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銀霜帝国記~転生したので、筆と剣で天下を取りにいく~  作者: tenntenn


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第19話 山狼の群れ

 師匠――蒼玄そうげんほこらの前で両手を合わせ、「祈りではない、“お願い”だ」と苦笑した夜から、まだ数日しか経っていなかった。


 それなのに、村の空気は、じわじわと落ち着きを失いつつあった。


 目に見える何かが起きたわけではない。

 けれど、朝の挨拶に混じる声が、ほんのわずかに硬い。

 笑い声の終わりが、どこか耳の奥に引っかかる。


 最初の決定的な違和感は、朝の牛小屋だった。


 


「……おい、誰か来てくれ! 牛が、おかしい!」


 いつもの朝のざわめきの中に、裂け目のように飛び込んできた怒鳴り声。

 木戸のそばでくわを持っていた僕――青嶺せいれいは、手にしていた鍬を土の上に放り出し、声のした方へ駆けた。


 牛小屋の中に踏み込んだ瞬間、むっとした鉄の匂いが鼻を刺した。


 湿ったわらの匂いと、獣の体温の残り香。

 その奥に、妙に生温かい血の臭いが重なっている。


 まだ若い牛が、一頭、床に倒れていた。

 大きな身体が横たわると、小屋が急に狭く見える。


 喉元のどもとには、深くえぐられたようなみ跡。

 そこから流れ出た血が、藁を黒く染めていた。


 血はすでに、ところどころ固まりかけている。

 それでも、床に残ったひづめの跡や、削れた木の板から、ついさっきまで必死にもがいていた様子が想像できた。


「これ……犬じゃないな」


 低くうなるように言ったのは、父――劉義りゅう・ぎだ。

 村では、その体格から「大山だいざん」と渾名あだなされている。

 しょっちゅう僕の肩を叩いてくる大きな手が、今は慎重に血の周りの土を指でなぞっていた。


 土の表面には、いくつもの四つ足の足跡がかすかに残っている。

 乾きかけた土に、鋭く食い込んだ爪の跡。


 踏み込みの深さと間隔から、そこにいたものの重さと速さが、なんとなく伝わってきた。


「爪の食い込みが深い。それに、間隔が広い。……山狼やまおおかみだな」


山狼やまおおかみ?」


 思わず聞き返す。

 前世でも“狼の保護”だの“生息域の縮小”だのというニュースは見たことがあったが、実物は動物園のおりの向こう側の存在でしかなかった。


「このあたりの山にも、たまに下りてくる。

 めったに村の牛までやらんが……腹が減ってるか、何かに追われてるかだ」


 父――劉義りゅう・ぎの声は低く、いつもより重い。


 牛小屋の入口付近には、すでに何人もの男たちが集まっていた。

 その顔には、不安の色がありありと浮かんでいる。


「ほかの小屋は?」


 誰かが問うと、別の男が息を切らしながら駆け込んできた。


「南の端のさくのところでも、一頭やられてた。さっき見てきた」


「二頭……一晩でか?」


 ざわり、と空気が揺れた。

 ささやき声が藁のこすれる音に紛れて広がっていく。


(普通じゃない、ってことか)


 前の世界でも、「トラブルが二つ続いたら、だいたい裏に何かある」と教えられた。


 村の規模からして、家畜が一晩で二頭減るのは、ただの不運では済まされない。

 それはそのまま、家ごとの暮らしに響く数字だ。


「今夜は、見回りを増やしたほうがいいな」


 父――劉義りゅう・ぎの言葉に、周りの男たちが一斉にうなずく。


「南と西の柵沿いに、二人ずつ出すか」


「若い衆からも手ェ借りねえと、人手が足りねえぞ」


 そんな声が飛び交う中で、いくつかの視線が、自然と僕のほうへ流れてきた。


(……嫌な予感しかしない)


