くしゃみビンタ婚約破棄から始まる、侯爵令嬢の帝国改革
王都最大の大聖堂に、三百人を超える貴族たちが集っていた。純白のドレスに身を包んだわたくしは、祭壇の前で完璧な微笑みを浮かべているはず。
隣に立つフレデリックの横顔を見つめた。金髪碧眼、まさに王子様といった容姿。けれど、その瞳に愛情の色は見えない。わたくしも同じ。これは政略結婚、ヴァロワ王国と我がリュミエール侯爵家の結びつきのための儀式に過ぎなかった。
司祭が荘厳な声で問いかける。
「フレデリック・ド・ヴァロワ王子、汝はセレスティーヌ・ド・リュミエールを生涯の伴侶とし、永遠の愛を誓いますか」
「誓います」
フレデリックの声は淡々としていた。次はわたくしの番。
「セレスティーヌ・ド・リュミエール侯爵令嬢、汝はフレデリック・ド・ヴァロワ王子を生涯の伴侶とし、永遠の愛を誓いますか」
「はい、誓いま――」
鼻の奥がむずむず。結婚前夜だというのに、昨夜重要な書類の確認で徹夜したせいだろうか。必死に堪えようとしたが。
「――へっくしょおぉぉぉぉい!」
おっさんみたいなくしゃみが大聖堂に響き渡った。くしゃみの反動で体が大きく横に傾き、バランスを取ろうと振った右手が、隣に立つフレデリックの頬に触れた。鼻水まみれの手が。
静寂。三百人の視線が凍りついた。
「汚らわしい!」
フレデリックの怒声と同時に、頬に激痛が走る。平手打ちされた衝撃で、わたくしは祭壇から転げ落ちた。
後頭部が大理石の床に叩きつけられる。痛みで目を閉じると、まぶたの裏に映像が映し出された。
――監査法人の深夜オフィス。パソコンの画面に映る決算書。不自然な数字の羅列。
――「中村さん、もう帰りなさい。体を壊しますよ」
――「でも、この数字……明らかに粉飾です。このまま監査報告書にサインはできません」
――「数字は嘘をつかない」
――胸の痛み。倒れる体。最後に見た天井の照明。
記憶。前世の記憶が蘇る。わたくしは中村理恵、二十八歳で過労死した公認会計士。
「なんてことだ! この女は不浄だ!」
フレデリックの声で現実に引き戻される。起き上がろうとするが、体に力が入らない。
「皆に告ぐ! この婚約は破棄する! 真の聖女はイザベラ・ド・ノワールだ!」
茶髪の少女が祭壇に上がっていく。清楚な顔立ちに、緑の瞳。まるで計算されたタイミングで現れた。
「フレデリック様……」
「イザベラ、もう隠す必要はない。我々の愛を皆に示そう」
「ええ、あたくしもずっと待っていましたわ」
二人が抱き合う姿を、わたくしは床に倒れたまま見上げていた。怒りよりも、むしろ安堵感が湧いてくる。これで、愛のない結婚をしなくて済む。
ふと思い出す。昨晩見ていた帳簿の違和感を。
前世の記憶と照らし合わせる。ヴァロワ王国の財政資料に記されていた数字の異常。あれは明らかに――
「セレスティーヌ・ド・リュミエール」
国王陛下――フレデリックの父、フィリップ二世が立ち上がった。
「そなたは我が国への侮辱を行った。リュミエール侯爵家から支払われる持参金は没収、そなたは国外追放とする」
「支払われる、ですって?」
ようやく声が出た。立ち上がって国王を見据える。
「申し訳ございませんが、持参金はすでに王国の国庫に納められているはずですわ。三か月前に」
「な、なんじゃと……」
「それどころか、あの金額で王国の負債は賄えないのでは? 昨夜拝見した帳簿では、かなり深刻な財政赤字でしたけれど」
国王の顔が青ざめた。フレデリックも動揺している。
「黙れ! とにかく国外追放じゃ! 今すぐ帝国との国境に連行せよ!」
衛兵たちがわたくしを取り囲む。抵抗しても無駄だと悟った。
「分かりましたわ。ただし、一つだけ忠告しておきます」
無理矢理振り返ってフレデリックを見つめる。
「数字は嘘をつきませんわ。いずれ真実が明らかになるでしょう」
大聖堂を後にしながら、前世の知識が次々と蘇ってくる。複式簿記、財務諸表分析、フォレンジック会計、そしてベンフォードの法則。
護送馬車に押し込まれながら、わたくしは静かに微笑んだ。これは終わりではない。新しい始まりかもしれない。
*
帝国との国境地帯は冷たい雨が降っていた。
護送の騎士が馬車の扉を開け、わたくしを突き落とす。泥濘に膝をつき、純白だったドレスが茶色く染まった。
「侯爵令嬢様はここまでだ。帝国領に入れば、もう我々の管轄外だからな」
「お達者で」
嘲笑と共に馬車が去っていく。雨音だけが響く荒野に、わたくし一人が取り残された。
立ち上がろうとした。けれど、疲労と衝撃で体が動かない。這いつくばったまま野垂れ死ぬのだろうか。前世も今世も、なんて報われない人生。
視界がぼやけていく。雨なのか涙なのか、もう分からない。
「おい、生きてるか?」
男の低い声。顔を上げると、黒い外套を纏った人影が立っていた。フードの奥から琥珀色の瞳が覗いている。
「貸借が……合わない……」
意識が遠のく中、わたくしは無意識に呟いていた。前世の最後の言葉と同じように。
「なんだと? 君は会計士なのか?」
男がフードを下ろす。黒髪に精悍な顔立ち、そして驚きに見開かれた琥珀色の瞳。
「まさか、こんなところで……」
男の腕に抱き上げられ、温もりを感じた瞬間、わたくしの意識は完全に途切れた。
*
温かい。それが最初に感じた感覚だった。
瞼を開けると、天蓋付きのベッドに寝かされていることに気づく。豪華な調度品、壁にかかる帝国の紋章。ここは――
