第1話 残業死と銀霜帝国
初投稿です。
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残業三日目の夜、蛍光灯の白さが、やけにまぶしかった。
「……もう一枚だけ資料を直したら、帰ろう」
自分で言っておきながら、その声は情けないくらいかすれていた。
霞んだモニターには、「緊急対応」「至急」「本日中」なんて赤文字のメールがいくつも並んでいる。
受信箱の未読件数は、さっき確認したときよりも増えていた気がする。誰かが、今この瞬間も、どこか別の部署で「至急」と打ち込んでいるのだろう。
気づけば日付はとうに変わっていて、窓の外のビル群は、ほとんどのフロアが真っ暗だった。
残っている明かりは、ぽつりぽつりとした島のようで、たぶんどこか別の省庁の“同業者”だ。
明日には締め切り。
いや、正確には今日の朝一が締め切りだ。
上司からのチャットには、軽いスタンプと一緒に「頼んだ」の一言。
あれで責任は全部こっちに丸投げされたことになっているのだから、便利な世の中だ。
「大丈夫、大丈夫。まだ、動ける」
自分に言い聞かせるように呟いて、キーボードを叩こうとした指先が、わずかに震える。
カフェインの取りすぎで心臓が変に早い。コンビニの缶コーヒーと、微妙にぬるくなったペットボトルのお茶。机の上には、空き容器がいくつも転がっていた。
頭の奥では、鈍い痛みが、もう何時間も前から一定のリズムで鳴り続けていた。
ドク、ドク、と規則正しく脈打つたびに、「そろそろ限界だよ」とどこかが警告を出している気がする。
画面の隅に反射した自分の顔は、土気色を通り越して、灰色っぽい。
(これ、あとで人に見せたら「病人の顔ですね」って言われるやつだ)
新人の頃、先輩に同じような顔をしている写真を見せられて、冗談半分で笑ったことがあった。
そのときは、まさか自分も同じになるとは思っていなかった。
そんな馬鹿みたいなことを考えて、ひとつ息を吐く。
——少し、横になろうか。
ほんの五分、いや三分でもいい。
目を閉じて、椅子にもたれて、頭を冷やそう。そうすれば、もう一回くらい集中できるかもしれない。
そう思った瞬間、世界がぐにゃりと傾いた。
イスから立ち上がったつもりが、足が床をとらえ損ねる。
視界の端で、コピー機と書類の山がぐるりと反転し——。
「あ、やべ」
口が勝手に、いつもの癖でそう言っていた。
床が近づく。机の角が迫る。
頭の中で冷静な自分が「これは危ない」と、どこか他人事みたいに呟いた。
(明日の会議資料、まだ完成してないんだけどな)
どうでもいいことを最後に思い浮かべて——次の瞬間、真っ暗になった。
◆ ◆ ◆
——何か、温かい。
ひどく柔らかい布と、少しざらついた感触の間に、僕は挟まれていた。
安物の布団とは違う、藁と布を重ねたような、独特の重みとぬくもりがある。
まぶたを開けると、天井が見えた。
黄ばんだ白。木の梁。
蛍光灯ではなく、煤けた梁に吊られた、小さな油灯。炎がゆらゆらと揺れて、壁に淡い影を落としている。
「……どこだ、ここ」
思わず声が出る。
自分の声が、前より少し高いことに、そこでようやく気づいた。
反射的に起き上がろうとして、僕は思い切りバランスを崩した。
上半身を起こした瞬間、体が軽すぎて、反動でぐらりと揺れる。
体が、妙に軽い。
腕も足も、細く短い。
視界が低い。ベッド——いや、藁を詰めた簡素な寝台の縁が、やけに高く見える。
自分の両手を見下ろす。
小さい。中学生どころか、小学校高学年くらいのサイズだ。
指先には、薄くひび割れた跡と、土で染みたような汚れが残っている。
キーボードより鍬の方が似合いそうな手だ。
「……夢、じゃないな」
鼻に届くのは、湿った土と薪の匂い。
遠くからは、鳥の鳴き声と、牛の鳴き声。エアコンの低い唸りも、プリンタの駆動音もない。
代わりに、外から聞こえるのは、誰かが薪を割る乾いた音と、人の笑い声だった。
風がすきま風のように壁を通り抜け、藁の匂いと一緒に冷たさを運んでくる。
「——おお、起きたか、小青!」
荒いがどこか愉快そうな男の声がした。
