第20話 広場に集まる火―役所の言葉と、師匠の鼻
村の広場には、いつもより多い松明の火が揺れていた。炎は風に煽られるたび形を変え、土壁や人の頬に赤い影を踊らせる。火が多いほど安心できるはずなのに、今夜の光は逆に「闇が深い」ことを思い知らせてくる。
男も女も、子どもも集まっていた。普段なら寝支度をしている時間だ。にもかかわらず、誰も家の中に戻ろうとしない。戻れば、戸の向こうに“何か”がいるかもしれないからだ。集まることが防壁になる。声と火の輪の内側にいる限り、怖さが少しだけ外へ押しやられる。
広場の中央に、簡単な台が置かれた。木箱を二つ重ねただけの高さだが、それでも上に立つ者の言葉が「村の空気」を決める。台の前では父――劉義が、手にした札を何度も読み返していた。文字が読める男は村にそう多くない。だから父が前に立つだけで、周囲の視線が一点に集まる。
蹄の音が近づき、土を叩いて止まった。馬が二頭、広場の縁に入ってくる。乗り手は三人。県城の印を巻いた役人が一人、あとは武装した護衛風の男が二人。護衛の腰には短刀、肩には弓がかかっていた。村の男たちが持つ農具と、明確に“用途の違う道具”だ。
役人は馬から降り、まず火の輪を見回した。顔は若い。だが若さのわりに、視線が忙しい。村人の数、男の比率、棒を持つ者の位置、逃げ道――そんなものを一瞬で測っている目だった。言葉より先に、状況を確かめる癖が染みついている。
「この村の庄長はいるか」
父が前へ出る。
「俺が劉義だ。庄長代わりをやってる」
役人は頷き、木箱の台に上がった。護衛の二人は台の左右に散って立つ。立ち方が上手い。背中を壁に預けず、背後に空間を残し、視線は外へ向けたまま。昨日、師匠が口にした「柵に背を預けるな」という言葉が、形として目の前に現れる。
(役所の人間なのに、“江湖”の匂いが少しする)
正確には、江湖人の匂いというより、“死なない立ち方”の匂いだ。現場を知る者の体の使い方。
役人は声を張った。
「県城の役所より来た、曹と申す。今夜、ここへ来たのは、狼の件だけではない。家畜がやられた、柵が荒らされた、その報告は受けた。だが問題は、被害が増え方を変えていることだ」
村人のざわめきが一段、低くなった。
「狼は狼だ。飢えれば下りる。だが飢えた狼は、まず弱い獲物を選ぶ。子牛、鶏、そして人が一人。……そこまでは、話の筋として分かる」
役人は言葉を選ぶように間を置いた。分かりやすい説明をしているふりをしながら、実は“言ってはいけないこと”を避けている。
「しかし今回の足跡と噛み跡は、狼だけでは説明がつかん。村の外れで見た者がいる。山側で、木が裂ける音を聞いた者がいる。夜に匂いが変わったと訴える者もいる」
匂い――と聞いた瞬間、僕は反射的に祠の裏の爪痕を思い出した。あの腐った水みたいな苦さと、鉄が濡れたような匂い。言葉にすると薄くなるが、身体の記憶は薄くならない。
役人は続ける。
「そこで、役所としてはこれを“凶獣”の可能性として扱う。狼の群れに加え、別の獣が動いている――その線で備える。余計な噂を広げぬため、今はこの場でもそれ以上の言い方はしない」
“余計な噂”。それが役所の第一の都合だ。村人の恐怖より先に、「噂が広がること」のほうが困る。前の世界の会議室と同じ匂いがした。言葉を整え、責任の境界を整え、統制できる形に押し込める。
だが――そのとき、広場の縁から一歩、空気が変わった。