「目が覚めたか」
窓際に立つ男が振り返った。黒髪に琥珀色の瞳、昨日わたくしを助けてくれた人物。いや、昨日だったのだろうか。
「ここは……?」
「帝国の第二皇子、ヘクトル・ヴァレンティノスの私室だ」
「皇子様!?」
慌てて起き上がろうとすると、ヘクトルが手で制した。
「まだ安静にしてろ。三日も眠っていたんだ」
「三日も……」
「それより、君の名前を聞かせてもらえるか? それと、なぜヴァロワ王国との国境に倒れていたのかも」
わたくしは深く息を吸い込んだ。隠しても仕方がない。
「セレスティーヌ・ド・リュミエール。ヴァロワ王国の、元、王太子妃候補ですわ」
「元?」
「婚約破棄されて国外追放されましたの。誓いの口づけの直前にくしゃみをして、王子の顔に鼻水をつけてしまった、という理由で」
「ぶっ――う、うむ」
ヘクトルの眉が上がる。笑いかけようとして、思いとどまったようだ。
「くしゃみで婚約破棄? 随分と器の小さい王子だな」
「ええ、今思えば幸運でしたわ。あのまま結婚していたら、破産国家の王妃になるところでした」
「破産国家?」
わたくしは昨夜――いや、四日前に見た帳簿の話をした。不自然な数字の羅列、明らかな粉飾決算の痕跡。
「ヴァロワ王国は半年以内に財政破綻します。数字は嘘をつきませんから」
ヘクトルが身を乗り出してきた。
「君は本当に会計士なのか?」
「ええ、前世では公認会計士でしたわ」
「前世?」
言ってから、しまったと思った。でも、ヘクトルの目は真剣だった。
「信じられないかもしれませんが、婚約破棄の衝撃で前世の記憶が蘇りましたの。ニホンという国で育ち、ナカムラリエという名前です。公認会計士として働いていました」
「ニホン……聞いたことがない国だが」
ヘクトルが立ち上がって、わたくしに近づいてくる。
「証明できるか? 君の能力を」
「帳簿を見せていただければ」
「ちょうどいい。実は帝国も財政問題を抱えている。有能な会計専門家を探していたところだ」
机から分厚い帳簿を持ってきて、わたくしの前に置いた。
ページを開いた瞬間、目眩がしそうになる。単式簿記、しかも記載が雑で統一性がない。これでは財政状態など分かるはずが――いや、待って。
数字のパターンを見ていると、ある違和感に気づく。自然な数字の分布とは明らかに異なる。
「これ……ベンフォードの法則に反していますわ」
「ベンフォードの法則?」
「自然に発生する数字の最初の桁は、1が約30%、2が約18%という具合に、特定の分布に従うんです。でも、この帳簿の数字は不自然に5と6から始まる数字が多い。支出を水増ししているか、収入を過少申告している可能性が高いですわ」
指で数字をなぞりながら説明する。
「つまり、誰かが意図的に数字を改竄している可能性が高いですわ。おそらく……」
計算を進めていく。前世の経験が、昨日のことのように蘇る。
「財務関連のトップが横領していますわね。それも十年以上」
「なんだと!? 財務長官のゴーティエ・ド・ブルゴーニュがそんなことを! いや……あり得るか。奴は法服貴族。領地を持たないのに、豪邸に住んでるからな……」
ヘクトルが帳簿を覗き込む。顔が近い。いい匂いがする。琥珀色の瞳が真剣な光を宿している。
「この数字のここと、ここ。関連性があるはずなのに金額が合わない。差額はおそらく――」
頭の中で暗算する。
「年間で国家予算の約十分の一。十年なら、相当な額になりますわ」
「本当なのか?」
「数字は嘘をつきません。ただし、これを証明するには、すべての帳簿を複式簿記で書き直す必要があります」
「複式簿記?」
「すべての取引を借方と貸方に分けて記録する方法ですわ。必ず左右が一致するので、不正があればすぐに分かります」
ヘクトルが立ち上がった。
「父上に会ってもらえるか?」
「皇帝陛下に?」
「ああ。君のような人材を、帝国は必要としている」
*
謁見の間は想像以上に壮麗だった。
玉座に座るアレクサンドロス三世は、威厳に満ちた銀髪と鋭い琥珀色の瞳を持つ。ヘクトルの父親だけあって、どこか面影が似ていた。
「ほう、ヴァロワ王国から追放された嬢ちゃんか」
「セレスティーヌ・ド・リュミエールと申します」
「くしゃみで婚約破棄とは、面白い話じゃな……ぶっ……くはははは……いやすまん」
皇帝が朗らかに笑う。思っていたより親しみやすい人物のようだ。
「ヘクトルから聞いた。そなたは会計の専門家だそうじゃな」
「はい、陛下」
「では、提案がある。三日で帝国の財政問題を解決してみせよ。成功したら、望むものを何でも与えよう」
「三日……ですか」
厳しい条件だが、不可能ではない。
「分かりました。ただし、条件があります」
「申してみよ」
「財務省の全職員に協力を命じてください。そして、わたくしに財務調査の全権をいただきたく」
「おもしれえ。許可する。やってみせろ。ゴーティエ・ド・ブルゴーニュ」
皇帝が手を叩くと、財務長官のゴーティエ・ド・ブルゴーニュが入ってきた。太った体に派手な装飾品。いかにも成金趣味な男。
「ゴーティエ、このセレスティーヌ嬢に全面協力せよ」
「は、はあ……しかし、外国の、それも追放された令嬢に我が国の財政を?」
「余の命令じゃ」
「……畏まりました」
ゴーティエの顔が青ざめている。やはり、この男が犯人で間違いない。