青嶺せいれい


 父――劉義りゅう・ぎが僕を呼んだ。


「お前、足が速いだろう」


「“足が速いから”で危ない役回りが回ってくるの、世界どこでも変わらないですね」


「何を言ってるんだかよく分からんが……とにかく、見回りに出るやつは、誰か一人は走れるほうがいいんだ。

 何かあったら、村まで知らせに走る役だ」


「つまり、“真っ先に走って逃げろ”ってことですね」


「そうとも言う」


 父――劉義りゅう・ぎは苦笑したが、その目には油断がなかった。


 さっきまで牛を見て騒いでいた男たちの顔も、徐々に「話を決める側」の表情に変わっていく。

 笑いで誤魔化せる段階は、もう過ぎている。


「分かりました。母さんには、父さんから言っておいてくださいね」


「おう……それは一番骨が折れる仕事だな」


 父――劉義りゅう・ぎが頭をいた。

 確かに、山狼やまおおかみより母――らんを説得するほうが大変かもしれない。


 


 日中は、その話題で村中が持ちきりになった。


 畑ではくわの音と一緒に、山狼やまおおかみの話が飛び交う。

 田のあぜで腰を下ろせば、誰かが必ず、「昔、隣の谷の村が狼にやられたことがあってな」などと、あやふやな昔話を始める。


 柵を補強する音が、あちこちから聞こえた。


 古いくいを抜き、新しい木を打ち込み、縄を締め直す。

 隙間を見つけては埋め、足元の土を固める。


 どの家も、普段以上に真剣に戸板の立て付けを確かめていた。


 子どもたちもただ騒いでいるわけではない。

 年少組は早めに家の中へ押し込められ、年長組はき木や石を運ぶ手伝いに駆り出されている。


 村全体が、見えない何かに対して一斉に身構えるときの、あの特有の緊張感。

 それは、前世で大きな台風が近づいてきたときの町の空気によく似ていた。


(ただの自然災害なら、まだいいんだけどな)


 この世界には、“ただの獣”だけではない。


 師匠――蒼玄そうげんの話に出てきた「妖獣」や、「修行を積んだ武人たちが斬り合う場所」が確かに存在する。


 山狼やまおおかみが里にまで下りてくる理由が、「山の上で何かに追われたから」なのだとしたら――

 その“何か”のほうが、山狼よりよほど厄介だ。


 そんなことを考えると、一瞬だけ背筋が冷たくなった。


 


 夕方、炊事の手伝いをしているとき、母――らんが包丁を置き、僕のそでつかんだ。


「本当に行くのかい、青嶺せいれい


 鍋の中では、根菜と干し肉を煮込んだ汁物が、くつくつと音を立てている。

 立ちのぼる湯気の向こうで、母の顔は少しだけ青ざめて見えた。


「足が速いから、というのは分かるけれどね。

 速いってことは、それだけ“山狼やまおおかみに追われる役”になるってことでもあるんだよ」


「追われる前に逃げますよ」


 できるだけ軽く返す。


 こちらが不安を見せれば、その分だけ母は頑なになる。

 前世でも、親というのはそういうものだった。


「それに、師匠ししょうにもちゃんと教えてもらいますから」


蒼玄そうげんさんのところへ行くのかい」


「はい。どうせ裏山のほうにも狼が出る可能性がありますし」


 本当は、“獣相手の退き方”を聞きに行くつもりだ。

 これまでの稽古はあくまで人間が相手。

 立っている人間の足、腰、腕、その全部を「一枚の画」として捉える訓練だった。


 四つ足で地をうように動く獣を、どういなすのか。

 そのイメージを、頭の中の引き出しにちゃんと入れておきたかった。


「暗くなる前には帰ってくるんだよ」


「分かってます」


 母――らんの手をそっと振りほどき、僕は裏山への道へ向かった。


 夕陽はすでに傾きかけていて、村の屋根を斜めから赤く照らしている。

 水瓶の水面に、揺れる光が細く伸びては消えていく。


 村の外れから見上げる山の稜線りょうせんは、昼間よりも濃く、その上を流れる雲もどこか重く見えた。


 


