第2話 村の日常と小さな火種
——この銀霜帝国の中央に、「文」と「武」の頂点を競う学び舎――銀霜学院が存在していることを。
そして、そこが、僕の第二の人生の本当の出発点になることを。
……もちろん、そのときの僕は、そんなことを何ひとつ知らなかった。
知っていたのは、藁の匂いと、土の冷たさと、今はもう日本じゃないという現実だけだ。
◆ ◆ ◆
窓から吹き込む朝の風が、頬を撫でた。
まだ完全には昇りきっていない太陽の光が、村の屋根と畑を薄く照らしている。
土の道を走る子どもたちの足音。牛の鳴き声。誰かが薪を割る音。
ぜんぶが、「ここで生きろ」と言っているみたいだった。
(文階と武階。どっちも登りきる――か)
さっき胸の中で立てた誓いを、もう一度、心の中でなぞる。
そのとき。
「おーい、青嶺ー。起きてるかー?」
背中の方から、聞き慣れた声が飛んできた。
振り向くと、開け放した戸のところに、父さん――劉大山が立っていた。
いつもの麻の上着に、腰には縄の帯。日に焼けた顔には、細かい皺と人の良さそうな笑い皺が刻まれている。
「起きてるよ、父さん」
「おう。さっさと顔洗ってこい。今日は田んぼの様子も見に行かねぇといけねぇからな」
そう言いながら、父さんは僕の顔をじっと覗き込んできた。
「……本当に平気か? 昨日、田んぼでぶっ倒れたんだぞ。
医者呼ぶにも金がかかるしよ、お前まで倒れられたら、俺の心臓がもたねぇ」
「大げさだなぁ。ちょっとふらついただけだよ」
「ふらついて泥に突っ伏したやつの台詞じゃねえな、それ」
父さんは、わざとらしくため息をつきながらも、目つきはどこかほっとしている。
前世の「体調悪そうですね、でもこの資料だけお願いできます?」という上司の顔を思い出す。
それとはまるで違う、「本気で心配してくれている人の顔」だ。
「本当にきつかったら、ちゃんと言えよ。今日は、畦道の草を刈るくらいでいい。
重い荷物は俺と村の連中でやるから」
「うん。無理はしない」
素直に頷くと、父さんは満足そうにうなずき、外を親指で指した。
「井戸で顔洗ってこい。帰ってきたら朝飯だ」
「はーい」
返事をして部屋を出る。土間を抜け、外に出ると、朝の空気が一気に肺に入り込んできた。
◆ ◆ ◆
家の前の土の道には、すでに何人かの村人が行き交っていた。
水桶を担いで井戸に向かうおばさんたち。
山に薪を取りに行く老人。
眠そうな顔をこすりながら牛を引く少年。
劉青嶺としての記憶が、自動的に名前をくっつけてくる。
(あれが向かいの王おじさん。こっちが、昨日魚をくれた張おばさん……)
前世の通勤電車みたいな「名前のない人の群れ」じゃない。
顔と名前と、昨日話した内容までセットになって、ちゃんと覚えられている人たちだ。
井戸で顔を洗い、冷たい水で頭も軽く濡らす。
水面に映る自分の顔は、まだあどけない少年のそれだったが、目の奥だけは、自分でも少し大人びて見えた。
(歯車から、プレイヤー側へ。……やれるかどうかは、こっからだな)
そう思いながら水滴を払っていると、背後から元気な声が飛んできた。
「おーい、青嶺ー!」
振り向くと、いつもの二人がこっちに向かって走ってくる。
がっしりした体つきに丸刈り頭の少年――趙阿虎。
その隣で、痩せ型で目つきの鋭い少年――趙阿文。
阿虎は僕と同い年の幼なじみ。阿文は一つ年上で、阿虎の従兄だ。
「なんだよ、もう起きてんのか。昨日、田んぼでバタッていったって聞いたぞ」
阿虎が息を弾ませながら顔を覗き込む。
「父ちゃん、すげぇ焦ってたぞ。『医者呼ぶ金が〜』って」
阿文が、父さんの真似をして肩をすくめる。妙に似ていて笑いそうになる。
「ちょっと立ちくらみしただけだって。ほら、ちゃんと動けてる」
僕は軽くその場で跳んでみせた。
「うーん……確かに、死にそうな顔ではねぇな」
「前より目つき悪くなってるけどな」
「失礼だな、お前」
そう言い合っていると、家の方から父さんの声が飛んだ。
「おーい、青嶺ー! 腹減っただろ、先に食っちまえ!」
「はーい! 阿虎たちも一緒に食べてく?」
「マジで!? 行く行く!」
「図々しいな、お前」
文句を言いつつ、阿文もちゃっかりついてくる。
こういうところは、前世でいた「いつも他部署の机でお菓子食べてる先輩」に似ていた。
◆ ◆ ◆
朝食は、雑穀の粥と、漬け野菜と、昨夜の残りの干し肉。
父さんと、僕と、阿虎と阿文。
