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この恋は実らせてはいけない

作者: 黒猫ている
掲載日:2025/04/19

幼い頃に前世を思い出した私は、()(まま)放題だった。

自分は特別なんだと、幼心に信じていた。

両親は甘やかしてくれるし、使用人達は皆言うことを聞いてくれる。

ファンタジー世界に転生して、小説のようにこれから楽しい人生が待ち受けているのだと信じて疑わなかった。


だから王城のパーティーで王太子殿下と出会った時も、(おそ)れや敬いの気持ちよりも、興味が先に立った。

お互い、まだ子供の身。

確か王太子殿下は、私と同じ八歳ではなかったか。


初めて見る王太子殿下は黒髪の落ち着いた少年だった。

透き通るような琥珀色の瞳に、思わず吸い込まれそうになる。


あれ?

私、彼を知っている――?


「こらオリヴィア、エヴァン殿下の前だぞ!」


考え込む私の耳に、慌てたお父様の声が飛び込んできた。


エヴァン殿下。

王太子、エヴァン。

呼び覚まされた記憶は今世では無く、前世のもの。


そうだ。

私が大好きだった小説『色めく華の乙女』に登場するヒーローキャラクター、エヴァン・オルムステッド。

この小説に限らず、二次元のキャラクターの中で一番大ハマりした、私の最推しキャラだ。


自分が主役だとばかり思っていた、この世界。

なんてことは無い、私オリヴィア・ブリーズは、ただのモブキャラ。

名前さえも忘れていた、ヒロインに嫌がらせをする悪役令嬢の取り巻きに過ぎなかったのだ。


自分の為の世界だなんて、烏滸(おこ)がましい。

作中に登場する男性キャラは、もれなくヒロインのチェルシー・ターンブルに夢中になる運命なのだから。


「気にしなくていい、ブリーズ伯爵」


王太子殿下がお父様に声を掛けて、こちらに歩み寄ってくる。

私の最推しである王太子エヴァン。

幼少期の彼を直接この目で見れた喜びと、この世界の真実に気付いてしまった動揺とで、心が掻き乱される。

せめてお父様が注意してくださったように、王太子殿下の前では臣下の礼をとらなければ。


そう思って一歩足を引いた瞬間、世界が傾いた。


「あ――」


立っていた場所が悪かった。

私とお父様は王城のホールにある吹き抜けの階段を上がって、二階のテラスに向かっている最中だった。

こちらに近付いてくる王太子殿下に礼をしようと足を動かした瞬間、(かかと)が空を踏んで、私の身体はまるで無重力空間であるかのようにふわりと浮き上がった。


一瞬の後に、全身に痛みが走る。

激しい衝撃と怒号。

ホール中の人々が叫ぶ声。


最後に目にしたのは、こちらを覗き込んで何かを叫んでいるエヴァン殿下の姿だった。





パーティー会場で階段から落ちた私は、全身を強打した。

さらに額からの出血が激しく、宮廷医師による縫合治療を受けた。

打撲と捻挫は自然に治るが、額の傷はおそらく痕が残るだろうと医師に言われた。


お父様は(いきどお)っていたが、仕方が無い。

階段から落ちるなんて、私がドジだったのだ。

あの時はあまりに動揺していて、自分の状況を確認する余裕さえ無かった。


王太子殿下には、申し訳ないことをしてしまった。

目の前で突然女の子が階段から落ちて行ったら、怖いよね。

早々お会い出来る方では無いから直接お詫びは言えずとも、身体が自由に動くようになったら、謝罪のお手紙を書こう。


そう思って療養に専念していたら、お父様からとんでもない報告が舞い込んできた。


「オリヴィア、お前が王太子殿下の婚約者に選ばれたぞ!!」

「え……?」


私が王太子――エヴァン殿下の、婚約者。

嘘だ、作中のエヴァン殿下に婚約者なんて居なかった。