謁見を終え、財務省に向かう途中、ヘクトルが隣を歩いていた。
「本当に三日でできるのか?」
「ええ、必ず。数字は嘘をつきませんから」
「その言葉、気に入った」
ヘクトルが微笑む。その笑顔に、なぜか胸が高鳴った。
――これは仕事よ。前世と同じ過ちは繰り返さない。
自分に言い聞かせながら、わたくしは財務省の扉を開けた。山積みの帳簿を前に、闘志が燃え上がる。
どんな手口で不正を働いているのか。必ず暴いてみせる。
*
財務省の大広間に運び込まれた帳簿は、十年分で千冊を超えていた。
机に向かい、最初の一冊を開く。やはり単式簿記。収入と支出が羅列されているだけで、その理由や関連性が見えない。小学生の小遣い帳のよう。
「これで国家運営をしていたなんて、奇跡ですわね」
呟きながら、新しい帳簿を用意する。まずは複式簿記の基本となる勘定科目の設定から。資産、負債、純資産、収益、費用――前世の知識が次々と蘇る。
「セレスティーヌ様、お手伝いいたしましょうか」
背後からの声に振り返ると、細身で神経質そうな男性が立っていた。眼鏡の奥の瞳に、好奇心が光っている。
「あなたは?」
「マルセル・フォンテーヌ。財務長官の部下です。いえ、元部下と言うべきでしょうか」
「元?」
「ゴーティエ様の不正に薄々気づいていましたが、証明する術がありませんでした」
マルセルが声を潜める。
「もし本当に不正を暴けるなら、小生、全力でお手伝いさせていただきます」
信用していいものか迷う。けれど、協力者は必要だ。
「では、まず複式簿記を覚えていただけますか?」
「複式簿記?」
「こういうものですわ」
紙に簡単な仕訳を書いてみせる。
借方:現金 100 貸方:売上 100
借方:仕入 80 貸方:現金 80
借方:現金 800 貸方:税収 800
「必ず左右の合計が一致します。これなら、どこかで不正があれば、貸借が合わなくなるので、すぐに分かるんです」
「美しい……なんと美しい仕組みなのでしょう!」
マルセルの目が輝いた。芸術作品を見るような恍惚とした表情。
「これは革命です! 会計の革命ですよ、セレスティーヌ様!」
「そこまで感動していただけるとは」
苦笑しながらも、マルセルの熱意は本物だと感じた。
二人で作業を始めて数時間後、扉が開き、ヘクトルが入ってきた。
「進捗はどうだ?」
「順調ですわ。そして、やはり不正の証拠が出てきました」
計算途中の紙を見せる。
「ゴーティエは巧妙に数字を操作していますが、パターンがあります。見てください、この数字の分布」
グラフを描いて説明する。ベンフォードの法則に基づく自然な分布と、実際の帳簿の分布の違い。
「やはり5から始まる数字が異常に多い。これは、元の数字に一定の金額を上乗せしている証拠です」
「つまり?」
「例えば、実際の軍事費が300なのに帳簿には500と記載し、差額の200を横領している。こうした手口を十年間続けていたようですわ」
ヘクトルの顔が険しくなる。
「証拠は?」
「今、マルセル様と一緒に全ての取引を複式簿記で記録し直しています。あと二日あれば、完全な証拠が揃います」
「マルセル?」
マルセルが恐縮しながら頭を下げた。
「は、はい。セレスティーヌ様から複式簿記を学ばせていただいております。これは本当に素晴らしいシステムで――」
「そうか。頼りにしてるぞ」
ヘクトルがわたくしを見つめる。
「ところで、容疑者は?」
「権限を持つ人物は三人。財務長官のゴーティエ様、宰相のヴィクトール様、そして――」
言いかけて止める。
「そして?」
「いえ、まだ確証がありません。明日にはお答えできるはず」
「無理はするな。今夜は休め」
「でも、まだやることが」
「命令だ」
有無を言わせぬ口調だったが、その瞳には優しさが宿っていた。
*
その夜、与えられた客室で一人になると、急に疲労を感じた。前世でも、こうして深夜まで帳簿と格闘していた。あの時は誰も労ってくれなかったけれど。
扉を叩く音がした。
「どうぞ」
入ってきたのはヘクトルだった。手には盆を持っている。
「茶を淹れてきた」
「皇子様が直々に?」
「たまにはな」
椅子に腰掛けて向かい合う。紅茶の香りが疲れた心を癒してくれる。
「なぜそこまで真剣なんだ?」
「え?」
「帝国のために、そこまで必死になる理由は?」
「……数字は嘘をつかないからですわ」
カップを見つめながら続ける。
「前世で、わたくしは仕事に生きすぎて、結局過労死しました。でも、後悔はしていません。不正を見逃すことの方が、もっと後悔したでしょうから」
「それが君の生き方か」
「ええ。今度こそ、真実を明らかにしてみせます」
ヘクトルが立ち上がった。
「分かった。俺も手伝おう」
「でも、皇子様には他にも」
「これは帝国の未来に関わることだ。それに――」
一瞬、言葉を切る。
「君のような人を、一人にはしておけない」
そう言い残して、ヘクトルは部屋を出て行った。
頬が熱い。これは紅茶の熱気のせい、きっと。
*
翌日、作業は急ピッチで進んだ。
ヘクトルも加わり、三人で帳簿の山と格闘する。次第に全貌が見えてきた。
「これは……」
マルセルが青ざめている。
「被害総額、国家予算の一年分ですね」
「一年分!?」
ヘクトルが拳を握りしめる。
「それだけあれば、どれだけの民が救えたか」
「でも、これで証拠は揃いました。明日の朝議で発表しましょう」