師匠――蒼玄が来ていた。いつからいたのか分からない。松明の外側、暗がりの縁に立っているだけなのに、そこが妙に静かになる。村人の視線がそちらへ引っ張られる。声が少しずつ途切れていく。
師匠は前へ出ない。出る必要がないと知っているように、輪の外側で止まっている。肩の力を抜き、足裏で地面を掴み、呼吸は腹で動いている。手には何もないのに、「近寄るな」という圧がある。
役人――曹の目が師匠を捉えた。そこで初めて、役人の視線が“測る”から“警戒する”へ変わる。護衛の二人も気づき、さりげなく半歩、台の前に位置をずらした。楯になる配置だ。
「……蒼玄殿か」
役人は名前を口にした。父から聞いている。伝令が言っていた通りだ。
師匠は小さく頷いただけで、挨拶らしい挨拶はしない。礼儀を欠くわけではない。「礼儀で距離が縮まる状況じゃない」と分かっている。
役人は表情を変えずに話を進めた。
「この村に、山に詳しい老人がいると聞いた。山道、獣の習性、夜の見張り。そうしたものに助言ができるなら、今夜ここで一つ、皆に伝えてほしい」
師匠は返事をしなかった。返事をしない代わりに、鼻先をわずかに上げた。火の匂い、汗の匂い、土の匂い――その混ざり合いの中から何かを拾っているような仕草だ。
(匂いで嗅ぎ分けてる)
僕は気づいた。役人は“凶獣”としか言わない。だが師匠は、言葉より先に匂いで区別している。狼の匂いと、別の匂い。今日、祠の裏で嗅いだあの匂いが、ほんの微かにこの村にも乗ってきている。
師匠がようやく口を開いた。
「狼は下りる。下りた狼は戻る。戻らん狼は死ぬ。――ここまではいつもの話じゃ」
役人が眉を動かした。村人の何人かは、師匠の淡々とした言い方に逆に息を呑む。怖い話を怖がらせる口調で語らない人間は、現実を知っている。
「だが今夜の風は、狼の匂いだけじゃない。山の上で、木が裂ける匂いを嗅いだ。骨が砕けた匂いもな」
役人の目が細くなる。“匂い”を根拠にされると、役所の言葉の枠が揺らぐ。証拠の紙に書けないからだ。紙に書けないものは、役所では扱いにくい。
師匠は続けた。
「名を出すのはやめとく。名を出すと、名に引っ張られる。引っ張られた奴から死ぬ」
村人の中から小さなどよめきが起きた。“名を出さない”という言い方が、逆に「ただの狼じゃない」を確定させるからだ。
役人は一瞬だけ沈黙し、それから声の調子を整えた。整え直した声は、現場の匂いより“規則”の匂いが強い。
「蒼玄殿。名を出さないのは結構。だが、役所としては村を守らねばならん。守るためには、行動の枠を決めねばならん。今夜から何をする。明日から何をする。誰が何をする。具体が必要だ」
師匠は、役人を見ずに村人たちのほうを見た。視線の先には、昨日一緒に巡回した男たちがいる。父もいる。怯えた女たちもいる。師匠の言葉は、役所へではなく“村の足元”へ落とされる。
「見張りは続けろ。ただし、追うな。追えば山に入る。山は獣の場所だ。獣の場所で人が勝てると思うな」
誰かが反射的に口を開きかけ、師匠はそれを遮るように指を一本立てた。
「柵の内側に、退きの線を引け。松明の置き場を決めろ。合図を一つにしろ。誰が叫ぶかも決めろ。決め事が無い集団は、狼より先に崩れる」
昨日、師匠が僕に言った手順が、そのまま村全体へ広がる。僕は背中の奥で、少しだけぞくりとした。個人の手順が、集団の手順になる瞬間は、うまくいけば“守り”になる。失敗すれば“統制”になる。前の世界の嫌な記憶も同時に触れた。
役人は頷いた。そこまでは役所も理解できる領域だ。“段取り”は紙に書ける。