そして留学してきた隣国の王女であるヒロインと出会い、恋に落ちるのだ。


私の最推し、王太子エヴァン。

ヒロインに一途な貴方が、とても好きでした。


そんなエヴァン殿下が、何故。


「嘘……でしょう?」

「嘘ではない。お前の怪我が回復したら、王城に行って正式な手続きを踏む予定だ」


お父様は今までに見たことが無いくらい上機嫌だ。

つい先日までは、顔に怪我なんてして、嫁のもらい手が無くなると嘆いていたと言うのに。


そうだ。

この世界で貴族女性の顔や身体に傷が残るということは、まともな婚姻が望めなくなることを意味する。

傷物扱いされて、格上や同等の家柄の令息からは相手にされない。

格下の貴族家か、裕福な商家に嫁ぐくらいの価値しか無い。

お父様も、そうぼやいていた。


それが、突然の王太子殿下との婚約ときた。


心優しい私の推しは、目の前で怪我をした少女を不憫に思ったのではないか。

自分が声を掛けようとして、階段を踏み外した。

そのことを重く受け取り、責任を取ろうとしてくれているのではないだろうか。


胸が痛い。

ただのモブキャラに過ぎない私が、推しの人生を狂わせてしまうだなんて。

どうしてこんなことになってしまったんだろう。




婚約式当日。

諸々の手続きを終えた後、私とエヴァン殿下は王城の四阿(あずまや)で二人でお茶をすることになった。

後は若い二人で……と、皆が気を利かせた結果だ。

申し訳なさでいっぱいの私にとっても、望まぬ婚約をする羽目になった殿下にとっても、気まずいだけだというのに。


「怪我は大丈夫ですか?」


ドラマCDで聞いた声より、少し高めの少年ボイス。

こんな事態で無ければ、彼の声が直接聞けたことに喜びを感じていられたのに。


「殿下、本当に申し訳ございませんでした」

「え、それは僕の方が――」


席を立ち、殿下に対し深々と頭を下げる。

こうなったからには、もう誠心誠意謝るしかない。


「殿下が責任を感じる必要はございません。全ては私の不徳の致すところ。この婚約は、いつでも破棄していただいて結構です」


頭を下げたままで、じっと彼の反応を待つ。

長い沈黙。

同じ姿勢を取り続けるのが辛くなってきた頃、ようやく彼の声が聞こえてきた。


「僕は、別に責任を感じている訳では……」


戸惑いがちな声。

どこまでも私を気遣う、推しの優しさ。

その優しさが、今だけは憎らしく思えてくる。


本当は、この婚約自体断りたかった。

彼の人生を思えば、そうするべきだった。

でも強欲な私の両親は、それを許してはくれなかった。

舞い込んできた王太子妃の座に飛びつき、喜び勇んでその権力を享受(きょうじゅ)した。


彼は婚約者なんて作ってはいけない。

アカデミーでヒロインと出会い、愛を(はぐく)むはずなのに。


ごめんなさい。

ごめんなさい。

私が邪魔をしてしまった。

申し訳なさで、胸が張り裂けそうだ。


「私は大丈夫ですから。殿下のお気持ちを最優先にしてください」


顔を上げて、王太子殿下に笑いかける。

ちゃんと笑顔を作れただろうか。

困惑気味の推しの姿が、どこか霞んで見えた。




それからというもの、私は王太子の婚約者として、何度も王城を訪れることになった。

エヴァン殿下との話は、いつもどこかぎこちない。

それも仕方ないだろう、この婚約は怪我を負わせてしまった令嬢への義務感から結ばれたものだ。


私にとって彼は推しだが、彼にとって私はただの重荷でしかない。


「殿下、今日は隣国から使節団の方々がいらっしゃっているとお聞きしましたが」

「ああ、それなら対応を弟に任せてある」


エヴァン殿下には一つ年下の弟フレディ殿下が居らっしゃる。

彼もまた小説に登場するキャラクターで、ヒロインのチェルシーを巡って兄と水面下で激しい戦いを繰り広げるのだ。


