表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
銀霜帝国記~転生したので、筆と剣で天下を取りにいく~  作者: tenntenn


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

11/18

第11話 呼吸と内側の静けさ

 野菜を刻しながら、さっきまでの足運びの稽古を思い返していた。

 裏山のほこら師匠ししょう――蒼玄そうげんに足をいじめられ、市場で梁爺りょうやの立ち位置を観察し、村の道では人混みを避けて歩く練習。

 それらが一本の線でつながっているのは分かる。けれど、その線を進めば進むほど、身体のほうが先に音を上げ始める。


(足は、まだどうにか誤魔化せるけど)


 包丁を握る指先に力を入れると、前腕の筋肉がじわりと抗議してくる。

 肩から背中にかけての張りと、胸のあたりの息苦しさは、ここ数日ずっとだった。


(息のほうが、問題かもしれないな)


 前の世界では、一日中机にかじりついて、気づけば浅く速い呼吸を繰り返していた。

 会議室で資料を読み上げながら、胸の上のほうだけで吸って吐いてを繰り返し、頭はいつも酸欠気味で、そのくせ眠ろうとすると眠れない。

 今、その悪癖の残りかすが、稽古中にも顔を出している気がした。


青嶺せいれい、大根はそれくらいでいいよ。次はこっちの芋、薄くね」


 隣で刻んでいたらんが、まな板を押しやりながら声をかけてくる。

 額にかいた汗を袖でぬぐうと、その仕草を見て小さく笑った。


「裏山で走ってきたあとに、よく手が動くねえ」


「動かさないと、余計に固まりそうだから」


「そういうところは、父さんに似たのかね」


 らんは鍋のふたを少しずらし、煮え具合を確かめながら、ちらりとこちらを盗み見る。


「この頃、帰ってきても、あんまり“はあ、はあ”言わなくなったよね」


「え?」


「前は、息を切らせて飛び込んできて、そのまましばらく土間でうずくまってたじゃない。今日は、顔は赤いけど、息はそこまで乱れてない」


 言われてみれば、確かにひどくはない。

 ただ、それは単に「苦しいのに我慢している」だけかもしれない、と自分では思う。


「慣れてきただけ、かな」


「だといいけどね」


 らんはそう言いながら、目だけでじっと僕の胸元を見た。


「前はね、あんた、ため息ばっかりついてたんだよ。村の子どもにしては、ちょっと変なくらい」


「そんなに?」


「うん。何か失敗したとか怒られたとかじゃなくて、“何もないのに出るため息”っていうの? あれは見ててちょっと心配だった」


 胸の奥に、前世の自分の姿が浮かぶ。

 蛍光灯の下、書類の山の前で、何の意味もなく吐き出していたため息。


「最近は、息を吐くときの顔が違うよ」


 らんは鍋を火から下ろしながら、ふっと柔らかく笑った。


「力を抜いてるって感じ。諦めてるようには見えない」


 その言葉に、何と返せばいいか分からず、僕はただ「そう」と呟いて、大根の山をまとめた。


(諦めて出す息と、力を抜くための息、か)


 同じ吐くでも、中身は違う。

 それは何となく、感覚として分かる。


(でも、多分、僕はまだ“前のやり方”を引きずってる)


 剣の稽古のとき、体勢を変える瞬間に息を止めてしまう癖。

 力を入れるときに、肩から先だけで何とかしようとする身体の使い方。


(明日は、足じゃなくて、“息”を習ったほうがいいかもしれない)


