第11話 呼吸と内側の静けさ
野菜を刻しながら、さっきまでの足運びの稽古を思い返していた。
裏山の祠で師匠――蒼玄に足をいじめられ、市場で梁爺の立ち位置を観察し、村の道では人混みを避けて歩く練習。
それらが一本の線でつながっているのは分かる。けれど、その線を進めば進むほど、身体のほうが先に音を上げ始める。
(足は、まだどうにか誤魔化せるけど)
包丁を握る指先に力を入れると、前腕の筋肉がじわりと抗議してくる。
肩から背中にかけての張りと、胸のあたりの息苦しさは、ここ数日ずっとだった。
(息のほうが、問題かもしれないな)
前の世界では、一日中机にかじりついて、気づけば浅く速い呼吸を繰り返していた。
会議室で資料を読み上げながら、胸の上のほうだけで吸って吐いてを繰り返し、頭はいつも酸欠気味で、そのくせ眠ろうとすると眠れない。
今、その悪癖の残り滓が、稽古中にも顔を出している気がした。
「青嶺、大根はそれくらいでいいよ。次はこっちの芋、薄くね」
隣で刻んでいた蘭が、まな板を押しやりながら声をかけてくる。
額にかいた汗を袖でぬぐうと、その仕草を見て小さく笑った。
「裏山で走ってきたあとに、よく手が動くねえ」
「動かさないと、余計に固まりそうだから」
「そういうところは、父さんに似たのかね」
蘭は鍋の蓋を少しずらし、煮え具合を確かめながら、ちらりとこちらを盗み見る。
「この頃、帰ってきても、あんまり“はあ、はあ”言わなくなったよね」
「え?」
「前は、息を切らせて飛び込んできて、そのまましばらく土間でうずくまってたじゃない。今日は、顔は赤いけど、息はそこまで乱れてない」
言われてみれば、確かにひどくはない。
ただ、それは単に「苦しいのに我慢している」だけかもしれない、と自分では思う。
「慣れてきただけ、かな」
「だといいけどね」
蘭はそう言いながら、目だけでじっと僕の胸元を見た。
「前はね、あんた、ため息ばっかりついてたんだよ。村の子どもにしては、ちょっと変なくらい」
「そんなに?」
「うん。何か失敗したとか怒られたとかじゃなくて、“何もないのに出るため息”っていうの? あれは見ててちょっと心配だった」
胸の奥に、前世の自分の姿が浮かぶ。
蛍光灯の下、書類の山の前で、何の意味もなく吐き出していたため息。
「最近は、息を吐くときの顔が違うよ」
蘭は鍋を火から下ろしながら、ふっと柔らかく笑った。
「力を抜いてるって感じ。諦めてるようには見えない」
その言葉に、何と返せばいいか分からず、僕はただ「そう」と呟いて、大根の山をまとめた。
(諦めて出す息と、力を抜くための息、か)
同じ吐くでも、中身は違う。
それは何となく、感覚として分かる。
(でも、多分、僕はまだ“前のやり方”を引きずってる)
剣の稽古のとき、体勢を変える瞬間に息を止めてしまう癖。
力を入れるときに、肩から先だけで何とかしようとする身体の使い方。
(明日は、足じゃなくて、“息”を習ったほうがいいかもしれない)
野菜を刻む手を止めずに、僕はそんなことを心の中で決めた。
◆
翌日、裏山へと向かったのは、日が頭上に差し掛かる少し前だった。
毎回同じ時間に来ると足音だけでバレそうだから、という理由もあったが、それ以上に、午前中に畑を手伝って身体を軽く動かしたあとでないと、最近は足が回らない。
祠の前に出ると、いつものように風が木々を揺らし、葉と葉が擦れ合う音がしていた。
師匠は、祠の正面の石段に腰を下ろし、膝に手を置いて座っている。木剣も棒も見当たらない。
「来たか、青嶺」
「はい、師匠」
思わず周囲を確認してしまう。
棒がない。木剣もない。
つまり、今日は叩かれたり斬られたりはしない……のだろうか、と淡い期待が胸をよぎった。
「今日は、足はおまけじゃ」
師匠が、こちらの考えを読んだみたいに言った。
「おまけ、ってことは、やることはやるんですね」
「当たり前じゃ。だが、その前に“息”じゃ」