「申し訳ございません、せっかくの公務ですのに……」

「いいんだ、オリヴィア。君が居てくれるこの時間に公務なんて、考えたくもない」


そう言って笑うエヴァン殿下は、この世界で初めて会った時よりも、少し大人っぽくなった。

丁度変声期なのだろうか、声は少し(かす)れている。

少年が大人になる、その途中。

推しの成長過程を見られる喜びはあれど、やはり自分がこの立場に収まってしまったことへの申し訳なさは拭い切れるものではない。


「殿下は本当にお優しいのですね」


その優しさが、私を苦しめてもいるのだけど。


大好きな人に優しくされて、傍に居て、大事にされて、心が揺れ動かない訳が無い。

ヒロインと出会えば、彼は熱烈な恋に落ちる。

そのことを思うだけで、心が痛い。


「俺が優しいのは君に対してだけだ、オリヴィア」


この優しさを受け入れてはダメだ。

そう何度も自分に言い聞かせているのに、エヴァン殿下の言葉は甘い毒のように私の全身を蝕んでいった。




私達家族は、小説の中では序盤で退場するモブキャラだ。

浪費を繰り返す両親と、()(まま)な令嬢。

アカデミーや社交界でヒロインに絡んでは、迷惑をかけ続ける。


小説に登場する私オリヴィアはヒロインへの嫌がらせを咎められ、領の経営を破綻させた両親共々国外に追放される。

それが私達に待ち受ける運命だった。


だが、現状はどうだ。

王太子の婚約者の家だからと、どれだけ浪費を重ねて領地が苦しくなっても、王家が補填してくれる。

それを良いことに、両親はますます調子に乗って浪費を重ねる。

最近では表沙汰に出来ない悪事にまで手を染めているから、手に負えない。


私と殿下は、十七歳になった。

アカデミーでの生活も、残すところあと一年。

春になれば、隣国からヒロインが留学してくる。


そうなれば、私と殿下の関係も終わり。

はいさようならと気持ちを切り替えるには、一緒に過ごした九年間は長過ぎた。


エヴァン殿下が他の女性を愛する姿を、見たくない。

その一心で、私はヒロインの留学直前に逃走する計画を立てた。


王太子の婚約者が居なくなったとなれば、国を挙げての捜索が行われるだろう。

だが、そもそも私は王太子妃の器では無い。

我がブリーズ伯爵家も、今では権力に目が眩んだ両親により、悪党の仲間入りをしている。

推しの人生に、こんな家と関係を持ったなんて汚点を残す訳にはいかない。


私は両親の悪事を全て書面に(したた)め、証拠と共に上申書として陛下に提出することにした。

悪事に手を染めたとはいえ、ここまで私を育ててくれた実の両親だ。

どうか命だけは助けては貰えないかと、嘆願を添えてある。

ろくでなしの両親だけど、死んでしまうのは忍びないものね。

どうか元気で居てほしい。

最後に不甲斐ない婚約者であったことを詫びて、筆を置いた。




上申書を手に王城を訪れたら、幸いにして顔見知りの文官に会った。

必ず陛下に直接お渡しいただくよう言い含めて、上申書を彼に託した。


後は、私が姿を消すだけ。

そう思って王城を出ようと急ぎ歩き出したところで、今一番会いたくない相手――エヴァン殿下に偶然出くわしてしまった。


「オリヴィア?」


いつになく早足で歩く私の様子を不審に思ってか、殿下が片眉を上げた。

ああ、そんな表情さえも格好いい。

今ではすっかり成長した、私の推し。

作中に登場した凜々しいヒーローの姿が、今目の前にある。


「ご挨拶もせずに申し訳ございません、殿下。先を急ぎますので――」


この顔を見れるのも、今日で最後だ。

だが、胸に焼き付けている時間は無い。

陛下が上申書を読むより先に、私は王都を出なければいけない。