四人でテーブルを囲むと、家が一気に賑やかになる。
「ほら、こぼすなよ阿虎。お前は食べるときいつも戦場みてぇになるんだから」
「戦場で飯食ってもこぼさねぇし!」
「戦場行ったことねえだろお前」
僕がツッコミを入れると、父さんが声を上げて笑った。
「いいなぁ、お前たちは。朝から元気でよ」
笑いながらも、父さんの目の下にはうっすらとしたクマがある。
劉青嶺としての記憶が、昨夜、父さんが遅くまで倉や道具の確認をしていたことを教えてくれる。
(徴税の日が近いから、か)
胸の奥が、少しだけ重くなった。
◆ ◆ ◆
朝食を終えると、父さんと一緒に田んぼへ向かう。
土の道を抜けると、陽がだいぶ高くなってきていた。
朝霧は薄れ、代わりに水面から立ち上る湯気のようなもやが、田の上に漂っている。
遠くからは、牛の鳴き声と、人の掛け声が聞こえてきた。
田んぼは、村の生活そのものだ。
この一枚一枚が、そのまま税として数えられ、帳簿の数字に変わる。
(紙の上の数字になる前の「現物」を見るって、こういう感じなんだな)
前世では、Excelのセルの中の「1」が何人分の生活費なのか、いつもぼやっとしか見えていなかった。
今は、目の前に、米になる前の稲があり、それを植えるための泥があり、腰を曲げて働く人たちがいる。
「青嶺。今日はこの畦の草を刈るだけでいい。無理すんなよ」
父さんが、少し低めの畦道と、その脇の草地を指さす。
「わかった」
鎌と小さめの籠を受け取り、僕は畦の脇にしゃがみ込んだ。
ざく、ざく、と湿った音がして、草が根元から倒れていく。
土と草の匂いが、鼻の奥をくすぐった。
(こういう地味な作業も、結局は「制度」の一部なんだよな)
この草を刈らなければ、畦は崩れ、田は水を保てず、収穫は減る。
収穫が減れば、税は同じ量だけ取られて、家の蔵だけが軽くなる。
「現場」を見ながら制度を考えられるというのは、前世ではなかなかできなかった贅沢だ。
「今日は昼前には役人が来るってよ」
少し離れた畦を歩きながら、父さんがぼそっと言った。
「村長が朝から走り回ってた。『準備しろ、準備しろ』ってな」
「役人……徴税の?」
「ああ。都からの命令だとよ。
『外敵がどうの』『軍備がどうの』って、立派なことを言ってたらしい」
父さんは鼻で笑う。
「こっちから見りゃ、『今年もたくさん持っていきます』って話にしか聞こえねえけどな」
(やっぱり、どこも同じこと言うんだな)
前世で何度も聞いたフレーズが、少し言い換えられた形で蘇る。
国の安全。将来世代への責任。財政健全化。
聞こえはいいが、「今ここから取る」ことの言い訳にされやすい言葉たちだ。
鎌を動かしながら、頭の中では別の歯車が回っていた。
(徴税の現場、きっちり見ておいたほうがいいな)
誰が来て、どう振る舞い、何を数え、どんな言い訳をするのか。
それを覚えておけば、いつかどこかで「反撃」の材料になるかもしれない。
そんなふうに考えていたときだった。
◆ ◆ ◆
「おい! それ、うちの畦まで刈ってるだろ!」
少し離れたところから、甲高い声が響いた。
「はあ? ここまでがうちの田だって、前から決まってんだろ!」
応じたのは、聞き慣れたがなり声だ。
顔を上げると、畦の上で少年が二人、向かい合っていた。
一人は、さっきまで一緒にいた阿虎。
もう一人は、隣の李家の息子・李昌、僕たちより一つ下の、気の短いことで有名な少年だ。
「この石までがうちの境目だって、爺ちゃんが言ってた!」
「それは去年までだろ! 洪水で畦が崩れて、作り直したときにこっちに寄ったんだよ!」
「嘘つけ!」
昌が阿虎の胸をどんと押す。
阿虎も「なんだと!」と一歩踏み出した。
足元はぐちゃぐちゃの泥だ。二人ともこのまま押し合えば、田んぼにまとめて落ちるのは目に見えている。
(はいはい、フラグ立てない)
僕は鎌を土に突き立て、立ち上がった。
「父さん、ちょっとあっち行ってくる」
「ああ。お前に任せた」
父さんは一瞬こちらを見てから、特に止めずに頷いた。
こういうときに任せてもらえる程度には、僕は「落ち着いてるやつ」として見られているらしい。
畦道を駆け上がり、二人の間に割って入る。
「おいおい、田んぼの真ん中でレスリング大会するつもり?」
「青嶺! 聞いてくれよ、こいつがよ――!」
「こいつが勝手に畦を――!」
二人が同時に僕に向かって叫ぶ。
僕は手のひらを向けて、片方ずつ制した。
