第1話 婚約破棄。蹴り。そして永久追放。
「あなたとの婚約を破棄いたしますわ!」
そう言い放った直後に、硬いブーツを履いた足で蹴りを叩き込んだ。
ドゴッ!
一瞬前まで婚約者だった男は、バランスを崩しながら遠くまで後ずさって膝をついた。
リスベットは赤茶色の瞳でそれを見届けると、蹴った勢いで肩口に掛かってしまった赤毛の大きな三つ編みを背中に戻した。
さらに白地のズボンを軽く払って、ジャケットと帽子の位置を整える。
ジャケットは肩飾りのついた軍服風で青が基調。
そして帽子は黒い三角帽子。
海賊のトレードマーク。
別におかしくはない。
実際に十九歳の女海賊なのだから。
百人乗りの戦闘艦の船長を務めている。
その船で大海原を航行中だ。
波はやや高く、甲板は左右に傾くことを繰り返している。
船縁近くまで蹴り飛ばした男が、少しよろめきながら立ち上がった。
名前はトルモッド。
四つ年上の二十三歳で、長身の美男子。
なめらかな金髪が赤いジュストコールに届いている。
瞳は青く切れ長だ。
その目でこちらを睨みつけてきた。
「リスベット。婚約破棄を突き付けた上に蹴り飛ばすなんて、一体どういうつもりだ?」
そうしたのにはれっきとした理由がある。
「あなたの方こそ、交易船の積み荷を奪い取るだなんて、一体どういうつもりですの?」
トルモッドの表情がピクリとした。
「それが御法度なのは言うまでもありませんわね? わたくしたち『ケルピー水軍』は、海賊であると同時に誇り高き義賊なんですもの」
風に靡く旗を見上げた。
伝説上の海の魔物、ケルピーの絵がはためいている。
下半身は魚でたてがみは背ビレの馬。
ケルピー水軍のシンボルマークだ。
「当然だ。俺はケルピー水軍であることに誇りを持っている。掟に背いた覚えなど無い。何か誤解をしていないか?」
「言い逃れはできませんわよ。裏は取れていますもの。あなたがごろつきを雇って悪事を働いたのは一度に限ったことではありませんわね?」
トルモッドが目を伏せた。
言い訳は無駄だと悟ったようだ。
抵抗が無意味なことは最初から分かっているだろう。
リスベットの後ろには水兵服姿の男たちが並んでいる。
この船に乗っている約百人は、トルモッドを除いて全員がリスベットの部下だ。
「処罰を申し渡します。あなたの財産は全て没収。奪い取った方たちへの返済に充てておくから、安心なさい」
「それだけではなさそうだな?」
「ええ。今この場でケルピー水軍から永久追放よ。さあ。渡してあげて頂戴」
「へい、船長。おらよっ!」
部下の一人が持っていた中型の樽を投げた。
トルモッドは抱えるように受け止めたが、そう重くはないはずだ。
中身の量は海に浮かぶよう調整してある。
「それがあればなんとか陸まで泳ぎ着けるでしょう。飲み水も入れてありますわ。ケルピー水軍ができる限り殺しを避ける義賊だということに感謝なさい」
トルモッドは樽を片脇に移すと、薄ら笑いを浮かべた。
「ククク」
全てを見下したような、とても嫌な顔だ。
婚約者と過ごしていたときも、この表情を覗かせることがあった。
「何が義賊だ。馬鹿馬鹿しい」
「なんだとコラ!」
近づこうとする部下たちを手の合図で制した。
荒々しくもどこか憎めない男たちだ。
みんなケルピー水軍であることに誇りを持っている。
トルモッドは違っていた。
最初からそうだと分かっていれば、婚約などしなかった。
婚約は両親の勧められてのことだ。
父は大海賊ケルピー水軍の頭領。
母はナンバー2で、貴族令嬢でありながら父と駆け落ちして自身も海賊になった人だ。
二人の娘で『海賊令嬢』と呼ばれているリスベットの結婚相手も海賊の中から探すしかない。
堅気では腰が引けてしまうからと、両親は申し訳なさそうに言っていた。
かといって悪質では海賊は問題外だ。
両親はケルピー水軍内で婿候補を探した。
そして半年ほど前、トルモッドを紹介された。
五十人船を任せている実力者で、若手の船長同士気が合うだろうと。
誰かのことを特別に好きになったことがある訳でもない。
両親を困らせるものではないと思って婚約を承諾した。
