぎ分けられるほど、外の世界に繋がってしまった。


 僕は息を吸い、吐いた。呼吸を崩すな。視野を狭めるな。ここで慌てれば、相手に“弱さ”を見せる。弱さは狩られる。


(師匠。あなたが動いた結果、江湖が村に来た。なら、僕は――村の内側で、手順を守る)


 江湖の者たちの視線が、広場を滑り、最後に僕の足元で止まった気がした。足運びを見ている視線だ。僕は気づかないふりをした。気づかないふりをしながら、立ち位置を半歩だけ変えた。逃げ道が確保できる位置に。村長の背中を守れる位置に。誰かが飛び出してもぶつからない位置に。


 江湖の者がもう一度言った。


「老人を呼べ。“今夜”が境目だ」


 境目、という単語が、沢の境目と重なった。村の口が、山の口と繋がる夜。役所の禁が効かない夜。匂いが呼ぶ夜。


 師匠はまだ戻らない。戻らないまま、外の世界が先に村へ入ってきた。


 僕は、ゆっくりと息を吐いた。吐きながら、足の裏で土の感触を確かめる。ここから先は、剣を抜く話ではない。手順と間合いの話だ。守るための技の話だ。そして――師匠が何を嗅いで、何を見に行ったのかを、僕が“村に残って”受け止める話になる。


 僕は村長に近づき、声を落として言った。


「村長。師匠ししょうは今、山のほうに行ってます。戻るまで、村の手順を優先しましょう。誰も勝手に動かないように」


 村長の顔が強張る。それでも頷いた。頷くしかない。いま村に必要なのは、勇気ではなく順番だ。


 江湖の者たちが、山のほうへ視線を向けた。その視線の先に、師匠がいる。匂いの先にいる。燃える匂いの先にいる。


 そして僕の中で、一つの疑問が、重く形になり始めていた。


(役所の“落とし物”は、ただの落とし物じゃない。誰かが、意図的に落とした。意図的に落とせるのは、追われている者か、追っている者か……どっちだ)


 答えはまだ出ない。だが、答えの出ないまま、夜は近づく。境目が近づく。


 広場の空気が、静かに張りつめていく中、山のほうから、遠く小さく、低い唸り声が聞こえた。狼の声より低い。腹の底に響く声。村人の誰かが息を呑む。


 江湖の者が、刀の柄に指を置いた。


 僕は、自分の足元だけを見ないように、視野を広げた。村全体を一枚の景色にする。師匠の言う“世界の捉え方”だ。世界が広がるほど、怖さは増える。だが、広げないと、守れない。


 唸り声が、もう一度。今度は少し近い。


 村の境目が、薄くなり始めた。

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