「声でかい。今、村の入口の方から馬の音しなかった?」
わざと少し小さめの声で言うと、二人はぴたりと黙った。
「……役人?」
昌がごくりと唾を飲む。
「だろうな。あいつら、村に来るときはだいたいあの音だ」
少し離れた畦の上で、大人たちもこっちを気にしている。
「頼むから変なことするなよ」という視線が集まってくるのが分かった。
「お前らがここで殴り合って泥まみれになって、役人に見つかったらどうなると思う?」
「……怒られる」
「下手したら親まで怒られる。『あそこの家は問題がある』ってな」
僕は、わざと事務的な口調で言う。
「この村で『問題がある家』ってレッテル貼られるの、誰が一番困る?」
「……うち」
阿虎がぼそっと言い、昌も渋い顔でうつむいた。
「じゃあ、とりあえず殴り合いはナシな。
境目の話は――」
僕は足元の畦をじっと見た。
土の盛り上がり方。草の生え方。
去年の洪水で崩れた部分と、新しく盛り直した部分。
(こっち側の色が少し違う……新しい土だな。水の流れも微妙に変わってる)
劉青嶺としての記憶が、去年の大雨の光景を引っ張り出してくる。
川があふれ、畦が崩れて、みんなで土を運んで積み直したあの日。
そのとき、境目が曖昧なままになった。
「結論から言うと――どっちも少しずつ損してる」
「はあ?」
阿虎と昌が同時に声を上げる。
「阿虎んち側は、畦を作り直したときに土地がちょっと削られてる。
昌んち側は、その分、水が多めに流れ込む形になってる」
「それ、うちが得してるってことじゃねぇか!」
「いや、洪水のときは危ないけどな」
僕は肩をすくめた。
「どうしても境目をはっきりさせたいなら、村長呼んで竹の物差しで測ってもらえばいい。
あの人、そういう話は意外ときっちりやるから」
「村長に……?」
「今からでも間に合うだろ。徴税の話でどうせ村長の家にみんな集まる。
そのときに、『畦の境目もついでに決めてください』って頼めばいい」
昌が、まだ納得しきれない顔で唇を噛む。
「……でもさ」
「ん?」
「今ここで引いたら、負けたみたいじゃねぇか」
ああ、その感覚は分かる。
前世でも、「この場で言い負かされたら負け」だと思って、無駄に会議を長引かせる人間は山ほどいた。
「負けかどうか決まるのは、今日じゃない」
僕は静かに言った。
「今日のところは、『殴り合いをやめて、大人に判断を預けた』ってだけ。
飛び蹴り入れて泥だらけになるより、そのほうが頭いいだろ」
「……なんか、むかつくけど、言ってることはわかる」
阿虎が頭をかきむしり、昌は「ずるい言い方だ」とでも言いたげにそっぽを向いた。
「じゃあこうしよう。村長のとこ行くとき、僕も一緒に行く。
『畦の境目をはっきりさせたい』って話、三人でまとめて持っていこう」
「……それなら、いい」
先に折れたのは昌だった。
「お前が一緒なら、変な決め方はされねぇ気がするし」
「え、俺は?」
「阿虎は、なんか勢いで損しそうだから」
「ひでぇ!」
そんなやり取りをしていると、畦の下から別の声がした。
「お前ら、ほんっと朝から騒がしいな」
見下ろすと、阿文が鎌を肩に乗せてこちらを見ていた。
「青嶺、お前、たまに村長より“村長っぽい”こと言うよな」
「褒めてる?」
「半分な。もう半分は、『敵に回したくねぇ』って意味だ」
阿文が肩をすくめる。
その視線の中に、ごくうっすらとした警戒と、同じくらいの期待が混ざっているのを感じた。
(今は、それでいい)
頭一つ抜けていることは、もう隠しようがない。
なら、少なくとも「無闇に暴れないやつ」として認識されるほうがいい。
◆ ◆ ◆
昼前。
遠くから、馬の蹄の音と、車輪が軋む音が聞こえてきた。
村の入口の方角から、土煙がゆっくりと近づいてくる。
先頭を行くのは、丸い腹を揺らして馬にまたがる中年の男。
頭頂部が寂しくなりかけた髪を油で撫でつけ、光沢のある衣を着ている。
その後ろに、槍を持った護衛が二人。
さらに後ろには、分厚い帳簿を抱えた痩せた男が馬車に揺られていた。
(あれが――徴税の役人)
劉青嶺の記憶が、名前と役職を教えてくる。
郷から派遣されてくる徴税官・周と、その書記。
村長の家で酒を飲み、太鼓腹を揺らしながら説教をする――そんな光景が何度も繰り返されてきたらしい。
「銀霜帝国の忠実なる民よ!」
馬上から、周が声を張り上げた。
「今年もよく働いてくれた! 外には蛮族が牙を剥き、内には不逞の徒が蠢いておる!
