chapter.2 虚しさに包まれて
――身の毛がよだつとは、このことだ。
自分の中から一気に水分が抜けていくのを感じる。健太郎は渇きに抵抗するように、ゴクリとわざとらしく唾を流し込んだ。
「驚異で済ませるべきではないのだろうがね。ほかに、どう形容すべきか私には分からないのだ。……これを、円谷君に話すのは酷だと思ってね」
更科は言う。
カタカタと震え出す右腕を必死に左手で押さえ、体の奥底から吹き出そうとする黒い感情を、健太郎は無理矢理グッと押し込んだ。口角を上げてフフッと苦笑い。
「酷ですね。あいつは、知らない方がいい」
健太郎は感情を押し殺しながら、更科と緑川の表情を交互に覗った。
二人とも、能面のような表情を崩さない。一方で年若い大川はハラハラとこちらの方を覗っている。
なるほど、恐らく大川は最近知った。そして、緑川と更科が健太郎に話を切り出すと知って、気が気ではなかったという感じだろうか。
「君にも、話すかどうか、相当迷った」
更科は健太郎から目を背け、パソコンに目を落とした。
「一番知りたくなかったのは君だろう。だが……、一番知りたくもあった。渚君の」
「教えてくださって、ありがとうございます。けれど知ったところで、過去は何も変わらない。当時それを知っていたとして、俺には何も出来なかったでしょう。お心遣い、感謝します。これ以上、生産性のない話をするのはやめて、この後の話をしませんか」
自分の声が震えているのに、健太郎は気付いていた。
気付いていて……止められるわけがない。
血が上る。全身が、やたらとカッカする。
「エンジェルステラは、絶対に辞めないので。伊織が辞めても、俺は。俺は……、続けますから」
それ以上、言葉が出なかった。
緑川も更科も、そして大川も、額を抑え、声を殺して泣く健太郎に、掛ける言葉が見つからないようだった。
*
館花に社用車で家まで送って貰う道中、伊織は一言も発しなかった。
「SNSで拡散した動画が妙な先導役となって事態が悪い方向に進むなんて、日常茶飯事。応援してくれる人の方がずっと多いんだから、そこは気にするべきじゃないと思う」
運転中も何度となくバックミラー越しに目で合図を送ってくれているのには気付いていたが、伊織は身体を斜めにして、外の景色ばかり眺めていた。
相変わらずエンジェルステラは大人気で、ビルの大型スクリーンには代わる代わる彼女達が映っていた。スマホを開けばネットニュースもSNSも、優也やのどかから送られてくるメッセージさえエンジェルステラ一色だった。
「ほんの一部だよ、揶揄するのは。見えてしまったマイナスの意見が、君達を応援する多くの人々の気持ちを上書きしているように見えるだけ。自分にとってあまり良くないニュース程、頭には残りやすい。……分かる?」
館花の言葉の意味が分からないわけではない。分かりたくないのだ。
「戻りたくなったらいつでも言って。名刺、渡しておくから」
車から降りる時に、館花は伊織に無理矢理名刺を押しつけた。
「待ってるよ」
にこやかに手を振る館花を無視して、伊織は自宅へと戻っていった。
*
「……おい、伊織。お前大丈夫か。朝からずっとぼ~っとしてるけど」
「誰が」
「お前がだよっ!!」
気付いたら昼になっている。
教室には授業から開放された生徒達の騒めき声が響いている。購買に行く連中がバタバタと廊下に向かっていく音、机同士をひっつけてお弁当開きをしようとする女子達。ワイワイガヤガヤと様々な声や音が聞こえていたはずなのに、伊織はどこか遠くに意識を置き去りにしていたらしい。
優也の声に気付かなかった。
確かにぼうっとしていたかも知れないと、伊織は頭を掻きむしった。
「何かあった?」
「別に」
前の席から伊織の机の上に身体を半分以上乗っけて、優也はじっとりと伊織の表情を伺ってくる。
「分かった。エンジェルステラが虐められてる動画観たからだな」
「は?」
「まどかもなぎさも堂々としてた。何も間違ってない。あのおっさん頭おかしいんだよ」
優也は勝手に原因を決めつけて、勝手に納得したらしい。
身体の位置を元に戻してうんうんと一人頷いている。
「俺はなにがあってもまどかちゃんの味方だぜ~? 可愛くて、カッコよくて、しかも強い。最強のピンクツインテール・まどかちゃんの!」
――ガタリと伊織は椅子を引いた。
弁当とスマホをリュックから取り出すと、そのまま席から立ち上がる。
「ごめん。僕、別のところで食う」
「え? あれ? なんか俺、余計なこと言った?」
「ごめん。悪い」
とても、優也とニコニコ話していられるような気分ではなかった。
「伊織? 俺が悪いなら、謝るから」
「違うって。気にしないで」
引き留めようとする優也を振り切って、伊織は教室から廊下へと向かっていった。
それを見て一人の女子が席を立ったことに、伊織は気付いていなかった。




