表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
銀霜帝国記~転生したので、筆と剣で天下を取りにいく~  作者: tenntenn


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

21/22

第21話 火の輪の外――匂いが指す先

 広場の火の輪を一歩抜けた瞬間、空気の温度が変わった。人の息と松明の油の匂いが薄まり、代わりに湿った土と草の青さが鼻に刺さる。村の外れは、同じ夜でも別の世界だ。火が届かない場所は、闇ではなく“境界”になる。


 師匠は松明を持ったまま、急がずに歩いた。急がないからこそ、足音が消える。地面を蹴らず、踏まず、置く。祠で叩き込まれた足の使い方が、そのまま夜道の道具になるのを、背中を見ながら思い出す。


 上空ではからすが輪を描いていた。鳴き声が短い。誰かの死骸を見つけた時の声に似ている。けれど、村の外れに烏が集まるのは珍しい。普段ならもっと山の奥へ行く。今夜は、山から“何か”が降りてきたというより、山へ“何か”が通った気配がある。


 師匠が歩調を落とし、松明を少し高く掲げた。火が揺れ、道の脇の草が赤く浮かび上がる。そこに、踏み荒らされた跡があった。人の足ではない。四つ足が走って、途中で向きを変えたような土の乱れ。昨日、柵の外で見た山狼の足跡よりも乱暴で、必死さがある。


「狼が逃げた跡じゃ」


 師匠はそれだけ言った。逃げた。つまり追われていた。


 僕は喉の奥が乾くのを感じながら、呼吸を腹に落とした。吸って、吐く。吐く時間を長くする。視野が広がる。松明の火だけを追うと闇に飲まれるから、闇の輪郭を一緒に見る。


(狼を追うもの)


 その言葉を頭の中で組み立てただけで、背中が薄く寒くなる。狼は村にとって十分に怖い。それを追い立てて走らせるものがいるなら、それは村の段取りや役所の言い換えで収まる話ではない。


 師匠は道を外れた。村人なら絶対に入らない草むらのほうへ、ためらいなく足を入れる。草が擦れる音がほとんどしない。僕も同じように続こうとして、足を置く場所を一瞬迷い、踏み出しを遅らせた。


「踏むな。草の根を折ると匂いが立つ」


 師匠が前を向いたまま言う。見えていないはずなのに、僕の癖が読まれている。僕は足裏の面を小さくし、土の硬いところだけを拾うように進んだ。


 草むらを抜けると、小さな窪地があった。そこは風が淀み、匂いが溜まる。松明の火が揺れただけで、血の匂いが立ち上がった。昨日の牛小屋で嗅いだ生温い匂いとは違う。もっと鉄が濃く、湿り気が重い。獣の脂の甘さが混ざって、吐き気に近い感覚を連れてくる。


 窪地の真ん中に、鹿が倒れていた。いや、“倒れていた”という言い方が正しいのか分からない。肉があるべき場所がえぐられ、骨がむき出しになっている。内臓は引きずり出され、周囲の草に黒っぽい筋が伸びていた。烏が数羽、少し離れた枝で待っている。まだ近寄らない。近寄れないのか、近寄らないのか、判断を迷っているように見えた。


 師匠は鹿に近づかず、周囲の土を見た。足跡を探すのではない。土の“割れ”を見ている。踏まれた形ではなく、押し裂かれた形。爪が掻いた深さ。重さのかかり方。


「……ほう」


 師匠が短く息を吐く。その声が、珍しく低い。


 窪地の縁、土がえぐれていた。爪の跡が四本ではない。五本、いや六本に見える箇所がある。しかも幅が広い。山狼の足跡より二回りは大きい。爪の先が土ではなく石を削ったような白い粉が混ざっている。