その時、扉が勢いよく開いた。ゴーティエが血相を変えて入ってくる。
「何をしている! 勝手に帳簿を」
「財務調査の全権は、陛下からいただいております」
冷静に答えると、ゴーティエの顔が歪んだ。
「外国の小娘が! 我が帝国の財政に口を出すな!」
「では、この数字を説明していただけますか?」
問題の箇所を指差す。
「収入500とありますが、実際の税収は300のはず。差額の200はどこへ?」
「そ、それは……」
「十年前から同じパターンで数字を改竄していますわね。ベンフォードの法則をご存知?」
「なんだそれは」
「知らないでしょうね。だから簡単に不正がバレるんですわ」
ゴーティエが後退る。
「ま、まだ証拠はないはずだ!」
「明日の朝議で、すべて明らかにします。今夜はゆっくりお休みください。牢獄で寝るのは寒いでしょうから」
ゴーティエは顔を真っ赤にして出て行った。
「逃げるかもしれんな……」
ヘクトルが呟く。
「逃げても無駄ですわ。数字はすべてを語っていますから」
窓の外を見る。星空が美しい。明日、帝国の財政は生まれ変わる。
そして、わたくしの新しい人生も。
*
朝議の間には、帝国の重臣たちが勢揃いしていた。
皇帝アレクサンドロス三世が玉座から見下ろす中、わたくしは中央に立った。手には三日間で作り上げた新しい帳簿。複式簿記で記録し直した、帝国の真実の姿。
「セレスティーヌ・ド・リュミエール、報告を始めなさい」
「はい、陛下」
深く一礼してから、帳簿を開く。
「まず、帝国の財政に関する重大な事実をご報告します。過去十年間で、国家予算の一年分に相当する金額が横領されていました」
重臣たちがざわめく。ゴーティエは隅の方で震えている。逃げなかったのは意外だったが、まだ証拠不十分と高を括っているのだろう。
「証拠を示してもらおうか」
宰相のヴィクトール・ド・グランヴィルが口を開いた。保守的で知られる老貴族。
「もちろんですわ。まず、これまでの帳簿管理の問題点から説明いたします」
大きな羊皮紙を広げる。そこには単式簿記の例を描いておいた。
「これが今までの記録方法です。収入と支出を単純に並べただけ。子どものお小遣い帳と大差ありません」
「なんだと! 我々を愚弄するか!」
木っ端貴族が声を上げたが、わたくしは動じない。
「事実を申し上げているだけですわ。では、複式簿記をご覧ください」
別の羊皮紙を広げる。整然と並ぶ借方と貸方の数字。
「すべての取引には理由があります。お金が入れば、必ずその源泉がある。お金が出れば、必ずその使途がある。それを左右に分けて記録するのが複式簿記です」
実例を示しながら説明を続ける。
「税収100が入れば、左に現金100、右に税収100。軍事費80を支払えば、左に軍事費80、右に現金80。必ず左右の合計が一致します」
「それがどうした」
ヴィクトールがまだ懐疑的な表情を浮かべている。
「ここからが重要です。もし誰かが横領すれば、この左右が合わなくなります。つまり、不正が一目瞭然になるのです」
いよいよ核心に入る。ゴーティエに視線を向けた。
「では、実際の不正を見ていきましょう。ゴーティエ様、十年前の七月十五日の取引を覚えていますか?」
「お、覚えているわけがなかろう」
「そうですか。では、記録を見てみましょう。帳簿には軍事費支出500と記載されていますが、実際に支払われた金額は300でした」
証拠書類を掲げる。
「これは当時、兵站担当官が作成した原本です。300という数字がはっきり書かれています。では、差額の200はどこへ?」
「記録ミスだ!」
「記録ミス? では、なぜ同じパターンのミスが千回以上も起きているのでしょう?」
新しい羊皮紙を広げる。そこにはベンフォードの法則の説明と、実際の数字の分布グラフ。
「自然に発生する数字には法則があります。しかし、ゴーティエ様が記録した数字は、不自然に5と6から始まるものが多い。これは人為的な改竄の証拠です」
マルセルが前に出てきた。
「小生からも証言させていただきます。この三日間、セレスティーヌ様と共に全ての帳簿を確認しました。不正は明白です」
「黙れ! 裏切り者め!」
ゴーティエが叫ぶが、もう遅い。
「さらに決定的な証拠があります」
わたくしは最後の切り札を出した。
「ゴーティエ様の個人資産です。年収の五十倍もの財産をお持ちですが、質素な生活をされているはずでは?」
「そ、それは投資で」
「投資? では、その記録を見せていただけますか?」
「……」
沈黙が答えだった。質素を装いながら、実は莫大な資産を隠していたのだ。
皇帝が立ち上がった。
「ゴーティエ・ド・ブルゴーニュ、そなたを横領の罪で逮捕する」
「陛下! お待ちください! これは陰謀です!」
「数字は嘘をつきません」
わたくしの言葉に、皇帝が頷く。
「衛兵、連行せよ」
ゴーティエが連れ去られていく。その後ろ姿を見送りながら、一つの仕事が終わったことを実感した。
「セレスティーヌ・ド・リュミエール」
皇帝が再び口を開く。
「見事であった。約束通り、望むものを与えよう。何が欲しい?」
一瞬だけ考えた。前世では仕事しかなかった。今世では――
「帝国の財務大臣に任命していただきたく存じます」
「なに?」
重臣たちがどよめく。外国人、しかも女性の大臣など前代未聞。
「不正を暴くだけでは不十分です。帝国の財政システムを根本から改革する必要があります」