師匠の視線が、まっすぐに僕の胸のあたりに刺さる。
「山を登ってくる足音と、ここに来たときの肩の動きで分かる。
足はだいぶ良くなっとる。だが呼吸は、悪い」
「悪い、ってそんなにはっきり……」
「悪いもんは悪いと言わんと直らん。胸ばかりで慌てて吸う。吐く前に次を吸おうとする。
そういう息は、戦でも仕事でも、すぐに首を絞めに来る」
図星を突かれて、返す言葉がない。
前の世界の会議室で、資料を読み上げながら肩で息をしていた自分の姿が、そのまま重なっていた。
「剣を握る前に、呼吸を整えろ。
足が地面と仲良うなるには時間がかかるが、息と仲良うなるのには、今日からでも取り掛かれる」
師匠は石段から立ち上がり、祠の前の平らな場所を顎で示した。
「座れ。胡坐でも、正座でも好きにせい。ただし、腰を折るな」
「はい」
土の上に胡坐をかき、腰をぐっと立てる。背筋を伸ばすと、ふくらはぎの張りがはっきりとした形で意識に上がってきた。
「背を板と思え。肩に余計な力を入れるな。腕は楽に膝に置け」
師匠が、さっと近づいてきて、僕の背中に二本の指を当てる。
少し押され、少し引かれ、そのたびに背骨の位置が整っていく。
「顎は、このくらい」
指先で軽く顎を押され、視線が自然と少し下を向いた。
そこには、師匠の足と、祠の土台の石と、土の上に落ちた葉が見える。
「目は閉じるな」
「……開けてると、落ち着かない気がします」
「最初はそれでええ。戦の最中に目を閉じておる暇はない。
剣を握る者は、目を開けたまま心を静めねばならん」
言いながら、師匠も僕の正面――石段に腰を下ろした。
同じように背筋を伸ばし、腕を膝の上に置き、まぶたを半分だけ下ろす。
「視線は、わしの顔でも祠の石でもない。
このあたり一帯を、ぼんやり見る」
師匠が示した「このあたり」とは、僕と師匠の間、祠の土台、その周りの土と落ち葉が作る小さな世界だ。
「焦点をどこにも合わせんでええ。
見ようとするな。入ってくるもんを、“入ってきたまま”にしておけ」
「……やってみます」
視線を柔らかくぼかしながら、師匠の声に耳を傾ける。
「息じゃ。腹に入れて、腹から出す。
胸の上のほうで吸って吐くな。そこは入口じゃ。溜める場所ではない」
言葉と同時に、師匠の片手が自分の腹のあたりに置かれる。
「ここから、上下に動かすつもりで吸え。
吸うとき、心の中で一から四まで数える。吐くときは、一から八まで。
しんどければ六でも構わんが、“吐くほうを長く”じゃ」
「吸う四、吐く八……」
「そうじゃ。人は恐れと苛立ちで頭がいっぱいになると、吸ってばかりになる。
吐かんから、胸の内側だけが火事になる」
前の世界で、役所の窓口の前で青い顔をしていた自分の姿が浮かぶ。
何とかしなきゃ、と考えながら、実際には一つも吐き出せていなかったあの頃。
「まずは捨てる。吐き切る。
捨てるもんを捨てたあとでないと、新しい空気は入らん」
師匠の声は静かだったが、その静けさが逆に重みを持って響いた。
「数えてみい。わしが合わせる」
「……はい。一、二、三、四」
腹を意識しながら息を吸う。
思っていたより、すぐに「もう入らない」と感じる地点が来た。
けれど、師匠の言葉を思い出し、胸の上ではなく、腹の奥に空間を広げるイメージで吸い続ける。
「吐け。一、二、三、四、五、六、七、八」
ゆっくりと細く、空気を吐き出す。
途中で「もう出ない」と感じても、数のほうを優先して吐き続ける。
(……苦しい、というより、変な感じだな)
これまでの「はあはあ」の呼吸とは違う、妙な空虚さが腹のあたりに生まれる。
それは不安ではなく、空きスペースができた感じに近かった。
「もう一度じゃ。今度は、お前が自分で数えろ」
「分かりました。吸って、一、二、三、四。吐いて、一、二、三、四、五、六、七、八」
声には出さず、心の中で数える。