振り向くと、きしむ音を立てて木の戸が開き、太い腕の男が立っていた。
日焼けした顔。
刻まれた皺。
粗末だが清潔な麻の衣。
腰には縄の帯。外から差し込む朝の光が、彼の肩口を縁取っている。
その後ろには、土の庭と、木で組まれた柵。柵の向こうには、のそのそと草を食む牛の姿が見えた。
見覚えはない。それなのに、僕の口は自然にその男をこう呼んでいた。
「……父さん?」
自分で言って、自分で驚く。
けれど口から出たその言葉は、この世界の言葉として、何の違和感もなく空気に溶けていった。
男は豪快に笑った。
「おお、ちゃんと声が出るじゃないか。昨日は田んぼで倒れとったからな、心配したぞ。
医者を呼ぶにも金がいるし、寿命が縮むかと思ったぞ」
そこでまた、何かが頭の中で弾けた。
【銀霜帝国】
【大陸中央に広がる大国家】
【文を司る「科挙官僚府」】
【武を司る「武林十二門派」】
【皇帝はまだ幼く、実権は摂政と宦官が握る】
——そんな単語や知識が、「小青」という少年の記憶と一緒に、洪水のように頭に流れ込んでくる。
銀霜帝国。
この世界の名前。
僕が生まれ育った国の名前。
そして、もう一つの記憶。
薄暗いオフィス。鳴り止まない電話。
「前例がないので」「政治判断ですので」と言われ続けた会議室。
日本の省庁で資料をこね回していた、二十七歳の僕。
その二つが、ぴたりと重なった。
(……転生、ってやつか)
言葉にすると馬鹿みたいだ。
けれど、体のサイズも、匂いも、聞こえる言葉も、すべてが“現実”の手触りをしていた。
寝台から足を下ろすと、土間の冷たさがじかに足裏に伝わってくる。
粗く削られた木の柱、ひび割れた土壁。
部屋の隅には、箒と鍬と、編みかけの籠。
どう見ても、異世界ファンタジーでよく見る「あの感じ」の田舎の家だ。
「どうした、小青。まだ具合が悪いか?」
さっきの男——この世界での“父さん”が、心配そうに覗き込んでくる。
額に乗せられた手は、荒れていて、でも温かかった。
手のひらからは、土と汗の匂いがした。
それは、不思議なくらい嫌ではなかった。
僕は一瞬、言葉を選んでから、首を振った。
「……ううん、大丈夫。ちょっと、変な夢、見てた」
驚くほど自然に、この世界の言葉が舌からこぼれた。
文法も発音も、考えるより先に口が動く。
(これが“転生特典”ってやつかな)
口の中で小さく呟きながら、頭の中で状況を整理する。
まず、言語。
この世界の言葉が、ほとんど考えずに理解できて、喋れている。
単語の意味も、漢字のような文字の読み書きも、すでに身についている感覚だ。
それだけじゃない。さっき一瞬頭の中に流れ込んできた、銀霜帝国の基礎知識——国の名前、地理、貨幣、簡単な法律。「文階」「武階」と呼ばれる身分と実力の階段。
そして、小青としてこの村で十数年生きてきた記憶。
前世の僕の記憶と、今世・劉青嶺の記憶が、きれいに整理された状態で共存している。
頭の中に、二つ分の人生のフォルダがあって、どっちを開いてもきちんと整頓されている感覚。
前よりも、情報の整理がずっと早い。
仕事で必死に鍛えた要約力と、転生後に追加された“自動翻訳システム+世界設定の説明書”。
その全部をひっくるめて、僕は内心で「転生特典」とラベリングした。
冗談めかしてそう呼びながら、胸の内では、別の感情がじわりと湧き上がっていた。
——やり直せる。
日本にいた僕は、シンプルに言って「歯車」だった。
多少頭の回転が速かろうが、徹夜で資料を作ろうが、名前が残るのは紙の上の“部署名”だけだ。
決裁文書に個人名は残らない。
人事評価は上司の機嫌と“空気”次第。
何十年と命を削っても、国の制度を根本から変えられるかと言われれば、それは怪しい。
でも——ここは違う。
劉青嶺としての記憶が、僕に教えてくれる。
この国には、「文階」と呼ばれる官僚の階段がある。
科挙という試験を突破し、実績を積み重ねれば、平民出身でも頂点近くまで登った者が、歴史上に何人もいる。
同じように、「武階」と呼ばれる武の階段もある。
乞食から武の道に入り、武林の英雄となって「武宗」や「武聖」と呼ばれた者の逸話も、村の古老から何度も聞かされてきた。