「よし。それは今夜すぐやれ。……そして明日、県城から猟師と弓手が来る。凶獣の足跡を追い、縄張りを確認する。村の者は案内を出せ」
その言葉に、村人の顔色が変わった。案内――つまり“先頭に立って山へ入る役”だ。誰もやりたくない。だが断れば、役所から「協力しない村」と見なされる。村は守られる側であり、同時に使われる側でもある。
父の肩が、ほんの僅かに強張ったのが見えた。庄長代わりとして、断りたいが断れない。前の世界の中間管理職の顔が、勝手に重なる。
役人はさらに続けた。
「もう一つ。山狼の襲撃が続く場合、村の夜間外出は禁ずる。畑仕事も、日が落ちる前に終えよ。違反があれば、罰金を課す。これは命令だ」
その瞬間、広場の空気がはっきり変わった。恐怖の空気に、怒りが混じる。罰金――つまり金。家畜をやられて、さらに金を取られる。村の生活を知らない者の言葉だ。
師匠が、鼻で笑った。
小さな笑いだったが、火の輪の中では妙に響いた。役人の目が一瞬、鋭くなる。
「曹殿。命令で獣は止まらん。罰金で夜は明るくならん」
「……老人、役所の命令を軽んじるのか」
護衛の片方が一歩、出かけた。だが師匠は動かない。動かないまま、視線だけで護衛の足を止めたように見えた。護衛が足を止めたのは、師匠の視線のせいか、それとも“何か”を感じたからか。いずれにせよ、そこには言葉にしにくい力関係があった。
師匠は続ける。
「罰をちらつかせるなら、先に守りを用意しろ。守りが無いのに縛れば、夜に誰かが勝手に動く。動いた奴が死ぬ。死んだら噂が広がる。噂が広がったら、お前の紙が汚れる」
役人の顔がわずかに歪んだ。“紙が汚れる”という言い方は、役所の急所を正確に突いている。村人の恐怖より、上の評価より、まず書類。師匠はそれを知っている。知っていて、あえて言う。
役人は息を整え、言葉を選び直した。
「……罰金は撤回するとは言わん。しかし猟師が来るまでの間は、村の自主判断に任せる。危険と判断すれば、夜は閉じこもれ。役所は責任を追及しない」
その言い換えが、どこか滑稽だった。結局、責任の所在を曖昧にしただけ。だが村としては“縛りが減った”のは助かる。師匠は勝ち負けではなく、必要な結果だけを取りに行っている。
役人は話を畳みに入った。
「明日の昼、猟師隊が到着する。案内は庄長が選べ。……そして蒼玄殿、あなたにも同行を頼みたい。山に詳しい者が必要だ」
師匠は即答しなかった。沈黙が、松明の火の音を大きくする。ぱちり、ぱちりと油がはぜる音が、誰かの鼓動みたいに聞こえた。
師匠は僕のほうを見た。視線は短い。だが、その短さの中に「手順を思い出せ」と言われた気がした。
(役所に連れて行かれる流れは、まずい)
師匠が役所と繋がると、村で静かに暮らせなくなる。師匠の“お願い”が、また別の形で破られる。あの焚かれ方――門派が焼かれた夜の影――が、役所の火と混ざる気配がする。
僕は一歩、前へ出そうになり、止めた。間合い。ここで前に出るのは“剣”ではない。“言葉”の場だ。言葉の間合いを取り違えると、誰が何を守りたいのか見失う。
父が、先に口を開いた。
「蒼玄さんは高齢だ。山に入るなら危険が増す。案内は村の若い者が出す。蒼玄さんには、村の中で見張りの助言をしてもらう」
父の声は落ち着いていたが、硬さもあった。役所に逆らうわけではない。しかし譲れないところを譲らない。庄長代わりの矜持だ。
役人――曹は父を見下ろし、少し考え、頷いた。
「分かった。蒼玄殿は村に残れ。ただし、明日、猟師隊の指揮者があなたに話を聞きたいと言うかもしれん。そのときは協力してほしい」