 師匠は松明を鹿へ向けず、土の抉れへ向けた。火の赤が、白い粉を照らす。粉はただの石灰ではない。何かが焼けたような、乾いた臭いがする。僕は思わず眉をひそめた。


「師匠、これ……」


「言うな」


 師匠は短く遮った。


「名を付けるな。名を付けると、頭が名の形に縛られる。縛られた頭は、足が遅れる」


 昨日も似た言い方をされた。名を出すと名に引っ張られる。役所が“凶獣”としか言わなかったのも、結局は同じ方向の怖さだ。ただ、役所のそれは噂を制御するためで、師匠のそれは生き残るためだ。目的が違うのに、言葉の形だけが似ているのが厄介だった。


 師匠は、鹿の死骸から少し離れた場所の草を指先で撫でた。草の先端が焦げている。火で焼いた焦げではなく、酸で腐ったような色。触れた指を、師匠はすぐに松明の火であぶった。何かを殺すように。


「臭いが残る。……通り道だ」


「じゃあ、ここで食べたんですか」


「食った。だが、腹を満たすためじゃない。縄張りを示すためにかじっただけじゃ」


 縄張り。獣が縄張りを示すのは分かる。だが、こんなやり方は“誇示”に近い。人間で言うなら、わざと見える場所で見せつける。恐怖を撒くために。


(村に向けた警告? それとも、別の何かに向けた……?)


 師匠が窪地の反対側へ回り、木の幹を見た。幹の低い位置に、縦に走る傷がある。爪で引いた線。けれど、線の深さが揃っていない。獣が苛立って引っ掻いたというより、“刃物を持った人間が真似して付けた”ような均一さに見える箇所もある。


 師匠はその傷の前で止まり、鼻先を近づけた。松明の火が師匠の頬を照らし、皺の影を濃くする。師匠は目を閉じたまま、小さく息を吸った。


「……狼の匂い。鹿の血。……それから」


 そこで言葉が止まる。止まった瞬間、空気が張った。僕の背中が、反射で固くなる。師匠が“それから”の先を言わない時は、だいたいそれが危ない匂いだ。


 師匠は目を開け、僕のほうを見ずに言った。


「人の匂いじゃ」


 僕は一瞬、言葉が出なかった。


 人。役人の護衛の匂いかもしれない。村人が見回りで来た匂いかもしれない。けれど、この窪地は村から外れている。わざわざ来る理由が薄い。もし来ていたなら、誰かが黙っているか、知らずに死んでいるかだ。


 師匠は足元の土を蹴らずに掻いた。土の上に、確かに“靴の跡”があった。草鞋わらじではない。底が固い。縁が四角い。官の護衛が履くような靴の跡に似ている。だが、歩幅が妙に狭い。警戒している者の歩幅。ここにいる何かを恐れている者の歩幅。


「役所の連中が、先に嗅ぎ回ってた?」


 僕が口にすると、師匠は首を横に振った。


「役所の匂いは油と紙が混じる。こいつは違う。……こうじゃ。香を焚いた匂いが、血に混ざってる」


 香。そうや門派が使う、あの匂い。祭祀さいしや祈りの匂い。師匠が祠の前で言った“お願い”の夜、かすかに嗅いだ匂いにも似ている。


 師匠は松明を少し下げ、窪地の外へ視線を走らせた。烏が一羽、枝から飛び立ち、山の奥へ向かった。別の烏も追う。輪がほどけて、一本の流れになる。


「烏が案内してくれる」


 師匠が言った。冗談ではない。烏は死に群がる。つまり、死の匂いが奥に続いている。


 僕は喉を鳴らし、腹で息を吸った。恐怖が胸に上がるのを、腹へ押し戻す。師匠の背中を見ていると、不思議と「動ける気」がしてくる。師匠は強いからではない。強いのは当然として、それ以上に“順番が崩れない”からだ。何を見て、何を避けて、どこへ退くか。その順番が、火の中でも闇の中でも変わらない。


 師匠は窪地を出て、さらに山へ向かった。道ではない。獣道でもない。人が踏み固めた線がない場所を、あえて選んで進む。足元の土が柔らかい場所を避け、石のある場所だけを拾う。僕もそれにならった。


