第19話 山道に残る「異常な爪痕」
松明の煙は、布団の中まで追ってきた匂いだった。煤の苦さと、焦げた油の甘さ。その下に、獣の湿った毛皮と、血の生温さが混ざって、鼻の奥にしつこく居座る。昨夜の出来事を思い出そうとしなくても、呼吸するだけで、勝手に蘇る種類の記憶だ。
村は朝から動いていた。鶏の声がして、桶が井戸から上がる音がして、畑へ向かう足音が土を踏む。昨日、狼の群れが出たことを知っているはずなのに、人はいつも通りの手順をなぞる。そうしないと、怖さが家の中に入り込んでしまうからだ。生活は、恐怖に対する一番古い防壁なのかもしれない。
土間で母――蘭が鍋を洗っていた。僕が戸を開ける音で振り返り、顔色を確かめるように目だけ動かす。何も言わなくても、昨夜の続きがまだ身体に残っているのは見えるのだろう。
「柵の修理、手伝ってくる」
そう言うと、母は一度だけ唇を結んだ。止めたいのに止めれば不安が膨らむ、という顔になる。結局、母は小さく頷いて、言葉を押し込める代わりに、僕の袖を一瞬つまんだ。
「……帰り道、山の影をよく見て。変な音がしたら、すぐ戻るんだよ」
「うん。戻る」
約束の言葉は、思ったより重かった。昨夜は「戻る」が手順の一部だった。今朝は「戻る」が、母の願いになる。
村の端へ行くと、柵の周りに男たちが集まっていた。杭を打ち直し、縄を張り直し、倒れた板を運び、土を踏み固める。誰かが笑い話で空気を軽くしようとするが、声の調子が上滑りする。笑いが長く続かない。それだけ、みんなの目が柵の外を意識している。
父――劉義がいた。昨日より寡黙で、手が止まらない。寝不足の目をしていても、村を回す段取りを外さないのは、こういう場所で生き残ってきた人間の強さだと思う。
「青嶺、寝てろと言ったろ」
「寝た。でも眠れなかった」
父は短く息を吐いた。叱るというより、諦めるような吐息だ。
「……なら、縄を持て。結び目は固くしろ。狼は歯で引く。緩いところから壊す」
僕は言われた通り、縄を受け取り、杭の周りを回った。結び目を締める。締めたあと、もう一度締める。引いて確かめる。昨夜の手順と同じだ。怖いときほど、順番を守る。
柵の外側には、踏み荒らされた草が残っている。血の跡は薄いが、土の色がわずかに黒い。狼が一匹、肩を引きずって消えた方角――山へ向かう斜面――を見たとき、烏の鳴き声がやけに鮮明に耳に入った。
カァ、カァ、といういつもの声ではない。短く、焦るような鳴き方で、同じ方向から何度も聞こえる。烏が集まるときは、だいたい“何かがある”。畑の種でも、死体でも。
「……烏が騒いでるな」
誰かが呟いた。呟きが伝染するように、男たちの視線が同じ場所へ流れる。山のほうを見て、誰もが口数を減らす。あそこへ行けば「何か」が分かる。でも分かったところで、手に負えるとは限らない。
僕は呼吸を腹の底に落とした。吸って、吐く。吐くほうを長く。昨夜、息が跳ねた瞬間、視野が狭くなったのを覚えている。怖さは、息から入ってくる。
(師匠に聞く)
勝手に山へ入れば、それこそ英雄ごっこだ。師匠の言う“死ぬ型”に自分からはまりに行く。
柵の補強が一段落したころ、父に声をかけた。
「裏山、行ってくる。師匠に相談する」
父は僕の顔を見て、少しだけ迷った。昨日、僕の動きに“違和感”を覚えた目だ。だが、迷いの先に出た言葉は、意外と現実的だった。
「蒼玄さんに会うなら行け。ただし、山の奥へ入るな。追うな。見たら戻れ」
「分かってる」
父は頷き、僕の背中に手を置きかけて、やめた。昨日みたいに肩を叩けば痛い、ということを思い出したのかもしれない。それでも手を引っ込める動きが、どこかぎこちない。
「……お前が速いのは助かる。だが速い奴ほど、先へ行きたがる。先へ行くな」
釘を刺す言い方だった。僕はもう一度、頷いた。
裏山への道は、昼でも湿っていた。苔が石段を覆い、落ち葉が積もり、踏む場所を選ばないと足を取られる。けれど今日は、足裏が地面を捉えている感覚が少し違った。昨夜の恐怖で、身体が「地面を探す」ようになっている。怖さが、技術に変わり始めているのが分かるのが、逆に怖い。
祠が見えた。木々に抱かれた小さな石の影。村の誰も由来を語れない場所。けれど師匠が居ついてから、この場所は「ただの古い祠」ではなくなった。空気が、境目の匂いを帯びている。