そやつらを鎮めるためにも、お前たちの汗と血で育ったこの穀物が必要なのだ!」
(来たな、“テンプレ演説”)
思わず心の中で突っ込む。
言葉の内容は違うが、前世で何度も見た「大臣挨拶」や「改革スローガン」と同じ匂いがする。
村人たちは、一斉に頭を下げた。
誰もが、顔を上げずにやり過ごすことに慣れている。
帳簿を抱えた痩せた男が、冷たい目で村の方を見回した。
手にした筆が、紙の上で小さく動く。
(あの帳簿、一回中身覗かせてくれないかな)
もちろん、今の僕にそんな権限はない。
けれど――
(いつか、同じ帳簿を、別の立場から見る側に回る)
そう決めるだけなら、誰にも文句は言われない。
村の日常の中に、制度の歪みと、その隙間が見え始めた日だった。
◆ ◆ ◆
徴税が終わった夕方。
村の空気は、いつもより少しだけ重かった。
蔵の米俵は目に見えて減り、自分の家の戸口で肩を落とす大人たちの姿があちこちにある。
そんな中、道端にへたり込んでいる三人組がいた。
阿虎。阿文。そして李昌。
「……終わったな」
「終わったけど、蔵がスカスカなんだよなぁ……」
「来年、洪水来たらマジで詰むぞ……」
三人とも、昼間とは打って変わって元気がない。
「お疲れ」
声をかけると、三人が一斉に顔を上げた。
「青嶺んち、どれぐらい取られた?」
「うち? まあ……父さんの顔見れば、だいたい察しがつくよ」
苦笑しながら答える。
「でもさ」
僕は道端にしゃがみ込み、土を指先でなぞりながら続けた。
「今年どれだけ持っていかれたか、ちゃんと覚えとこう」
「覚えたところで、なんか変わるのかよ」
昌が、さっきとは別の意味で不機嫌そうな顔をする。
「すぐには、変わらない。
でも、覚えてなきゃ、『おかしい』って言うことすらできないだろ」
前世で、どれだけ多くの「よく分からないままサインした書類」があったかを思い出す。
「どこでどれだけ歪んでるのか。
誰がどれだけ損してるのか。
それを知ってる人間が増えれば増えるほど、いつか、どこかで“限界”を超える」
「……よく分かんねぇけど」
阿虎が頭をかきむしった。
「青嶺がなんか考えてるなら、とりあえず覚えとくわ。俺、数字とか苦手だけど」
「俺も苦手だなぁ。字もあんまり得意じゃねぇし」
昌が肩をすくめる。
「じゃあ、そういうのは僕がまとめる。
お前らは、『今年、うちから米俵何個出たか』だけ覚えとけ」
「それならギリいける」
「ギリかよ」
そんなやり取りに、阿文がふっと笑った。
「なんかさ」
「ん?」
「こういうときに、『とりあえず覚えとこう』って言うやつが、一番怖いんだよ。
役人でも、武人でもなくて、“覚えてるやつ”」
「褒めてる?」
「さあな」
阿文は立ち上がり、伸びをした。
「でもまあ、俺はそういうの、嫌いじゃねぇよ」
夕焼けが、三人の横顔を赤く染める。
村の日常は、こうしてただ流れていく。
その中で、ほんの少しだけ、何かが動き始めている――そんな気がした。
評価していただけますと幸いです!!
よろしくお願いします!




