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銀霜帝国記~転生したので、筆と剣で天下を取りにいく~  作者: tenntenn


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第12話 初めての「勝負」

 木と木がぶつかる乾いた音が、裏山に小さく響いた。

 ほこらの裏手、踏み固められた土の上で、僕と師匠――蒼玄そうげんが棒を交えている。


 今日の稽古は、いつもより少しだけ軽い。

 足運びの確認と、間合いの出入り。それから、昨日教わった呼吸を保ったまま、打ち込みを受けたり、いなしたりする練習だ。


 腹の奥で息を吸い、長く吐く。

 視線は師匠ししょうの棒先に固定せず、肩や腰、足元までをまとめて一枚の景色として捉える。


(昨日より、世界が“落ち着いて”見えるな)


 そんなことを思いながら棒を受け流していると、不意に師匠ししょうが一歩退いた。

 距離が空く。追いかけようとした足を、僕は意識的に止めた。


 師匠ししょうは棒を肩に担ぎ、いつになくニヤリと口角を上げる。


「よし。ここまではいつもの稽古じゃ」


「ってことは、この先は“いつも通り”じゃないやつですか」


「察しがよくなったな、青嶺せいれい


 師匠そうげんは、足元の土をつま先で軽くならした。


「今日は、ちと趣向を変える。稽古じゃなく“遊び”じゃ」


師匠ししょうの“遊び”って、だいたい僕が痛い思いをするやつですよね」


武林ぶりんの達人も、子どものころは痛い遊びで育つもんじゃ。安心せい」


 安心しろと言われて安心できる要素はどこにもない。

 それでも、胸の奥が少しだけ高鳴っているのを、自分でごまかせなかった。


(“遊び”ってことは、試験みたいなものか)


 師匠ししょうは棒の先で、僕と自分のあいだの地面に小さな円を描く。


「条件を決める。遊びと言うても、形がないと面白くない」


「どんな条件ですか」


「簡単じゃ、青嶺せいれい


 師匠そうげんの目が、子どもみたいにきらっと光る。


「お前は“先に一度だけ”打ってよい。わしは“何度打っても”よい」


「……一度だけ?」


「一度だけじゃ。お前の棒が一度でも振られたら、それで攻めは終い。あとは防ぐか、逃げるか好きにせい。わしは、好きなだけ叩ける」


 実に師匠ししょうらしい、容赦のない条件だ。


「勝ち負けは?」


「お前が一度でも、はっきりわしの身に触れたら、お前の勝ちとする。触れられんまま、お前の足か心が折れたら、わしの勝ちじゃ」


「心が折れたかどうかって、判定が厳しそうですね」


「わしが見て、“あ、折れたな”と思ったら折れとる」


 基準がひどく主観的だ。

 でも、それもまた“この世界”らしい気がした。


「もう一つだけ、先に言うておく」


 師匠そうげんは棒を立てて、柄頭つかがしらを額に軽く当てた。


「“当てる”だけでは足りん。“当てて、生き残る”ところまで含めて、一太刀いちたちじゃ」


「……了解です」


 口で言うのは簡単だけれど、実際にやるのは別の話だ。

 それでも、この条件が妙に心地よく感じられるのは、多分、前の世界で似たような場面を何度も経験してきたからだ。


(会議でも、交渉でも、“一言だけ”通せる瞬間がある。あれに近いな)


 一度きりの一言。一度きりの一太刀。

 それをどこで出すかを考えるのは、嫌いじゃない。


「準備はええか」


「はい」


「よし。ほんなら――始めるぞ」


 合図はそれだけだった。

 師匠ししょうの足が、土を一度だけ踏む。

 それだけで、さっきまで“穏やかな稽古”だった空気が、一瞬で「狩り」の匂いに変わる。


 僕は腹の奥に息を落とし込み、視野を広げた。


(まずは“見る”。当分、振らない)


 棒を構える手に、余計な力を入れないように気をつけながら、地面を蹴る。

 師匠そうげんの棒が、肩口を狙って降ってきた。


「っ」


 半歩、斜め後ろに退きながら、棒の腹で軌道をずらす。

 木と木がぶつかる音が、耳のすぐそばで弾けた。


(この一合目で振るのは論外だな)