祠の裏へ回ると、木剣の風切り音はなかった。代わりに、師匠――蒼玄が地面に屈んでいた。棒も持たず、土の表面を指でなぞり、落ち葉を払い、何かの輪郭を確かめている。
師匠は、顔を上げずに言った。
「来たか。眠れんかった顔じゃ」
「眠れませんでした。……師匠、昨日の報告です」
「順に言え」
僕は、昨夜のことを“手順の順番”で話した。匂い、風向き、目の数、群れの前に出た一匹、肩を狙ったこと、合図、退き、追わなかったこと。感想を混ぜると話が散るので、淡々と並べた。師匠は途中で一度も口を挟まない。その無言が、僕に「余計な飾りを捨てろ」と言っているみたいだった。
話し終えると、師匠は短く言った。
「山狼は、腹が減って下りたんじゃない」
胸の奥が冷えた。昨夜の動きが正しかったかどうかより、この一言のほうが怖い。
「追われて下りた。だから無茶をした」
「追われて……何にですか」
師匠は立ち上がり、祠の裏からさらに山側へ顎を向けた。
「見せる。だが近づきすぎるな。見たら戻る。これを忘れるな」
師匠の歩き方は、いつ見てもおかしい。年寄りのそれではない。足裏が落ち葉を“踏む”のではなく、“沈めて使う”。重さを預けて音を吸わせ、身体の上半身は揺らさない。呼吸は胸ではなく腹で動いていて、肩が上下しない。歩いているのに、戦っているような静けさがある。
少し進んだところで、師匠が止まった。
木の幹に、縦に走る深い傷があった。一本ではない。三本、四本が並び、木の皮だけでなく白い中身まで抉れている。爪痕だ、と頭が理解するより先に、身体が一歩退いた。
狼の爪でこんな傷はできない。犬でも無理だ。爪の幅が違う。力が違う。何より、傷の“深さ”が、こちらに向けられた意思みたいに感じられる。
地面には、落ち葉の下に黒い染みがあった。乾きかけた血。さらに、その近くに転がる骨。鹿か山羊か、村でも獲れる小さな獲物の骨だが、折れ方が異常だった。噛み砕いたというより、押し潰して割ったような割れ目がある。
師匠は棒の先で骨を少し動かし、地面の土をつまんで指で潰した。
「噛む力が違う。顎の幅も違う。山狼じゃない」
僕は喉の奥が乾くのを感じた。
「……じゃあ、何なんですか」
師匠はしばらく黙った。黙り方が、答えを重くする。
「妖獣だ」
初めて聞く言葉なのに、意味だけが先に理解できた気がした。普通の獣ではない。大きいとか速いとか、そういう尺度の外側にいるもの。
「妖獣……」
「長く生きた獣が、山の気を喰う。血の味を覚え、骨の味を覚える。そうして“普通”から外れる。中には、人が作るものもおる。喰わせて飼い慣らし、使う外道もな」
“人が作る”という言い方が、別の種類の寒気を運んできた。獣は怖い。だが、人が意図して獣を“外す”なら、それは獣より先に、人間の闇がここまで伸びているということになる。
師匠は祠の方向を一度だけ見た。あの夜、「祈りではない、お願いだ」と言って両手を合わせた場所だ。
「まだ、この山に居ついたとは限らん。通り道かもしれん。だが通り道なら通り道で、厄介だ。追われた狼は、また下りる。次は牛じゃなく人を選ぶかもしれん」
僕は息を吐いた。吐くことで、胸の奥の震えが少しだけ落ち着く。師匠はそれを見て、短く頷いた。
「胸で吸うな。腹で息をしろ。息が浅いと視野が狭くなる。視野が狭いと、世界が怖く見える。怖く見えると、前しか見なくなる。前しか見ない奴から死ぬ」
淡々とした言葉が、手順みたいに並ぶ。どれも脅しではない。経験の結論だ。
そのとき、遠くで枝が折れる音がした。乾いた音。小動物のそれではない。重いものが踏んだ音だ。木々の奥で、葉がざわりと揺れる。風がないのに揺れる。
師匠の動きが止まった。僕も止まった。
師匠は指を一本立て、次に手のひらを下へ向けて、ゆっくり落とした。“動くな”“下がれ”の合図が同時に来る。矛盾しているように見えて、実は一つの手順だ。上半身は動かさず、足だけ下げる。音を立てず、落ち葉を沈めて使う。
黒い影が見えた。狼より低いが、横に厚い。肩が盛り上がっていて、毛が光を吸うように黒い。目が赤い――ように見えたのは、たぶん反射だ。そう思いたい。影は一瞬止まり、こちらを嗅いだ。匂いが届く。腐った水みたいな苦さと、鉄が濡れたような鈍い匂いが混ざる。