 ほこらの前には、すでに師匠――蒼玄そうげんがいた。


 今日は木の棒も構えず、石段に腰を下ろし、草のくきを口にくわえている。

 足元には、小さな砂利がいくつも散らばっていて、そのいくつかが、つま先で転がされていた。


「遅かったな、青嶺せいれい


「もう知ってるんですね、師匠ししょう


「朝にはもう足跡を見とったからな。

 山狼やまおおかみの匂いもした」


 さらりと口にした言葉が、妙に重い。


 村の誰よりも早く山の変化に気づいていて、それでも“必要なときまで何も言わない”あたりが、いかにも師匠らしい。


「今夜、村の見回りに出るんですけど」


「聞いとる」


 師匠――蒼玄そうげんは、口にくわえていた草をぷつりと噛み切り、吐き出した。


「何か、山狼やまおおかみ相手の注意ってありますか」


 そう尋ねると、師匠はゆっくり立ち上がり、ほこらの前の地面をつま先でならした。


「まず、一つ目」


 指が一本、すっと立つ。


「絶対に、一人で英雄になるな」


 短い言葉だったが、その芯には、長い年月分の経験が詰まっているように思えた。


「……はい」


「群れで動く獣相手に、一人で派手に立ち回ろうとするやつは、十中八九、死ぬ。

 人間相手でもそうじゃが、獣相手だともっと顕著けんちょだ」


 師匠――蒼玄そうげんは屈み、地面に指で簡単な図を描いた。


 丸がいくつか。

 それを囲むように線が引かれ、柵や林の位置が描き込まれていく。


「村の見回りは、何人で出る」


「四人ずつ、二組です。

 南と西の柵沿いに、一組ずつ」


「お前はどっちだ」


「まだ決まってないですけど、走り役なんで、どっちにも行けるようにって言われてます」


「走り役、か」


 師匠――蒼玄そうげんは、ふっと息を吐いた。


「いいか。

 走り役は、“最初に逃げる役”じゃなく、“最後に逃げる役”だと思え」


「最後、ですか」


「狼が来たら、まず合図を出せ。

 叫んでもいいし、笛があるなら使え。

 周りに知らせて、全員に“構えさせる”のが先じゃ」


 師匠は、地面の丸を軽く叩きながら続けた。


「それから、“退きの合図”を決めておけ。

 松明たいまつを二回振ったら退く、とか、誰かが『下がれ』と叫んだら全員で一歩引くとか。

 各自が勝手に判断してったら、狼のほうがよっぽど統率が取れとる」


 前の世界の会議室の光景が、頭をよぎった。

 部署ごとに勝手な合図を使い、現場が混乱して炎上するプロジェクトたち。


 獣相手でも、人間同士でも、「合図」を共有しないと、負ける。


「二つ目」


 師匠――蒼玄そうげんの指が二本に増える。


山狼やまおおかみと遭ったら、“群れの中の一匹だけを崩す”つもりで動け。

 全部を相手にしようとするな」


「一匹だけ……どれを狙えば」


「群れの前に出て、こっちを試しに来るやつがおる。

 そいつがだいたい、“賢いか、若いか、あるいは両方”じゃ」


 師匠の目が、どこか遠いものを思い出すように細められた。


「そいつを、殺す必要はない。

 肩か脚を狙え。

 動きがにぶれば、群れの足並みが乱れる」


「目は、狙わないほうがいいですか」


「目をつぶされた獣は、痛みと恐怖で暴れまわる。

 そうなると、こっちの陣形が先に崩れる」


 はっきりと言い切る声が、山の冷たい空気を震わせた。


「獣相手では、“確実に仕留めきれん急所”を狙うのは危ない。

 肩、前脚、鼻先。

 そのあたりを木の棒で叩いてやれ。

 それだけでもだいぶ違う」


 三つ目、と言いかけて、師匠――蒼玄そうげんは一瞬口をつぐむ。


 ほこらの奥に置かれた古い神像へと、一度だけ視線を投げた。


「三つ目」


 指が三本に増える。


「退路を、必ず確保しておけ。

 背中を、柵とがけはさまれるような位置に立つな」


「柵の外を見るのに、柵に背中を預けないほうがいい、ってことですか」


「そうだ。

 狼は、正面からだけ来るわけじゃない。

 斜めから回り込んでくる。

 夜ならなおさらじゃ」


 師匠――蒼玄そうげんは、土を軽く蹴ってから、僕の肩をぽんと叩いた。


