第17話 師匠の英雄譚
翌朝、いつもより少しだけ早く裏山に向かっていた。
空気はまだ夜の冷たさを残していて、土の道を踏むたびに、靴底からひやりとした感触が伝わってくる。
(今日は、先に“話”を聞きたいんだよな)
足運びも呼吸も、もちろん大事だ。
でも昨夜、語り部の杜白さんから聞いた「英雄譚」が、頭のどこかに引っかかったままだった。
白霜子と呼ばれた剣聖。
落星刀君と呼ばれた義侠。
若き日の武帝。
どの話も、派手で、格好良くて、聞いているあいだは胸が高鳴った。
けれど、どれもこれも“勝った話”ばかりで、負けた夜や、逃げた夜のことは一つも語られなかった。
(英雄にも、負けた夜はあったのか――)
杜白は、「あるだろう」と言った。
師匠――蒼玄なら、どう答えるだろう。
石段を登りながら、僕は呼吸を整える。
深く吸って、長く吐く。
昨日教わった通りに腹の底を意識すると、目を閉じていても足元の段差がなんとなく分かる気がした。
やがて、木々の間から祠が見えてくる。
その裏手の空き地には、今日も先客がいた。
師匠――蒼玄が、一本の木の棒を手に、いつものようにゆっくりと型を流していた。
足の運び。
肩の線。
視線の流れ。
どれも、過不足なく「そこにあるべき場所」にだけ収まっている。
昨日まで何度も見てきたはずなのに、呼吸を覚えてから改めて眺めると、別のものに見えるから不思議だ。
(“勝つため”じゃなく、“死なずに残るため”の動き、か)
師匠の背中には、語り部の話に出てきた派手な剣聖の影は一つもない。
その代わりに、“目の前の一太刀で死なないため”だけを積み重ねてきた人間の重さがあった。
「おはようございます、師匠」
声をかけると、師匠は動きを止めずに、ちらりとこちらを見た。
「いつもより早いな」
「話を、聞きたくて」
「ほう」
師匠は最後の一太刀を空に振り抜いてから、棒を下ろした。
「話は足のあとじゃ。まずは一通り走れ」
「……はい」
予想通りの返事に、苦笑しつつも返事をする。
祠の裏手の空き地をぐるりと囲むように、何周も走る。
足裏の接地、膝の角度、重心の移動。
師匠から散々しつこく言われてきた要素を、一つひとつ確かめながら走っていると、不思議と心も落ち着いてきた。
走り込みのあと、素振り、足運び、簡単な打ち合い。
流れ作業のようでいて、一つひとつに意識を向けると、何度やっても新しい発見がある。
師匠の棒を受け止めながら、僕は隙を見て口を開いた。
「師匠」
「ん」
「英雄譚って、やっぱり作り話も多いんですか」
棒と棒がぶつかる音が一度鳴り、師匠の目がわずかに細くなった。
「ほう。杜白の話を聞いて、そう思ったか」
「はい。あの人は、“全部が全部本当ではないが、全部嘘でもない”って言ってましたけど」
「それはまあ、その通りじゃな」
師匠は、足を半歩引いて距離を取る。
「英雄譚は、“語る側”がいる。
語る側に都合のいいところと、客が喜ぶところだけが残る。
その裏にある血や泥は、だいたい流される」
「師匠は、英雄譚を聞いて、何か得るものがあると思いますか」
「ある」
答えは即答だった。
「勝ち方の型。
人の心を掴む言葉。
武功をどう飾れば官吏に気に入られるか。
そういう“上に立つ者の流儀”が、英雄譚の中にはようけ詰まっとる」
言いながら、師匠は棒を軽く振る。
空を切る音が、ひゅっと小さく鳴った。
「じゃが――」
棒の先が、僕の胸元で止まる。
「英雄譚だけを信じて剣を握ると、死ぬ」
「……ですよね」
「紙の上で勝っとる連中に共通しとるのは、“最後まで生き残った”という一点じゃ。
それ以外の部分は、都合よく書き換えられとることが多い」
師匠は棒を下ろし、空き地の端に歩いていった。
「続きは、口で話すか。休憩じゃ」
その一言で、僕の背筋に少しだけ期待が走る。
◇ ◇ ◇
木の根に腰を下ろし、ひょうたんの水を回し飲みする。
喉を潤したところで、師匠は棒を膝に横たえた。
「英雄譚は、“勝った側から見た話”が多い。
なら、今日は“負けた側から見た話”を一つしてやろう」