 山の中は、夜になると音の層が増える。風、葉、虫、遠い水。そこに、時折“別の音”が混じる。木が軋む音。石が擦れる音。何か重いものが、ゆっくり移動している気配。けれど、その音は近くない。むしろ遠くで、一定の方向へ向かっている。


(通った、って師匠が言ったのは、こういうことか)


 獲物を探してうろつくのではない。目的地がある。だから、匂いが線になる。


 しばらく進むと、地面にまた別の跡が現れた。今度は血ではない。白い粉が点々と落ちている。石を削った粉と似ているが、混ざりが違う。粉の中に、黒い粒がある。炭の粒のような。


 師匠はしゃがまず、足で近寄らない距離から眺めた。松明の火を近づけても、粉は風で舞わない。湿り気がある。何かの体液に混じって落ちた粉だ。


「焼けた匂いがするだろう」


 師匠が言う。僕は鼻を使った。確かに、火の焼けではなく、もっと内側が焦げた匂いがする。肉が焼けた匂いではなく、油と薬が焼けたような匂い。前の世界で言えば、機械室の焼けた配線の匂いに近い。


「これ、獣の……?」


「獣の上じゃ。……獣に似た何かだ」


 師匠は言い切らない。名を避ける。だが、言葉の端で“格”が違うのが分かる。山狼の群れが村へ降りるのは飢えだ。でも今夜のこれは、飢えよりも“目的”が強い。


 師匠が足を止め、耳を澄ませた。僕も止める。松明の火の音が小さく聞こえるほど、周囲が静まった。


 遠くで、水の音がした。さわだ。山の水が流れる場所。村へ戻るなら沢を避けるはずなのに、匂いの線は沢へ向かっている。


「……水で匂いを切るつもりか」


 師匠が低く言った。匂いを切る。追う者から逃げる時の手だ。つまり、追っているのは“それ”だけではない可能性がある。追われる者がいて、追う者がいて、さらにその外側に別の意図がある。


 沢に近づくにつれ、空気が冷たくなる。湿り気が濃くなり、松明の火が揺れやすくなる。水辺は音が多いから、逆に足音が隠れる。隠れるのは人間だけではない。獣も同じだ。


 師匠が松明を少し下げ、火を風の影に置くように持ち直した。炎を隠す持ち方だ。火は明かりであり、目印でもある。目印になるということは、見られる。


青嶺せいれい


 師匠が初めて、僕の名を呼んだ。広場で言われたのと同じだが、今は意味が違う。注意喚起の呼び方だ。


「はい」


「ここから先、声は出すな。咳もするな。息だけで返事をしろ」


 僕は頷いた。息を吐いて返事の代わりにする。師匠はそれを見て、沢へ向かった。


 沢は思ったより浅かった。石が多く、水は透明で冷たい。けれど水面に、何かが浮いている。泡ではない。薄い膜だ。油の膜に似て、月明かりを少しだけ反射している。


 師匠が足を止め、松明の火を水面に近づけないようにして覗いた。火を近づければ、光で見える。だが火を近づければ、匂いが立つ。師匠はその両方を分かっている。だから、“見ない”で判断しようとする。


 師匠は小石を拾い、水面へ落とした。膜が一瞬揺れ、途切れた。途切れたところから、匂いが立つ。腐った鉄の匂い。鹿の血より濃い。僕の胃が、きゅっと縮む。


 師匠は沢の上流を見た。烏が、また一羽飛んだ。上流へ向かう。


(上にある)


 師匠が水へ足を入れた。石を踏む音が小さく鳴る。僕も続いた。冷たさがすねを刺す。けれど足が冷えたことに意識を取られると危ない。呼吸を腹に落とし、視野で水面と両岸を同時に見る。


 上流に進むと、石の間に何かが挟まっていた。布切れだ。黒い布。水で濡れて重く、石に絡んでいる。師匠が棒を拾い、布を突いて引き上げた。布はただの布ではなかった。縁に刺繍ししゅうのような糸が見える。門派の印か、隊商の印か。いずれにせよ、村人の服ではない。


