chapter.3 緑川瑠璃絵と《ステラ・ウォッチ》
「君達は、V2が猛威を振るうこの世界の現状をどう思うかね。少なくとも、何もなかったあの頃に戻りたい、出来ることなら普通の生活を続けたいと、そう思っているに違いない。……どうだ?」
「まぁ……そうですけど」
「そんなの、言われるまでもなく」
怪しげな女性――緑川瑠璃絵は伊織と男の前に仁王立ちし、答えは一つしかないのに、さも心の中を探ったかのような言い方をしてきた。それが益々怪しくて、伊織は肩を竦めて少しでも遠のこうとしたのだが、隣の男は何故か前のめりになって話を聞いている。
それが嬉しかったのか、緑川はフフッとまた頬を緩め、それから隣の車両にいた誰かにクイッと指で合図した。
程なく黒服の男が二名、銀のアタッシュケースを持って現れる。無表情のまま、二人は伊織と男性の前にスッと屈み込んだ。
伊織がギョッとしている間に、黒服の男達はそれぞれのアタッシュケースを開いて四角いケースを取り出し、どうぞと一つずつ、伊織と男性に渡してくる。何コレ、と気味悪がる伊織の隣で、男性は警戒心もなく箱を空けて中身を確認した。
「スマートウォッチ……?」
貰った名刺を制服のポケットに突っ込んで、伊織も恐る恐る四角いケースを受け取って蓋を開ける。中には確かにどこにでもありそうなスマートウォッチが入っている。本体の色はシルバーで、バンドは白。これといって不審な点はなさそうではあるが。
「これ、頂けるんですか。丁度アナログ時計から買い換えようとしてたんで、助かりますけど」
ちょっと値の張りそうなゴツめの腕時計を外してスーツのポケットに突っ込み、何の躊躇もなく渡されたスマートウォッチを左手に嵌める男を見て、伊織はドン引きした。一体何なんだこの人はと焦っていると「装着お願いします」と黒服の男が厳しい視線を浴びせてくる。
伊織は諦めて渋々スマートウォッチを手に嵌めた。黒服の男はアタッシュケースからタブレットを取り出し、何やら操作を始めた。座席の上からだと陽の光が反射してよく見えない。何かの設定画面だろうか……
「我が研究所エンジェリック・ラボは、V2の脅威に立ち向かうため、日々研究を重ねている。二年前、《V2罹患者特別法》が施行されたが、それによって市民の生活が保障されたわけではなかった。あの法律はあくまで、魔物へと変態した罹患者の人権喪失を断定し、殺処分を正当化するためのものだった。要するに……何も変わらなかった。そうは思わないか」
「思いますね」
緑川の問いかけに、隣の男がすかさず答えた。
「未知のウイルスによって罪のない人間が次々に魔物化していくだなんて、SFでは許されてもリアルじゃ許されないはずだ。原因を突き止めて完全排除出来るならそうしたいところだろうけど、出来ないからこういう事態に陥ってるんでしょう? 俺の客にもたくさんいる。被害者になってしまった人も、魔物になってしまった人も。まさか、そういうのに立ち向かう力を授けてくれるとか、そういう……」
「察しが良いな。君、名は?」
「渚健太郎」
「少年、君は?」
「ぼ、僕ですか? つ、円谷伊織、ですけど……」
広い車両に伊織と男性、緑川とその部下らしき黒服の男が二人。この状況で名前を言わないわけにはいかなかったが、名乗ったことを伊織は直ぐに後悔した。
逃げるべきだ。訳が分からない。
V2が憎いのも、どうにかなって欲しい気持ちも嘘じゃない。が、それは日本国内だけじゃなく、世界中の人間達が思ってることであって。それをあたかも、|そう思うことの出来る特別な人間だろう、的な勢いで言われると、ちょっと……詐欺を、疑ってしまう。
「渚、円谷、両名には十分な素質があると私は踏んだ。その《ステラ・ウォッチ》を君達に授ける。是非我々に協力して欲しい」
「協力……?」
「良いですよ、俺は全然」
渚はまた間髪入れずに返事した。本当に躊躇しない、大丈夫かこの人はと目を丸くしていると、
「彼も大丈夫みたいですよ」
渚が勝手なことを言い出した。
「良いなんて一言も!」
「ガキには無理か。俺には覚悟があるが、お前にはないってことだな」
「はぁ? 何勝手なこと!!」
「俺はV2が憎い。世界を救う力が手に入るなら、喜んで協力する。お前に覚悟がないなら、とっとと逃げれば良い」
逃げればと言われて、伊織は思わず立ち上がった。拳を振るわせ、渚をギリリと睨み付ける。
その間にも電車は休むことなくガタンガタンと小さく揺れ、黒服の男達は無言のままタブレットを弄り続けている。
緑川は二人の険悪な雰囲気を感じ取りながらも、何故かしら余裕の表情を浮かべて、二人のやりとりをじっと見つめていた。
「に……逃げる、かよ。逃げてたまるか」
「逃げようとしたくせに」
「してない! 僕だってどうにかしたい。V2なんてものがなかったら、のどかは傷付かなかった、苦しまなかった。ちゃんと学校にだって行けてたはずだ。非力な自分が憎たらしくて、いつだってどうにかしたいって思ってる……!!」
「と、言うことだそうなので、緑川さん。彼も乗り気みたいですよ」
渚の言葉にハッとした。
嵌められた。彼はわざと。
「お前、勝手に!!」
「――所長、生体データとのリンク、完了しました」
「よろしい。では、最適な戦闘フォームをデバイスに転送して」
「了解」