「怖くなったら、“手順”を思い出せ」


「手順、ですか」


「退き方、合図、狙う場所。

 そういう“順番”じゃ。

 怖いときほど、“何をすべきか”を順番に思い浮かべて動け。

 英雄譚えいゆうたんみたいに、感情で剣を抜くな」


 無名の兵の話が頭に浮かぶ。

 あの兵も、怖くなかったわけではない。

 それでも、「どう退くべきか」を感情より先に選んだ。


「分かりました。

 ……師匠ししょうは、今夜どうしてますか」


「山の上で星でもながめとる」


 軽い口調だが、その奥に微かな硬さがあった。


「何かあったら?」


「何かあってもなくても、山は山じゃ」


 それだけ言って、師匠――蒼玄そうげんは背を向けた。

 けれど、その背中はいつも以上に静かで、その静けさがかえって緊張を伝えてくる。


 


 夜になった。


 空には薄い雲が流れ、ところどころの切れ間から、欠けかけた月がのぞいている。

 月は頼りないが、完全な闇ではないぶん、影を濃くした。


 村の広場には、男たちが集まっている。


 松明たいまつの火が輪になって揺れ、その外側には家々のあかりが点々と散っていた。

 戸の隙間から、子どもたちが目だけを覗かせている。


 彼らの瞳には、怖さと同じくらいの好奇心が混じっていた。


「南側の柵には、俺と青嶺せいれい、それから阿成あせい何進か・しん

 西側には、王三おう・さんたちで行ってくれ」


 父――劉義りゅう・ぎが段取りを確認する声が、火のはぜる音に重なる。


 南側は、昼間二頭目がやられたあたりに近い。

 つまり、今夜一番“来そうな”場所だ。


 阿成あせいは僕と同年代で、腕力はそこそこあるが、武術の型は知らない。

 何進か・しん寡黙かもくだが、丸太を軽々と担ぐ姿を見る限り、力仕事では一番頼れる男だ。


 全員、腰には農具や木の棒をぶら下げている。

 光る刀も、鉄のよろいもない。


 それでも、この村を守るのは、この手しかない。


青嶺せいれい、お前は走り役だが、前にも出ろ」


「はい」


 父の言葉に、自然と背筋が伸びた。


「いいか、皆。

 おおかみを見つけても、勝手に追いかけるな。

 ここから声が聞こえたら、すぐに戻ってこい」


「おう」


 短い返事が重なり、輪の中に沈む。


 松明たいまつに火が移され、一斉に炎が立ち上がる。

 橙色の光が男たちの顔を照らし、その影を地面に長く伸ばした。


 


 南の柵沿いの道は、昼間はただの見慣れた畦道だ。


 だが、夜になると、同じ道がまるで別世界のように感じられる。


 松明たいまつの光が届く範囲だけが、赤く浮かび上がる。

 その外側は、墨を流したような闇に沈んでいく。


 柵の外には畑が広がり、その先に草地と低い林が続いている。

 昼間なら穏やかな景色だが、今は、どこから何が顔を出してもおかしくない“口”のようにしか見えなかった。


 風が草を揺らすたびに、何かが潜んでいる気配を勝手に想像してしまう。

 夜鳥の鳴き声が不意に響けば、胸の奥が跳ねる。


青嶺せいれい、怖いか」


 前を歩いていた父――劉義りゅう・ぎが、視線を前に向けたまま聞いてきた。


「怖いですよ。

 でも、“手順”は教わりました」


「手順?」


「何かあったらまず声を出して、全員に構えさせて、退き方の合図を決めておくこと」


 父――劉義りゅう・ぎが、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「なるほどな。

 蒼玄そうげんさんらしい」


「父さんたちの若いころは?」


「“とりあえずえて飛びかかれ”って教えられたもんだ」


「それで生き残ったから、父さんたちがここにいるんですよね」


「まあ、そういうことだ」


 軽口を交わしながらも、足元から視線を離さない。


 土の踏み心地、柵との距離、風の向き。

 どれも、さっき教わった「退き方」の一部だ。


 呼吸は、腹の底でゆっくりと。

 息を荒くすれば、耳がにぶる。

 耳が鈍れば、危険の足音が聞こえなくなる。


(退き方、合図、狙う場所)


