chapter.6 “ハロー、ティンクル”
四時限目の途中で、ブルブルと《ステラ・ウォッチ》が振動した。
そう言えば緑川が明日の正午に……と言っていたことを思い出し、伊織は慌てて画面を確かめた。
《【重要】配信あり/連絡事項要確認
※音声・周辺環境注意》
サイドボタンをダブルクリックするように指示するアイコンが一緒に表示されている。
……なるほど、画面に直接的に連絡事項が表示されるわけではないらしい。
ワンクッション置いて、なるべく周囲からはバレないように配慮していることから考えると、あの緑川瑠璃絵と言う女性は一応ある程度の常識を持っているようだ。
授業が終わるまで待ち、前の席の優也がリュックから弁当箱を取り出してくるりと向きを変えてくる前に、伊織は弁当を抱えて席を立った。
大急ぎで廊下を駆け抜け、人気のない屋上を目指す。二段飛ばしで階段を駆け上がると、伊織はそのまま屋上の隅っこに向かった。
フェンスの前に屈み込み、弁当の包みを足元に置いて、周囲に誰もいないことを確認してから《ステラ・ウォッチ》のサイドボタンをダブルクリック。画面がパッと明るくなり《声紋認証します。“ハロー、ティンクル”と話し掛けてください》と表示される。
「何だよティンクルって」
ムッとした伊織だったが、内容を確認するには仕方ない。
「は……ハロー、ティンクル」
ボソッと呟くと、再び《ステラ・ウォッチ》が細かく振動し、パアッと視界が明るくなる。目が眩み、伊織は咄嗟に右腕で光を遮った。
「ハロー、まどか」
「ま、まどかって呼ぶなっ!!」
咄嗟にそう返したが、腕を下ろして立ち上がり、周囲を見渡しても誰もいない。
「あれ……? おっかしいな……。今確かに女の子の声が」
「あ〜もう、ちゃんとこっち見てよ。あたしはここだよ〜!」
「ここ? どこ?」
「こっちこっち! ああっ! 踏まれる!!」
「踏まれる?」
何を言ってるんだと首を傾げ、伊織は数歩後退った。
「……あ」
ぬいぐるみだ。
足元にぬいぐるみが落ちている。
真っ白いうさぎのようなぬいぐるみ。背中に羽が生えていて、一丁前にヒラヒラの白いフリルのワンピースを着ている。額に黄色い星のマークが縫い付けられ、両耳の付け根にはパープルとパステルブルーのリボン。
「誰かの忘れ物かな」
伊織が手を伸ばし、拾おうとしたところで、
「忘れ物なんかじゃないよぉ〜!!」
ぬいぐるみが勢いよく、伊織の顔面に突っ込んできた。
バフッとぶち当たったぬいぐるみの勢いに負けて、伊織はドスッとおしりからすっ転んだ。
「うわぁっ!」
「まどかぁ〜! やっと会えた!!」
羽の生えた白いうさぎのぬいぐるみが、ぴょんぴょん腹の上で跳ねている。
嘘だろと思いながらも、腹に当たる度に感じる微妙な重さ、コロコロ表情を変えるぬいぐるみが幻覚だなんて思えなくて。
「あたし、まどかのパートナー、白うさぎのティンクル!!」
「しゃ、喋ってるし、動いてる……?! ぬ、ぬいぐるみなのに……!!」
「えへへ~。すごいでしょ? あたしと、なぎさのパートナー、黒うさぎのブリンクはね、エンジェルステラの二人を手助けするために生み出されたんだ。これからずっと一緒だよっ。よろしくね!」
伊織の腹の上を、ティンクルはまるでトランポリンみたいに跳ね回った。
可愛らしい子供っぽい声と、愛らしい姿。
それはまるで――
「つまり君が妖精枠ってこと……?」
「ヨウセイワク? 分かんないけど、ずっとまどかのそばにいなさいって、博士が言ってたよ〜」
「博士? 緑川さんのことかな……。確かに君は可愛いし、僕と渚さんの二人に一体ずつみたいだし、なるほどね……」
どういうカラクリで現れたのかより、伊織にはこのぬいぐるみがどんな存在なのかが大事らしかった。
キュアキュアシリーズのみならず、大抵の魔法少女ものには対になる妖精が存在する。可愛くてギュッとしたくなる、小さくてふわふわの妖精……。動物のような、ぬいぐるみのような、はたまた幻獣のようなその生き物らしき何かは、魔法少女好きの伊織の心を確かに揺り動かした。
こくりと深くうなずくと、伊織は腹の上にいた両手でティンクルを優しく掴み、ぐいっと勢いよく起き上がった。
「よろしく、ティンクル。けど……、人前に出てくるのはちょっと困るな。キュアキュアだとぬいぐるみとしてバッグの中に入ってたりするけど、男の僕が持ち歩いてるのはなんだか不自然だし……」
「それなら安心して。普段は《ステラ・ウォッチ》の中にいるから。何か伝えたいことがあるときはバイブレーションでお知らせするよ。出来るだけまどかの生活を邪魔しないよう、《ステラ・ウォッチ》に文字を映して会話した方がいいよって博士にも言われてるんだ」
「なるほどねぇ~、その方が助かるな。こんなこと、誰かに知られたら困るし。――そうだ。僕のこと、変身前は“伊織”って呼んでくれないかな。変身したら“まどか”でいいからさ」
「わかった。じゃあ伊織、あたしのことを呼びたいときはいつでも《ハロー、ティンクル》で呼び出してね」
「いいよ、オッケー」
約束だよと小さな手と握手を交わす。
「それはそうと、お昼休み終わらないうちにご飯食べてもいいかな……。あと、連絡事項とか色々教えてもらいたいんだけど……」
「いいよ。お弁当広げて」
屋上の隅、お弁当開きにはちょうどいいくらいの好天気。誰もいないのをいいことに、伊織はぬいぐるみ姿のティンクルを隣に置いてお昼を過ごした。
昼休みももうすぐ終わりという頃になってから、伊織は上機嫌で空っぽになった弁当箱を片手に階段の方へ向かって行った。ティンクルが素直に《ステラ・ウォッチ》の中に戻ってくれたこともあって、伊織は完全に気が抜けていた。
階段室の影、ちょうど伊織のいたところからは見えにくい位置で一部始終を見ていた者がいたなど、そのときの伊織には知る由もなかったのだ。