 僕はすぐさま距離を取りつつ、師匠そうげんの肩と腰と足を観察する。

 ここ数日の稽古で、師匠そうげんの打ち方はそれなりに頭に入っている。


 上から打つときの右肩の沈み。

 横からぐときの、左足の微妙な踏み出し。

 押し込んでくるときの腰の入り方、引きながら打つときの足の抜き方――。


(完全な“隙”なんて、まずない。あるのは“動き始め”の印だけだ)


 それでも、その印を拾えれば、一太刀の切り込み口にはなる。

 武林ぶりんで語られる名剣客たちは、たぶんこういう印を、呼吸するみたいに拾っているのだろう。


 辺境の村にいても、酒場や行商人の口から、武林のうわさはときどき耳に入ってくる。

 千里を駆けてあだを討った女剣士。

 一度も敗北を知らずに山を降り、十年で七つの門派もんぱを沈めた男。

 敵の首を取るのに一歩も動かず、「半歩の剣」と呼ばれた老人――。


(いつか、そういう連中がうろつく場所――“江湖こうこ”ってやつに、僕も足を踏み入れるのかもしれない)


 そんな遠い未来を想像しながら、僕は目前の一撃をいなした。

 今はまだ村の子どもと変わらない身なりでも、身体の中では、少しずつ“武林側”の感覚が育っていく。


「どうした。振らんのか」


 師匠そうげんが、軽くあざけるような声を飛ばしてくる。


「まだ“材料集め”の時間です、師匠ししょう


「材料、ねえ。役人臭い言いかたをする」


 そう言いながらも、師匠そうげんの打ち込みは一切ゆるまない。

 棒が肩を狙い、脇腹を狙い、ももをかすめようとする。


 僕は足運びでずらし、棒で弾き、退きの三歩で距離をとる。

 打ち合いのリズムに、昨日教わった呼吸を重ねる。


(吸って四、吐いて八。視野は広く)


 繰り返しているうちに、世界の輪郭がまたゆっくりし始める。

 相手の肩が上がる前、腰がわずかに沈む前、足が土を踏む前――その一瞬を“待つ余裕”が、かろうじて生まれてきた。


「……ふむ」


 師匠そうげんの目が、わずかに細まる。


「お前、最初のころに比べると、だいぶ“逃げるのがうまく”なったな」


「逃げるのも“死なずに残る”うちですよね」


「口も回るようになったわ」


 軽口を交わしながらも、僕は頭の片隅かたすみで数字を数えていた。

 さっきの打ち合いから何合目か。どの型で、どんなくせが出たか。


(上段からの打ち下ろしのとき、右肩が沈む“前”に、ほんの一瞬だけ止まる)


 さっきの一撃で、それがはっきり見えた。

 三合目まではなかった“止まり”が、四合目、五合目と進むにつれて、少しずつ形を持ち始める。


(わざと“見せて”きてる気もするけど……今はそこまで欲張らない)


 それが本物の隙かどうかを見抜くのは、ずっと後の課題だろう。

 今必要なのは、「動きの中に線を見つける目」を育てることだ。


青嶺せいれい


「はい」


「このまま逃げ回るつもりなら、一つ条件を足してやる」


 師匠そうげんが、さらりと言った。


「あと十合。十合のうちに振らなんだら、その時点でお前の負けじゃ」


「……急に締め切りが来ましたね」


「世の中の勝負なんて、だいたいそういうもんじゃ。締め切りは向こうが決める」


 妙に納得してしまう言い回しだ。

 僕は一度だけ深く息を吸い、腹の中で数字を刻み始めた。


(一合目――いや、こっから数え直そう。これが“一”だ)


 一。

 師匠そうげんの棒が、低い位置から薙ぎ払ってくる。

 足の運びと腰の回転の比率を、頭の中でメモしておく。


 二。

 今度は上段。

 右肩がわずかに沈む前、“ほんの一拍”だけ止まる。

 視線も、その一拍で細かく揺れる。


 三。

 フェイントを混ぜた中段の突き。

 突く寸前に、わずかにつえを握る指の関節が白くなった。


 四。

 間合いを詰めずに、空間だけを制圧してくる横薙ぎ。

 踏み込みが浅いぶん、腰の入りも軽い。


(この十合は、“癖の見本市”だな)