そう思って再び歩きだそうとしたところ、逞しい身体に行く手を阻まれてしまった。


「どこへ行くんだ?」

「え……えぇと、屋敷に戻って……」

「ならば、そう急ぐ必要はあるまい」


私の肩を抱いて半ば強引に歩かせるようにして、殿下が自室へと向かう。

バタンと荒々しく扉が閉められた後、眉間に皺を寄せた殿下が私の肩を掴んだ。


「何をしようとしている?」

「何――って……」


殿下の言葉に、心臓が止まる思いがした。


「君はいつもそうだ。目を離したら、俺の腕からすり抜けてしまいそうな気がする。初めて会った、あのパーティーの時のように」

「あ……」


そうだ。

あの時、殿下はこちらに歩み寄ろうとしていた。

その最中に、私が階段から落ちてしまったんだった。


「申し訳ございません、殿下」

「いい、あの時のことを話したかった訳じゃない。ただ……」


殿下がぐしゃぐしゃと髪を掻いて、顔を歪める。

推しのそんな顔は、見たくないのに。

私が傍に居ることで、彼を苦しめてしまう。


「これ以上、俺を拒まないでほしいんだ」


ぐいと抱き寄せられて、熱い胸に包まれる。

次の瞬間、唇が重なっていた。


「……!」


息が、出来ない。

状況がまるで理解出来なかった。

いや、何がどうなっているのかは分かる。

分かるが、どうしてこうなっているかは、さっぱり分からない。


なぜ、私が口付けされているのだろう。

彼はあんなにもヒロインに一途な人だったのに。

心が苦しくて、バラバラになりそうで、立っていることさえ出来そうにない。


唇が離れてすぐ、私はソファーに倒れるようにへたり込んでしまった。

その上に、エヴァン殿下が覆い被さる。

ずしりとした重み。


「オリヴィア――…」


それから何があったか、思い出したくはない。

いや、思い出してはいけない。


私は――私達は、超えてはならない一線を超えてしまったのだから。




隙を見て王城を抜け出した私は、屋敷に戻ることもせずに、そのまま乗り合い馬車に乗り込んだ。

今はただ、少しでも遠くに行きたかった。

王城から、エヴァン殿下から離れなければならない。

その一心で、馬車に揺られながらじっと息を押し殺していた。


馬車が向かった先は、隣国ターンブル王国。

ヒロインが生まれ育った国で、心優しい国王と、ヒロインに甘いシスコンの兄達が居る。


国王陛下も、王子達も、野心とはほど遠い穏やかな性格をしている。

この国ならば平和に暮らせるだろうと、私は身に付けていた宝石を売って金に換えて、当面の宿と仕事を探すことにした。


宝石商を出て、商店街を歩く。

宿らしき建物はすぐに分かったが、仕事はどこで紹介してもらえば良いのだろう。

この世界ではずっと貴族令嬢として暮らしてきた為に、そんな常識的なことさえ知らない。

キョロキョロと周囲を見回していると、突然腕をぐいと引っ張られた。


「何――!?」


声を上げようとしたが、大きな手で口を塞がれてしまった。

見れば、男が私を路地に連れ込もうとしている。


乱暴目当てか、それとも先ほど宝石を換金したところを見られたのか。

私の荷を漁って金貨の入った革袋を探していることから、おそらく後者だろう。

あるいは、両方なのかもしれない。


馬鹿だった。

二十一世紀の日本みたいに、平和な世界では無い。

頭では分かっていたつもりでも、貴族社会で暮らしていた私は、それを実感出来ていなかったんだ。


「おいお前、何をしているんだ!!」


路地に声が響いたのは、男が革袋を掴んだ時だった。

私が路地に連れ込まれたのを目撃した男性が、声を上げてくれたらしい。


暴漢は革袋を手に、路地の奥へと走り去っていった。

私はその場にへたり込んで、ガクガクと震えることしか出来なかった。


「大丈夫か?」