「負けた側、ですか」
「そうじゃ」
師匠の目は、ゆっくりと遠くを見る。
その視線の先にあるのは、裏山でも村でもない。
もっと遠い、どこかだ。
「昔、北の山で戦があった」
その言葉だけで、空気が少し変わった気がした。
祠の木々を抜けて吹いてくる風が、いきなり冷たくなる。
「銀霜帝国の北辺は、山と谷と峠だらけじゃ。
そこを抜ければ、異族の草原が広がる。
その境目を巡って、昔からよう戦が起こっとる」
師匠の声は淡々としているが、その奥にあるものは淡くない。
「そのとき、北の山を守っとったのは“雲烈将軍”という男じゃった。
紙の上では、“北辺の英雄”として名を残しとる」
「史書にも出てくる人、ですか」
「出ておる。
“敵軍数万を相手に、北嶺の峠道で寡兵をもってこれを防ぎ、帝国の北門を守り抜いた”――そう書かれとる」
語り口だけ聞けば、杜白の英雄譚と何も変わらない。
ただ、師匠の目は笑っていなかった。
「じゃが、実際のところはどうじゃったか」
師匠は、足元の土を指で掴んだ。
それをぽろりとこぼしながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「敵の軍勢が北嶺を越えてきたとき、雲烈は“山の中腹で迎え撃つ”策を取った。
紙の上では、それが“巧みな用兵”として書かれとる」
「違うんですか」
「違う」
師匠は首を振る。
「実際には、情報が遅れた。
敵が思ったより早く山に入り、気づいたときには、すでに峠道のいくつかを抜かれとった。
急ぎ兵を動かしたが、配置も補給も足りん。
雪と岩で足を取られ、あちこちで部隊が分断された」
吐く息が、少し白く見えた気がした。
まだ朝で、そんなに寒いわけでもないのに。
「その中に、一つの小隊がおった。
名ばかりの隊長と、寄せ集めの兵二十余り。
そのうち半分は、まともな鎧も持たん農民あがりじゃ」
師匠の目が、ほんの少しだけ細くなる。
「紙の上では、その小隊のことは一言も触れられておらん。
じゃが、わしは、その中に一人だけ“英雄”がおったと思っとる」
「……どういう人ですか」
「名は、もう覚えとらん」
あまりにもあっさりと言われて、思わず言葉に詰まる。
師匠は、続けた。
「背は少し低め。
腕は太いが、特別な武芸を習ったわけではない。
槍を持たせれば人並み、弓を引かせれば人並み。
どこにでもおるような、無名の兵じゃ」
(でも、師匠は“英雄”だと言った)
違和感と期待が、胸の中で絡み合う。
「雪の中、一日かけて峠道を進んどったときじゃ。
偵察に出た斥候が戻ってきて、『敵が峠の裏道から回り込んできとる』と言った。
つまり、小隊の背後に、敵が迫っとる」
「挟撃される形ですね」
「そうじゃ。
前に進めば敵。
後ろに下がれば、さっき見逃した敵とぶつかる」
師匠は、指で地面に簡単な線を引いた。
一本が峠道。
もう一本が裏道。
「隊長は焦っとった。
何せ若い。紙の上の戦法は知っとったが、雪の中で兵を動かしたことはあまりない。
ここで全滅すれば、後ろにいる本隊が丸裸になる」
空き地に、師匠の影が長く伸びる。
「そこで、その無名の兵が言った」
師匠の声が、ほんの少しだけ低くなる。
『隊長殿。
ここから峠の下まで、俺たちはどのくらいで戻れます』
『全速で駆ければ、半刻かからんだろう』
『じゃあ、みんなは先に行ってください。
俺がここで、しばらく敵の足を止めます』
――その声の調子まで、師匠の口調から伝わってくる気がした。
「隊長は最初、怒鳴りつけた。
『勝手なことを言うな』『一人取り残して逃げるのかと言われたらどうする』とな」
「……たしかに、そう言われますね」
「じゃが、その兵は笑って言ったそうじゃ」
師匠の口元が、ほんの少しだけ緩む。
『俺は、村に帰る家族がいません。
ここで死んでも、泣くやつはいない。
でも、みんながここで死んだら、その家族が泣きます』
『だったら、名前も残らない俺が、ここに残るのが一番安いでしょう』
(いちばん、安い――)