 野菜を刻む手を止めずに、僕はそんなことを心の中で決めた。



 翌日、裏山へと向かったのは、日が頭上に差し掛かる少し前だった。

 毎回同じ時間に来ると足音だけでバレそうだから、という理由もあったが、それ以上に、午前中に畑を手伝って身体を軽く動かしたあとでないと、最近は足が回らない。


 祠の前に出ると、いつものように風が木々を揺らし、葉と葉がこすれ合う音がしていた。

 師匠ししょうは、祠の正面の石段に腰を下ろし、膝に手を置いて座っている。木剣も棒も見当たらない。


「来たか、青嶺せいれい


「はい、師匠」


 思わず周囲を確認してしまう。

 棒がない。木剣もない。

 つまり、今日は叩かれたり斬られたりはしない……のだろうか、と淡い期待が胸をよぎった。


「今日は、足はおまけじゃ」


 師匠ししょうが、こちらの考えを読んだみたいに言った。


「おまけ、ってことは、やることはやるんですね」


「当たり前じゃ。だが、その前に“息”じゃ」


 師匠ししょうの視線が、まっすぐに僕の胸のあたりに刺さる。


「山を登ってくる足音と、ここに来たときの肩の動きで分かる。

 足はだいぶ良くなっとる。だが呼吸は、悪い」


「悪い、ってそんなにはっきり……」


「悪いもんは悪いと言わんと直らん。胸ばかりで慌てて吸う。吐く前に次を吸おうとする。

 そういう息は、戦でも仕事でも、すぐに首を絞めに来る」


 図星を突かれて、返す言葉がない。

 前の世界の会議室で、資料を読み上げながら肩で息をしていた自分の姿が、そのまま重なっていた。


「剣を握る前に、呼吸を整えろ。

 足が地面と仲良うなるには時間がかかるが、息と仲良うなるのには、今日からでも取り掛かれる」


 師匠ししょうは石段から立ち上がり、祠の前の平らな場所を顎で示した。


「座れ。胡坐あぐらでも、正座でも好きにせい。ただし、腰を折るな」


「はい」


 土の上に胡坐をかき、腰をぐっと立てる。背筋を伸ばすと、ふくらはぎの張りがはっきりとした形で意識に上がってきた。


「背を板と思え。肩に余計な力を入れるな。腕は楽に膝に置け」


 師匠ししょうが、さっと近づいてきて、僕の背中に二本の指を当てる。

 少し押され、少し引かれ、そのたびに背骨の位置が整っていく。


「顎は、このくらい」


 指先で軽く顎を押され、視線が自然と少し下を向いた。

 そこには、師匠ししょうの足と、祠の土台の石と、土の上に落ちた葉が見える。


「目は閉じるな」


「……開けてると、落ち着かない気がします」


「最初はそれでええ。戦の最中に目を閉じておる暇はない。

 剣を握る者は、目を開けたまま心を静めねばならん」


 言いながら、師匠ししょうも僕の正面――石段に腰を下ろした。

 同じように背筋を伸ばし、腕を膝の上に置き、まぶたを半分だけ下ろす。


「視線は、わしの顔でも祠の石でもない。

 このあたり一帯を、ぼんやり見る」


 師匠ししょうが示した「このあたり」とは、僕と師匠ししょうの間、祠の土台、その周りの土と落ち葉が作る小さな世界だ。


「焦点をどこにも合わせんでええ。

 見ようとするな。入ってくるもんを、“入ってきたまま”にしておけ」


「……やってみます」


 視線を柔らかくぼかしながら、師匠ししょうの声に耳を傾ける。


「息じゃ。腹に入れて、腹から出す。

 胸の上のほうで吸って吐くな。そこは入口じゃ。溜める場所ではない」


 言葉と同時に、師匠ししょうの片手が自分の腹のあたりに置かれる。


「ここから、上下に動かすつもりで吸え。

 吸うとき、心の中で一から四まで数える。吐くときは、一から八まで。

 しんどければ六でも構わんが、“吐くほうを長く”じゃ」


「吸う四、吐く八……」


「そうじゃ。人は恐れと苛立いらだちで頭がいっぱいになると、吸ってばかりになる。

 吐かんから、胸の内側だけが火事になる」


 前の世界で、役所の窓口の前で青い顔をしていた自分の姿が浮かぶ。

 何とかしなきゃ、と考えながら、実際には一つも吐き出せていなかったあの頃。


「まずは捨てる。吐き切る。

 捨てるもんを捨てたあとでないと、新しい空気は入らん」


 師匠ししょうの声は静かだったが、その静けさが逆に重みを持って響いた。


「数えてみい。わしが合わせる」


「……はい。一、二、三、四」


 腹を意識しながら息を吸う。

 思っていたより、すぐに「もう入らない」と感じる地点が来た。

 けれど、師匠ししょうの言葉を思い出し、胸の上ではなく、腹の奥に空間を広げるイメージで吸い続ける。


「吐け。一、二、三、四、五、六、七、八」


 ゆっくりと細く、空気を吐き出す。

 途中で「もう出ない」と感じても、数のほうを優先して吐き続ける。


(……苦しい、というより、変な感じだな)


