第15話 師匠の知る「江湖の地図」
夕焼けが山の端を染め、祠の前の影が長く伸びていた。
足さばきと型の稽古をひと通り終え、吐く息と吸う息がようやく静まってきたころ、師匠――蒼玄が、いつもより早く木剣を下ろした。
「今日はここまでじゃ」
そう言って、師匠は祠の前の平らな地面に、どっかりと腰を下ろした。
木の根がすぐ横に突き出ているのに、いつものように姿勢は崩れない。背筋だけが、不自然なくらいまっすぐだ。
「……まだ動けますよ、師匠」
「動けんようになるまで動かすのは、下手な鍛え方じゃ」
師匠は軽く手を振った。
「今日は口だけの稽古じゃ。座れ、青嶺」
いつもなら「もう一本」と言われる時間に、まさかの座学。思わず目を瞬く。
けれど、足の裏に残るだるさと、太ももの奥に溜まった重みが、座れと言われて正直ほっとしている自分もいた。
僕は師匠の少し斜め前に腰を下ろした。土のひんやりした感触が、布越しに伝わってくる。
呼吸を整えながら、師匠の手元を見た。
師匠は周りに落ちていた小石をいくつか拾い集め、それから細い枝を一本手に取った。
祠の前の土の上を、何度かなぞるようにならす。
「青嶺、この山の向こうに何があるか、どこまで知っとる」
「……ふもとの村と、川と、その先に県城があるってことくらいです」
前世の記憶を足せば、「大陸中央に広がる大帝国で、周辺に小国がいくつか」くらいまでは把握している。
けれど、この世界の地図を、今世の青嶺としてちゃんと見たことはない。
「よし、なら今日は、その続きを少し見せてやる」
師匠は枝の先で、土の上に大きな円を描いた。
「まず、ここが銀霜帝国じゃ」
ざっくりとした円。だが、その線を引く手つきは妙に迷いがない。
「大陸の真ん中に陣取っておる。東に海、西に大砂漠、南に大河と湿地、北に山脈。そう聞いたことはあるじゃろ」
「はい。村の長老が、ときどき話してました」
「話だけ聞いとっても、形は見えてこん。だから、こうして描く」
師匠は、円の東側を少し膨らませ、そこに波線を何本か引いた。
「ここが東海。塩の匂いのする大水じゃ。港のある城や、海を相手にして稼ぐ連中の話は、いつか耳に入るじゃろ。魚より、そこで動く銭のほうが多い世界じゃ」
西側には、点をばらまくように打ってから、その上に細かい点々の帯を重ねる。
「こっちが西の砂洲。砂と岩ばかりで畑は少ないが、鉱や珍しい薬草が取れる。江湖の連中も、好んで命を落としに行く場所じゃな」
南側には、太い線を一本引き、その周りにうねうねと曲線を重ねた。
「南は大河。支流が何本も分かれて、やがて湿地になる。船で動く者らの世界じゃ。足で歩く武人には、少し勝手が違う」
最後に、円の上側――北に、師匠はギザギザとした線を描いた。山の稜線を思わせる、乱暴な線。
「そして、ここが北嶺連山」
その言葉を口にするとき、師匠の声が、ほんの少しだけ低くなった。
「この国の頭のてっぺんに、刃のように連なっとる山々じゃ。雪が解けん峰も多い。良いものも、悪いものも、大抵あの山にひとつは潜んでおる」
枝の先が、山を示す線の一点で止まる。
ほんの瞬きの間だけだったが、師匠の目が、そこに釘付けになった。
(……“二度と行きとうない場所”って、きっと、あのあたりなんだろうな)
以前、師匠が北方の山の話をしたときの、あの一瞬の沈黙を思い出す。
燃える旗と、雪の上の血の足跡。あの話と、この線は、きっとどこかでつながっている。
◇ ◇ ◇
「さて、国の枠はこんなもんでいい」
師匠は円の中央付近に小さな点を打ち、周りをくるりと囲んだ。
「ここが都じゃ。霜京という」
霜京。銀霜帝国の心臓部。
前世で言えば「首都」の一言で片づけられる場所だが、ここではもう少し直截に、権力と情報と金が集まる場所。
