第21話 火の輪の外――匂いが指す先
広場の火の輪を一歩抜けた瞬間、空気の温度が変わった。人の息と松明の油の匂いが薄まり、代わりに湿った土と草の青さが鼻に刺さる。村の外れは、同じ夜でも別の世界だ。火が届かない場所は、闇ではなく“境界”になる。
師匠は松明を持ったまま、急がずに歩いた。急がないからこそ、足音が消える。地面を蹴らず、踏まず、置く。祠で叩き込まれた足の使い方が、そのまま夜道の道具になるのを、背中を見ながら思い出す。
上空では烏が輪を描いていた。鳴き声が短い。誰かの死骸を見つけた時の声に似ている。けれど、村の外れに烏が集まるのは珍しい。普段ならもっと山の奥へ行く。今夜は、山から“何か”が降りてきたというより、山へ“何か”が通った気配がある。
師匠が歩調を落とし、松明を少し高く掲げた。火が揺れ、道の脇の草が赤く浮かび上がる。そこに、踏み荒らされた跡があった。人の足ではない。四つ足が走って、途中で向きを変えたような土の乱れ。昨日、柵の外で見た山狼の足跡よりも乱暴で、必死さがある。
「狼が逃げた跡じゃ」
師匠はそれだけ言った。逃げた。つまり追われていた。
僕は喉の奥が乾くのを感じながら、呼吸を腹に落とした。吸って、吐く。吐く時間を長くする。視野が広がる。松明の火だけを追うと闇に飲まれるから、闇の輪郭を一緒に見る。
(狼を追うもの)
その言葉を頭の中で組み立てただけで、背中が薄く寒くなる。狼は村にとって十分に怖い。それを追い立てて走らせるものがいるなら、それは村の段取りや役所の言い換えで収まる話ではない。
師匠は道を外れた。村人なら絶対に入らない草むらのほうへ、ためらいなく足を入れる。草が擦れる音がほとんどしない。僕も同じように続こうとして、足を置く場所を一瞬迷い、踏み出しを遅らせた。
「踏むな。草の根を折ると匂いが立つ」
師匠が前を向いたまま言う。見えていないはずなのに、僕の癖が読まれている。僕は足裏の面を小さくし、土の硬いところだけを拾うように進んだ。
草むらを抜けると、小さな窪地があった。そこは風が淀み、匂いが溜まる。松明の火が揺れただけで、血の匂いが立ち上がった。昨日の牛小屋で嗅いだ生温い匂いとは違う。もっと鉄が濃く、湿り気が重い。獣の脂の甘さが混ざって、吐き気に近い感覚を連れてくる。
窪地の真ん中に、鹿が倒れていた。いや、“倒れていた”という言い方が正しいのか分からない。肉があるべき場所がえぐられ、骨がむき出しになっている。内臓は引きずり出され、周囲の草に黒っぽい筋が伸びていた。烏が数羽、少し離れた枝で待っている。まだ近寄らない。近寄れないのか、近寄らないのか、判断を迷っているように見えた。
師匠は鹿に近づかず、周囲の土を見た。足跡を探すのではない。土の“割れ”を見ている。踏まれた形ではなく、押し裂かれた形。爪が掻いた深さ。重さのかかり方。
「……ほう」
師匠が短く息を吐く。その声が、珍しく低い。
窪地の縁、土が抉れていた。爪の跡が四本ではない。五本、いや六本に見える箇所がある。しかも幅が広い。山狼の足跡より二回りは大きい。爪の先が土ではなく石を削ったような白い粉が混ざっている。
師匠は松明を鹿へ向けず、土の抉れへ向けた。火の赤が、白い粉を照らす。粉はただの石灰ではない。何かが焼けたような、乾いた臭いがする。僕は思わず眉をひそめた。
「師匠、これ……」
「言うな」
師匠は短く遮った。
「名を付けるな。名を付けると、頭が名の形に縛られる。縛られた頭は、足が遅れる」
昨日も似た言い方をされた。名を出すと名に引っ張られる。役所が“凶獣”としか言わなかったのも、結局は同じ方向の怖さだ。ただ、役所のそれは噂を制御するためで、師匠のそれは生き残るためだ。目的が違うのに、言葉の形だけが似ているのが厄介だった。
師匠は、鹿の死骸から少し離れた場所の草を指先で撫でた。草の先端が焦げている。火で焼いた焦げではなく、酸で腐ったような色。触れた指を、師匠はすぐに松明の火で炙った。何かを殺すように。
「臭いが残る。……通り道だ」
「じゃあ、ここで食べたんですか」
「食った。だが、腹を満たすためじゃない。縄張りを示すために齧っただけじゃ」
縄張り。獣が縄張りを示すのは分かる。だが、こんなやり方は“誇示”に近い。人間で言うなら、わざと見える場所で見せつける。恐怖を撒くために。
(村に向けた警告? それとも、別の何かに向けた……?)