「おもしれぇ……くはははは……」
皇帝が笑った。
「よかろう。セレスティーヌ・ド・リュミエール、そなたを帝国財務大臣に任命する」
「ありがたき幸せ」
深く頭を下げた瞬間、温かい拍手が起きた。振り返ると、ヘクトルが微笑んでいた。
「おめでとう、財務大臣殿」
「ありがとうございます、殿下」
「これで帝国も変わる。君のおかげだ」
「いえ、皆様のご協力があってこそ」
マルセルも感激で涙ぐんでいる。
「セレスティーヌ様、いえ、大臣閣下! 小生、一生お仕えします!」
「大げさですわ、マルセル様」
でも、その言葉は嬉しかった。
*
その日の夕方、執務室でヘクトルと二人きりになった。
窓から夕日が差し込み、部屋を橙色に染めている。
「本当にありがとう」
「改まってどうしたんですか?」
「いや、ただ……」
ヘクトルが近づいてくる。
「君のような人に出会えたことに、感謝したくて」
「わたくしも、拾っていただいて感謝しています」
「拾った、か」
苦笑するヘクトル。
「最初、君が『貸借が合わない』と呟いた時、運命を感じた」
「運命?」
「ああ。君こそ、帝国に必要な人材だと」
見つめ合う。琥珀色の瞳に吸い込まれそうになる。
「あの、殿下……」
「ヘクトルでいい。君とは対等な立場で接したい」
「でも」
「命令だ」
また命令。でも、今度は嬉しい命令だった。
「では、ヘクトル様」
「様もいらない」
「……ヘクトル」
名前を呼ぶと、彼が微笑んだ。
「そうだ、それでいい」
窓の外では、帝国の街に灯りが灯り始めていた。新しい時代の始まりを告げるように、一つ、また一つと光が増えていく。
わたくしの新しい人生も、本格的に動き出した。
*
半年後、帝都で国際経済会議が開催された。
各国の代表が集う大会議場。帝国側の席に、わたくしは財務大臣として着席している。隣にはヘクトル。その堂々とした姿が心強い。
「各国の皆様、本日はお集まりいただき感謝する」
アレクサンドロス三世の開会宣言が響く。そして、各国の財政報告が始まった。
驚くべきことに、帝国の財政は一週間で劇的に改善していた。横領された資産の回収、複式簿記による正確な把握、そして何より、前皇帝が残した隠し資産の発見。
「帝国の財政収支、本年度は黒字に転換する見込みです」
わたくしの報告に、各国代表がざわめく。つい先日まで財政危機と言われていた帝国が、突如として経済大国に変貌したのだから。
「次は、ヴァロワ王国の報告を」
司会の言葉に、みすぼらしい姿の一団が入ってきた。その中心には――
「フレデリック……」
かつての婚約者は、以前の輝きを完全に失っていた。隣にいるはずのイザベラの姿はない。
「ヴァロワ王国は……その……」
フレデリックが言葉に詰まる。フィリップ二世も青い顔をしている。
「財政破綻の危機にあります。各国のご支援を……」
「破綻?」
他国の代表が驚きの声を上げる。わたくしは立ち上がった。
「失礼ですが、まず正確な財務状況をご提示いただけますか?」
「セレスティーヌ!」
フレデリックが顔を上げる。救世主を見るような目。
「君がいるなら話は早い。助けてくれるよね? 昔の縁もあるし」
「昔の縁、ですか」
冷たく微笑む。
「確か半年ほど前、わたくしを汚らわしいと仰いましたわね」
「あ、あれは……」
「くしゃみごときで婚約破棄、国外追放。それが昔の縁でしょうか?」
「すまなかった! 謝る! だから」
「謝罪は結構です。ビジネスの話をしましょう」
書類を取り出す。
「ヴァロワ王国への融資は可能です。ただし、条件があります」
「条件?」
「まず、帳簿をすべて複式簿記で作成し直していただきます」
「ふくしき……何?」
「ご存じない? では、初歩から教育が必要ですわね。マルセル、説明して差し上げて」
マルセルが嬉々として前に出る。
「複式簿記とは、すべての取引を借方と貸方に分けて――」
「そんな面倒なことはいい! 金を貸してくれるのか、くれないのか!」
フィリップ二世が叫ぶ。
「融資は可能です。年利30%で」
「30%!? そんな暴利」
「暴利? 暴利なら十五の設定もありますわよ?」
「な、なんだ、そのトゴというのは」
「年利1825%ですわ。嫌なら結構です。他をお当たりください」
フィリップ二世は「あんまりだ」と言わんばかりに周囲を見渡す。しかし、他国の代表たちは顔を背けた。誰も破産国家には融資したくない。
「ね、年利30%でお願いします!」
「英断ですね。ただし、条件があります」
次の書類を出す。
「担保として、ヴァロワ王国の徴税権をいただきます」
「徴税権だと!?」
「つまり、税金の徴収と管理を帝国が代行するということです。当然、そこから融資の返済分を差し引かせていただきます」
「それでは、国が乗っ取られるも同然ではないか!」
その通りです、とは口には出さない。
「選択肢は三つ。我々の条件を受け入れるか、他国を探すか、破産するか」
フレデリックが膝をついた。
「セレスティーヌ、頼む! もっと良い条件を」
「あら、わたくしに頼み事ですか?」
見下ろす。この光景を想像したことが、一度もなかったと言えば嘘になる。
「忘れたのですか? イザベラこそ真の聖女だと仰いましたわね。では、彼女に頼んではいかが?」
「イザベラは……逃げた」
「逃げた?」
「破産が分かった途端、持ち逃げできる財宝を奪って姿を消した」