「その周りに州城があり、さらにその下に県城、村や集落が点々とある。青嶺の村は――」
師匠は円の南寄り、山と大河の中間くらいに小さな点を打った。
「このへんじゃ。地図で見れば米粒より小さいが、そこにも人がいて、田があり、税を取る役人がおる。帝国とはそういうもんじゃ」
枝で軽く円の中心――霜京を叩く。
「上から見れば、どの村も『一律の点』じゃ。だが、点の一つひとつに事情がある。役人は、それを全部把握しとるとは限らん」
(……前の世界と同じだな)
頭の中に、日本の県庁所在地の地図がよみがえる。
統計資料で色分けされた日本地図。そこに載らない生活の細部。
師匠は、小石を三つ取り上げた。
ひとつを都の石として円の中央に置き、二つ目を州城、三つ目を県城のあたりに配置する。
「国というのは、だいたい二つのものを集めるために形をつくる。ひとつは税。もうひとつは兵じゃ」
「兵……軍隊ですか」
「そうじゃ。税と兵を集めるには、道と川、それから“書き付け”が要る。どこにこれだけ人がおり、どのくらい米が取れるか、誰を徴兵できるか。文で形を決めて、印を押す」
前世の会議で見た「人員配置表」や「予算案」が頭をかすめる。
紙の上で人と金を動かす感覚。
「だがな、同じ地図をもう一枚、別の連中も使っとる」
師匠は口の端だけで笑った。
「江湖の連中じゃ」
◇ ◇ ◇
師匠は、今描いた円の少し外側に、もうひとつ、きわめて似た円をなぞり描いた。
「表の地図が“官の地図”なら、こっちは“江湖の地図”じゃ。山と川は同じでも、線の引き方が違う」
枝の先で、北嶺連山のあたりをとん、と叩く。
「たとえばこの山脈には、官の目から見れば『北辺警備の要衝』とでも書かれるじゃろう。だが江湖の地図には、こう書かれる」
師匠は山脈のあちこちに、小さな叉印をいくつも描いた。
「某門派の本拠。某派の分堂。山賊どもの根城。そういう“力の塊”が、点や印になって並ぶ」
さらに、東の海沿いには船の絵のような線、西の砂漠には丸印をいくつも置く。
「江湖の者らにとっては、税や役所の線より、この印のほうが大事じゃ。どの山に誰がいて、どの街道を誰が押さえとるか。それが“生きて戻れる道”と“死ぬ道”を分ける」
「……師匠が前に言っていた“生き残るための剣”の話に、つながってますね」
「そうじゃ。どの道が通れるかを知らん者は、どれだけ剣を振ろうと、いつか行き止まりに突っ込む」
師匠は、新たな小石をいくつか拾い、江湖の地図の上に並べ始めた。
「有名どころで言えば――ほれ、この南の山の中。ここに剣を売り物にしとる門派がひとつ」
南寄りの山並みに、小石がひとつ置かれる。
「天崖剣門という。正派を名乗っとる。真面目に稽古を積んだ連中も多いが、肩書きに胡座をかいとる奴もおる」
東の湖のほとりには、別の形の小石が置かれる。丸くて、表面が少し白っぽい石だ。
「こっちは碧湖水宮。水辺の術に長けた女傑が多いと聞く。噂では、都の文官や商人と縁を持つのがうまいらしい。水と情報を握った者は、喉を握るのと同じじゃ」
西の砂洲には、二つの石が、少し距離を置いて並べられた。
「砂洲には、鏢局――護衛や荷運びを請け負う連中の本拠がいくつかある。廻風鏢局、黄沙鏢局……名前はどうでもいい。江湖の仕事は大体こういう連中が間に入る」
師匠は、そこまで説明してから、僕のほうを見る。
「さっき山道ですれ違った隊商の一団、覚えとるな」
「はい。腰に刀を下げた人たちと、一番後ろの青年」
「護衛の立ち方、荷の組み方、隊列。あれは鏢局の匂いがした。どこの看板かまでは、あの距離では分からんがな」
なるほど、と内心うなずく。
僕はただ「強そうだな」「雰囲気が違うな」と感じただけだったが、師匠は一目で「どの類いの連中か」を分類している。
