chapter.2 電車の中、男子高生とサラリーマン
優也はもう一箇所用事があるとかで、駅の手前でまた明日と手を振った。
初夏のまだ高い太陽が西の方にあって、伊織に強い日差しを浴びせてくる。それが少し鬱陶しくて、伊織は隠れるようにして、駅舎の中へと入っていった。
のどかがV2に襲われてから先、伊織には“犠牲者の家族”という変な肩書きが付いて回る。
決して少なくないV2事件。ヴィラン化ウイルスと名付けられた未知のウイルスが何故人間を魔物化させるのか、凶暴化させるのか――まだ原因は解明されていない。
V2に罹患し魔物化した人間は、二度と人間には戻れなくなる。人格も自制心も、何もかも失くした可哀想な存在であるのに、世間は彼らを魔物と断定して、殺害を正当化しているのが現状だ。
のどかが心を閉ざした原因は分かっている。
小学校からの帰り道、いつも声を掛けてくれるおじいちゃんが突然魔物化したらしい。
いつ誰がどのように魔物化してもおかしくない……だって、感染経路も対処方法も分かっていないウイルスだ。次は自分が魔物化するかも知れない、しないとは限らない、その恐怖がのどかを苦しめている。
のどかが安心して暮らせる世の中になればいいのに。
妹さんが襲われたんだね、可哀想にと人は言うけれど、のどかはただV2が怖くて外に出られないんじゃない。自分がいつ加害者に回るのか、そういう恐怖とも戦っているだなんて……説明するのは難しい。きっと、同じ境遇に置かれなければ、実感は湧かないだろう。
改札口を通ってホームに停まっていた車両に乗り込む。
優也と一緒でないとき、伊織はなるべく人の居ない車両を選んだ。
伊織の中にも燻っているのだ、V2への恐怖と、自分の中の薄暗い心が。自分が襲われる確率を減らすために、自分が襲うかも知れない人間が出ないように。出来るだけ他人との接触を最低限に。そうやって、ささやかな抵抗を――
ドサッと、誰かが伊織の直ぐ近くに座った振動で、僅かに椅子が揺れた。
伊織が車内に意識を戻すと、左手側に背の高い痩せぎすの若いサラリーマンがいた。
《キュアキュア・ストア》で《きらキュア》のアクスタを大人買いしていた彼だ。リュックを背負ったまま、長い足を組んで腕をこまねき、ふぅと息をついている。
戦利品をゲットして満足しているようにも見えるが、どこか空虚な横顔が気になった。
ガタンと車体が揺れて、電車が動き始めた。
彼のリュックの中には《きらキュア》の大量のアクスタが――その中には、小遣い不足で買えなかったルビーのも当然混じっている訳で。伊織は自分のリュックの中にあるサファイアのアクスタを思い出し、ギュッと口を結んだ。
ふぅ、と再び大きな溜息が伊織の耳に入る。
隣の男がギロリとした目で伊織を見ていた。
ビクッと肩が震え、伊織は慌てて男から視線を逸らし、身体を半分右にずらした。
周囲を見渡せば、広い車内に伊織と彼の二人だけ。明らかに男は伊織を睨み付けていて、ご機嫌も悪そうに見えた。
高校生にガン飛ばすなんて、ヤバい大人だ。関わらないようにしないと。
気にしていない振りをして、伊織は向かい側の車窓に意識を向けた。
ガタンゴトンと小気味良く音を鳴らしながら、電車は淡々と線路を進む。見慣れた風景が一定のリズムで流れていくのを、伊織はぼうっと眺めていた。
どんなに辛いことがあっても、世の中の“いつも”はそうそう変わるものじゃない。
V2の存在が明るみになった三年前、世の中は大騒ぎになって、一時的に外出自粛や学校閉鎖なんかもしたけれど、今はすっかり元通り、V2が発見される前の生活に戻っている。
元気を装って毎日学校に行くのにもすっかり慣れてしまった。のどかが部屋に引き篭って苦しみ続けているのに、世界は何も変わらない。
《キュアキュア》みたいに不思議な力をあたえられた魔法少女が現れて一気に解決……なんてことは、絶対に起こりえない訳で。
「魔法少女は好きか」
――伊織の視界を、見知らぬ人影が遮った。
何気ない光景を引き裂くように、唐突に浴びせられた質問。
声の主を確認するより前に、口が動く。
「大好きです」
「大好きだ」
ほぼ同時に隣の男が反応していて、伊織は思わずギョッとした。
互いに顔を見合せてムッとしていると、
「二人とも、合格だ」
魔法少女の件を尋ねてきた妙な誰かが、フフッと笑った。
見上げると、そこには豊満な胸を組んだ腕で押し上げ、タイトスカートの下でスラッとした足を惜しげなく晒したスーツ姿の美魔女が立っている。銀縁の細い眼鏡、左目の下の涙ぼくろが逆光に映え、厚ぼったい唇が艶めいていた。
腰までの長いストレートヘアを揺らし、伊織と隣の男を見下ろして、彼女はニヤリと口角を上げた。
「想定よりも良いものになりそうだ。……申し分ない」
眼鏡の奥で女性が目を細めるのを見て、隣の男がグッと身体を起こした。
「新手の詐欺ですか」
「フフッ、失礼した。私はこういう者でね。君達に是非協力して貰いたいのだ」
女性はそう言うと、スーツのポケットから名刺入れを取り出し、伊織と男性に、一枚ずつ名刺を差し出した。
「“科学研究所エンジェリック・ラボ、所長緑川瑠璃絵”……?」
名刺の明朝体に妙な胡散臭さを感じて、伊織は思わず顔を引き攣らせた。