手を差し伸べてくれたのは、先ほど声を張り上げた初老の男性だ。

彼が居なければ、今頃どうなっていたか――私もまた、路地の奥に連れ込まれていたかもしれない。


「あ、ありがとうございます……」


彼の手を掴んで立ち上がろうとしたが、まったく身体が持ち上がらなかった。

情けないことに、恐怖で腰を抜かしてしまったのだ。


「怖い思いをしたなぁ。すぐそこに店があるから、休んでいきな。ああ、俺とかみさんでやっている店だから、安心するといい」


暴漢に怯えた私を安心させるように、男性は一軒の店を指さした。

そこには小さなパン屋さんがあって、男性と同い年くらいの女性が心配そうにこちらを見つめていた。




パン屋の夫婦ジェレミーさんとアーリーンさんに拾われた私は、そのまま住み込みで雇ってもらうことになった。

前世日本で暮らしていた頃は、オーブンでパンを焼くのが休日の楽しみだった。

その経験を生かして、老夫婦の手伝いをするつもりだったが――、


暫くして、私が妊娠していることが判明した。


身重の身体では、満足に働けるかも分からない。

助けてくれた老夫婦に、迷惑を掛けてしまう。

仕事を辞めて出て行こうとする私に対し、老夫婦はこのままこの家で子供を産んでほしいと言ってきた。


老夫婦の一人息子は、数年前の兵役で命を落とした。

それっきり後を継ぐ者もなく、二人で年老いて働けなくなるまで店を続けるつもりだったと言う。


「だからね。あんたさえ良ければ、お腹の子と一緒に、私達の子供になってほしいんだ」

「本当に、良いのですか……?」


少し強面(こわもて)だけど、気は優しいジェレミーさん。

(もろ)くて子供好きで、小さな子供を見るとすぐにおまけしてしまうアーリーンさん。

心優しい老夫婦のおかげで、私はターンブル王国の王都で無事に女児を出産した。

ハリエットと名付けたその子供を、老夫婦は実の孫のように可愛がってくれた。




ここターンブル王国は、小説に登場するヒロインの母国だ。

王都で働いていれば、嫌でも様々な噂が耳に入ってくる。


「いよいよ王女様が輿入れするらしい」


そう聞いた時は、全身が張り裂ける思いだった。


いつかはこんな日が来ると、分かっていた。

小説の一読者だった頃の私は、ヒロインと推しが結ばれるのを、誰よりも喜んでいたはずだ。


それなのに。


胸が、心臓が、引き裂かれそうなほどに痛い。

いっそ、この身体ごと砕けてしまった方が楽なのではないか。

そう思えるほどに、心が苦しい。


どうして好きになってしまったのだろう。

最初から、叶わぬ恋だと分かっていたのに。


どうして諦めきれないのだろう。

私は、ヒロインでは無いのに。


どうして忘れられないのだろう。

これならいっそ、狂ってしまった方が楽なのに。


突然黙り込んだ私の顔を、もうすぐ三歳になるハリエットが心配そうに覗き込む。

あの人と同じ、艶やかな黒髪。吸い込まれるような琥珀色の瞳。


「かあさん、どこかいたいの?」

「ううん、大丈夫。大丈夫よ」


何事も無かったかのように笑顔を見せて、愛娘を抱きしめる。

全てを忘れてしまうには、この子はあの人にそっくり過ぎる。

今は耐えがたい痛みでも、きっと年月が和らげてくれるだろう。

今はそう祈るしかない。


輿入れ直前、王都で行われたパレード。

遠目に見たヒロインの姿は、小説の挿絵よりもずっと美しかった。


「王女様は、隣国の王太子殿下のところに嫁ぐんだって」

「王女様、どうかお幸せに」


民衆の声に応え、笑顔で手を振るチェルシー王女。

幸せそうな彼女の姿に、目頭が熱くなる。


泣いてはいけない。

目出度(めでた)い祝いの場なのだから。

そう自分に言い聞かせているのに、こみ上げるものを抑えることが出来なかった。