 これまでの「はあはあ」の呼吸とは違う、妙な空虚さが腹のあたりに生まれる。

 それは不安ではなく、空きスペースができた感じに近かった。


「もう一度じゃ。今度は、お前が自分で数えろ」


「分かりました。吸って、一、二、三、四。吐いて、一、二、三、四、五、六、七、八」


 声には出さず、心の中で数える。

 そのあいだ、視線は土の上の一点に固定しないように気をつける。

 落ち葉の形、祠の石のひび、師匠ししょうの足元の影――どれも「見ようとすれば」細部が目に入るが、今は「見えていること」に留める。


「どうじゃ」


「……胸だけで息してるときより、苦しくないです」


「当たり前じゃ。胸だけで吸う息は、常に足りん。

 腹まで使えば、同じ四でも、入る量が違う」


 師匠ししょうは、僕の胸を指で軽くつついた。


「ここで息をし続けると、頭もここだけでぐるぐる回る。

 腹で息をし始めると、頭の中の“騒ぎ”が、少しだけ静かになる」


「……確かに、さっきまでより、余計なことを考えなくなりました」


 正確には、「余計なことを考えようとしても、数字が割り込んでくる」が正しい。

 息の出入りと、腹の膨らみと、数。それだけで頭の中の余裕が埋まっていく。


「視野も、同じじゃ」


 師匠ししょうは、今度は目のあたりを指さした。


「呼吸が乱れた者は、目の前しか見えん。

 相手の剣先だけ、あるいは自分の足元だけ。

 そういうときに限って、横から飛んできた石に当たる」


「……前に、師匠に棒を振られたときみたいですね」


「お前は、最初それで何度も頭をはたかれた。

 わしの棒先ばかり見て、わしの肩と足を見とらんかった」


 思い出すと、脳天がむず痒くなるくらいには痛かった記憶だ。


「呼吸が整うと、不思議なことが起きる。

 “見ていないはずのもの”が、勝手に目に入る」


 師匠ししょうは、地面に落ちている小さな枝を拾い上げ、それを指先でくるくる回した。


「視野を広げようとするのではない。

 呼吸を整え、肩の力を抜き、視線を一点に固めんようにすれば、勝手に広がる」


「勝手に、ですか」


「そうじゃ。人間は、本来そうできとる。

 頭で“見よう”とするから、逆に狭くなる。

 息と視野は、同じところでつながっとる」


 言葉の意味をすべて理解できたわけではない。

 けれど、息をゆっくり吐き出しながら、なんとなく「嘘ではない」と分かる。


「もう少し続けるぞ。今度は、数をわしが勝手に変える。

 吸う四、吐く六。吸う四、吐く八。吸う三、吐く六。

 お前は、“吐くほうが長い”ことだけ守れ」


「了解です」


 そこからしばらく、僕は師匠ししょうの声に合わせて呼吸を続けた。

 太陽が少し高くなり、木々の影の形が少しずつ変わっていく。

 時間の感覚は曖昧になっていくのに、身体の内側だけが、妙にはっきりしてきた。



「よし。そのくらいで一度立て」


 どれくらい経ったころか、師匠ししょうがそう言った。

 立ち上がると、足が少しじんとする。だが、さっき座る前の重さとは違っていた。

 身体の芯に、うすく一本、柱が通ったみたいな感覚がある。


「今の呼吸を崩さんようにして、構えろ」


 いつの間にか師匠ししょうの手には木の棒が握られていた。

 祠の脇に立てかけてあったものだろう。

 やっぱり今日も叩かれるのか、と一瞬だけ思うが、すぐに呼吸に意識を戻す。


「胸で慌てて吸うなよ」


「意地でも腹で吸います」


 軽く笑い合い、僕も棒を手に取って構えた。

 足幅を肩幅に開き、重心をわずかに前へ。

 さっきまで座っていたときの「真ん中」を、そのまま立ち姿勢に移したつもりで。


「いくぞ」


 師匠ししょうの声と同時に、棒先が動いた。

 肩口を狙う、一撃目。


 今までなら、棒先に目を奪われていたところだ。

 けれど、今は視線を一本の線に絞らないように意識する。


 落ち葉。土。師匠ししょうの足。肩。肘。棒。

 それらが、ひとまとまりの景色として目に入ってくる。


(来る)