師匠が窪地の反対側へ回り、木の幹を見た。幹の低い位置に、縦に走る傷がある。爪で引いた線。けれど、線の深さが揃っていない。獣が苛立って引っ掻いたというより、“刃物を持った人間が真似して付けた”ような均一さに見える箇所もある。
師匠はその傷の前で止まり、鼻先を近づけた。松明の火が師匠の頬を照らし、皺の影を濃くする。師匠は目を閉じたまま、小さく息を吸った。
「……狼の匂い。鹿の血。……それから」
そこで言葉が止まる。止まった瞬間、空気が張った。僕の背中が、反射で固くなる。師匠が“それから”の先を言わない時は、だいたいそれが危ない匂いだ。
師匠は目を開け、僕のほうを見ずに言った。
「人の匂いじゃ」
僕は一瞬、言葉が出なかった。
人。役人の護衛の匂いかもしれない。村人が見回りで来た匂いかもしれない。けれど、この窪地は村から外れている。わざわざ来る理由が薄い。もし来ていたなら、誰かが黙っているか、知らずに死んでいるかだ。
師匠は足元の土を蹴らずに掻いた。土の上に、確かに“靴の跡”があった。草鞋ではない。底が固い。縁が四角い。官の護衛が履くような靴の跡に似ている。だが、歩幅が妙に狭い。警戒している者の歩幅。ここにいる何かを恐れている者の歩幅。
「役所の連中が、先に嗅ぎ回ってた?」
僕が口にすると、師匠は首を横に振った。
「役所の匂いは油と紙が混じる。こいつは違う。……香じゃ。香を焚いた匂いが、血に混ざってる」
香。宗や門派が使う、あの匂い。祭祀や祈りの匂い。師匠が祠の前で言った“お願い”の夜、かすかに嗅いだ匂いにも似ている。
師匠は松明を少し下げ、窪地の外へ視線を走らせた。烏が一羽、枝から飛び立ち、山の奥へ向かった。別の烏も追う。輪がほどけて、一本の流れになる。
「烏が案内してくれる」
師匠が言った。冗談ではない。烏は死に群がる。つまり、死の匂いが奥に続いている。
僕は喉を鳴らし、腹で息を吸った。恐怖が胸に上がるのを、腹へ押し戻す。師匠の背中を見ていると、不思議と「動ける気」がしてくる。師匠は強いからではない。強いのは当然として、それ以上に“順番が崩れない”からだ。何を見て、何を避けて、どこへ退くか。その順番が、火の中でも闇の中でも変わらない。
師匠は窪地を出て、さらに山へ向かった。道ではない。獣道でもない。人が踏み固めた線がない場所を、あえて選んで進む。足元の土が柔らかい場所を避け、石のある場所だけを拾う。僕もそれに倣った。
山の中は、夜になると音の層が増える。風、葉、虫、遠い水。そこに、時折“別の音”が混じる。木が軋む音。石が擦れる音。何か重いものが、ゆっくり移動している気配。けれど、その音は近くない。むしろ遠くで、一定の方向へ向かっている。
(通った、って師匠が言ったのは、こういうことか)
獲物を探してうろつくのではない。目的地がある。だから、匂いが線になる。
しばらく進むと、地面にまた別の跡が現れた。今度は血ではない。白い粉が点々と落ちている。石を削った粉と似ているが、混ざりが違う。粉の中に、黒い粒がある。炭の粒のような。
師匠はしゃがまず、足で近寄らない距離から眺めた。松明の火を近づけても、粉は風で舞わない。湿り気がある。何かの体液に混じって落ちた粉だ。
「焼けた匂いがするだろう」