パレードの群衆に逆らうようにして、一人家に戻る。


「ど、どうしたんだい?」

「なんでも無いんです、ちょっと目にゴミが入っただけで……」


心配して声を掛けてくるアーリーンさんに言い訳をして、自室へと駆け込む。

一人になった後は、もう溢れる涙を止めることは出来なかった。




「ごめんなさい、店番代わりますね」


夕方になって、ようやく涙が引いた。

すぐ店に出てアーリーンさんに声を掛けたなら、気遣わしげな視線で見つめられてしまった。


「本当に大丈夫かい?」

「はい。稼ぎ時ですから、少しでもお手伝いしないと」


笑顔で答えたつもりだが、ちゃんと笑えていただろうか。

それ以上は何も聞かずに居てくれる優しさが、今は有難かった。


客の出入りが落ち着き、外が暗闇に包まれたのを見計らって、看板を仕舞う為に店の外に出た。

手書きの看板を持ち上げて、店に運び入れようとしたその時。


「――オリヴィア?」


不意に、声が掛けられた。


忘れられない声。

忘れたかった声。

忘れられるはずもない声。


「オリヴィアなんだろう?」

「――っ」


慌てて店に駆け込もうとする私を、逞しい腕が抱き留める。

懐かしい温もり。

背後から抱きしめられるようにして、私は、エヴァン殿下の腕に包まれてしまった。


「会いたかった……ずっと、探していたんだ……」

「どう……どう、して……っ」


貴方は、これからヒロインと幸せになるはずなのに。


「どうして? 愛する女性を探すのは、当たり前のことだろう!」


どうして、私を“愛する”などと言えるの。

ヒロインのチェルシー王女は、あんなにも幸せそうな表情をしていたのに。


「パレードの時に見掛けて、ずっとこの近くを探していたんだ。ようやく会えた……」


ああ。彼もあの場に居たのか。

彼もまた、美しい王女様の姿を目にしていたのだろう。


「貴方は、こんなところに居てはダメです!」

「なぜそんなことを言うんだ?」


抱きしめる腕に、力が籠もる。

まるで、決して私を離さないとでも言うかのように。


「だって、もうパレードまで終わって……これから王女様が嫁いでいくではありませんか」


抱きしめる力が、不意に弱まる。

その隙に彼の腕から抜け出し、店の扉に手を掛けた。


「だから、どうか王女様とお幸せに!!」

「……ふぅ」


決死の覚悟で放った言葉だが、返ってきたのは柔らかな笑みだった。


「え?」


拍子抜けした瞬間、再び彼の腕に抱きしめられる。

木の板に彫られた看板が手から落ちて、石畳の上で音を立てた。


「違う。違うんだ、オリヴィア。その輿入れ先は、俺ではない」

「え? だって、隣国の王太子殿下にって――」


顔を上げ、じっとエヴァン殿下を見つめる。

小説の挿絵ではない、生身の人間。

一人の逞しい男性の姿が、そこには在った。


「俺はもう、王太子ではないからな」


ドクンと、胸が鳴る。

彼は一体、何を言って――?


「父に言われたんだ。王位かオリヴィアか、どちらかを選べって。そんなの、選ぶまでもないのにな」

「それって、どういう――」


心臓がうるさくがなり立てる。

彼の言葉が、上手く入ってこない。


「オリヴィアのことが諦めきれないから、王太子の座を弟に譲って、廃嫡されたんだ」


その言葉の意味を理解した時、相反する感情が同時に押し寄せてきた。

彼が私を選んでくれた喜び。

推しの人生を狂わせてしまった悲しみ。

ああ、この心をどう落ち着かせれば良いのだろう。


「ブリーズ伯爵家は取り潰しの上、貴女の両親は国外追放された。貴女が提出した証拠は、そうするに十分な物だった。父は罪人の娘と添い遂げることを許してはくれず、私は家を――国を捨てるしか無かった」