 肩がわずかに沈み、足が地面を押す。

 その予兆の瞬間に、腹で息を小さく詰め、足を半歩だけ後ろに滑らせた。


 木と木がぶつかる乾いた音がする。

 僕の棒の側面が、師匠ししょうの棒先をぎりぎりでらしていた。


「……今のは、“見てから”避けたな」


 師匠ししょうが小さく言う。

 僕も、自分でそれを感じていた。


 勘で飛び退いたのではない。

 師匠ししょうの身体の動きと、棒の軌道が「見えた」うえで動いたのだ。


「たまたまかもしれませんけど」


「たまたまでも、一度できたなら、二度三度とできる。

 それが、“息と視野を一緒に整えた”状態じゃ」


 師匠ししょうは、二撃目、三撃目とリズムを変えて棒を振ってくる。

 全部を避けられるわけではない。

 肩に、脇腹に、何発かはしっかりもらう。

 それでも、さっきまでとは違い、「来る」と感じてから身体を動かす瞬間が、確かに増えていた。


(世界の動きが、少しだけゆっくりになったみたいだ)


 大げさな比喩ではなく、本当にそう感じた。

 呼吸が乱れると、その感覚はすぐに薄れる。

 逆に、腹で吸って長く吐くリズムを取り戻すと、また世界の輪郭が落ち着いて見える。


 稽古を切り上げたときには、汗で髪が額に貼りついていた。

 だが、胸のあたりは、さっきまでのような息苦しさではなく、心地よい火照ほてり方をしていた。


「覚えておけ、青嶺せいれい


 棒を脇に立てかけながら、師匠ししょうが言う。


「呼吸は、“剣より先に握るもの”じゃ。

 これが乱れれば、どんな名剣もただの鉄じゃ」


「……はい」


 素直に頷くと、師匠ししょうは少しだけ目を細めた。


「今日教えたのは、わしが昔いた門派もんぱの呼吸に、少し手を加えたものじゃ」


「師匠って、やっぱりどこかの門派に?」


「子どもの好奇心は尽きんのう」


 軽く笑いながらも、師匠ししょうの目の奥はどこか遠くを見ていた。


「わしの“本当の門派”の型は、もう少し窮屈でな。

 息の数も細かく決められとった。

 ただ、あれは“門派の型”としては立派じゃが、“生き残るため”には少し余計な飾りが多い」


「だから、手を加えたんですか」


「そうじゃ。必要なところだけ残して、あとは捨てた。

 正式な継承を名乗るつもりもない。

 ただ、“死なずに残るため”に、一番使える形だけを残した」


 その言い方は、自分の過去に線を引こうとしているようにも聞こえた。

 門派の名前を出さないのは、単に口が重いだけではないのかもしれない。


(本当の門派、か)


 いずれ、どこかでその名を聞くことになるのだろう。

 銀霜学院ぎんそうがくいんに入れば、武林や門派についての話も、今よりずっと多く耳にするはずだ。


 けれど、今はまだ、「知りたい」と「知らなくてもいい」の境目に立っている気がして、僕はそれ以上追及しなかった。


「明日からも、剣を振る前に、今日の呼吸を十回やれ。

 それだけで、身体の入り方が変わる」


「分かりました」


 祠を後にして山道を下りながらも、僕は腹の奥の石ころを意識するみたいに、呼吸のリズムを保ち続けた。



 その夜。

 夕飯を終え、父が早々にいびきをかき始めるころ、土間の隅の作業台には、いつものように本が積み上げられていた。


 銀霜帝国ぎんそうていこくの成り立ちをざっくりまとめた簡易史書。

 各地のぐんごとの法令や租税そぜい制度を解説した講義本。

 それから、師匠ししょうが投げてよこした軍略書の抜き書き。


 油灯に火が入り、らんが布団のほうへ下がる前に、いつもの確認が飛んでくる。


「目を酷くしないようにね」


「うん。ほどほどにする」


 本当かい、と言いたげな目で一度こちらを見てから、らんは布団に入っていった。

 寝息が整うのを待つあいだ、僕は本を開かずに、まず呼吸だけを始める。


(吸う四、吐く八)


 昼間、師匠ししょうと祠の前でやったのと同じ。

 背筋を伸ばし、作業台の前に座り、腹を意識しながら鼻で息を吸う。

 一、二、三、四。

 そして長く吐く。一、二、三、四、五、六、七、八。


 それを三度ほど繰り返してから、最初の一冊――史書を開いた。

 銀霜帝国ぎんそうていこくの第三代皇帝の治世ちせいと、そのとき行われた科挙制度の見直しについて書かれている章だ。


 いつもの僕なら、「覚えること多すぎ」と最初の一行でうんざりしていたはずだ。

 しかし今日は、とりあえず文句を言う前に、呼吸のリズムを崩さずに読み始めた。


 吸う。吐く。

 文字を追う。

 吸う。吐く。

 出来事を頭の中で映像にする。


 第三代皇帝が地方官の登用法を改めた目的。

 その結果、どの階層の者がどのくらい試験を受けられるようになったか。

 改革に反対した旧勢力がどこで抵抗し、どう押し切られたか。


 息が乱れそうになったら、行を追う目を一瞬止め、数だけに意識を戻す。

 そして、また文字に戻る。


(……あれ、意外と入ってくるな)