師匠が言う。僕は鼻を使った。確かに、火の焼けではなく、もっと内側が焦げた匂いがする。肉が焼けた匂いではなく、油と薬が焼けたような匂い。前の世界で言えば、機械室の焼けた配線の匂いに近い。
「これ、獣の……?」
「獣の上じゃ。……獣に似た何かだ」
師匠は言い切らない。名を避ける。だが、言葉の端で“格”が違うのが分かる。山狼の群れが村へ降りるのは飢えだ。でも今夜のこれは、飢えよりも“目的”が強い。
師匠が足を止め、耳を澄ませた。僕も止める。松明の火の音が小さく聞こえるほど、周囲が静まった。
遠くで、水の音がした。沢だ。山の水が流れる場所。村へ戻るなら沢を避けるはずなのに、匂いの線は沢へ向かっている。
「……水で匂いを切るつもりか」
師匠が低く言った。匂いを切る。追う者から逃げる時の手だ。つまり、追っているのは“それ”だけではない可能性がある。追われる者がいて、追う者がいて、さらにその外側に別の意図がある。
沢に近づくにつれ、空気が冷たくなる。湿り気が濃くなり、松明の火が揺れやすくなる。水辺は音が多いから、逆に足音が隠れる。隠れるのは人間だけではない。獣も同じだ。
師匠が松明を少し下げ、火を風の影に置くように持ち直した。炎を隠す持ち方だ。火は明かりであり、目印でもある。目印になるということは、見られる。
「青嶺」
師匠が初めて、僕の名を呼んだ。広場で言われたのと同じだが、今は意味が違う。注意喚起の呼び方だ。
「はい」
「ここから先、声は出すな。咳もするな。息だけで返事をしろ」
僕は頷いた。息を吐いて返事の代わりにする。師匠はそれを見て、沢へ向かった。
沢は思ったより浅かった。石が多く、水は透明で冷たい。けれど水面に、何かが浮いている。泡ではない。薄い膜だ。油の膜に似て、月明かりを少しだけ反射している。
師匠が足を止め、松明の火を水面に近づけないようにして覗いた。火を近づければ、光で見える。だが火を近づければ、匂いが立つ。師匠はその両方を分かっている。だから、“見ない”で判断しようとする。
師匠は小石を拾い、水面へ落とした。膜が一瞬揺れ、途切れた。途切れたところから、匂いが立つ。腐った鉄の匂い。鹿の血より濃い。僕の胃が、きゅっと縮む。
師匠は沢の上流を見た。烏が、また一羽飛んだ。上流へ向かう。
(上にある)
師匠が水へ足を入れた。石を踏む音が小さく鳴る。僕も続いた。冷たさが脛を刺す。けれど足が冷えたことに意識を取られると危ない。呼吸を腹に落とし、視野で水面と両岸を同時に見る。
上流に進むと、石の間に何かが挟まっていた。布切れだ。黒い布。水で濡れて重く、石に絡んでいる。師匠が棒を拾い、布を突いて引き上げた。布はただの布ではなかった。縁に刺繍のような糸が見える。門派の印か、隊商の印か。いずれにせよ、村人の服ではない。
師匠は布を鼻に近づけず、松明の火で少し炙ってから嗅いだ。慎重すぎるほど慎重だ。師匠の慎重さは、僕にとって恐怖の尺度になる。師匠が慎重なほど、相手は嫌なものだ。
師匠の顔が、ほんの少しだけ硬くなった。
「……人が混じっとる」
さっきも人の匂いと言った。だが今の言い方は違う。人が“見ていた”ではなく、人が“関わっている”。