 師匠は布を鼻に近づけず、松明の火で少し炙ってから嗅いだ。慎重すぎるほど慎重だ。師匠の慎重さは、僕にとって恐怖の尺度になる。師匠が慎重なほど、相手は嫌なものだ。


 師匠の顔が、ほんの少しだけ硬くなった。


「……人が混じっとる」


 さっきも人の匂いと言った。だが今の言い方は違う。人が“見ていた”ではなく、人が“関わっている”。


 師匠は布を手放し、沢の両岸を見回した。そこに、岩肌が露出している場所がある。岩の表面に、細い線が刻まれている。自然のひび割れではない。刃で刻んだような線。しかも、線が何本も重なって、図形になりかけている。


 師匠はその線をじっと見て、息を吐いた。


「……やり口が古い」


 古い。つまり師匠の知る過去に繋がる。祠で言った「二度とあの焚かれ方はしたくない」という言葉が、僕の頭の中で音を立てた。


 師匠は岩肌に手を触れなかった。触れずに、指先だけを宙でなぞる。線の形を、距離で読む。


「これ、何ですか」


 僕は小声で言いかけ、すぐに飲み込んだ。声は出すなと言われた。代わりに、息を吐いて“問い”を乗せるようにした。師匠はそれを理解したのか、短く答えた。


「呼ぶ線じゃ。匂いを集める」


 匂いを集める。そんなことができるのか。前の世界なら迷信で片づけられる。だが、ここでは現実に“匂いが線になる”。狼の匂い、鹿の血の匂い、焼けた匂い、香の匂い。それらが集まって、沢へ向かっている。


 師匠は沢の上流を見て、松明を少し低くした。火を目立たせない。烏が再び鳴いた。今度の鳴き声は近い。すぐ上だ。


 上流の暗がりから、微かな音がした。水を踏む音ではない。石がずれる音。重いものが、石を踏み砕く音。獣が歩けば石が鳴る。だがこれは、石が“押し潰される”音だ。


 師匠は僕の前に半歩出た。半歩だけ。距離は僅かだが、その半歩で、僕と“それ”の間に師匠の背中が入る。背中が盾になる。師匠は盾に見えないのに、盾になる。


 暗がりの中で、何かが動いた。


 最初に見えたのは目だった。黄色い目ではない。もっと暗い。闇の中で光るのではなく、闇を吸い込むような黒い目。次に見えたのは肩の線。狼より低いのに、厚みがある。毛ではなく、硬い皮のような表面。水滴がそこに当たっても弾かず、じっとりと貼り付く。


 僕は反射で息を止めそうになり、腹で息を吸い直した。止めるな。止めると耳が利かなくなる。師匠が教えたのは、呼吸で視野を広げることだった。


 “それ”は沢の中に立っていた。前脚が一本、少しゆがんでいる。昨日の夜、僕が打った狼の肩のような痛みではない。もっと深い歪み。骨の形が変わるような歪み。つまり、どこかで既に戦っている。


 “それ”は僕らに向けて唸らなかった。吠えなかった。ただ、匂いを嗅いだ。鼻先がわずかに動き、空気を吸い込む。吸い込んだ瞬間、僕の肌が粟立った。匂いで見られる感覚。視線ではなく、匂いで位置を測られるような感覚だ。


 師匠が、松明をわずかに横へずらした。火を真正面に置かない。火は目を引く。目を引けば、次に牙が来る。師匠は火を“餌”にしない。


 “それ”が一歩、石を踏んだ。石が音もなく砕ける。砕けた石の粉が水に混じり、白く濁った。濁りが広がる前に、師匠が足を引いた。退く。退く線を守る。村で教えたことを、師匠自身が最初にやる。