師匠は、肩をすくめるように小さく頷いただけだった。
会合はそれで終わりかけた。村人が少しずつ解ける。火の輪が崩れていく。人が散ることで、恐怖がそれぞれの家へ持ち帰られていくのが分かる。だが、散る前に“段取り”を決めなければならない。
師匠が、広場の端から父に近づいた。近づき方が、静かだ。音を立てない。気配を薄くする歩き方で、必要な距離だけ詰める。
「劉義」
「……はい」
「明日の案内、選ぶなら“二人”にしろ。三人以上は見栄が混じる。見栄が混じると死ぬ」
父は眉をひそめたが、否定しなかった。師匠の言葉は、村の男たちがこれまで見てきた現実と繋がっている。
「そして案内は、山を知る者より、“退く線を守れる者”を出せ。山を知ってても退けない奴は死ぬ」
その言葉が、妙に胸に刺さった。退く線を守れる者。つまり、僕が教わってきたことそのもの。
父の視線が、僕へ流れた。村の男たちの目も、同じ方向へ集まる。昨日の夜、僕が前に出たこと。今日、段取りを提案したこと。全部が今この瞬間に一本の線で繋がって、「案内役」という役目の形を取ろうとしている。
(……来たな、これ)
足が速いから。段取りができるから。怖くても動けるから。そういう理由で、危ない役回りが寄ってくる。世界が違っても、仕組みは同じだ。
師匠は僕の目を見て、ほんの僅かに首を振った。前に出るな、という合図にも見えたし、焦るな、という意味にも見えた。
そのとき、役人――曹の護衛の片方が、広場の外側を見て低く言った。
「……烏が、増えている」
みんなが一斉にそちらを見る。夜空に黒い影が輪を描き、村の外れ――山道の方向へ集まっていく。鳴き声が短く、急いている。何かが、動いた匂いだ。
師匠の鼻が、もう一度わずかに動いた。
「来た匂いじゃない。……“通った”匂いだ」
役人が聞き返す。
「何だと?」
師匠は答えず、父だけに言った。
「今夜、見回りを増やせ。だが追うな。松明の火を切らすな。火の輪を途切れさせるな」
そして僕を見た。
「青嶺。お前は、村の外れへ行くな。……行くなら、わしの後ろを踏め」
その言葉は命令ではなく、“手順”の指定だった。師匠が前に出るということは、役所より先に、山の影が動き始めているということだ。
広場の火が揺れ、烏の輪が夜空を裂くように回る。村人の誰かが息を呑み、誰かが子どもの肩を抱き寄せる。
役人――曹が、苛立ちを隠さず言った。
「蒼玄殿、あなたは今夜、村の外へ出るつもりか。役所の許可なく動くのは――」
師匠は役人を見ずに、淡々と言った。
「許可が降りるまで待ってたら、許可を出す奴の紙が真っ赤になる」
僕は腹の底で息を吸い、ゆっくり吐いた。火の輪の外は闇だ。闇の向こうには山がある。山の向こうには、今日見た影がある。
そして明日、猟師隊が来る。役所の論理がさらに増える。村の暮らしの上に、別の言葉が乗る。
その前に、今夜の“通った匂い”を見逃したら、次にどこが裂けるか分からない。
師匠が松明を一本、手に取った。燃える音が小さく鳴り、火が師匠の横顔を照らす。皺の奥に、昔の戦の影が一瞬だけ見えた気がした。
「行くぞ」
師匠が短く言う。
僕は一歩だけ遅れて、その背中の後ろに立った。間合いを外さない距離。呼吸を腹に落とし、視野を広く保つ。今夜は眠りへ落ちる話ではない。村の境目が、また薄くなる夜だ。
広場の火の輪から、師匠と僕が外へ出る。その瞬間、村人たちの視線が一本の道になる。
山道の闇が、こちらを待っている。