僕の背中が固まりかけた瞬間、師匠の背中が壁になった。剣も棒もないのに、そこに立つだけで「ここから先へ来るな」と言っているみたいに見える。師匠は呼吸をしていた。吸って、吐いて、吐く。吐くほうを長く。息の音が聞こえないのに、静けさだけが増していく。
影が低く唸り、もう一度嗅ぎ、そして向きを変えた。枝が折れる音が遠ざかる。黒いものは木々の奥へ溶けた。
僕はようやく息を吸った。肺が震えた。
「……今のが」
「可能性が高い」
師匠はそれ以上、言い切らなかった。「名を付けると縛られる」と言ったときの顔が、ほんの少しだけ歪む。昔、何かを名で判断して間違えたのかもしれないし、名を知っているからこそ言いたくないのかもしれない。
「追わないんですか」
自分の口から出た言葉に驚いた。追いたいわけではない。ただ、“追わない理由”を身体に刻みたい。
師匠は短く言った。
「追ったら死ぬ」
それだけだった。余計な言い回しがないほど、言葉が刃になる。
「今日は稽古はせん。お前の足は昨日の夜で十分いじめられた」
師匠は踵を返し、祠へ向かった。僕も後ろに付く。戻る途中、師匠がぽつりと漏らした。
「祠があるから、この辺りはまだ持つ」
「祠が……?」
「境だ。山の奥と、人の暮らしの境。札が打ってある。弱い獣は越えたがらん。だが追われれば越える。境を越えた獣は、次に何を選ぶか分からん」
祠の前へ戻ると、師匠は石段に腰を下ろし、僕を見た。
「村へ戻れ。今夜の見回りは続く。だが、合図だけでは足りん。合図の先を決めろ。退く線、集合する場所、灯りの置き場所、逃げ道。怖いからこそ、段取りを増やせ」
僕は頷いた。怖さを消すのではなく、怖さを“設計図”に変える。師匠の教えはずっとそこに繋がっている。
村へ下りる道の途中、烏の鳴き声がまた聞こえた。今度は少し近い。村の端のほうで、人が集まる気配がする。空気が、昨日とは違う張り方をしている。
柵のところへ戻ると、父たちがまだ作業を続けていた。僕は師匠に言われた通り、「退く線」と「集合場所」を提案し、杭を打つ位置と松明の置き場を決めた。誰が合図を出すか、声が枯れたら笛を使うか、笛が壊れたら何をするか。細かい決め事ほど、命を守る。
父は頷きながらも、途中で僕の顔をじっと見た。
「……お前、段取りが妙に早いな」
「怖いから。怖いと、順番を決めたくなる」
嘘ではない。前の世界でも、怖い状況ほど“手順”が必要だった。手順がないと、人は感情で動く。感情で動けば、群れは崩れる。
そのとき、村の入口のほうで馬の蹄が土を叩く音がした。速い。焦りの速度だ。土煙が上がり、見慣れない布――県城の印を巻いた男が一騎で飛び込んでくる。伝令だ。
「劉義殿はいるか!」
父が一歩前に出た。
「俺だ」
伝令は馬上から札を投げ渡した。父が受け取り、目を走らせる。読み進めるにつれて、父の顔色が変わった。村の男たちの背筋が、同時に固くなる。
父は札を握りしめたまま、低い声で言った。
「……県城から、人が来る。狼の件だけじゃない。“山に別の影が出た可能性がある”と、上が動いた」
誰かが息を呑む音がした。村の空気が、さらに一段冷える。僕の背中に、さっき嗅いだ腐った匂いが重なった。
伝令が続けた。
「今夜、村の広場に集まれ。役所の者が話をする。……それと、“山に詳しい老人がいる”と聞いた。名は蒼玄。ここにいるか」
その瞬間、父の視線が、僕へ飛んだ。
村の外の論理が、村の中へ入ってくる。役所の論理。責任の論理。見せしめの論理。江湖の匂いとは別の、冷たい匂い。
僕は腹の底で息を吸い、ゆっくり吐いた。
(師匠……今夜、巻き込まれる)
逃げ道を作るべきは、狼からだけじゃない。人間の言葉からもだ。
父が伝令に答える前に、僕は一歩だけ引いた。誰にも気づかれない程度の、間合いの一歩だ。足の裏で土を探りながら、頭の中で手順を並べ替える。
合図。退く線。集合場所。そして――師匠に、先に知らせる。
僕は父の横顔を見て、小さく言った。
「父さん。僕、師匠に伝えてくる」
父は一瞬だけ迷い、頷いた。
「行け。……ただし、戻れ。お前まで巻き込むな」
「巻き込まれないように戻ります」
そう言って、僕は人混みの縁を滑るように抜けた。瞼を閉じる暇はない。夜が来る前に、師匠と“段取り”を作らなきゃいけない。