 頭の中で、師匠の言葉を順番に並べる。


 怖さは消えない。

 でも、その上から“手順”を一枚かぶせておけば、足はまだ前に出せる。


「ここらで一度、足跡を見ておきましょう」


 阿成あせいがそう言い、柵の外側を松明たいまつで照らした。


 そこには、乾きかけた土の上に、いくつもの四つ足の足跡が残っている。


「新しいか?」


「昼に見たときより、少し薄いです。

 でも、雨も降ってないし、風も弱いから……昨夜のやつでしょうね」


 僕がそう言うと、阿成あせいが感心したように目を丸くした。


「お前、足跡なんていつの間に」


師匠ししょうに“敵の足も見とけ”って言われてまして」


「なるほどな」


 父――劉義りゅう・ぎが、短くうなずく。


 そのときだった。


 風の向きが、ふっと変わった。


 さっきまで山側から吹いていた風が、今度は林の奥からこちらへ流れてくる。

 その風に乗って、鼻の奥をかすかに刺す匂いが届いた。


 血と、獣の皮。

 それに、土とも汗とも違う、湿った肉の匂い。


「……止まれ」


 父――劉義りゅう・ぎの声が低くなった。

 全員が同時に足を止める。


 耳を澄ますと、自分の鼓動がやけにうるさい。

 意識的に呼吸を細く、長くする。


 鼓動の音の向こう側に――柔らかく土を踏む足音が、いくつも浮かび上がってきた。


 ひた、ひた、と。

 一定の間隔で、じわじわと近づいてくる。


「父さん」


「ああ、分かってる」


 父――劉義りゅう・ぎは、松明たいまつを左手に持ち替え、右手のくわを構えた。


阿成あせい何進か・しん

 柵に背をつけるな。

 少し前に出ろ」


 三人が半月形に並ぶ。


 僕はその後ろに位置取り、松明たいまつを高く掲げた。

 火の先が、かすかに揺れる。


「来るぞ」


 柵の向こうの草むらが、音もなく揺れた。


 次の瞬間、暗がりの中に、黄色く光る点がいくつも浮かび上がる。


 ――目。


 山狼やまおおかみの目だ。


 思っていたより低い姿勢。

 筋肉の詰まった体が、地面すれすれでうねるように動く。

 いつでも地を蹴って飛びかかれるように、身体全体が緩みなくまとまっていた。


(数は……)


 松明の光が届く範囲に三匹。

 少し外側の闇の中にも、気配がまだある。


 全部で五か六。


 村の男四人からすれば、十分に「群れ」と呼べる数だ。


青嶺せいれい、合図だ」


「はい!」


 腹いっぱいに空気を吸い込み、一気に吐き出すように声を上げた。


山狼やまおおかみだ――!」


 叫び声が、夜気を震わせて村の方角に飛んでいく。


 あの声が、別の見回り組と村の家々に届いていることを祈る。


 叫び終えた瞬間、群れの中の一匹が、ぴくりと耳を動かした。


 そいつは一歩前に出て、低くうなる。

 黄色い目が、炎に照らされて細くなる。


(群れの前に出てきた……こいつだな)


 師匠の言葉が、自然と頭の中で形を取る。


 毛並みは他の個体よりきれいで、古い傷が少ない。

 若いが、その目は油断なく光っていた。


 前に出て、こちらの反応を“試す”役。


 


 そいつが、じり、と地面をく。


 爪が土に食い込み、その音が耳の奥で大きく響いた。


阿成あせい、右を見ろ。

 何進か・しん、左だ。

 俺が真ん中をやる」


 父の声に、二人が短く返事をする。


 半月形の陣形が、わずかに締まった。


 僕は半歩下がり、松明たいまつを肩の高さで構え直す。


(退きの合図は、二度振り。

 今はまだ退かない)