 師匠そうげんの身体は、どの動きも洗練されている。

 その分、癖も、あまり表に出ない。

 だからこそ、こうして“あえて”少しだけ揺らしてくれているのが分かる。


(五……六……)


 肩が沈む前の一拍。

 腰が絞られる前の呼吸。

 足が土を踏む前の、つま先の角度。


(七)


 肩の“止まり”は、やはり上段のときだけだ。

 低い位置からの薙ぎや突きには出てこない。


(八)


 わざと肩の止まりを大きく見せた一撃を、僕はあえてスルーする。

 そこで踏み込めば、たぶん“釣り餌”だ。

 九。


 師匠そうげんの呼吸が、わずかに整う。

 棒の先が、静かに引き上げられる。

 右肩が沈む一拍“前”に――また、あの止まりが来た。


(十合目。ここしかない)


 僕は、そこで踏み込んだ。


 真正面からではない。

 師匠そうげんの利き手とは逆、右肩の外側へ斜めに入る。


 目指すのは、深く斬り込むことじゃない。

 ただ“触れる”。その一瞬だけだ。


 呼吸が静かに切り替わる。

 世界の輪郭が、少しだけ伸びる。

 師匠そうげんの棒がまだ下りきっていない、その一拍のあいだに、僕の棒が横から滑り込む。


 布と木が擦れる、軽い音がした。


(――当たった)


 師匠そうげんの右肩の外側に、棒の先がかすかに触れた。

 弾くでも、叩くでもなく、本当に“触れただけ”の一太刀。


「……ほう」


 師匠そうげんの口から、短い息が漏れた。

 しかし、その感慨かんがいに浸る暇は、僕には与えられなかった。


(やば――)