 僕も同じように退いた。沢の中で退くのは難しい。足元の石が滑る。だが、退く場所を決めていた。さっき布を見つけた石の手前。そこは水が浅く、踏み面が広い。


 “それ”は追ってこなかった。追ってこない代わりに、首を少し傾けた。首の付け根に、傷が見えた。爪で裂かれたような傷ではない。刃で切ったような傷。しかも、切り口が焦げている。火で焼いたように黒い。


(人間が付けた傷だ)


 僕は確信した。狼ではない。村人ではない。役人の護衛がこんな傷を付けるとは思えない。なら江湖人だ。門派の者だ。隊商の刀を下げた蘇凌そ・りょうの顔が、脳裏をかすめた。あの青年ではないかもしれない。だが“同じ匂いの世界”にいる人間が、確かにこの山のどこかで刃を振るっている。


 師匠が、指を一本だけ立てた。止まれ、の合図だ。僕は足を止めた。息だけを動かす。


 師匠は、“それ”へ向けて何かを投げた。石ではない。小さな袋だ。草を乾かした匂いが一瞬だけ立つ。袋は沢の手前に落ち、水に触れる前に破れた。粉が広がる。粉は水に混じらず、空気に溶けるように散った。


 “それ”が鼻を鳴らし、半歩だけ下がった。嫌がったのが分かる。粉は匂いを刺したのだ。師匠は攻撃しない。追い払う。村へ向けさせない。


 師匠が、僕のほうへ半歩戻り、耳元に息だけで言った。


「戻る」


 短い言葉だった。理由の説明はない。だが理由は明確だ。今ここで戦う必要がない。戦えば勝てるかもしれない。師匠なら勝つだろう。僕も“負けない”方向へ動けるはずだ。けれど勝っても、村が守られるとは限らない。勝っても匂いが増える。勝っても別のものが来る。ここで必要なのは勝利じゃない。方向を変えることだ。


 師匠は背中を向けずに退いた。背中を見せない退き。祠で教わった“退きながら戦う術”が、ここで形になる。僕も同じように退いた。視野を広く。足元を見すぎず、相手を見すぎず。景色を一枚で捉える。


 “それ”は追ってこなかった。追ってこない代わりに、沢の上流の暗がりへ体を向けた。つまり、目的地は僕らではない。僕らは邪魔なだけ。匂いを嗅いで確認し、追うべき線へ戻った。


(目的が別にある……)


 それが逆に怖い。村が襲われる恐怖より、“村はついでで潰される”恐怖のほうが、ずっと実感がある。大きな目的の通り道に村があるだけなら、役所の紙も、村の段取りも、踏み潰される可能性がある。


 師匠は沢から離れ、来た道を外して戻った。足跡を残さないためか、匂いを残さないためか。松明の火を低くし、風下へ置きながら進む。僕はその背中を追い、呼吸だけを動かした。


 窪地へ戻る頃には、烏がまた輪を作っていた。だが今度の輪は山の奥へ向かっている。死の匂いは奥へ続く。僕らはそれを追わない。今夜は追わない。追わないことが、選択になる夜だ。


 村の外れが見えたとき、広場の松明の火がまだ揺れているのが見えた。火の輪は途切れていない。師匠の言ったとおりだ。火を切らすな。火の輪を途切れさせるな。火は明かりではなく、村の“心の壁”だ。


 師匠は火の輪の手前で止まり、松明を地面に突き立てた。自分の火を輪の外に置く。輪の中に入らない。役所の目がある。村人の耳がある。今夜見たものをここで語れば、噂が形になる。形になれば、恐怖が増殖する。恐怖は狼より速い。