 読み進めるうちに、ふと気づく。

 頭の中のざわつきが、いつもより少ない。

 「さっきの稽古の復習をしなきゃ」「明日の予定を考えなきゃ」という雑音が、呼吸のリズムに押し出されている。


 試しに、一段落読み終えたところで本を閉じ、今の章の内容を頭の中でなぞってみた。

 年号、皇帝の名、改革の要点――驚くほどすらすら出てくる。


(これ、使える)


 思わず小さく笑いそうになり、慌てて口を引き結ぶ。

 らんが起きてしまっては元も子もない。


 次に軍略書を開く。

 陣形の名前と特徴、その運用例が簡潔に記されている。

 以前読んだときには、「こんなの実戦で使うのか?」と半信半疑で流し読みした部分だ。


 呼吸を整えた状態で読むと、印象が違う。

 左右の翼の動き。正面の厚み。退き際の道筋。

 昼間の足運びの稽古と重ね合わせながら読むと、「ここで踏み止まる」「ここで引く」という感覚が、図と一緒に頭の中に入り込んでくる。


(呼吸を整えてから読むだけで、ここまで違うものか)


 ページをめくる手を一度止め、油灯の炎を見つめる。

 心臓の鼓動は落ち着いているのに、頭の奥が妙に冴えている感じがあった。


「……前の世界で、これをやってたらな」


 思わず、小さく呟いてしまう。

 法案の条文も予算書の数字も、少なくとも暗記の面では、今より楽に扱えたかもしれない。


 とはいえ、あの世界はもう戻らない。

 今は、銀霜帝国ぎんそうていこくで生きていくための「武」と「文」の両方を鍛えなければならない。


(だったら、ここで使えることに感謝したほうがいいか)


 呼吸のリズムを保ったまま、本を閉じる。

 布団に潜り込む前に、もう一度だけ、ゆっくり吸って、長く吐いた。


 視界が暗くなっても、腹の奥で石ころが上下するような呼吸は続いている。

 そのまま、意識がすっと落ちていった。



 翌朝――といっても、僕が目を覚ましたときには、すでに日の光は布団の端まで届いていた。

 珍しく寝坊した、と一瞬思ったが、身体は重くない。むしろ、妙な軽ささえ感じた。


「ふふ、やっぱり」


 土間に出ると、らんがかまどの前で振り向いた。

 笑いかたが、どこか確信に満ちている。


「何が“やっぱり”なのさ」


「最近ね、あんた、布団に入ったらすぐ寝るようになったでしょ」


「そう、かな」


「そうだよ。母さん、ちゃんと見てるからね。

 前は寝返り打ったり、変な寝言言ったりしてたのに、ここ数日は“すこん”って寝て、“すこん”って起きる」


 擬音のセンスがいまいちなのはさておき、言っている内容は分かる。

 最近、布団に入ってから「またいろいろ考え始める」前に、眠りに落ちることが増えていた。


「昨日の夜もね、あんた、本を閉じてからほとんど間を置かずに寝息が聞こえたよ」


「……起きてたの?」


「母さんは、あんたがどんなふうに寝るか、ちゃんと聞いてるの」


 らんは、かまどの火を調整しながら続ける。


「前はね、息が浅かった。胸の上のほうで“はあはあ”してる感じ。

 今は、もっと下のほうで“すー、すー”ってしてる」


 胸じゃなく、腹だ。

 布団の中でも、無意識に昨日の呼吸を続けていたのだろう。


「いいことじゃないか。よく食べて、よく動いて、よく寝て。

 それが一番強くなる」


 その言葉は、この世界の常識であり、前の世界で忘れられていた当たり前でもあった。


(呼吸一つで、ここまで変わるなら)


 僕は朝飯のかゆをすすりながら、心の中で新しいルールを決めた。


(剣を振る前も、本を読む前も、まず“十回”やろう)


 十回、腹で吸い、長く吐く。

 それだけで、足と頭の両方の入り方が変わる。


 師匠ししょうに教わった「死なずに残るための剣」の前に、「死なずに残るための呼吸」を手に入れた。

 それは、きっとこの先、どんなでも、静かに効いてくるはずだ。

評価していただけますと幸いです!!

よろしくお願いします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