もちろん、身分や出自の壁はある。
貴族の子が有利なのは、どこの世界でも同じだ。
それでも、「絶対に変えられないガラスの天井」がある前世よりは、ずっとマシに思えた。
この銀霜帝国では、
〈文〉の力も、〈武〉の力も、きちんと“階段”として可視化されている。
努力を積み重ねた先に、ちゃんと「文階」「武階」という称号として結果が出る。
その仕組みは、ゆがみながらも、まだ息をしている。
(個人の努力で、文も武も、階段を登っていける世界……か)
なぜ、そう言い切れるのか。
それは、この体——劉青嶺の記憶が証明していた。
村には、昔、科挙に受かって都に出ていった男の話が残っている。
その家は今でも「科挙様の家」と呼ばれて、ちょっとした誇りになっている。
武林に身を投じ、門派の掌門にまで昇りつめた農家の出身者の噂もある。
酒の席で老人たちが語るその話は、半分は誇張かもしれないが、それでも「不可能ではない」という証拠には十分だった。
紙の中だけじゃない、“実例”がこの国にはあるのだ。
その上で、前世で制度の内側にいた僕は、こうも思う。
(階段があるなら、あとは登り方を知っている方が強い)
どう勉強すれば試験に受かるか。
どう人間関係を整理すれば上に嫌われないか。
どう数字を作れば、予算が通りやすいか。
それは全部、前世で否応なく身についたスキルだった。
今度はそれを、「自分のため」と「この国のため」に使えばいい。
文でも、武でも。
階段を登ることができれば——制度の中から、世界をいじれる。
「……いい場所じゃないか、銀霜帝国」
僕は、まだ細い自分の指をぎゅっと握りしめた。
前の世界では、握りこぶしを作ることさえ許されなかった。
不満を飲み込み、「仕方ないですね」と笑って頭を下げるのが仕事だった。
ここでは違う。
剣を握ってもいい。
筆を握ってもいい。
その両方で、この国を形作ることが許されている。
(だったら僕は——両方、やる)
口に出さずにそう決めて、布団から起き上がり、まだ慣れない足取りで窓辺に近づく。
ぎい、と音を立てて木枠を押し開けると、ひんやりした朝の空気が流れ込んできた。
外には、土の道と、小さな畑と、遠くに連なる山並み。
まだ日が昇りきる前の空の色は、どこか銀色がかっていて、
この国の名——銀霜帝国——と妙にしっくり重なって見えた。
土の道を、裸足の子どもが二人走っていく。
肩に木の棒を担ぎ、その両端には水桶。
どこからか、鶏の鳴き声も聞こえてくる。
「父さん!」
外から子どもの声が飛んでくる。
牛を引く少年、畑に向かう女たち。
その中に、劉青嶺としての“友達”の顔が何人も見えた。
名前を呼ばれれば、自然と誰のことか分かる。
昨日一緒に川で魚を追いかけたこと。
一昨日、畑で一緒に怒られたこと。
そんな細かな記憶が、前世の記憶の隙間にするりと入り込んでいる。
この平凡な農村の一角から、文と武の両方を極めるなんて、普通に考えれば無謀だ。
でも、前世と今世の記憶を両方持っている僕には、妙な確信があった。
(やれる。やれるはずだ)
文の階段——文階。
武の階段——武階。
そのどちらも登りきって、“頂点”に手をかけられたなら。
前の世界で届かなかった場所に、きっと届く。
銀霜帝国の風が、窓から吹き込んで、頬を撫でた。
それは、蛍光灯の下で感じていた空調の風よりも、ずっと冷たくて、ずっと生きている匂いがした。
藁の香り、土の湿り気、煙の残り香。
全部が、「ここから始めろ」と言っているように感じられた。
僕は胸の内で、静かに誓う。
——今度こそ、自分の生き方は、自分で選ぶ。
——そしていつか、「知は剣よりも強い」と胸を張って言える場所まで行く。
——そのうえで、「剣なき知は無力である」ことも、この手で証明してみせる。
その時の僕はまだ知らなかった。
この銀霜帝国の中央に、「文」と「武」の頂点を競う学び舎——
銀霜学院が存在していることを。
そして、そこが、僕の第二の人生の本当の出発点になることを。
評価していただけますと幸いです!!
よろしくお願いします!