師匠は布を手放し、沢の両岸を見回した。そこに、岩肌が露出している場所がある。岩の表面に、細い線が刻まれている。自然のひび割れではない。刃で刻んだような線。しかも、線が何本も重なって、図形になりかけている。
師匠はその線をじっと見て、息を吐いた。
「……やり口が古い」
古い。つまり師匠の知る過去に繋がる。祠で言った「二度とあの焚かれ方はしたくない」という言葉が、僕の頭の中で音を立てた。
師匠は岩肌に手を触れなかった。触れずに、指先だけを宙でなぞる。線の形を、距離で読む。
「これ、何ですか」
僕は小声で言いかけ、すぐに飲み込んだ。声は出すなと言われた。代わりに、息を吐いて“問い”を乗せるようにした。師匠はそれを理解したのか、短く答えた。
「呼ぶ線じゃ。匂いを集める」
匂いを集める。そんなことができるのか。前の世界なら迷信で片づけられる。だが、ここでは現実に“匂いが線になる”。狼の匂い、鹿の血の匂い、焼けた匂い、香の匂い。それらが集まって、沢へ向かっている。
師匠は沢の上流を見て、松明を少し低くした。火を目立たせない。烏が再び鳴いた。今度の鳴き声は近い。すぐ上だ。
上流の暗がりから、微かな音がした。水を踏む音ではない。石がずれる音。重いものが、石を踏み砕く音。獣が歩けば石が鳴る。だがこれは、石が“押し潰される”音だ。
師匠は僕の前に半歩出た。半歩だけ。距離は僅かだが、その半歩で、僕と“それ”の間に師匠の背中が入る。背中が盾になる。師匠は盾に見えないのに、盾になる。
暗がりの中で、何かが動いた。
最初に見えたのは目だった。黄色い目ではない。もっと暗い。闇の中で光るのではなく、闇を吸い込むような黒い目。次に見えたのは肩の線。狼より低いのに、厚みがある。毛ではなく、硬い皮のような表面。水滴がそこに当たっても弾かず、じっとりと貼り付く。
僕は反射で息を止めそうになり、腹で息を吸い直した。止めるな。止めると耳が利かなくなる。師匠が教えたのは、呼吸で視野を広げることだった。
“それ”は沢の中に立っていた。前脚が一本、少し歪んでいる。昨日の夜、僕が打った狼の肩のような痛みではない。もっと深い歪み。骨の形が変わるような歪み。つまり、どこかで既に戦っている。
“それ”は僕らに向けて唸らなかった。吠えなかった。ただ、匂いを嗅いだ。鼻先がわずかに動き、空気を吸い込む。吸い込んだ瞬間、僕の肌が粟立った。匂いで見られる感覚。視線ではなく、匂いで位置を測られるような感覚だ。
師匠が、松明をわずかに横へずらした。火を真正面に置かない。火は目を引く。目を引けば、次に牙が来る。師匠は火を“餌”にしない。
“それ”が一歩、石を踏んだ。石が音もなく砕ける。砕けた石の粉が水に混じり、白く濁った。濁りが広がる前に、師匠が足を引いた。退く。退く線を守る。村で教えたことを、師匠自身が最初にやる。
僕も同じように退いた。沢の中で退くのは難しい。足元の石が滑る。だが、退く場所を決めていた。さっき布を見つけた石の手前。そこは水が浅く、踏み面が広い。
“それ”は追ってこなかった。追ってこない代わりに、首を少し傾けた。首の付け根に、傷が見えた。爪で裂かれたような傷ではない。刃で切ったような傷。しかも、切り口が焦げている。火で焼いたように黒い。
(人間が付けた傷だ)
