chapter.1 脅威
伊織が居なくなったラボは、まるで葬儀会場のようにしんと静まりかえっていた。
しばらく誰も動かず、ただじっと伊織の消えたドアの方を見ている。そういう儀式みたいな、妙な時間があった。
「十六歳には重たかったかな」
緑川の後方で、静寂を割くように更科が溜め息をつく。
「いや、甘えですよ。あいつは、甘い」
ハハッと小さく笑いを零して健太郎がぼやくと、緑川も呆れたように大きく溜め息をついた。
「想定内だ。魔法少女は大抵、一度くらい『魔法少女をやめる』と言うんだ」
「確かに。キュアキュアでもシリーズに一回はありますよね。自分は向いてない、キュアキュアやめるってやつ」
「それだ。何人組でも誰か一人は脱走する。困ったものだ。テンプレをなぞる必要なんてどこにもないのに」
「――あ~! やられたな。あいつ勝手に逃げやがって」
椅子の背もたれに思いっ切り体重を預けて、健太郎はグイッと背伸びした。
テンプレなどと誤魔化しはしたが、伊織が逃げたのは本当だ。
「命を狙われる……ってことはなかったはずなんだけど。そのくらい、あいつは必死だったんだな」
「懸賞金に目が眩んだ人間に囲まれて、命の危険を感じた可能性はある。円谷少年のことは、今後我々がどうにかしよう。……ところで君は、どうなんだ」
緑川の視線が健太郎に向く。
「君までやめるとは言い出さんだろうな」
気が付くと緑川だけでなく、更科と大川も作業の手を止め健太郎を注視していた。
不安そうな、だがあり得ないだろうと分かっているような目だ。
「俺は一人でもやりますよ。まどかが抜けてもエンジェルステラは続ける。それが、陽菜子への贖罪なので」
ニヤッと緑川が口元を歪める。
やはり、彼女は健太郎の過去をよく知っている。そう、確信する。
「心強い。さすがは私が見込んだ男だ」
「褒めても何も出ませんよ。――ところで、この時間に更科さんが居るのって、珍しいんじゃないですか。何か大事な話でも?」
無理矢理更科に話題を振る。
更科はほうっと嬉しそうに口角を上げ、背筋を正して目を細めてきた。
「V2に関して報告したいことがあってね。円谷君には少し難しい内容だったかも知れないが、君になら話せるかなと思っていたところだよ、渚君」
……なるほど、そうきたか。
健太郎も負けじと口角を上げた。
V2研究の第一人者だという更科は、一見物静かな人物に思えるが多分違う。誰よりも現状を理解し、誰よりも深いところまで事情を知っているはずだ。そういう重さが、彼の周囲に漂っているように健太郎には見えていた。
「さぁて、と」
更科がおもむろにノートパソコンを触り始めると、部屋の奥の方で待機していた大川がそそくさと動き出す。ミーティングテーブル横のディスプレイに、更科のものらしいデスクトップの画像が映し出された。照明が落とされ、他のモニターの照度が下げられると、薄闇にぽっかりと大きな画面が浮いているように見えた。
「エンジェルステラの二人が倒したV2から上手く細胞が採取出来るようになって、調査がだいぶ進んだ。本当に良かった。今までは残骸の中から探すか、探そうとしても特殊清掃のあとで採取不能になっているかだった。警察に頼んでも遺族に頼んでも、当然のように拒まれていたからね」
ディスプレイに映し出される、過去映像。
倒したV2モンスターとその特徴、出現した場所と時間、魔物化した元の人間の個人データ。
「……ここまで、調べてるんですか。誰が魔物化したのかもラボは把握してる?」
「してるよ。何かしらの法則がないか、病歴か、環境か、調べ尽くす必要があるからね」
「どのくらい前からこんなことを?」
「どのくらい……? そうだな。V2出現の初期から、と言えば良いかな」
初期から。
そう聞いて健太郎は向かい側でじっとディスプレイを見つめる緑川の表情を伺った。……が、眼鏡のレンズに反射した光で表情は窺い知れない。
「で、更科さん。何が分かったんです。俺達が戦って、得た情報って」
「まぁ待って」
今度は数字の羅列と、化学構造式が示される。
化学に疎い健太郎には全く分からないが、赤字で注釈が添えてあるのが読み取れた。
「多分ね、地球上のものじゃない」
「……は?」
健太郎から間抜けた声が出たが、更科は表情を変えなかった。
「薄々その可能性もあると思ってはいたんだがね。V2は少なくとも、|今の地球には存在するはずのない《・・・・・・・・・・・・・・・》、何かだね」
大真面目な更科に、どう反応すべきか分からない。
緑川も、大川も、更科の言葉に驚きもしない。
「ウイルス、ですよね。未知の何かじゃなく」
「単なるウイルスなら、罹患者が様々に変化するとは考えにくい。人間の遺伝子を何もかも強制的に書き換えてしまうウイルスなんてあり得ないと思っていた。君達の活躍によって、V2が地球上に存在する、様々なウイルスとは全く違うものだということが確認された。V2は、周辺に存在する生物と人間の細胞を結びつけ、融合させ、人間を強制的に魔物に変化させるのだ」
「ゆ、融合、ですか」
「そう。融合だ。例えば君達が最初に電車の中で出会ったV2モンスターはイヌ科の動物との融合体。……ペットの犬と飼い主が、融合した」
――どくんと、健太郎の心臓が波打った。
「夜の繁華街では蛾と女性が融合した。朝のコンビニでは子どもの釣り上げたザリガニと男性が融合していた。雨の日はカエルとの融合体が出現した。全部、融合体だったんだ」
「つまり……内側から、変化したわけじゃなくて」
「そう。これは、発見だ。発見であり――脅威だ」