前の世界で、官庁の会議で何度も聞いた言葉を思い出す。
「どこを切り捨てるのが一番安いか」。
「どこに負担を押しつければ、全体の数字がきれいに見えるか」。
それを、自分から言う側。
「隊長は迷った末、受け入れた。
他に選択肢がなかった、というのもある。
全員で踏みとどまっても、どうせ押し潰されるだけじゃからな」
師匠の指が、地面の一点をぎゅっと押し込む。
「兵たちは、隊長に引きずられるようにして峠を駆け下りた。
雪で足を滑らせ、転び、起き上がり、それでも走った。
背後では、ひとり残った兵が、槍を構えて敵を迎え撃った」
僕の頭の中に、勝手に情景が浮かぶ。
狭い峠道。
吹きつける雪。
足場の悪い中を、反対方向に向かい合う二つの軍勢。
「敵は、最初は笑っておったそうじゃ。
『一人で何をするつもりだ』と。
じゃが、峠道は狭い。
同時に前に出られるのは、精々三人。
そいつは、その三人を、ただ黙々と槍で突き続けた」
「……」
「一突きで倒すこともあれば、倒せんこともある。
槍の穂先はすぐ血と雪で重くなる。
それでも、奴は後ろを振り返らんかった」
師匠の声は、淡々としている。
なのに、耳の奥がじんじんする。
「どのくらい時間を稼いだかは分からん。
半刻か、一刻か、もっと短かったかもしれん。
だが、その間に小隊は峠を抜け、後ろの本隊に追いつき、雲烈将軍に報告を届けた」
そこから先は、史書に載っている流れだろう。
雲烈将軍は山を下りる支度を整え、峠の下で布陣して、追いかけてきた敵軍を迎え撃つ。
山道での被害を埋め合わせるかのように、派手に勝ち、北門を守り抜いた――そういう筋書きだ。
「紙の上では、『雲烈将軍、峠道にて巧妙な遅滞戦術を用い、敵を誘い出してこれを撃破す』と書かれとる」
師匠は、鼻で笑った。
「実際には、“一人の兵が独断で残り、勝手に足を止めた”だけじゃ」
「……その兵の名前は」
「わしも、もう覚えとらんと言ったじゃろ」
師匠は、静かに言う。
「戦のあと、誰かが彼の名を紙に書いたかもしれん。
だが、その紙がどこかに残っとるかどうかは怪しい。
雲烈将軍は、“賢明な用兵”として昇進し、名を残した。
無名の兵は、雪と血に埋もれて、そのまま消えた」
沈黙が、しばらく続いた。
風が木々の葉を揺らす音だけが、耳に届く。
「師匠は、その人を“英雄”だと思うんですね」
「思う」
答えは短いが、重い。
「雲烈将軍を英雄だと呼ぶ者がいてもいい。
実際、あの戦で北門が守られたのは事実じゃからな。
じゃが、わしにとっての英雄は、あの一兵じゃ」
「……」
「自分で『残る』と言い、実際に残り、仲間を逃がした。
誰に命じられたわけでもなく、紙に名を残すためでもなく。
それでも、そう選んだ」
師匠は、ひょうたんを持ち上げ、口をつけた。
喉を鳴らして飲み込み、空を見上げる。
「悲しいのはな、青嶺」
「はい」
「その話を、誰も英雄譚にはしないことじゃ」
「……」
「客は、雲烈将軍の名を聞きたがる。
北辺の英雄の武勇を聞いて酒を飲みたがる。
一兵が雪の中でどれだけ震えとったかなんて、誰も聞きたがらん」
杜白の顔と、師匠の顔が、頭の中で重なる。
二人とも、違う角度から同じことを言っている気がした。
「勝ったほうの紙にしか、英雄は残らん。
それは杜白が言ったとおりじゃ。
じゃが、その紙に名前が載らん者の中にも、“誰か一人の英雄”はおる」
師匠は、こちらを見る。
その目は、普段のしょっぱい視線とは違う色をしていた。
「お前がこれから読む史書は、全部“紙の上での真実”じゃ。
それはそれで大事だ。
だが、その裏に“誰の夜が隠れとるか”を想像できるなら、少しはマシな大人になれる」
わざとらしく「大人」と言われて、少し笑ってしまう。
(中身だけは、こっちはもう一回大人やってるけどな)
心の中のツッコミは飲み込み、真面目に頷いた。
「……師匠は、その兵のこと、よく覚えてますね。名前も忘れたのに」
「名前なんぞ、紙に書かれたときに一番よく使われるもんじゃ」
師匠は、少しだけ笑う。