なんと哀れな。でも、同情はしない。
「イザベラ・ド・ノワールは国際指名手配いたします。詐欺と横領の罪で」
「頼む、せめて利率を下げてくれ」
「ビジネスに感情を持ち込むのは、プロフェッショナルではありませんわ」
ヘクトルが立ち上がった。
「セレスティーヌの提案が、最も寛大な条件だと思うがな。我々なら、そもそも融資自体をしない」
「殿下……」
フレデリックが絶望的な顔をする。
「分かった……条件を、受け入れる」
「賢明な判断です」
契約書を出すと、震える手でフレデリックがサインをした。
ヴァロワ王国は実質的に帝国の経済属国となった。
*
会議が終わり、フレデリックが近寄ってきた。
「セレスティーヌ、一つだけ聞かせてくれ」
「何でしょう?」
「君は、最初から知っていたのか? 我が国の財政破綻を」
少し考えてから、真実を告げることにした。
「ええ、知っていました。結婚式の前夜、あなたの国の帳簿を確認しましたから」
「なぜそれでも結婚を?」
「責任感、でしょうか。一度決めたことだから」
フレデリックの顔が歪む。
「つまり、愛はなかったと」
「お互い様でしょう? あなたこそ、わたくしの持参金が目当てだったのでは?」
「……」
沈黙が答えだった。
「でも、今は感謝していますわ」
「感謝?」
「ええ。あなたが婚約破棄してくれたおかげで、本当の居場所を見つけられました」
ヘクトルが近づいてくる。わたくしは自然と彼の隣に立った。
「これが、運命だったのかもしれませんわね」
「……」
肩を落として背を向けて、フレデリックが無言で去っていく。その後ろ姿は、もはや哀れみすら感じなかった。
会議場を出ると、夜空に星が輝いていた。
「見事だった」
ヘクトルが言う。
「少し、やりすぎたでしょうか」
「いや、当然の報いだ。それより」
立ち止まって、彼がわたくしの方を向く。
「これで君は、もう帝国の人間だ。他国に遠慮する必要はない」
「はい」
「だから、その……」
珍しく言葉に詰まるヘクトル。
「何か?」
「いや、また今度だ」
そう言って歩き始める。でも、彼の耳が赤くなっているのが月明かりでも分かった。
もしかして、と期待してしまう自分がいる。
前世では感じなかった胸の高鳴り。これが「好きになる」というものなのだろうか。
*
国際会議から三日後、執務室で書類の山と格闘していると、マルセルが血相を変えて飛び込んできた。
「大臣閣下! 大変です!」
「どうしたのです、マルセル様」
「国境から急報が! リュミエール侯爵軍が、帝国との国境を開放したと!」
「なんですって!?」
ペンを落とした。リュミエール侯爵――わたくしの父が?
「それだけではありません。侯爵は、領地ごと帝国への帰属を申し出ているとのことです」
「領地ごと……」
扉が再び開き、ヘクトルが入ってきた。
「セレスティーヌ、聞いたか?」
「今、マルセル様から」
「父上が直接会いたいそうだ。君の両親が謁見の間に向かっている」
急いで謁見の間へ向かう。心臓が高鳴る。まさか両親が、こんな大胆な行動に出るとは。
謁見の間の扉を開けると、そこには見慣れた姿があった。
黒い甲冑に身を包んだ父――リュミエール侯爵が、堂々と立っている。その隣には、凛とした表情の母。そして、懐かしい顔も。
「お嬢様!」
「ソフィア!」
わたくしの元侍女だけが、ニッコニコの笑顔で手を振っていた。
「セレスティーヌ」
父の声。その顔は、怒りに満ちていた。
「お父様……」
「よくぞ無事だった。あのヴァロワの馬鹿王が、何をしたか聞いたぞ」
父が拳を握りしめる。
「我が娘を路傍に捨てるとは。絶対に許さん」
皇帝アレクサンドロス三世が玉座から声をかける。
「リュミエール侯爵、そなたの申し出は真か?」
「はい、陛下。リュミエール家は代々、ヴァロワ王国の国境を守ってきました。しかし、もはや忠誠を尽くす価値はございません」
父が膝をつく。
「我が領地は、帝国との国境にまたがる要衝の地。兵三千、城塞三つ、そして豊かな穀倉地帯。これらすべてを持って、帝国への帰属を願い出ます」
「ほう」
皇帝が身を乗り出した。
「それは、ヴァロワ王国への反逆ではないか?」
「反逆? 違います」
父が顔を上げる。
「これは正当な権利行使です。リュミエール家には、建国の際の盟約により、主君を選ぶ権利があります」
「建国の盟約?」
母が古い羊皮紙を広げた。
「三百年前、リュミエール家がヴァロワ建国に協力した際の契約書です。『リュミエール家当主は、王家が盟約に背いた場合、新たな主君を選ぶことができる』と」
「王家が盟約に背いた、とは?」
父が立ち上がる。
「盟約には『リュミエール家の名誉を守る』という条項があります。ところが、フィリップ二世は我が娘を侮辱し、さらに持参金を騙し取った」
「なるほど」
皇帝が頷く。
「つまり、法的に問題はないと」
「はい。さらに申し上げれば」
父が懐から手帳を取り出した。見覚えのある形式。
「これは、リュミエール領の真の帳簿です」
「複式簿記!?」
思わず声が出てしまった。
「そうだ、セレスティーヌ。実は我が家は、三百年前からメディチ家の技術を密かに継承していた」
「メディチ家……」
「表向きは単式簿記を使いながら、真実の財政は複式簿記で管理してきた。そして、この帳簿が証明している」
父が帳簿を開く。
