chapter.5 どうせ逃げられやしないんだから
顔を上げると、どこかの玄関だった。健太郎の自宅マンションだと伊織が気付いたのは、彼が慣れた様子で中に入ったからだ。
靴箱の上に置かれたアロマスティックから、フワッと清潔感のある優しい香りが漂ってくる。健太郎の近くに来ると、いつもこの匂いがすることにふと気付く。
「入れよ」
言われるまでぼうっとしていた伊織は、慌てて「う、うん」と首を縦に振った。
たたきの隅にはいつも彼が履いている革靴が置かれている。やたらと磨かれている、如何にもサラリーマンのそれと分かる靴を横目に、伊織はそそくさとスニーカーを脱いでスリッパを履き、キュアキュアStoreの袋をギュッと抱き締めたまま恐る恐る健太郎のあとに付いていく。
掃除が行き届いていて、余計なものが何もない玄関ホールをあとにすると、リビングに通された。そこも――思いのほかこざっぱりしている。
「その辺で待ってろ。飲み物持ってくる」
健太郎はそう言い残して、リビングとL字で繋がったキッチンへ向かっていく。冷蔵庫の開くような音がする。何やらゴソゴソと漁る音も。
妙なことになった。
伊織は肩を竦ませてキョロキョロと辺りを見回した。
白を基調としたシンプルな家具。小さな観葉植物や多肉植物の寄せ植えが、木製のラックにいくつも並んでいる。
かと思うとリビングの一角はホームジムになっていて、分厚い衝撃吸収マットの上に懸垂マシンやトレーニングベンチ、ダンベルが整然と置いてあるのだった。どうやら彼が今朝家で筋トレをしていたというのは間違いないらしい。
キュアキュアグッズはというと――ぱっと見リビングには見当たらない。どこか別の所にあるのかも知れないが、流石に突然お邪魔して家捜しをするような図々しさは伊織にはないのだった。
伊織の住む中古マンションの自宅よりも高層階らしく、窓からの眺めはかなり良い。眼下に広がる街並みに圧倒されていると、キッチンの方から健太郎が飲み物と菓子を持って戻ってきた。
「高校生が好きそうな飲み物、買ってなかった。プロテインじゃアレだろうから、麦茶な」
ガラス製のローテーブルにトレイを置くと、健太郎はそこにある白い二人掛けソファに座れと伊織に目で合図する。遠慮なく、とソファに買い物袋を置いて麦茶をご馳走になるのだが、そのひんやり感と居心地の悪さが相まって、伊織は何ともモヤモヤしたような変な気持ちになっていた。
「悪いな。本当はどっか良い店で食わしてやろうと思ってたんだけど、外だと何も喋れないことに気が付いた。思ったより面倒だな、魔法少女なんて」
隣にドカッと腰を下ろして、健太郎は大きく溜息をついた。項垂れ具合が想像以上で、伊織は思わずドキリとしてしまう。
「まぁ……だよね。誰にも喋れない。ラボの人達と健太郎にしか喋っちゃダメだから、僕も結構ストレスで。いつバレるか、ヒヤヒヤしてる」
ハハハと笑って誤魔化すと、健太郎が隣で「一緒だな」と小さく呟いた。
「俺は家では一人だし、独りごちるぐらいは出来るけど、お前一体どうしてんだよ」
「僕は……実は我慢出来なくて、ティンクルと部屋とかお風呂場とかでコソコソ喋ってる。それこそ、聞かれてないかヒヤヒヤしてるんだけど、今のところは、大丈夫……だと思う」
「学校では見られたくせに?」
「あ、アレは! でもハッキリと言われたわけじゃ」
「どうだか」
そこまで言って、また健太郎はふぅと溜息をついた。
「とにかく、エンジェルステラのことを外で喋るのはナシだ。喋りたくなったら、ここに来い。良いな?」
さらりと健太郎が放った言葉に、伊織はギョッとして彼をガン見した。
「俺は基本平日勤務で、今のところ残業は殆どない。まぁ、アポが入れば多少時間外も対応するって程度で、なるべく不規則にならないように調整して働いてる。見ての通り筋トレの器具も充実してるし、お前も好きに使って良いぞ。基礎体力が上がれば変身後の力にも影響してくるかも知れないし」
「え? ど、どういう」
「少しくらい役に立ってやってもいいかなって思ったんだ。どうせ逃げられやしないんだから、こうなったら徹底的にやるしかない。俺とお前、正体を隠し通して、魔法少女エンジェルステラとして戦い続ける。それしかもう、生き延びる道は残されていない」
――生き延びる道は。
何を……言っているのかと、伊織はしばし理解出来なかった。
しかし健太郎は鋭い目つきで虚空を睨み付け、ピリピリとした空気を放ち続けている。
「ラボの連中は、俺達を監視している。あの妖精達もグルだ」
「グルって……」
「この会話も聞かれていると思っていい。要するに、俺達の言動は全部ヤツらに筒抜けだと考えた方が良いってことだ。――その上で、忠告しておく。あの、緑川瑠璃絵って女は相当ヤバいってことを」
「緑川……って、所長さんのこと?」
「ああ、そうだ」
健太郎の、言わんとしていることが伊織には全く分からない。
ヤバいと言われたら、確かに最初からヤバそうではあった。突然魔法少女は好きかどうか電車の中で聞いてくるなんて、普通に考えても怪しすぎた。
「確かに……変わった人だとは思うけど」
「変わった人? そういうレベルじゃない。あの女は全部知ってる。俺達のことを、何もかも」
「……は?」
「おめでたいヤツだな。まぁ、それはあのラボの連中も一緒か」
「健太郎、お前何言って」
一瞬、健太郎が苦しそうに顔を歪めた。
ギュッと歯を食い縛り、それから射るような目で、伊織を睨み付けた。
「あの女、俺達がV2の犠牲者家族だと知ってて声を掛けてきたんだ。絶対に断らない、断ることが出来ないと知っててな……!!」