 一太刀を振った時点で、僕の攻めは終わっている。

 そのことを、頭では分かっていたのに、身体はほんの一瞬、「やった」という感情に足を取られていた。


 次の瞬間、視界が横に弾け飛ぶ。


「がっ――!」


 脇腹に、木の塊がめり込む。

 肺から空気が勝手に絞り出される。

 そのまま体勢を立て直す前に、二撃目が背中を叩き、三撃目が太ももを打つ。


「ま、待っ……!」


 情けない声が口から漏れる。

 足を動かして距離を取ろうとしても、さっきふところに深く入り込みすぎたせいで、退きの三歩をまともに使える位置じゃない。


 四撃目が、棒を握る手首を軽くはたく。

 反射的に指の力が抜け、僕の棒は「ぽとり」と土の上に落ちた。


「そこまでじゃ」


 師匠そうげんが棒を肩に担ぎ直す。

 僕は尻もちをついたまま、しばらく言葉が出なかった。


「今ので、肩に一太刀。条件は達成たっせいじゃ。勝負としては、お前の勝ち」


「……勝ち、って言い方、信じていいんですか、これ」


「痛いから負け、というなら武林では生き残れんぞ」


 師匠そうげんは、あっさりと言う。


「お前は“当てた”。それだけで、村一番の使い手と名乗っても文句を言うやつはそうおらん。

 だが、“当てたあと”を何も考えとらんかった。そこがまだ子どもじゃ」


「はい……」


 痛いところを、痛いタイミングで突いてくる。

 脇腹を押さえながら、僕は素直にうなずいた。


「一太刀目までは文句ない。踏み込みも角度も、力の抜き方も悪くない。

 ただ、“次の一瞬”を頭から締め出してしまった。肩に触れた瞬間、お前の世界はそこで途切れた」


「確かに、“やった”って考えた瞬間に、全部ふっとびました」


武林ぶりんで名を挙げるやつの中には、“一太刀で事を終わらせる”のがうまい連中もおる。

 だが本当に怖いのは、“一太刀のあとを見ている”やつじゃ」


 師匠そうげんの目が、少しだけ遠くを見た。


「昔な、“一剣封喉いっけん・ふうこう”と渾名あだなされた女がいた。

 喉元に一度剣を当てたら、二太刀目を振る必要もないほどに、相手の心を折る剣筋じゃった」


「……そんな人が、本当にいたんですか」


「いたとも」


 師匠そうげんはあっさりと言う。


「だが、その女が長生きできたのは、“一剣”の鋭さのせいだけじゃない。

 “喉に剣を当てたまま、相手の次の動き十通りを見ていた”からじゃ」


 喉に剣を当てられながらも、なお反撃しようとする者。

 命乞いをしながら、足だけは退路を探す者。

 そのすべてを、剣先の向こうで見ていたからこそ、死なずに残れた。


青嶺せいれい、今日の一太刀で、お前は“当てる感覚”を一つ手に入れた。

 次は、“当てた瞬間に、次の十手を見る”稽古を増やしていく」


「十手……多くないですか」


武林ぶりんでは少ないほうじゃ」


 さらりと言われ、僕は肩で息をしながら苦笑するしかなかった。


「それと、もう一つ」


 師匠そうげんは、今度は少しだけ口調をやわらげた。


「さっき、お前はわしの肩の“止まり”を見抜いた。あれは半分、本物のくせで、半分、わしがわざと戻した癖じゃ」


「半分、本物?」


「昔のわしは、本当にああいう一拍を持っとった。

 門派もんぱの型と、わし自身の身体の作りのせいじゃ。今はだいぶ矯正きょうせいしたが、意識して力を抜くと、昔の癖はすぐ顔を出す」


 師匠そうげんは、自分の右肩を指先で軽く叩いた。


「今日は、その“昔の癖”をわざと大きく出した。お前に、“動きの中の印”を見る練習をさせるためにな」


「やっぱり、わざとでしたか」


「ただし勘違いするな。武林には、“印を見せてくるやつ”と、“印そのものをえさにするやつ”と、“何も漏らさずに殺しに来るやつ”がいる」


「……最後のカテゴリが一番怖いやつですね」


「そうじゃ。そういう連中とやり合うとき、今日の感覚が役に立つ。

 ほんの半拍、ほんの半歩、ほんの一言の揺れを見逃さんことじゃ」


 師匠そうげんの言葉の端々(はしばし)に、まだ見ぬ世界の匂いが混ざっている。

 国境の向こう側。

 江湖こうこと呼ばれる、人と恩讐おんしゅうが渦巻く世界。

 門派の総本山そうほんざんや、辺境のとりで盗賊とうぞくだらけの山脈――。


(この村の外には、“役所”だけじゃなくて、“武林側の世界”も広がってるんだよな)


 前の世界では、出世の道は省庁の中か、政治の中枢ちゅうすうくらいしか見えていなかった。

 けれどこの世界には、文の道以外にも、武林や江湖といった、別の流れがいくつもある。


 剣を取って名を挙げる者。

 逆に名前を捨て、影のまま動く者。

 門派に属さず、ただ「江湖人こうこじん」として渡り歩く者――。


(いつか、そういう連中とも交わることになるのかもしれない)


 師匠そうげんの“昔の癖”を見抜いたことが、どこか遠い将来につながっていくような気がした。


師匠ししょう


「何じゃ」


「今日みたいな“条件付きの勝負”、またやってくれますか」


 師匠そうげんは、一瞬だけ目を丸くした。それから、愉快そうに笑う。


りんやつじゃな」


「……正直、めちゃくちゃ痛いですけど。でも、“一度きりの一太刀”って条件、好きです」


「ほう」


「前の世界でも、そんな感じで動いてましたから。

 会議でも交渉でも、“ここだ”って一言を探して、そこに全部を乗せる、みたいな」


 そんな話をすると、師匠そうげんは少しだけ真顔になる。


「なら、その癖を大事にせい。

 この先、山を降りたら、門派のおさだろうが、江湖で名を売った剣客だろうが、戦場明けのいくさ働きの大将だろうが――“ここだ”という一太刀で黙らせねばならん場面が、いくらでも出てくる」


 銀霜帝国ぎんそうていこくという国の中にも、いくつもの層が重なっている。

 皇都のつかさたち。

 辺境を守るしょうたち。

 表向きは商人を名乗りつつ、裏で武林の情報をさばく者たち。

 門派同士の争いにだけ生きる武人たち。


 僕は、そのどこに立つことになるのか、まだ決めていない。

 決められるほど、情報も力もない。


(でも、“選べるだけの力”は手に入れたい)