そのあいだ、視線は土の上の一点に固定しないように気をつける。
落ち葉の形、祠の石のひび、師匠の足元の影――どれも「見ようとすれば」細部が目に入るが、今は「見えていること」に留める。
「どうじゃ」
「……胸だけで息してるときより、苦しくないです」
「当たり前じゃ。胸だけで吸う息は、常に足りん。
腹まで使えば、同じ四でも、入る量が違う」
師匠は、僕の胸を指で軽くつついた。
「ここで息をし続けると、頭もここだけでぐるぐる回る。
腹で息をし始めると、頭の中の“騒ぎ”が、少しだけ静かになる」
「……確かに、さっきまでより、余計なことを考えなくなりました」
正確には、「余計なことを考えようとしても、数字が割り込んでくる」が正しい。
息の出入りと、腹の膨らみと、数。それだけで頭の中の余裕が埋まっていく。
「視野も、同じじゃ」
師匠は、今度は目のあたりを指さした。
「呼吸が乱れた者は、目の前しか見えん。
相手の剣先だけ、あるいは自分の足元だけ。
そういうときに限って、横から飛んできた石に当たる」
「……前に、師匠に棒を振られたときみたいですね」
「お前は、最初それで何度も頭をはたかれた。
わしの棒先ばかり見て、わしの肩と足を見とらんかった」
思い出すと、脳天がむず痒くなるくらいには痛かった記憶だ。
「呼吸が整うと、不思議なことが起きる。
“見ていないはずのもの”が、勝手に目に入る」
師匠は、地面に落ちている小さな枝を拾い上げ、それを指先でくるくる回した。
「視野を広げようとするのではない。
呼吸を整え、肩の力を抜き、視線を一点に固めんようにすれば、勝手に広がる」
「勝手に、ですか」
「そうじゃ。人間は、本来そうできとる。
頭で“見よう”とするから、逆に狭くなる。
息と視野は、同じところでつながっとる」
言葉の意味をすべて理解できたわけではない。
けれど、息をゆっくり吐き出しながら、なんとなく「嘘ではない」と分かる。
「もう少し続けるぞ。今度は、数をわしが勝手に変える。
吸う四、吐く六。吸う四、吐く八。吸う三、吐く六。
お前は、“吐くほうが長い”ことだけ守れ」
「了解です」
そこからしばらく、僕は師匠の声に合わせて呼吸を続けた。
太陽が少し高くなり、木々の影の形が少しずつ変わっていく。
時間の感覚は曖昧になっていくのに、身体の内側だけが、妙にはっきりしてきた。
◆
「よし。そのくらいで一度立て」
どれくらい経ったころか、師匠がそう言った。
立ち上がると、足が少しじんとする。だが、さっき座る前の重さとは違っていた。
身体の芯に、うすく一本、柱が通ったみたいな感覚がある。
「今の呼吸を崩さんようにして、構えろ」
いつの間にか師匠の手には木の棒が握られていた。
祠の脇に立てかけてあったものだろう。
やっぱり今日も叩かれるのか、と一瞬だけ思うが、すぐに呼吸に意識を戻す。
「胸で慌てて吸うなよ」
「意地でも腹で吸います」
軽く笑い合い、僕も棒を手に取って構えた。
足幅を肩幅に開き、重心をわずかに前へ。
さっきまで座っていたときの「真ん中」を、そのまま立ち姿勢に移したつもりで。
「いくぞ」
師匠の声と同時に、棒先が動いた。
肩口を狙う、一撃目。
今までなら、棒先に目を奪われていたところだ。
けれど、今は視線を一本の線に絞らないように意識する。
落ち葉。土。師匠の足。肩。肘。棒。
それらが、ひとまとまりの景色として目に入ってくる。
(来る)
肩がわずかに沈み、足が地面を押す。
その予兆の瞬間に、腹で息を小さく詰め、足を半歩だけ後ろに滑らせた。
木と木がぶつかる乾いた音がする。
僕の棒の側面が、師匠の棒先をぎりぎりで逸らしていた。
「……今のは、“見てから”避けたな」
師匠が小さく言う。
僕も、自分でそれを感じていた。
勘で飛び退いたのではない。
師匠の身体の動きと、棒の軌道が「見えた」うえで動いたのだ。
「たまたまかもしれませんけど」
「たまたまでも、一度できたなら、二度三度とできる。