 山狼たちは、まだ飛びかかってこない。

 人間の間合いと反応を測っている。


 その間にも、周囲の闇がうごめく気配がある。

 別の個体が、斜めから回り込もうとしているのだろう。


(焦るな。退路を確認しろ)


 背後をちらりと見る。


 柵まで三歩ほど。

 そこから村へ抜ける細い道が続いている。


 三歩下がれば柵の内側。

 さらに数歩走れば人の多い場所に戻れる。


 退路はまだ残っている。


 


 山狼の先頭が、低く吠えた。


 次の瞬間、その身体が地面から弾かれたように跳ぶ。


「来るぞ!」


 父の声とほぼ同時に、僕の身体も動いていた。


 一歩、半身をずらしながら前へ。


 松明の火が、飛びかかってくる山狼の横顔を赤くなめる。


(肩だ)


 棒の代わりに握った長い木のくいを、山狼の肩口へと突き出す。


 目や喉ではない。

 前脚の付け根――肩の関節だ。


 深く刺さらなくても、そこを打てば動きが鈍る。


 ガン、と骨を叩いた手応えが、腕の奥まで突き抜けた。


「ッ――」


 山狼が短く悲鳴を上げ、空中で体勢を崩す。

 四肢がバラバラの方向に伸び、そのまま土の上を転がった。


 同時に左右から、別の二匹が動く。


 右側から来た個体には、阿成の振るった棒が間に合った。

 棒は山狼の鼻先をかすめ、土とつばをはね飛ばす。


 左側から来た個体には、何進のくわが立ちふさがった。

 鍬の刃は斜めに構えられ、一直線ではなく、滑らせるように受け流す形になっている。


 鼻先をかすめられた山狼は、たまらず後ろに跳ね退いた。


「下がれ!」


 父の声が飛ぶ。


 僕は反射的に、松明を素早く二度左右に振った。


 退きの合図。


 全員が一歩、同時に下がる。


 山狼との間に、新しい「間」が生まれる。


 肩を打たれた個体が、よろよろと立ち上がろうとしていた。

 しかし前脚に力が入らないのか、すぐに崩れ、土をきながら低くうなる。


 その様子を、周りの山狼たちが静かに見ていた。


 見捨てるでもなく、かばうでもなく。

 ただ、“状況を読み取っている”ような目つきで。


(……どうする)


