chapter.3 遅い帰宅
伊織が自宅へと着いたのは、夕食の時間を過ぎた頃だった。駅からほど近い閑静な住宅街にひっそり佇む中古マンションの五階。ドア前の通路から見える夜景は、いつもと何ら変わらなかった。
ただいまとドアを開けて中に入ると、キッチンから母が「遅かったね」と声を掛けてくる。
「V2出たんだって? 帰りの電車、大丈夫だった?」
何気ない母の一言にドキリとしながら、
「丁度その電車に乗ってて。あちこち大騒ぎで大変だったよ」
電車から飛び降りてビルの屋上まで飛んだ伊織には、その後の顛末は分からない。ただ、大抵公共交通機関にV2が出現すると、被害状況の確認や警察の捜査などが入り、ダイヤが大幅に遅れることは誰でも知っている。だから多少の誤魔化しに、母が気付くことはないだろうと思った上での発言たった。
「優也君も一緒?」
「ゆ、優也は用事があるとかで、僕とは別ので帰ったんだ」
「そっか。巻き込まれてないといいけど。聞いてないの?」
「あ……全然余裕なくて、聞けなかった」
「そうよね。乗ってた電車に出たなら尚更……」
母は手元から目線を外すことなく、淡々と水仕事を続けている。
息子の方も見ずに、とは思わなかった。寧ろ、そうやって特に興味もなく日常会話の延長線上で話してくれることが嬉しいような気持ちさえ覚えていた。
「スマホに速報入ったらしくて、のどか、伊織のことだいぶ心配してたみたい。無事だよって、ちょっと顔出してあげて」
「うん」
キッチンから自室へ向かう前に、伊織はのどかの部屋へと足を向けた。
ドアをノックして「ただいま、帰ったよ」と声を掛けると、中でゴソゴソ動く音と振動がして、カチャッと小さな音が響いた。
「おかえり、お兄ちゃん……!!」
バフッと勢いよく、寝巻き姿ののどかが伊織の胸に飛び込んでくる。普段はチラッとドアの隙間から顔を覗かせるくらいなのに、今日はやけに積極的だ。
ギュッと伊織の腰に抱きつき、のどかは胸に頭を擦り付けてくる。
「ごめん、遅くなった」
「うん……!」
伊織の背中に腕を回し、目一杯抱き締めてくるのどかの頭を、伊織は何度も優しく撫で回した。
外に出れなくなってから伸ばしっぱなしの長い髪。軽く梳かしてはあるものの、ところどころ指が引っかかる。それを手で梳くように撫でるのが伊織の日課なのだ。
「心配かけてごめんな、のどか。……あ、そうだ。お土産」
のどかの腕をそっと外して、伊織はリュックを前に回してゴソゴソと中を漁り始めた。キョトンとして伊織の方を見ていたのどかだったが、リュックから《キュアキュアStore》の袋を見つけるとパアッと目を輝かせた。
「今週出たばっかのやつ。これ買ってたら、いつもより遅くなっちゃって」
兄に渡された袋を手に取るなり、のどかは我慢出来ないとばかりにサッと中身を取り出した。
「可愛い! サファイア!!」
清楚系の可憐なキュアキュアサファイアのアクスタを大事そうに握り締め、満面の笑みを浮かべると、のどかは大きくドアを開けて自室へと戻っていく。それからすぐさまパッケージを開けてアクスタを組み立て、机の真正面にキュアキュアサファイアのアクスタを設置していた。
「良いね。青キュア、だいぶ揃ったじゃん」
「うん。お兄ちゃん、ありがと」
机の上に綺麗に並んだキュアキュアのぬいぐるみ、アクスタ。それから変身アイテムの玩具と、カプセルトイ。壁にはカレンダーとチラシ、ポスターが綺麗に貼ってある。
V2に襲われてから先、学校にも買い物にも行けなくなった妹の、小さな世界がそこにはあった。
「また新アイテム出たら何か買ってくるよ」
「ありがとう。でもお兄ちゃん、お小遣い大丈夫? 自分の推しキュアのも買ってる?」
「あ〜、僕のは大丈夫。次の小遣いで買うからさ」
誤魔化す伊織に、のどかはぷうっと頬を膨らませた。
「お兄ちゃんも一緒じゃないとヤダ」
「え?」
「のどかだけじゃなくて、お兄ちゃんも一緒に推し活してよ。じゃないと何かつまんない」
無理にのどかに合わせている訳ではなかったが、結果的にはそうなっている。普段から妹のことばかり考えているのを見透かされてる気がして、伊織はハハッと苦笑いした。
「 ところで、お兄ちゃん……」
と、のどかが目をキョロキョロさせながら、もごもごと何か話したそうにしているのを見て、伊織は少し腰を屈めた。こっちに来てと部屋の中に伊織を引っ張り、耳元に向かってコソコソ話し掛けてきた。
「本物、見た?」
本物?
伊織は首を傾げ、のどかに視線を向けた。
「ほ、本物のキュアキュア、見た?」
何の事なのか、伊織には全く覚えがない。
「見てないの? ……そっか。混んでたり、違うところに居たりしたら分かんないもんね……」
「キュアキュアのイベントの話?」
「ううん、違うと思う。見た事ない衣装だったし、新作……?」
「次のキュアキュアは二月だろ」
「うん。そう……なんだけど」
歯切れの悪いのどかの頭を、伊織はぐしゃぐしゃと撫で回した。
「本物のキュアキュア見掛けたら、真っ先にのどかに教えるよ!」
「……うん。絶対ね!!」
のどかは一体何を喋りたかったのか……
何一つ知ることもないまま、その日ぐったりと疲れた伊織は、夕食を済ませるとさっさと風呂に入り、倒れるようにしてベッドに滑り込んだ。