「その兵が槍を握っとった手つき、足の震え、息の白さ。
それを覚えとる奴が一人でもおれば、そいつは完全には消えん」
「師匠は、その場に――」
そこで言いかけて、口をつぐんだ。
師匠の目が一瞬だけ鋭くなったのを見て、直感的にそれ以上聞いてはいけない気がしたからだ。
(今聞いたところで、“昔の知り合いの話じゃ”の一言で終わるだろうしな)
それに、今はそこを詰めるべきタイミングでもない気がする。
「……ありがとうございます、師匠」
僕は素直に頭を下げた。
「英雄譚の裏にも、“誰かの夜”があるってこと、忘れないようにします」
「忘れるな」
師匠は立ち上がり、棒を拾った。
「よし。話はここまでじゃ。足を動かすぞ」
「え、もう?」
「“いい話”だけ聞いて満足しとると、足元をすくわれる。
それは英雄譚でも、わしの話でも同じじゃ」
そう言って、師匠は僕に向き直る。
「構えろ、青嶺。
守りと退きはかなり身体に染みた。
そろそろ、“ここだけは前に出る一歩”も覚えさせてやる」
「“攻め”ですか」
「攻めというより、“逃げるために刺す一歩”じゃな」
言い回しだけ聞くと格好良くないが、妙に納得のいく言葉だった。
◇ ◇ ◇
その後の稽古は、いつも以上に密度の高いものになった。
師匠は、棒を構える角度をほんの少し変えただけで、僕との距離感をがらりと変えてみせる。
「いいか、青嶺。
一歩踏み込む、というのは“前に出る”ことだけを指さん」
棒の先が、僕の肩先をかすめる。
「横に逃げる一歩も、斜め後ろに退く一歩も、全部、“生きるために前に出た一歩”と同じくらい大事じゃ。
お前は退き方を覚えとる。
だから今度は、その退きと組み合わせる“刺し込み”を覚えろ」
師匠は、示すように動く。
一歩退き、二歩目で体をひねり、三歩目で一瞬だけ前に踏み込む。
その一瞬の踏み込みが、相手の喉元に届く“短い前”だ。
僕も真似をしてみるが、最初はうまくいかない。
退くことに意識が向きすぎて、踏み込みが浅くなる。
逆に踏み込みを意識すると、退きが遅れて棒をもらう。
「呼吸を忘れとる」
師匠の棒が、僕の脇腹を軽く叩いた。
「退くときに息を止めるな。
吸って、吐きながら退く。
前に出るときは、その吐きの流れの中で一歩だけ前に乗せる」
「言うのは簡単ですけど」
「できるまでやるんじゃ」
結局、何度も脇腹と肩と腕を叩かれ、地面に転がされ、汗だくになったころ。
ようやく、自分でも一度だけ「きれいに決まった」と思える一歩が出た。
一歩退いて、師匠の棒をいなし、二歩目で軸足をずらす。
三歩目で一瞬だけ踏み込み、棒の先を師匠の肩口に軽く触れさせる。
「……今のは?」
「かすっただけじゃが、まあ“逃げるための一太刀”としては合格点じゃろ」
師匠の口元が、ほんの少しだけ上がった。
「覚えとけ。
今の一歩と一太刀は、“勝つための剣”ではなく、“撤退戦を成立させるための剣”じゃ」
「撤退戦……」
昨夜、杜白が言っていた「負けた夜」。
さっき師匠が語った、無名の兵が残った峠道。
それらが頭の中でつながる。
「勝ち戦の物語ばかりを並べると、人は撤退戦の技を忘れる。
じゃからこそ、わしらはこうして“負けを前提にした足と剣”も覚えとく」
師匠は、棒を肩に担ぎ直した。
「英雄譚に出てくる派手な一太刀は、十年に一度あるかないかじゃ。
それ以外の九年と三百六十四日は、こういう地味な一歩と一太刀の積み重ねでできとる」
「……英雄譚には、そういうところは入らないですね」
「入れんほうが客が喜ぶからの」
そう言って、師匠は肩をすくめた。
「お前は、お前の物語を書け。
紙に書くかどうかはともかく、“自分の夜”を忘れるな。
勝った夜も、負けた夜も、逃げた夜もだ」
杜白の言葉と、まるで打ち合わせたかのように重なる台詞だった。
(この人たち、どこかで酒でも飲みながら語り合ったことあるんじゃないだろうな)
そんな想像が頭をかすめ、思わず苦笑してしまう。
◇ ◇ ◇
稽古を終えて山を下りるころには、太陽はだいぶ高く上っていた。