 村に埋もれて畑を耕す生きかたを否定するつもりはない。

 それはそれで、一つのまっとうな人生だ。

 けれど、前の世界からわざわざ二度目の人生を引き当てておいて、「何も選ばないまま」は、さすがに性に合わない。


 剣を持って江湖に出るのか。

 筆を携えて朝堂ちょうどうに立つのか。

 どちらも半分ずつ握ったまま、境目の細い道を歩くのか。


(今日の一太刀で、その“分かれ道”に少しだけ近づいた気がする)


 痛む脇腹をさすりながら、そんなことを考えた。



 山を下りるころには、空は薄い橙に染まり始めていた。

 遠くの山の端が黒く沈み、その向こうには、まだ見ぬ土地が幾重いくえにも重なっている。


 村の入り口付近では、いつものように梁爺りょうやの屋台が片付けの最中だった。

 干し肉の香りと、香辛料こうしんりょうのきつい匂いが漂っている。


「おう、青嶺せいれい。顔をしかめて歩いとるな。師匠ししょうにまたしばかれたか」


「……まあ、だいたいそんな感じです」


 そう答えると、梁爺りょうやはケラケラと笑った。


「武林に名をせる連中も、若いころはだいたいその顔をしとったわ。

 殴られ、一度当てて喜び、その直後に十倍返しされる。それを繰り返して、そのうち笑いながら殴られるようになる」


「笑いながら殴られる境地には、あまり至りたくないですね」


「何を言う。江湖こうこでは、笑うやつから生き残るんじゃ」


 梁爺りょうやは、屋台の板をたたきながら、周囲の人の流れにさりげなく目を走らせている。

 子どもたちの走る方向、酔っ払いの足元、遠くから歩いてくる知らない顔――。


(やっぱり、この人も“癖を見る目”を持ってるな)


 師匠そうげんが言う武林の達人だけが、世界の広がりじゃない。

 市場で人の流れを読む商人も、街道で噂を拾う行商人も、それぞれのやりかたで“江湖”を泳いでいる。


青嶺せいれい


「はい」


「お前の目、前よりよくなったな」


「目、ですか」


「昔は、遠くの空とか、山のてっぺんばかり見とった。

 今は、人の肩とか腰とか、手とか、そういう“生き物の動き”を見とる目になっとる」


 梁爺りょうやは、にやりと笑う。


「そういう目は、武林でも役所でも役に立つ。

 生きているもの全部が、教科書みたいなもんじゃ」


「肝に銘じておきます」


 軽く頭を下げて家に戻る。

 村のあちこちから夕餉ゆうげの匂いが立ち上っている。


 家に入ると、らんが鍋のふたを開けたところだった。

 湯気といっしょに、芋と肉と醤油に似た調味料ちょうみりょうの匂いが広がる。


「おかえり、青嶺せいれい……って、またえらい顔してるわね」


「ちょっと、足を滑らせただけ」


「その“足を滑らせた”が今週何回目か、母さんは数えてるからね」


 らんはため息をつきながらも、皿に多めに芋を盛ってくれた。

 脇腹の痛みで少し顔をしかめると、その表情を見逃さない。


「本当に無茶だけはしないこと。

 ……この国には、腕っぷしだけで成り上がる人もいるけど、骨を折って寝たきりになった人も山ほどいるんだから」


「分かってるよ」


 そう言いながら、僕は心の中で今日の一太刀を何度もなぞった。


 肩に触れた、あの一瞬。

 その直後に、世界がきばいてくる感覚。


 銀霜帝国ぎんそうていこくの中枢を目指す道もあれば、武林の深みに降りていく道もある。

 どの道を選ぶにしても、“一度きりの一太刀”を外さない目と、“当てたあとも生き残る”足がいる。


(今日は、とりあえず“当てる”まではできた。

 次は、“当てたあとに笑っていられる”ところまで持っていこう)


 そう思いながら、芋を一口かじる。

 脇腹はまだ痛い。

 けれど、その痛みは、どこか遠くの山脈へと続いていく道の、最初の石ころみたいに思えた。

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