僕は確信した。狼ではない。村人ではない。役人の護衛がこんな傷を付けるとは思えない。なら江湖人だ。門派の者だ。隊商の刀を下げた蘇凌の顔が、脳裏をかすめた。あの青年ではないかもしれない。だが“同じ匂いの世界”にいる人間が、確かにこの山のどこかで刃を振るっている。
師匠が、指を一本だけ立てた。止まれ、の合図だ。僕は足を止めた。息だけを動かす。
師匠は、“それ”へ向けて何かを投げた。石ではない。小さな袋だ。草を乾かした匂いが一瞬だけ立つ。袋は沢の手前に落ち、水に触れる前に破れた。粉が広がる。粉は水に混じらず、空気に溶けるように散った。
“それ”が鼻を鳴らし、半歩だけ下がった。嫌がったのが分かる。粉は匂いを刺したのだ。師匠は攻撃しない。追い払う。村へ向けさせない。
師匠が、僕のほうへ半歩戻り、耳元に息だけで言った。
「戻る」
短い言葉だった。理由の説明はない。だが理由は明確だ。今ここで戦う必要がない。戦えば勝てるかもしれない。師匠なら勝つだろう。僕も“負けない”方向へ動けるはずだ。けれど勝っても、村が守られるとは限らない。勝っても匂いが増える。勝っても別のものが来る。ここで必要なのは勝利じゃない。方向を変えることだ。
師匠は背中を向けずに退いた。背中を見せない退き。祠で教わった“退きながら戦う術”が、ここで形になる。僕も同じように退いた。視野を広く。足元を見すぎず、相手を見すぎず。景色を一枚で捉える。
“それ”は追ってこなかった。追ってこない代わりに、沢の上流の暗がりへ体を向けた。つまり、目的地は僕らではない。僕らは邪魔なだけ。匂いを嗅いで確認し、追うべき線へ戻った。
(目的が別にある……)
それが逆に怖い。村が襲われる恐怖より、“村はついでで潰される”恐怖のほうが、ずっと実感がある。大きな目的の通り道に村があるだけなら、役所の紙も、村の段取りも、踏み潰される可能性がある。
師匠は沢から離れ、来た道を外して戻った。足跡を残さないためか、匂いを残さないためか。松明の火を低くし、風下へ置きながら進む。僕はその背中を追い、呼吸だけを動かした。
窪地へ戻る頃には、烏がまた輪を作っていた。だが今度の輪は山の奥へ向かっている。死の匂いは奥へ続く。僕らはそれを追わない。今夜は追わない。追わないことが、選択になる夜だ。
村の外れが見えたとき、広場の松明の火がまだ揺れているのが見えた。火の輪は途切れていない。師匠の言ったとおりだ。火を切らすな。火の輪を途切れさせるな。火は明かりではなく、村の“心の壁”だ。
師匠は火の輪の手前で止まり、松明を地面に突き立てた。自分の火を輪の外に置く。輪の中に入らない。役所の目がある。村人の耳がある。今夜見たものをここで語れば、噂が形になる。形になれば、恐怖が増殖する。恐怖は狼より速い。
師匠は父――劉義を呼んだ。声は小さいのに、父はすぐに気づいて近づいてくる。父の顔には、役所と話した疲れと、村をまとめる責任の硬さが残っていた。
師匠は父に、短く言った。
「明日の案内は出すな。役所の猟師が来ても、村の者は沢へ近づくな。沢の上流へ行くなら、猟師に行かせろ」
父が眉を寄せた。
「……理由は」
「理由を知りたいなら、まず退く線を引け。火の輪を途切れさせるな。今夜はそれだけでいい」
師匠の言い方は冷たい。けれど、冷たさは村を見捨てる冷たさではない。村を“余計な熱”で燃やさない冷たさだ。英雄譚の熱が村を焼くことを、師匠は知っている。