それが、“息と視野を一緒に整えた”状態じゃ」
師匠は、二撃目、三撃目とリズムを変えて棒を振ってくる。
全部を避けられるわけではない。
肩に、脇腹に、何発かはしっかりもらう。
それでも、さっきまでとは違い、「来る」と感じてから身体を動かす瞬間が、確かに増えていた。
(世界の動きが、少しだけゆっくりになったみたいだ)
大げさな比喩ではなく、本当にそう感じた。
呼吸が乱れると、その感覚はすぐに薄れる。
逆に、腹で吸って長く吐くリズムを取り戻すと、また世界の輪郭が落ち着いて見える。
稽古を切り上げたときには、汗で髪が額に貼りついていた。
だが、胸のあたりは、さっきまでのような息苦しさではなく、心地よい火照り方をしていた。
「覚えておけ、青嶺」
棒を脇に立てかけながら、師匠が言う。
「呼吸は、“剣より先に握るもの”じゃ。
これが乱れれば、どんな名剣もただの鉄じゃ」
「……はい」
素直に頷くと、師匠は少しだけ目を細めた。
「今日教えたのは、わしが昔いた門派の呼吸に、少し手を加えたものじゃ」
「師匠って、やっぱりどこかの門派に?」
「子どもの好奇心は尽きんのう」
軽く笑いながらも、師匠の目の奥はどこか遠くを見ていた。
「わしの“本当の門派”の型は、もう少し窮屈でな。
息の数も細かく決められとった。
ただ、あれは“門派の型”としては立派じゃが、“生き残るため”には少し余計な飾りが多い」
「だから、手を加えたんですか」
「そうじゃ。必要なところだけ残して、あとは捨てた。
正式な継承を名乗るつもりもない。
ただ、“死なずに残るため”に、一番使える形だけを残した」
その言い方は、自分の過去に線を引こうとしているようにも聞こえた。
門派の名前を出さないのは、単に口が重いだけではないのかもしれない。
(本当の門派、か)
いずれ、どこかでその名を聞くことになるのだろう。
銀霜学院に入れば、武林や門派についての話も、今よりずっと多く耳にするはずだ。
けれど、今はまだ、「知りたい」と「知らなくてもいい」の境目に立っている気がして、僕はそれ以上追及しなかった。
「明日からも、剣を振る前に、今日の呼吸を十回やれ。
それだけで、身体の入り方が変わる」
「分かりました」
祠を後にして山道を下りながらも、僕は腹の奥の石ころを意識するみたいに、呼吸のリズムを保ち続けた。
◆
その夜。
夕飯を終え、父が早々にいびきをかき始めるころ、土間の隅の作業台には、いつものように本が積み上げられていた。
銀霜帝国の成り立ちをざっくりまとめた簡易史書。
各地の郡ごとの法令や租税制度を解説した講義本。
それから、師匠が投げてよこした軍略書の抜き書き。
油灯に火が入り、蘭が布団のほうへ下がる前に、いつもの確認が飛んでくる。
「目を酷くしないようにね」
「うん。ほどほどにする」
本当かい、と言いたげな目で一度こちらを見てから、蘭は布団に入っていった。
寝息が整うのを待つあいだ、僕は本を開かずに、まず呼吸だけを始める。
(吸う四、吐く八)
昼間、師匠と祠の前でやったのと同じ。
背筋を伸ばし、作業台の前に座り、腹を意識しながら鼻で息を吸う。
一、二、三、四。
そして長く吐く。一、二、三、四、五、六、七、八。
それを三度ほど繰り返してから、最初の一冊――史書を開いた。
銀霜帝国の第三代皇帝の治世と、そのとき行われた科挙制度の見直しについて書かれている章だ。
いつもの僕なら、「覚えること多すぎ」と最初の一行でうんざりしていたはずだ。
しかし今日は、とりあえず文句を言う前に、呼吸のリズムを崩さずに読み始めた。
吸う。吐く。
文字を追う。
吸う。吐く。
出来事を頭の中で映像にする。
第三代皇帝が地方官の登用法を改めた目的。
その結果、どの階層の者がどのくらい試験を受けられるようになったか。
改革に反対した旧勢力がどこで抵抗し、どう押し切られたか。