「エヴァン様……」


彼にそこまでさせたと思えば、やはり後悔ばかりが先に立つ。

小説の挿絵で見た、麗しの王太子。

その彼は、もう居ないのだ。


「今はもう、様を付ける必要はない。エヴァンと呼んでほしい」


こんな状況にあって、なおエヴァン様――エヴァンは優しい。

彼の笑顔に、自然と目頭が熱くなってくる。


「どうして、そこまで……」

「貴女は俺が義務で婚約したと思っているようだが、違うんだ」


エヴァンが苦笑混じりに告げる。


「初めて見た時、俺は貴女の天真爛漫な様子に心惹かれ、声を掛けようとした……後になって思えば、もう少し場所を選ぶべきだったと後悔したがね」


初めての出会い。

あのパーティー会場での出来事。

声を掛けてきた彼の目の前で、私は宙を舞うように階段から落ちて行った。


「婚約を申し出た時は、責任を取ろうという気持ちが微塵も無かったとは言い切れない。でも、あの時――あの婚約式の日に、涙を浮かべながら笑う貴女を見て、俺の心は囚われてしまったんだ」


なんということだろう。

小説通りの展開なんて、最初っから始まってもいない。

幼い頃に道を違えたまま、ここまで来てしまった。


「ずっと、オリヴィアが好きだった。その、迷惑だろうか……?」


いつも毅然(きぜん)としたエヴァンらしからぬ、戸惑いがちな声。

その声を掻き消すように、店の中から私を呼ぶ幼い声が響いてきた。


「母さん、どうしたの? まだお客さんが居るの?」


その声が聞こえるや否や、エヴァンが開きかけの扉を勢いよく開ける。

扉の向こうに、キョトンとした表情を浮かべた我が娘――エヴァンと同じ黒髪と琥珀色の瞳を持つ、ハリエットの姿があった。


「あ――」


誰が見ても、一目で親子だと気付くだろう。

それほどまでに、二人は似通っていた。


肩を震わせ、手を伸ばしかけて躊躇いがちに引っ込めるエヴァン。

呆然と、長身のエヴァンを見上げるハリエット。

琥珀色の二対の瞳は、じっと互いを見つめたまま。


「この子は――…」


震える声に、小さく頷く。

次の瞬間、歓声とも雄叫びともつかぬ声を上げて、エヴァンがハリエットを抱き上げた。




あれから、エヴァンは私とハリエットと一緒にパン屋で働いている。

元王太子殿下が隣国の王都で小麦粉を練っているなんて、誰が想像するだろうか。

今ではパン作りの腕もかなり上達したようで、そろそろ自分も引退時かとジェレミーさんが言い出す始末だ。


ハリエットも大きくなって、毎日店の手伝いをしてくれている。

ジェレミーさんとアーリーンさんに、少しは楽をさせてあげたい。

最近は売り上げも好調だから、二人に旅行でもプレゼントしようかと、エヴァンと計画を練っているところだ。


「俺は幸せ者だな」


閉店後の片付けをしながら、エヴァンが呟く。

大国の元王太子殿下が、小さなパン屋で汗水垂らして働く。

それを幸せと言って良いのだろうか。


「後悔していない?」

「するはずがない」


私の問いに被さるように、すぐさま返答があった。

迷いの無い瞳が、真っ直ぐこちらを見つめている。


「そっか……なら、良かった」


(ほうき)を置いて、そっとエヴァンに寄り添う。


「実は、ね」


エヴァンの顔を見上げながら、そっと自らのお腹に手を当てる。


小さなパン屋での、穏やかな日常。

この幸せな日々に、近々、もう一つの大きな喜びがもたらされることになりそうだ。


「――――っっ」


意味を理解したエヴァンが私を抱きしめ、抱き上げる。


「オリヴィア、愛している!!」

「ちょっ、エヴァン!?」


喜び勇んで、私を抱き上げたままでくるくると回るエヴァン。

おませなハリエットは、はしゃぐ父の様子に肩を竦めている。

興奮冷めやらぬエヴァンは「大事な時期なんだから、荒っぽいことをするんじゃないよ!」と、アーリーンさんにこっぴどく叱られる羽目になった。


平凡な家の、小さな幸せ。

この幸せが、いつまでも続きますように――。

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