父は一瞬だけ迷い、それから頷いた。父もまた、“勝つため”ではなく“残るため”に判断している。
役人――曹が、遠目にこちらを見ていた。護衛もいる。師匠は役人の視線に答えず、僕の肩を軽く叩いた。いつもの、痛くない叩き方だ。
「青嶺」
「はい」
「お前の足は、今日みたいな夜のために鍛えとる。速さじゃない。順番じゃ」
僕は頷いた。順番。呼吸。視野。退き。合図。火の輪。
師匠はそのまま、火の輪から離れていった。祠へ向かう道ではない。村の端、畑の影、柵の外を見渡せる位置へ。村人から見ればただの老人が散歩しているだけに見えるだろう。だが僕には分かる。師匠は“山の線”と“村の線”が交わる場所を、今夜、守りに行った。
僕は広場に戻りかけて、足を止めた。松明の火の中で、村人たちが不安を口にし、役所の言葉に縋ろうとしている。その中に入ってしまえば、今夜見たものをなかったことにしてしまいそうだった。
だから僕は、輪の外で一度だけ深く息を吸い、吐いた。腹の底に息を落とすと、世界が少しだけ落ち着いて見える。師匠が言っていた「名を付けるな」という言葉の意味も、少し分かった気がした。
名を付ければ、恐怖が形になる。
形になれば、噂が走る。
噂が走れば、村が先に崩れる。
そのとき、広場の端で誰かが叫んだ。
「……役所の猟師隊、明日だけじゃねえぞ! 都からも人が動いてるって話だ!」
ざわめきが走る。都。門派。江湖。凶獣。妖獣。言葉が勝手に繋がっていき、輪が揺れる。
師匠が、遠くからこちらを見た。目だけで言っている。
――まだ言葉にするな。
――今は段取りを整えろ。
僕は頷き、父のほうへ歩いた。広場の中央に戻るためではない。火の輪を守るためだ。村が崩れれば、今夜見た“線”に飲まれる。
父が僕を見て、口を開きかけた。何かを聞きたそうな顔だ。僕は先に言った。
「父さん。退きの線、今夜のうちに決めよう。柵の内側に。松明の置き場も」
父の目が、少しだけ鋭くなる。気づいた。僕が“何かを見た”と。けれど父は追及しない。追及しても答えが出ない夜だと、父も分かっている。
「……分かった。村の男を集める」
その言葉が出た瞬間、広場の火が少しだけ強く見えた。火の輪が、ただの火ではなく“決め事”になる。恐怖を押し返すのは勇気じゃない。順番だ。
役人――曹は、まだ台の近くにいた。護衛が周囲を見張り、烏の鳴き声を気にしている。師匠が嗅ぎ分けた匂いを、役人は言葉で隠す。隠した分だけ、影は濃くなる。
(明日、猟師が来る)
(沢の上流へ行く)
(あの線の先に、何がいる)
僕は腹の底で息を吸い、ゆっくり吐いた。次の一歩は、剣ではなく段取りだ。だが段取りの先には、間違いなく“刃の世界”が待っている。
そして、その刃の世界は、村の外れでいきなり広がる。今夜見た黒い目が、ただの始まりに過ぎないと分かってしまった。
師匠が祠のほうへ向かったかどうかは分からない。ただ、広場の火の外側で、確かに何かが動き続けている。その動きに追いつくために、僕は今夜、火の輪の内側に“退く線”を引く。
明日になれば、役所の猟師が来る。
その猟師が山の線を追うのか、それとも別の線――人の線を追うのか。
その違い一つで、村の未来の形が変わる気がしていた。