 師匠は父――劉義を呼んだ。声は小さいのに、父はすぐに気づいて近づいてくる。父の顔には、役所と話した疲れと、村をまとめる責任の硬さが残っていた。


 師匠は父に、短く言った。


「明日の案内は出すな。役所の猟師が来ても、村の者は沢へ近づくな。沢の上流へ行くなら、猟師に行かせろ」


 父が眉を寄せた。


「……理由は」


「理由を知りたいなら、まず退く線を引け。火の輪を途切れさせるな。今夜はそれだけでいい」


 師匠の言い方は冷たい。けれど、冷たさは村を見捨てる冷たさではない。村を“余計な熱”で燃やさない冷たさだ。英雄譚の熱が村を焼くことを、師匠は知っている。


 父は一瞬だけ迷い、それから頷いた。父もまた、“勝つため”ではなく“残るため”に判断している。


 役人――曹が、遠目にこちらを見ていた。護衛もいる。師匠は役人の視線に答えず、僕の肩を軽く叩いた。いつもの、痛くない叩き方だ。


青嶺せいれい


「はい」


「お前の足は、今日みたいな夜のために鍛えとる。速さじゃない。順番じゃ」


 僕は頷いた。順番。呼吸。視野。退き。合図。火の輪。


 師匠はそのまま、火の輪から離れていった。祠へ向かう道ではない。村の端、畑の影、柵の外を見渡せる位置へ。村人から見ればただの老人が散歩しているだけに見えるだろう。だが僕には分かる。師匠は“山の線”と“村の線”が交わる場所を、今夜、守りに行った。


 僕は広場に戻りかけて、足を止めた。松明の火の中で、村人たちが不安を口にし、役所の言葉にすがろうとしている。その中に入ってしまえば、今夜見たものをなかったことにしてしまいそうだった。


 だから僕は、輪の外で一度だけ深く息を吸い、吐いた。腹の底に息を落とすと、世界が少しだけ落ち着いて見える。師匠が言っていた「名を付けるな」という言葉の意味も、少し分かった気がした。


 名を付ければ、恐怖が形になる。

 形になれば、噂が走る。

 噂が走れば、村が先に崩れる。


 そのとき、広場の端で誰かが叫んだ。


「……役所の猟師隊、明日だけじゃねえぞ! 都からも人が動いてるって話だ!」


 ざわめきが走る。都。門派。江湖。凶獣。妖獣。言葉が勝手に繋がっていき、輪が揺れる。


 師匠が、遠くからこちらを見た。目だけで言っている。


――まだ言葉にするな。

――今は段取りを整えろ。


 僕は頷き、父のほうへ歩いた。広場の中央に戻るためではない。火の輪を守るためだ。村が崩れれば、今夜見た“線”に飲まれる。


 父が僕を見て、口を開きかけた。何かを聞きたそうな顔だ。僕は先に言った。


「父さん。退きの線、今夜のうちに決めよう。柵の内側に。松明の置き場も」


 父の目が、少しだけ鋭くなる。気づいた。僕が“何かを見た”と。けれど父は追及しない。追及しても答えが出ない夜だと、父も分かっている。


「……分かった。村の男を集める」


 その言葉が出た瞬間、広場の火が少しだけ強く見えた。火の輪が、ただの火ではなく“決め事”になる。恐怖を押し返すのは勇気じゃない。順番だ。


 役人――曹は、まだ台の近くにいた。護衛が周囲を見張り、烏の鳴き声を気にしている。師匠が嗅ぎ分けた匂いを、役人は言葉で隠す。隠した分だけ、影は濃くなる。


(明日、猟師が来る)

(沢の上流へ行く)

(あの線の先に、何がいる)


 僕は腹の底で息を吸い、ゆっくり吐いた。次の一歩は、剣ではなく段取りだ。だが段取りの先には、間違いなく“刃の世界”が待っている。


 そして、その刃の世界は、村の外れでいきなり広がる。今夜見た黒い目が、ただの始まりに過ぎないと分かってしまった。


 師匠が祠のほうへ向かったかどうかは分からない。ただ、広場の火の外側で、確かに何かが動き続けている。その動きに追いつくために、僕は今夜、火の輪の内側に“退く線”を引く。


 明日になれば、役所の猟師が来る。

 その猟師が山の線を追うのか、それとも別の線――人の線を追うのか。


 その違い一つで、村の未来の形が変わる気がしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