(情報の“地図”を頭の中に持ってる人間は、やっぱり強い)
前世で、各省庁や担当部局の勢力図を把握していた先輩官僚たちの顔が脳裏をよぎる。
どの部が予算を握り、どの部が実務を握り、どの政治家と繋がっているか――そういう「見えない地図」を持っている人ほど、表では何も偉そうにしていなくても、最終的に物事を動かしていた。
師匠の描く江湖の地図も、それに近い。
◇ ◇ ◇
「門派っていうのは、全部でどれくらいあるんですか」
気になっていたことを聞いてみる。
「数え方による。名のある門派だけ数えても、両手両足じゃ足りん。小さな道場や、山里の拳法家まで入れれば、星の数ほどじゃ」
「そんなに……」
「ただし、どれもこれもが“江湖の大事”に絡むわけではない。大河に小さな支流がいくつも流れ込むようなもんじゃ。主筋を見誤るな」
師匠は、今度は小石を一つだけ空いた場所に置いた。
それは、さっきから何も印のなかった、円の中央から少し外れた場所――都から南東へ伸びる街道の途中あたり。
「ここに、銀霜学院がある」
耳に馴染みのある名前が出てきて、思わず身を乗り出す。
「学院は門派じゃない。王朝が建てた学び舎じゃ。文をやる者も、武をやる者も集まる。江湖からも、たまに腕自慢が紛れ込む」
「師匠みたいな人が教える場所ですか」
「わしみたいな胡散臭いのは、あまりおらんじゃろうな」
師匠は、苦笑とも自嘲ともつかない笑みを浮かべた。
「学院には学院の礼法とやり方がある。わしは江湖のやり方でしか教えられん。まあ、地図の上では同じ銀霜帝国の一部じゃ。ここに行くか、別の道を選ぶかは、青嶺自身が決めるこった」
そう言って、銀霜学院の石に、枝で小さく丸をつける。
「ここだけが道じゃと思うな。他にも、武だけを極める山や、文だけを磨く書院、江湖の裏稼業を叩き込む連中の巣もある」
「江湖の裏稼業……」
「護衛、用心棒、密偵、盗っ人。そのあたり一式じゃな」
あまり子どもの前で堂々と言う種類の職業ではないが、師匠は淡々としている。
「覚えておけ、青嶺。“正派”“邪派”“官”“江湖”。呼び名はいろいろあるが、どれも地図の上では同じように『力の塊』として記される。どの塊のそばに立つかで、見える景色が変わる」
◇ ◇ ◇
「じゃあ、師匠はどの塊のそばに立ってたんですか」
気づけば、そう尋ねていた。自覚するより早く、口が動いていた。
師匠の手が、一瞬だけ止まる。枝の先が、北嶺連山のあたりで宙ぶらりんになった。
夕陽が、師匠の横顔の皺を長く伸ばす。
「昔の話じゃ」
ぽつり、と師匠が言った。
「北の山中で旗が一本、燃えた。わしはその旗の下におった。それだけじゃ」
枝の先が、北嶺の線の一点に触れ、土をかすかに削った。
「……勝ったんですか、負けたんですか」
思わず、そう続けてしまう。
師匠は笑いもせず、怒りもしなかった。
ただ、少しだけ考えるような間を置いてから、答える。
「紙の上では勝ったことになっとる。だが、あの山に眠っとる連中に聞いたら、どう答えるかは分からん」
風が山肌を撫で、祠の鈴が小さく鳴った。
「さっきも言うたがな。誰が勝ったかは、あとから紙を書く者が決める。誰が残ったかは、その時に決まる」
その言い方は、戦場の記憶だけでなく、別のものにも重なる。前世の「報告書」と「責任者」の欄。
(“勝ったことにする”技術は、どこの世界にもあるんだな)
紙に書かれた勝利と、足元に転がる現実。
そのねじれを、師匠は何度も見てきたのだろう。
「わしの話はそれで十分じゃ」
師匠は、ぴしゃりとそこに線を引き、話を切った。
「大事なのは、わしがどこにいたかではない。青嶺がこれから地図のどこに立つかじゃ」
◇ ◇ ◇
「地図のどこに、ですか」
「そうじゃ。今のお前は――」