 師匠の言葉が頭をよぎる。


 ――賢い群れなら、一度引く。

  おろかな群れなら、その場で暴れる。


 今、目の前にいる山狼たちは――前者だった。


 先頭にいた別の個体が、短く吠える。


 それを合図に、山狼たちはじりじりと後退し始めた。


「追うなよ!」


 僕が叫ぶ前に、父が同じ言葉を口にする。


「ここで追いかけたら、森の中で逆に囲まれるぞ!」


 阿成と何進が、荒い息を吐きながらうなずいた。


 誰も前に飛び出さない。

 ただ、松明の炎だけが、去っていく山狼たちの背中を赤く照らす。


 やがて草を分ける気配も消え、夜はふたたび静かさを取り戻した。


 その場に残ったのは、肩を打たれた一匹だけだ。


 前脚を庇いながら、低く唸り、牙を見せている。


「どうします」


 阿成が鍬を構えたまま問う。


「無理に追い打ちをかける必要はない」


 父――劉義りゅう・ぎは、一歩も前に出なかった。


「下手に追い詰めれば、こっちも怪我をする。

 動けなくなってくたばるか、仲間が迎えに来るか……どのみち、今夜はもう大きくは動けんだろう」


 そのとき、村の方角から足音がいくつも近づいてきた。


 松明の光が増え、男たちの声が重なり合う。


「こっちか!」


 西側の見回り組と、予備として控えていた男たちが駆けつけてきた。


 事情をひと目で察し、安堵あんどの息をつく者もいれば、肩の力が抜けてその場にへたり込みそうになる者もいる。


「よく持ちこたえたな」


 誰かがそう言い、別の誰かが僕の肩を叩いた。


 その衝撃で、さっきくいを通して受けた骨の感触が、改めて手の内に蘇る。


 あれが少しでもずれていれば――


 山狼の牙が、僕か、父か、誰かの喉元に食い込んでいたかもしれない。


 そんな想像が、遅れて背筋を冷たくでた。


「……青嶺せいれい


 父――劉義りゅう・ぎが、喧噪けんそうの中から僕を呼ぶ。


「はい」


「さっき、お前……ほとんど躊躇ちゅうちょなく前に出ただろう」


「そう、でしたか」


 自分では、むしろ慎重だったつもりだ。

 退路を確認し、合図を意識し、肩を狙うと決めてから踏み込んだ。


山狼やまおおかみの肩を、狙って叩いたよな。

 目でも喉でもなく」


「目は、外したら危ないので。

 暴れられたら、こっちの陣形が崩れるかな、と思って」


 父――劉義りゅう・ぎはしばらく僕の顔を見つめていた。


 そこには、誇りと、戸惑いと、少しの寂しさが混じっている。


「……いつの間に、そんなことまで考えるようになったんだ」


「裏山で走り回ってたら、自然と」


 半分冗談、半分本当のことを返す。


 本当のこと――つまり“師匠に叩き込まれた結果です”と正直に言ってしまうと、余計な疑いを招きかねない。


 父――劉義りゅう・ぎは小さく息を吐き、「そうか」とだけ言った。


 それ以上は何も聞かない。


 けれど、その目の奥に宿った「違和感の種」は、きっともう消えないだろう。


 


 そのころ、祠からさらに山道を登った岩場では、師匠――蒼玄そうげんが小さなき火の前に座り、夜空を見上げていた。


 足元には、昼のうちに集めた枝や落ち葉が燃え、小さな炎が揺らめいている。


 火の粉がはぜ、星空へと昇り、冷たい風にすぐ消える。


 山の上から見下ろせば、村の松明の群れが、小さな光の輪となって揺れている。


「……まあ、今のところはこんなもんか」


 村の方から響いてきた叫び声と、獣のうなり声が静まり、再び夜の静寂が戻ったのを確認してから、師匠はゆっくりとつぶやいた。


 彼の視線は、村の柵ではなく、さらに奥――山狼たちが去っていった山の闇へと向けられている。


 焚き火の炎に照らされた地面には、大きな足跡が一つ、ぽつりと残っていた。


 山狼のものより、一回りも二回りも大きい。

 爪がえぐった溝は深く、土だけでなく下の石まで傷つけている。


「……追ってきおったか、“あれ”が」


 師匠――蒼玄そうげんは、静かに目を細めた。


山狼やまおおかみの群れだけなら、あやつらも、こんな無茶な下り方はせん。

 どこかの山で、安住の場を追われたんじゃろう」


 火がぱちりとはぜる。


 炎の揺らぎの向こう、一瞬だけ、黒い影がうごめいたように見えた。

 しかし次の瞬間には、ただの暗い山肌しか残っていない。


「今はまだ、山の上でうろついとるだけか。

 ……これ以上、村のほうに降りてこなきゃいいが」


 独り言のような声には、「期待」ではなく「警戒」が色濃く滲んでいた。


青嶺せいれいは、まあ、よくやったほうじゃろう。

 “手順”を忘れんかっただけでも上出来じゃ」


 火にくべる枝を少しだけ増やしながら、師匠は夜空を見上げる。


 星々は、何も知らない顔でまたたいていた。


「問題は――」


 言いかけて、口をつぐむ。


 代わりに、祠の方向へと一度だけ視線を投げた。


「“お願い”が、どこまで通じるか、じゃのう」


 あの夜、祠の前で両手を合わせたときの言葉が、胸の奥によみがえる。


 ――もう二度と、あの時のようなかれ方はしたくない。


 山が燃え、旗が落ち、人が叫び、剣が折れた夜。


 炎に照らされた山の斜面は、今もまぶたの裏に焼き付いている。


 その記憶から目をそらすように、師匠は焚き火のまきを一本、強く押し込んだ。


 


