chapter.6 《魔法少女エンジェルステラ》
片膝を付き、大きく肩で息をしながら、伊織は目の前の光景を食い入るように見つめていた。
何が起きたのか、理解するのには時間が掛かりそうだった。
だが、間違いなく伊織は魔法少女に変身して、戦って、魔物を浄化させたのだ。
繋がれていたままの左手を引っ張る存在に気が付いて、伊織はゆっくりと顔を上げた。
「逃げるぞ」
「え?」
「見られてる。逃げるしかない」
まさかと思って立ち上がると、両隣の車両から、こちらに向けてスマホを向ける乗客らの姿が目に入った。
戦うのに精一杯で、何も見えていなかった。撮られているという認識のないまま、必殺技まで放ってしまった。
「逃げるしかって、走行中じゃん」
――と、頭上から緊急停止を知らせるアナウンス。ざわつく車内。
「ドアを開けて飛び出すんだ。身体能力が強化されてる今なら行ける」
「行けるって言われても。緑川さん達は?」
「さぁね。どういうからくりかは分からないけれど、頭に直接話し掛けてくるし、こっちの動きは全部見えてるらしいから、あとで合流出来るんじゃない?」
そういう問題かと伊織が首を傾げている間に、いつの間にか二人っきりだった車内に人が雪崩れ込んでいる。最初は恐る恐る、しかし終いには急ぎ足で。
「マズい。急ぐぞ!」
言うと黒い衣装の彼女は、両手をドアの隙間に捩じ込んで無理やりドアをこじ開け始めた。隙間からびゅうびゅうと風が吹き込んで、伊織の長く伸びたピンクのツインテールが激しく揺れる。
「こ、こんなことして良いの?」
「良いとか悪いとか言ってる場合か!!」
たじろぐ伊織とは裏腹に、もう一人の彼女は大胆だ。細身の身体からは想像も付かないような力で無理やりこじ開けたドアの隙間が、遂には一人分にまで広がった。
冷たくなった夜の空気が一気に車内に流れ込んでくる。
外はもう真っ暗で、ビルや商店の明かりが煌々と辺りを照らしていた。
「外に出たら近くのビルの上に飛べ。話はそれからだ。良いな?」
ドアの縁に手を掛けて半身を乗り出し、彼女が外へ飛び出そうとしているのを確認してか、乗客らは慌てた様子で伊織達に駆け寄ってくる。
「あ、危ないから! こっちに来ないで!!」
手摺に掴まりつつ、もう片方の手で必死に牽制するが、乗客らの興奮は止まる気配もなく。
ブレーキが効いて徐々にスピードも落ちてくる。Gが掛かって何かに掴まっていないと立っているのもしんどいはずなのに、それでもカメラを構える乗客らの熱意が、伊織には全く理解が出来なくて。
「じゃあ先に!」
黒い衣装の彼女はそう言ってバッとドアから消えていく。次は伊織。行かなくてはと焦ったところで、乗客の男がグッと手を伸ばし、牽制のために突き出していた伊織の腕をむんずと掴んだ。
「――名前! 君達の名前は」
言われてハッとする。
そうだ、名前。
魔法少女の名前を知りたがる、その気持ち。
彼らはきっと、伊織を困らせようとしている訳じゃない。知りたいのだ。突如現れた魔法少女の正体を。
『――君達は、我が研究所の超科学力によって強大な力を持つ戦士《エンジェルステラ》となるのだ……!!』
緑川のセリフが伊織の中でリフレインする。
「《エンジェルステラ》。僕らは《魔法少女エンジェルステラ》だ……!!」
伊織の名乗りによって乗客らには安堵の顔が見え始める。
パシャパシャと、シャッターを切る音が鳴り響く。
「ごめんなさい! 危ないから下がって!!」
掴まれていた手を無理やり振り払い、伊織は乗客らにニコッと笑顔を向けた。
思いがけぬ表情に度肝を抜かれた彼らが揃ってスマホを構え直している間に――伊織は軽く手を振って、急ブレーキをかけた電車が止まりきる前に、意を決してドアから外へと飛び出した。
身体が有り得ないくらいに軽かった。
まるで重力なんか存在しないみたいに、魔法少女となった伊織はビュンと高く跳ね上がる。柵を乗り越え屋根を越え、もう一人の彼女が指示した通りに、近くのビルの屋上を目指す。
風を切って、重力に逆らってビュンビュン飛んで――
「こっちだ!」
もう一人の魔法少女が大きく手を振るのを確認し、伊織はようやく線路沿いのビルの屋上に着地した。
編み上げの白いロングブーツがしっかりとコンクリに接地すると、一気に力が抜けた。両手で膝を抑え、背中を丸めて肩で息をしていると、伊織の視界に白い編み上げのショートブーツが入ってきた。
「おつ」
ゆっくりと顔を上げると、金髪の美少女が暗闇の中で伊織を見下ろしている。
街明かりに浮かび上がる長いポニーテール。黒い衣装にピンクのフリルが揺れている。
「ただのヘタレって訳でもなさそうだな」
「うるせぇ」
互いに互いの正体は分かっていた。
どんなに姿が変わっても中身はそうそう変わらない。
「なんでお前なんかと魔法少女に」
「知るか。成り行きだろ、成り行き」
伊織と違って、もう一人の方はこの状況を楽しんでいるようにも見える。
「成り行きでこんなことになるか、普通」
「何言ってんだ。V2が蔓延してから先、普通なんかどこにもなくなってたじゃないか」
「……そりゃ、そうだけど」
伊織は大きくため息をついた。ピンク色のツインテールが、ビル風に煽られて視界の両端で大きく靡いていた。