師匠は、僕の目の前に小石を一つ置いた。
「ここ、村の外れのちっぽけな点におる」
「ひどい言い方ですね」
「事実じゃからな。だが、ここからどこへでも行ける。都に行って文を学ぶもよし、山に籠もって剣を磨くもよし、江湖に身を投じて荒稼ぎするもよし」
小石を指先でちょんと弾き、都のほうへ滑らせる。
「一つだけ覚えておけ。動く前に、まず地図を持て。足を動かす前に、頭で“どこまで行くか”“どこを通るか”を決めるんじゃ」
「師匠の言う『退くときのラインを決めろ』って話と同じですね」
「そうじゃ。前に出るにしろ退くにしろ、地図の上で“ここまで”を決める。そうすれば、道の途中で余計な死に方をせずに済む」
前世で見てきた、行き先のない残業と、終わりの見えないプロジェクトが頭をよぎる。
あれは「どこで終わらせるか」が決まっていなかった。
(目標のない努力は、地図のない行軍か)
師匠の言葉を、勝手にそう翻訳する。
「それからもう一つ。江湖の地図は、日々変わる」
師匠は、さっき描いた小さな印をいくつか、枝でさっと消した。
「門派が潰れれば、その印は消える。新しい旗が立てば、印が増える。都の上にいる連中も同じじゃ。人が代われば、力の流れも変わる」
「じゃあ、覚えても無駄じゃないですか」
「無駄ではない。“変わる”という前提を知ることが大事なんじゃ」
師匠は、消した場所の少し隣に、新たな印を描いた。
「地図は描き直すためにある。描きっぱなしにするから、古くなる。頭の中の地図も同じじゃ。お前は文をやる。紙の地図と江湖の地図、その両方を常に描き直せるようになれ」
呼吸が自然と深くなる。腹の奥に空気を落とし、ゆっくりと吐き出す。
さっき教わったばかりの呼吸法が、こういう「頭の使い方」にも効いてくるのだと実感した。
◇ ◇ ◇
「……師匠、武階のことも、もう少し詳しく教えてください」
地図の上には、いくつもの“力の塊”が散らばっている。そこに属する者たちには、それぞれの段階がある。
以前から聞いていた「武階」という言葉を、ここでちゃんと整理しておきたかった。
「武階か。よし、ついでに片づけておくか」
師匠は、都――霜京のあたりに小さな四角を描いた。
「武階というのは、この帝国が勝手に決めた“武の物差し”じゃ。九級から一級まで。下から順に積み上げていく」
「九級が一番下ですか」
「そうじゃ。村の若い衆で喧嘩に負けん程度なら、九級から八級のあたりじゃろう。青嶺は、まあ、八級の中ほど、といったところか」
「……褒めてます?」
「村九から見れば十分すごいが、江湖全体から見れば、ようやく“入口に立った”くらいじゃな」
さらりと言われて、苦笑する。自惚れないように、きちんと釘を刺されている。
「七級を超えると、江湖でも名の通った連中が増えてくる。門派で小師と呼ばれる立場になったり、鏢局で隊を任されたりするのはそのあたりじゃ」
「師匠は」
「聞くなと言うたじゃろ」
即答だった。思わず口元が緩む。
「六級、五級になると、州城や都から声がかかる。辺境の守備に出たり、武官として取り立てられたりな。そこから上――四級、三級、二級、一級ともなれば、門派の柱、武将、あるいは“武宗”“武聖”といった異名がついてくる」
師匠は、武階の上位を説明しながらも、どこか距離を置いた口調だった。
「ただし、これはあくまで“紙の上の段階”じゃ。実戦での強さは、環境や相性でも変わる。九級が一級に勝つことはめったにないが、七級が六級に勝つことくらいなら、珍しくもない」
「文階も、似たようなものですか」
「文階は、試験と官位で決まる。科挙に受かれば、いきなり中ほどに飛び込める者もおる。だが、文も武も、結局は“どこで何をしたか”で本当の評価が決まる」
前世の「肩書きと実績」の関係が頭をよぎり、思わず頷いた。