「ヴァロワ王国への納税額と、実際に王国が我が領地に投資した額。過去五十年で、我々の納税超過額は莫大なものになる」
「つまり?」
「リュミエール領は、実質的に独立採算で運営されてきた。王国からの恩恵など、ほとんど受けていない」
ヘクトルが口を開いた。
「リュミエール侯爵、確認させていただきたい。侯爵領を帝国に編入した場合、ヴァロワ王国はどうなる?」
「壊滅的打撃を受けるでしょう」
父が地図を広げる。
「我が領地は、王国の東の守り。ここを失えば、帝国への防衛線が完全に崩壊します。さらに」
父が別の資料を示す。
「王国の穀物の三割は、我が領地から供給されています。これを失えば、食糧危機も避けられません」
「それを承知で?」
「もちろんです」
父がわたくしを見る。
「娘を路傍に捨てた報いです。フィリップ二世は、リュミエール家を敵に回した代償を支払わなければならない」
皇帝が立ち上がった。
「くはははは……面白い。リュミエール侯爵、そなたの申し出を受け入れよう」
「ありがとうございます」
「ただし、条件がある」
「何でしょう」
「そなたの娘は、我が帝国の財務大臣だ。親子で帝国に仕えることに、問題はないか?」
「問題どころか、誇りです」
父が微笑む。その表情は、初めて見る穏やかなもの。
「陛下、もう一つお願いがあります」
「申してみよ」
「娘に会計の帝王学を授けてきたのは私です。その娘が第二皇子殿下と……という噂を聞きました」
急に顔が熱くなる。ヘクトルも少し動揺している。
「それが何か?」
「もし本当なら、祝福したい。リュミエール家の複式簿記の技と、帝国の力が結ばれるのは、運命かもしれません」
皇帝が笑みを浮かべた。
「ヘクトル、どうだ?」
「その……はい、父上。セレスティーヌ様との婚姻を、お許しいただければ」
「ほう!」
父が再び声を上げた。
「殿下、質問があります。複式簿記を理解していますか?」
「完璧ではありませんが、基礎は理解しています。左右が必ず一致する、美しいシステムです」
「よろしい」
父が頷く。
「なら、娘を託せる」
「お父様!」
「なんだ、不満か?」
「いえ、その……嬉しいです」
母が優しく微笑む。
「よかったわね、セレスティーヌ。私たちも近くにいられるし」
「お母様……」
皇帝が宣言した。
「では、正式に決まりだな。リュミエール侯爵領の帝国編入と、セレスティーヌとヘクトルの婚約を、同時に発表しよう」
「ありがとうございます」
父が深く頭を下げる。
「ところで、フィリップ二世の反応が楽しみだな」
皇帝が悪戯っぽく笑う。
「東の守りを失い、食糧供給を断たれ、おまけに財務の天才を敵に回す。これで王国がどうなるか」
「自業自得ですわ」
わたくしの言葉に、皆が頷いた。
こうして、リュミエール侯爵領は帝国に編入され、同時にわたくしとヘクトルの婚約も正式なものとなった。
そして案の定、三日後にヴァロワ王国から、泣きつくような使者がやってきた。
「侯爵家の裏切りだ! 寝返るとは卑怯だ!」
けれど、何のことはなかった。建国時の契約は有効。すべては理詰めで決まっていった。
*
一週間後、帝国庭園のバラが満開を迎えていた。
わたくしは執務の合間に、庭園のベンチで休憩を取っていた。複式簿記の導入は順調に進み、帝国の財政は日に日に改善されていく。マルセルを筆頭に、財務省の職員たちも新しいシステムに慣れてきた。
そして何より、父が持ち込んだリュミエール領の複式簿記三百年分の記録は、帝国の財務管理に革命的な知見をもたらしていた。
「大臣閣下、ここにいらしたのですか」
振り向くと、ニコラ・ブランシュが立っていた。若手官僚の彼は、最近わたくしの直属の部下になった。
「ニコラ様、どうかしました?」
「第二皇子殿下がお呼びです。至急、謁見の間へと」
「ヘクトルが?」
何か緊急事態だろうか。急いで謁見の間へ向かう。
扉を開けると、思いがけない光景が広がっていた。
ヘクトルだけでなく、皇帝陛下、第一皇子のルシウス、第三皇女のフローラ、そして多くの重臣たちが揃っていた。さらに――
「お父様、お母様!」
武装を解いた父と、正装の母が微笑んでいる。ソフィアも嬉しそうにブンブン手を振っていた。
「セレスティーヌ・ド・リュミエール」
皇帝が厳かに告げる。
「そなたの功績により、帝国は財政危機を脱した。改めて礼を言う」
「恐れ入ります、陛下」
「そこで、もう一つ褒美を与えたいと思うのだが」
「既に財務大臣の地位をいただいております。これ以上は」
「いいや、まだ足りない」
皇帝が微笑む。その隣で、ルシウスも優しい笑顔を浮かべている。
「ヘクトル、お前から言え」
「はい、父上」
ヘクトルが前に出てきた。そして、わたくしの前で片膝をつく。
「あ……」
周りから温かい眼差しが注がれる。フローラが興奮した様子で見つめていた。
「セレスティーヌ・ド・リュミエール」
ヘクトルが小箱を取り出した。中には、帝国の紋章が刻まれた指輪。
「君の財務諸表を見たい――いや、違う」
言い直して、まっすぐにわたくしを見つめる。
「君の心の貸借対照表に、俺という資産を計上してもらえないか?」
「まあ……」
下手くそなプロポーズ、と言いかけて、涙が溢れていることに気づいた。
国際会議の夜に言いかけたのは、これだったのね。
「り、利率はどの、程度を想定して、いらっ、しゃるの?」
失敗した! もっとロマンチックにしたかったのに、いつものクセで!!