息が乱れそうになったら、行を追う目を一瞬止め、数だけに意識を戻す。
そして、また文字に戻る。
(……あれ、意外と入ってくるな)
読み進めるうちに、ふと気づく。
頭の中のざわつきが、いつもより少ない。
「さっきの稽古の復習をしなきゃ」「明日の予定を考えなきゃ」という雑音が、呼吸のリズムに押し出されている。
試しに、一段落読み終えたところで本を閉じ、今の章の内容を頭の中でなぞってみた。
年号、皇帝の名、改革の要点――驚くほどすらすら出てくる。
(これ、使える)
思わず小さく笑いそうになり、慌てて口を引き結ぶ。
蘭が起きてしまっては元も子もない。
次に軍略書を開く。
陣形の名前と特徴、その運用例が簡潔に記されている。
以前読んだときには、「こんなの実戦で使うのか?」と半信半疑で流し読みした部分だ。
呼吸を整えた状態で読むと、印象が違う。
左右の翼の動き。正面の厚み。退き際の道筋。
昼間の足運びの稽古と重ね合わせながら読むと、「ここで踏み止まる」「ここで引く」という感覚が、図と一緒に頭の中に入り込んでくる。
(呼吸を整えてから読むだけで、ここまで違うものか)
ページをめくる手を一度止め、油灯の炎を見つめる。
心臓の鼓動は落ち着いているのに、頭の奥が妙に冴えている感じがあった。
「……前の世界で、これをやってたらな」
思わず、小さく呟いてしまう。
法案の条文も予算書の数字も、少なくとも暗記の面では、今より楽に扱えたかもしれない。
とはいえ、あの世界はもう戻らない。
今は、銀霜帝国で生きていくための「武」と「文」の両方を鍛えなければならない。
(だったら、ここで使えることに感謝したほうがいいか)
呼吸のリズムを保ったまま、本を閉じる。
布団に潜り込む前に、もう一度だけ、ゆっくり吸って、長く吐いた。
視界が暗くなっても、腹の奥で石ころが上下するような呼吸は続いている。
そのまま、意識がすっと落ちていった。
◆
翌朝――といっても、僕が目を覚ましたときには、すでに日の光は布団の端まで届いていた。
珍しく寝坊した、と一瞬思ったが、身体は重くない。むしろ、妙な軽ささえ感じた。
「ふふ、やっぱり」
土間に出ると、蘭がかまどの前で振り向いた。
笑いかたが、どこか確信に満ちている。
「何が“やっぱり”なのさ」
「最近ね、あんた、布団に入ったらすぐ寝るようになったでしょ」
「そう、かな」
「そうだよ。母さん、ちゃんと見てるからね。
前は寝返り打ったり、変な寝言言ったりしてたのに、ここ数日は“すこん”って寝て、“すこん”って起きる」
擬音のセンスがいまいちなのはさておき、言っている内容は分かる。
最近、布団に入ってから「またいろいろ考え始める」前に、眠りに落ちることが増えていた。
「昨日の夜もね、あんた、本を閉じてからほとんど間を置かずに寝息が聞こえたよ」
「……起きてたの?」
「母さんは、あんたがどんなふうに寝るか、ちゃんと聞いてるの」
蘭は、かまどの火を調整しながら続ける。
「前はね、息が浅かった。胸の上のほうで“はあはあ”してる感じ。
今は、もっと下のほうで“すー、すー”ってしてる」
胸じゃなく、腹だ。
布団の中でも、無意識に昨日の呼吸を続けていたのだろう。
「いいことじゃないか。よく食べて、よく動いて、よく寝て。
それが一番強くなる」
その言葉は、この世界の常識であり、前の世界で忘れられていた当たり前でもあった。
(呼吸一つで、ここまで変わるなら)
僕は朝飯の粥をすすりながら、心の中で新しいルールを決めた。
(剣を振る前も、本を読む前も、まず“十回”やろう)
十回、腹で吸い、長く吐く。
それだけで、足と頭の両方の入り方が変わる。
師匠に教わった「死なずに残るための剣」の前に、「死なずに残るための呼吸」を手に入れた。
それは、きっとこの先、どんなでも、静かに効いてくるはずだ。
評価していただけますと幸いです!!
よろしくお願いします!




