chapter.6 僕は、普通に戻りたい
ラボの一角、ミーティングテーブルに突っ伏したまま、伊織はしばらく動かなかった。
健太郎はその隣で気にするなと何度も背中を擦ったのだが、伊織はその手を何度もはね除けた。
「だいぶ、グサッときたみたいで」
「……だな」
このところ忙しかったのか、所長の緑川瑠璃絵が二人の前に姿を現したのは久々だった。
相変わらずツンとしていたが、どこか憐れみを持って伊織に目線を送っていることが何となく察せられる。一応彼女も人の子かと、健太郎は心の中で呟いた。
「懸賞金が懸かって以降、妙な動きが増えていたことは注視していた。だが……ここまで凶暴化するとは思わなかった。人間とは実に浅ましい生き物なのだということが奇しくも証明されてしまった」
ラボには遅番の所員が二人だけ在中している時間のはずだが、今日は珍しく人数が多い。
緑川の他に再就職の最年長・更科の姿があるが、彼は遅番対応はしないという話を聞いていた。だとしたら、責任者の館花と若い大川が遅番なのだろう。
館花と大川は自分の仕事に戻り、更科は緑川の後方、少し離れたテーブルの上にノートパソコンを置いて、こくりこくりとこちらのやりとりを聞きながら相槌を打っているように見えた。
「それだけ注目されているということだ。悪いことではない。ないが……彼らの動きは看過出来る限度を超えている。しかし、それを規制することは出来ない。残念ながら、それが現実なのだ」
「もう……嫌です」
ずっと黙っていた伊織が、テーブルの上に伏したままボソリと声を上げた。
「責められるのは、嫌です。こんなに、頑張ってきたのに」
「伊織、それは」
「嫌です。魔法少女なんて、最初からやりたくなかった。健太郎と僕は違う」
伊織の背中は、震えていた。
健太郎はハッとして手を引っ込め、ギュッと拳を握った。
「楽しんでない。隠すの疲れた。どうして狙われるの。懸賞金って何だよ。僕は、僕に戻りたい。ただの、円谷伊織でいい」
「逃げるな、少年」
「少年呼びはやめてって言いましたよね?! 僕は、好きでここに居るわけじゃない!!」
ガバッと顔を上げて怒鳴り散らした伊織の目は涙でぐちょぐちょだった。目が赤い。鼻水が垂れている。
健太郎は思わず懐からポケットティッシュを取り出し差し出したが、それすら伊織はブンと振り払った。ティッシュが飛んだ、緑川の足元まで。それをそっと拾い上げ、緑川は健太郎にそっと戻した。申し訳ないという、目線と共に。
「円谷少年。君は、魔法少女に向いている」
言いながら、緑川は伊織の向かいの席へと腰を掛けた。
伊織は警戒して腰を引きギギギと緑川を睨み付けたが、緑川は一切動じない様子で、淡々と語り始める。
「直感ではあった、最初は。君と渚氏が組めば、素晴らしい魔法少女が完成するという根拠のない自信があった。実際、それは確信に変わった。この上ない二人だと思う。エンジェルステラは最高の魔法少女二人組で、この、V2に汚染された世界を救う光になり得る。――いや、実際、そうなっている」
普段は直ぐに足を組み、上から目線を下ろすように話す緑川が、今日は足も組まずに両手を膝の上に載せ、少し砕けた姿勢で伊織を見ている。緑川なりに申し訳なさを感じているのかも知れないと、健太郎は彼女の長く伸びた髪が表情を暗くしたのを見て、そう、感じたのだ。
「ここに居る面々は皆、魔法少女が好きだ。大好きだ。皆、魔法少女が世界を救う、その姿に憧れ励まされてここに居る。フィクションにしか登場しない魔法少女が現実に現れて、この殺伐とした世界に光を灯した。私達は大いに感動した。そして、君達の存在を尊んだ。君の正義感は本物だ。期待した、それ以上の魔法少女となって戦ってくれた。本当に感謝している。誇りに思っている。この世で、君という少年に出会えたことを」
「――勝手な!」
「勝手な期待をした。確かにその通りだ。何の訓練もしていない男子高校生とサラリーマンに、無理矢理世界の命運を委ねた。強引に了承させた。そういう空気を作った。私達は君達に許されることはないと思っている。真っ当な手段で募集などかけられようか、魔法少女になって戦える人間を探しているなどと。性別はどうでも良かった。強い信念と溢れる正義感を心に宿した人間を探していて、君達を探し当てた、それだけだったのだから」
「何が、言いたいんですか。僕は、もう、辞めたい」
鼻息を荒くする伊織。
健太郎は、何も言えなかった。言えずに、伊織から顔を逸らした。
「懸賞金を出したナイトスカイに抗議しないんですか。ネットで騒ぎ立てるヤツらを断罪しないんですか。僕らはこうやって命を狙われたまま戦い続けなくちゃならないんですか。どう考えたっておかしいですよね。これが、エンジェリック・ラボの夢見た魔法少女ですか。だとしたら僕は、こんな状態で魔法少女なんかしたくない。辞めて、早く、解放されたい」
震えた手で、伊織は《ステラ・ウォッチ》を外し始めた。
緑川は止めない。ハラハラと伊織の様子をチラチラ覗う健太郎とは対照的に、じっと伊織の行動を見つめている。
バンッと、伊織は外した《ステラ・ウォッチ》をテーブルに叩きつけた。
「解放してください。僕を、魔法少女エンジェルステラから、解放してください」
「出来ない」
緑川は首を横に振った。
「解放することは出来ない。君は魔法少女を続けるんだ。君と、君の妹と、家族のために」
「勝手に決めつけないでください! これは僕の問題で」
「違う。この世界の未来が懸かっている。君は魔法少女エンジェルステラとして、なぎさと共に戦う。V2ウイルスのメカニズムを分析し、治療方法を探るためにも、君達の活躍は必須なのだ。それはひいては君のためにも、君の家族のためにもなってくる。それでも……嫌か」
「嫌です。僕は、普通に戻りたい」
伊織は、頑なだった。
色々と溜め込んできたものが、今日の出来事で一気に放出されたみたいに見えた。
何もかも隠して――……家族にも、友達にも、本当のことを言えずにしまい込んでいたんだろう。
「分かった。これは、預かろう」
緑川はそう言って、テーブルの真ん中に置かれたままの《ステラ・ウォッチ》をそっと手元に引き寄せた。
「魔法少女に戻りたくなったらいつでも戻れるようにしておく。君は、魔法少女エンジェルステラのまどかだ。君自身が否定したとしても、それは変わらない」
「僕は、僕です」
伊織は、一歩も引かなかった。
「館花、円谷少年を、家まで送り届けてやりなさい。ウォッチがなければ転送出来ない」
「りょ、了解しました、所長」
館花が、大きく出張った腹を揺らしながら駆け寄ってくる。
「円谷君……、いいのかい?」
「いいです。帰ります。それじゃ」
腕で鼻水と涙を一気に拭い取って、伊織は勢いよく立ち上がった。
「伊織」
健太郎の声に、伊織は少しだけ動きを止めた。が、
「お世話になりました」
投げやるように言い放つと、そのまま館花と一緒にラボの外へと出て行ってしまう。
「嘘、だろ……」
ポカンとする健太郎に、緑川は大きく溜め息をついた。
「嘘なら良かったがな」
伊織の置いていった《ステラ・ウォッチ》を握り締め、緑川は空しそうにまた、深く溜め息をつくのだった。