「利率?」
「ええ。資産には、か、必ず、利回りが、必要ですわ」
うまく話せない。鼻をすすりながら、涙を拭いながら、やっとの思いで話す。わたくしを見たヘクトルが困った顔をする。周りから暖かい笑い声が漏れた。
「そうだな……永遠の愛という配当でどうだ?」
「永遠、ですか。随分と、長期、投資ですわね」
「長期投資が、最も確実なリターンを生むと、君が教えてくれた」
言葉に詰まる。確かに教えたことだった。
「査定期間はどの程度必要だ?」
以前の会話を覚えていてくれたのね。
「三か月と申し上げたいところですが」
「長すぎる」
「では、三秒で」
一、二。
「はい、喜んで」
三秒も待たずに答えた。
ヘクトルが立ち上がり、指輪をわたくしの左手薬指に嵌める。ぴったりのサイズ。いつの間に調べたのだろう。
「やった! お兄様とお姉様が結婚するの!」
フローラが飛び跳ねる。
「フローラも帳簿のお勉強、教えてもらえる?」
「もちろんですわ」
ルシウスが近づいてきた。
「弟をよろしく頼む。あいつ、不器用だが良い奴だ」
「存じておりますわ」
皇帝が立ち上がる。
「婚礼は一か月後だ。盛大に祝おう」
「ありがとうございます、陛下」
「父と呼べ。もうすぐ家族なのだから」
温かい言葉に、涙がとまらない。前世では得られなかった家族。
ヘクトルが手を差し伸べた。
「さあ、もう一度大聖堂へ行こう」
「大聖堂?」
「誓いの練習だ。今度はくしゃみをしても大丈夫なように」
その言葉に、皆が笑った。
*
一か月後、帝国大聖堂。
前回とは違い、心から幸せを感じている。隣に立つヘクトルの横顔を見る。愛情に満ちた琥珀色の瞳がわたくしを見つめ返してくる。
「ヘクトル・ヴァレンティノス、汝はセレスティーヌ・ド・リュミエールを生涯の伴侶とし、永遠の愛を誓いますか」
「誓います。何度でも」
「セレスティーヌ・ド・リュミエール、汝はヘクトル・ヴァレンティノスを生涯の伴侶とし、永遠の愛を誓いますか」
鼻がむずむずしてきた。まさか、また?
でも、今回は違う。深呼吸をして――
「誓います。くしゃみをしても、しなくても」
司祭が微笑む。
「では、誓いの口づけを」
ヘクトルが顔を近づけてくる。
「へっく――」
くしゃみが出かかったが、ヘクトルは止まらない。そのまま唇を重ねた。
温かくて、優しい口づけで息が止まる。抱きしめたい。けれどいまはダメ。
大聖堂に拍手が響き渡る。
「これで君は、正式に帝国の、そして俺のものだ」
「あら、所有権を主張なさるの?」
「ああ。でも、俺も君のものだ。貸借対照表は、必ず一致するんだろう?」
その通りですわ、と微笑んだ。
*
一年後。
国際経済会議の年次総会。今年も各国の代表が集まっている。
帝国の財政は完全に健全化し、今や大陸一の経済大国となっていた。ヴァロワ王国は予想通り、帝国の経済管理下で少しずつ立ち直りつつある。
ヴァロワ王国が経済属国となった結果、フレデリックは「人材交流の一環」という名の人質として帝国に送られてきた。
彼は今、帝国財務省の帳簿係として働いている。複式簿記を必死に勉強する姿は、少し哀れでもあり、少し微笑ましくもある。
イザベラは先月、隣国で詐欺罪により逮捕された。
「財務大臣、いや、第二皇子妃殿下」
マルセルが嬉しそうに呼びかける。
「マルセル様、役職名はどちらか一つで結構ですわ」
「では、大臣閣下。本日の報告書です」
受け取った書類を確認する。数字は全て正確。帝国の未来は明るい。
執務室に戻ると、ヘクトルが待っていた。
「今日も遅くなりそうか?」
「いえ、今日は定時で上がります」
「珍しいな」
「ワークライフバランスも大切だと、前世で学びましたから」
窓の外。帝都の街は活気に満ちている。
「なあ、セレスティーヌ」
「はい?」
「幸せか?」
振り返ると、ヘクトルが真剣な顔をしていた。
「ええ、とても」
「俺もだ」
抱き寄せられた。この温もりが、今のわたくしの全て。
くしゃみが人生を変えた。
でも本当は、数字が真実を教えてくれた。
数字は嘘をつかない――そして、真実の愛も。
帝国の繁栄と共に、わたくしたちの幸せも、永遠に続いていく。
複式簿記のように、必ず貸借が一致する、完璧なバランスで。
(了)
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