 一方、村では、山狼の群れが去ったあと、手早く後始末が続いていた。


 壊れた柵の様子を確かめ、崩れかけた杭を補い、血の跡を簡単に流す。

 肩を打たれた山狼は、やがて前脚を引きずりながら森の奥へ消えていった。


「今夜は、もう一度だけ見回りをしてから引き上げるか」


 父――劉義りゅう・ぎの提案に、周りの男たちがうなずく。


 僕の心臓は、さっきより少し落ち着いていた。


 呼吸を整え、指先の震えを確かめる。

 もう、あの嫌な震えは残っていない。


(怖いのは、怖い)


 けれど――


 身体は固まらずに動いた。


 師匠の言葉どおり、“手順”が先に頭に浮かんだからだ。


 退き方。

 合図。

 狙う場所。


 英雄譚えいゆうたんみたいな派手な一太刀ひとたちは、どこにもない。


 ただ一匹の肩を打ち、皆で一歩下がり、追いかけずにやり過ごしただけ。


(でも、こういう夜をちゃんと乗り切れるかどうかが、多分、本当の意味で“生き残る”ってことなんだろうな)


 村に戻る道すがら、ふと、東の山のほうで妙な鳴き声が一度だけ聞こえた気がした。


 狼の遠吠えとも、獣のうなりともつかない、低く長い声。


 けれど、それはすぐに風にちぎられ、闇の中へと消えていった。


 


 家に戻ると、母――らんが戸口まで出迎えに出てきた。


「無事かい、青嶺せいれい


 あかりの下で見る母の顔は、さっきより少しだけ血の気が戻っている。


「うん。ちょっと怖かったけど、大丈夫」


「怖かった、って言えるうちは、まだ大丈夫だよ」


 母はそう言って、僕の頭をでた。


 その手の温かさに、張りつめていた何かが少しだけ緩む。


 夕食の味噌汁は、いつもより少し塩辛かった。


 きっと、母の手が震えていたせいだ。

 それでも、その熱さが、身体の芯から冷えを追い出してくれた。


 


 布団に入ってからも、しばらく眠気はやってこなかった。


 薄暗い天井をぼんやりと見ながら、草むらから光る黄色い目と、杭越しに伝わってきた骨の手応えが、何度も頭をよぎる。


(“負けた戦”の話を聞いた直後に、これか)


 師匠――蒼玄そうげんの語った無名の兵。


 あの兵は、自分の名前が史書に残らない戦場で、「退けない戦い」を選んで死んだ。


 今日の僕は、それに比べれば、何も背負っていない。

 ただ、自分と家族と、村の牛を守りたかっただけだ。


 それでも、「恐怖に飲まれずに退き方を選べた」という事実は、確かに一つの経験値になっていた。


(山狼だけなら、まだいい。

 師匠の言い方からすると、“何か別のもの”が山にいるっぽいけど)


 あの大きな足跡のことは、まだ知らない。


 けれど、山の上から村を見下ろしている師匠の姿が、なんとなく脳裏に浮かぶ。


(明日、ほこらに行ったら、師匠は何て言うかな)


 「よくやった」と言うかもしれない。

 「調子に乗るな」と頭をはたくかもしれない。


 あるいは、何事もなかったかのように棒を握らされて、

 「――じゃあ今日は、“獣相手の退き方”の復習じゃ」

 と、いつもの調子で言い出すだろう。


 そんな光景を思い浮かべているうちに、胸の中のざわめきが、少しずつ静まっていった。


 腹の底で息を吸い、ゆっくりと吐く。


 村の周囲には、まだ山狼の匂いが残っているかもしれない。

 山の上には、師匠が「お願い」した相手と、何か別の影がうごめいているのだろう。


 この夜は、山と村の境目が、いつもより少しだけ薄くなった夜だった。


 その薄さが、この先どんな形で広がっていくのか――まだ誰も知らない。


 ただ一つ確かなのは、明日もまた、僕は裏山に登り、祠の前で師匠にしごかれる、ということだけだ。


 そして、その途中の山道の脇で、普段はなかったはずの“妙な爪痕つめあと”を目にすることになる――

 そんな予感のようなものをかすかに胸の奥で感じながら、ようやくまぶたが重くなっていった。

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