村の畑では、父――劉大山たちがもう汗を流して働いている。
「青嶺、こっちの畝を頼む」
「はい」
鍬を握り、黙々と土を起こす。
身体は疲れているが、呼吸を意識すれば不思議と動き続けられる。
昼の仕事を終え、簡単な昼食をとり、午後には村の子どもたちとの簡単な模擬戦をすることも増えてきた。
第十三話でやったような「怪我させない転ばせ方」が、すっかり身体に馴染んできているのを感じる。
夜になると、灯りをともして本を開く。
最近は、銀霜帝国の戦史や官職の仕組みをまとめた史書も読み始めた。
そこに出てくるのもまた、武帝や名将たちの名前ばかりだ。
「誰々が何年にどこどこで勝利した」。
「誰々がどのくらいの功績でどの官職に就いた」。
(この一行の裏にも、“無名の兵”が何人もいるんだよな)
史書の行間に、師匠の語った峠の雪景色を挟み込む。
紙の上の勝利の数字の裏に、誰かの息の白さや、震える足の感覚を想像する。
そうして読み進めていくと、不思議と活字が別の生き物のように見えてきた。
(最後に紙に名前が残るのは、ほんの一握り。
でも制度や歴史をいじるっていうのは、本当は“残らないほうの人間”の生き方を変えることなんだよな)
前の世界でやりたくてやれなかったことと、今の世界でやろうとしていること。
それらが少しずつ一本の線になってきている気がした。
◇ ◇ ◇
数日後。
いつものように、朝は裏山で師匠にしごかれ、日中は畑と村の用事を済ませ、夕方には子どもたちと遊び半分の模擬戦をする――そんな生活が、当たり前の“日課”として身体に染みついてきたころ。
「青嶺、最近よう動くようになったな」
父・劉大山が、肩を叩いて笑った。
「前は本ばっかり読んでて、もうちょっと土いじりしたほうがいいって心配してたんだぞ」
「今は本と土と棒ですね」
「どれも無駄にはならんさ」
父・劉大山は、そう言って鍬を振る。
夜、本を閉じて布団にもぐりこむ前。
ふと、天井を見ながら考える。
(英雄譚みたいな派手な勝ち方は、一生に何度もいらない。
それより、“負けた夜にどう立つか”のほうが大事だ)
語り部の杜白。
師匠の無名兵の話。
史書の行間。
それらが頭の中で重なり合い、ひとつの方向を指し示している。
(俺自身の“夜の物語”は、まだ始まったばかりか)
今のところ、僕の夜は、ほぼ読書と復習で埋まっている。
それはそれで悪くない。
でもきっと、この先、もっと濃い夜がやってくる。
負ける夜。
逃げる夜。
どうしても守りたいものが目の前にある夜。
(そのとき、ちゃんと“退き方”も“刺し込み方”も選べるようにしておかないと)
師匠が教えてくれた一歩と一太刀。
無名の兵が背中で示した撤退戦。
それらを思い浮かべながら、ゆっくりと呼吸を整える。
腹の底で吸って、長く吐く。
そんなふうに、日々の稽古と読書を繰り返すうちに――祠という場所の意味も、少しずつ変わってきた。
そこは、師匠に足をいじめられる場所であり、
武林や江湖の話を聞く場所であり、
そしていつか、師匠の“過去”にも触れる場所になるのだろう。
(今はまだ、“英雄譚の裏側”を少し覗いただけだけど)
この先、師匠がどんな夜をくぐってきたのか。
どんな“負けた戦”を経験してきたのか。
それを知ることになるとは、まだ半分も想像していなかった。
その夜、窓の外を見上げると、裏山のほうに小さな灯りが瞬いている気がした。
風に揺れるのか、時折かすかに光が揺らぐ。
(……師匠、まだ祠のあたりにいるのかな)
一瞬、見に行こうかと思ったが、足は自然と止まった。
なんとなく、今はまだ覗きに行かないほうがいい気がしたからだ。
(そのうち、あの祠の前で、師匠の“夜の物語”の一端を見ることになるのかもしれない)
そんな予感だけを胸の片隅にしまい込み、僕は布団に潜り込んだ。
深く息を吸い、ゆっくりと吐く。
この夜が、のちに思い返したとき、“嵐の前の静けさ”と呼べるものになるとは――そのときの僕は、まだ知らなかった。
評価していただけますと幸いです!!
よろしくお願いします!