「学院に行けば、文階の階段に足をかけやすくなる。武を磨けば、武階の階段に足をかけやすくなる。どちらも、地図の上で上のほうに小さく名前を書くための手段じゃ。そこを勘違いするな」
「階段そのものが目的になってしまう人も、多そうですね」
「多い。だからこそ、途中で足を滑らせて落ちる者も多い」
師匠は枝を投げ捨て、ゆっくりと立ち上がった。
◇ ◇ ◇
「今日はこのくらいでよかろう」
立ち上がった師匠が、祠に軽く頭を下げる。
「明日からも地図の話をしてくれるんですか」
「明日からはまた足じゃ。話ばかりでは、剣は錆びる」
「……ですよね」
「地図は夜に一人で描け。昼は身体で覚えろ」
そう言い残し、師匠は山道を下りていった。
祠の前には、土の上に円と線と小石の地図だけが残る。
夕陽はほとんど沈み、空には薄い紫が広がり始めていた。
僕はしばらく、その即席の地図をじっと見つめていた。
円の中に詰まった、無数の点と印。それぞれに、人と歴史と刃の匂いが詰まっている。
(村の外れで、世界は広がる、か)
昼間に見た隊商の背中と、いま師匠が描いた江湖の地図が、頭の中で重なる。
前世の世界地図と、いま土の上にある銀霜帝国の地図。
その二枚が、脳裏で少しずつ重なり合っていく感覚があった。
◇ ◇ ◇
家に戻るころには、空には星がいくつか瞬き始めていた。
夕食を終え、父――劉大山が早めに床に就いたあと、僕は囲炉裏の側に小さな板切れと炭を持ち出した。
板の表面を袖で軽く拭き、さきほど師匠が描いたのと同じ円を炭でなぞる。
東に海、西に砂洲、南に大河、北に山脈。
腹の底に息を落とし、ゆっくりと吐きながら線を引く。
呼吸と線を、同じリズムで刻む。
(ここが霜京。ここが州城。ここが県城。ここが村)
炭の黒い線の間を、指先でそっとなぞる。
行政単位、門派、鏢局、江湖の情報。師匠の言葉を思い出しながら、それぞれに印を打っていく。
前世なら、こういう情報は紙の資料になって手元に来た。
ここでは、師匠の頭の中の地図を、少しずつ自分の頭に写し取っていくしかない。
(でも、そのぶん、身体に残る)
呼吸、線、印。
その繰り返しが、地図をただの「絵」ではなく、自分の「感覚」に変えていく。
「最近の青嶺は、夜更かしが減ったねえ」
後ろから声がして振り向くと、母――蘭が戸口から中を覗いていた。
手には洗い終えた木椀の束。
「前は布団に入ってからも、いつまでもごそごそしてたのに。最近は、寝るときはすっと寝ちゃう」
「……そうかな」
「そうだよ。顔つきも、少し柔らかくなった気がする」
母・蘭はそう言って微笑み、囲炉裏の火を少しだけかきたてた。
「何描いてるの、それ」
「地図。師匠に教わった」
「へえ。青嶺はほんと、難しいことが好きだねえ」
母・蘭は、板切れの上の円をちらりと見てから、すぐに笑って肩をすくめた。
「いいよ。行きたいところができたら、ちゃんと帰ってくる道も描いておきなさい」
「……うん」
それは、師匠の言葉と不思議に重なる忠告だった。
母・蘭が部屋の灯りを少し落とし、寝支度を始める。
僕は地図の板を布で包み、枕元に置いた。
布団に潜り込み、目を閉じる前に、もう一度だけ地図を頭の中でなぞる。
霜京の灯り、北嶺の雪、南の大河、西の砂洲、東の海。
それらのどこかに、いつか自分が立つ。
そのとき、迷わないために――地図を描き続ける。
腹の底で息を吸い、長く吐き出す。
呼吸に合わせて、頭の中の地図の線が、ゆっくりと光っては消えていく。
(まずは、この米粒みたいな村から、一直線にではなく、“選べる道”を増やしていこう)
そんなことを考えながら、僕は静かに眠りへと沈んでいった。
評価していただけますと幸いです!!
よろしくお願いします!