部隊も駐屯地も違うトルモッドと過ごす機会はそれほど多くなかったが、一緒にいるときの振る舞いは紳士的で、義賊であるケルピー水軍の一員であることを誇らしげに語っていた。
だが違和感があり、
その直感は正しく、交易船の積み荷を奪い取っていたことが発覚した。
「ケルピー水軍の誇りを汚すものは許さない。ましてやそんな男と結婚なんて、まっぴらごめんだわ。トルモッド。もう一度言っておくけれど、あなたとの婚約を破棄いたしますわ」
「今さらどうでもいいさ。出世に役立ちそうだったから頭領たちに勧められた縁談に乗っただけだ。ケルピー水軍の誇りだの義賊などとほざくお前のことなど、好きになるはずがないだろう」
リスベットは肩を竦めた。
「だと思っていたわ。安心なさって。わたくしもあなたのこと、好きじゃなかったもの」
「チッ」
トルモッドが舌打ちして船縁に片手を掛けた。
「リスベット。お前もケルピー水軍も、俺のいいように利用されていれば良かったものを。このままでは済まさん。必ず復讐してやる。必ずな!」
そう吐き捨てると、トルモッドは海に飛び込んだ。
水音を合図にするかのように、部下たちが船縁に駆け寄った。
「ケルピー水軍の面汚しが!」
「鮫の餌になっちまえ!」
部下たちが罵声を浴びせている。
「はいはい、そこまで。方向転換しますわよ」
白い手袋を付けた手を打ち鳴らした。
部下たちは「アイアイサー」と返事をすると、マストに近づいて帆の操作に取り掛かった。
リスベットも船尾に移動して舵を握った。
「面舵一杯ですわ!」
船がゆっくりと右カーブしていく。
海に浮かぶトルモッドの姿が見える角度になった。
樽に上半身を乗せるようにしている。
目が合った気がした。
鋭い敵意、そして言い知れない不安を感じた。
船が反転を終えた。
トルモッドの姿は遠ざかるにつれて段々と小さくなり、やがて完全に見えなくなった。
それでも不安が消えない。
「お嬢。大丈夫ですかい?」
四十がらみの大男が隣に立った。
副官のヴィゴ。
髭面で、頭には赤いバンダナ。
袖のないシャツから出た肩や腕は筋肉で盛り上がっている。
怪力で腕が立つ上に、部下たちに慕われて頼りにされている。
ケルピー水軍最古参の重鎮。
両親の信頼は厚く、昔からたびたび屋敷に招かれていた。
子供の頃から知っているリスベットのことを「お嬢」と呼んでいるが、副官としてしっかりとサポートしてくれている。
「トルモッドの奴、絶対に恨みを忘れない性格に見えやしたぜ」
「ヴィゴの言うとおりね。以前から底意地の悪さみたいなものは感じていたわ」
「いずれ何か仕掛けてくるような気がしまさあ」
あの復讐宣言。
それに敵意の込められた視線。
確かに嫌な予感がする。
「そのときは、また蹴り飛ばして差し上げますわ」
嫌な予感を振り払うように明るく言った。
「トルモッドの奴、船縁まで吹っ飛んでましたね。あの蹴りはお見事でした」
「ふふ。ありがとう」
リスベットも戦闘技術の訓練は充分に積んでいる。
とはいえ女性の中でもやや小柄ということもあり、力では到底男には敵わない。
「あいつはかなりの手練れなんですが」
さらに腕の立つビィゴがそう言う程に、トルモッドは強い。
陸の上で剣の手合わせをしたときはまるで歯が立たなかった。
まともに戦えば勝ち目は薄い。
「でもお嬢は仕掛けるとき、波を読みましたね?」
「さすがヴィゴ。分かっているじゃない」
ただし海に浮かぶ船の上なら話は別だ。
子供の頃から揺れる船に慣れ親しんできたので抜群にバランス感覚がいい。
海の男たちがよろめいているようなときでさえ、難なく甲板を歩けるほどに。
そして波の揺れで相手がバランスを崩す瞬間が分かる。
そのときに攻撃を仕掛ければ、屈強な男にも遅れは取らない。
さらに───。
ジャケットの後ろ裾には、得意の武器を常に忍ばせている。
「外洋は波が高いわ。転覆には少し気を付けて頂戴」
「合点承知」
ヴィゴが部下たちに指示を出し始めた。
ただ、今は漕ぐ必要はない。
追い風でマストに張られた帆が膨らんでいる。
帽子を外して髪を風に晒した。
海風は心の淀みを吹き飛ばしてくれる。
トルモッドのこともだんだんと気にならなくなり、帽子を被り直した。