第五話 甘い香りの罠
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そこから数日間、コーデリアは公爵家でなに不自由無く過ごした。食事は勿論、身の回りの世話もきちんとして貰える。
しかし、良いことばかりとも言えない。公爵夫人の態度には不可解なものをやはり感じている。
「あちこち勝手に首をつっこまないでちょうだい。貴女は大人しく、ヴィクトールの相手だけをしていれば良いの」
公爵夫人にそう言われて、てっきり次期公爵夫人として屋敷の切り回しや他家との付き合い方を教えられると思っていたコーデリアは内心驚いた。
(私、やっぱり公爵夫人には歓迎されていないのね)
初日に「公爵家のルールを覚えてもらう」と言ったのはベルトラン公爵の手前だったのかもしれない。
コーデリアを煙たがり、冷ややかな目で見てくる夫人の態度に、やはり気を抜いてはいけないと彼女は考え、緊張感を持って毎日を過ごしていた。
「やあ、コーデリア嬢……」
その緊張感が、ヴィクトールに会う時は少し綻ぶ。婚約者だからというのもあるが、主な理由は別にある。
「ヴィクトール様! 今日は起きていて大丈夫なのですか?」
「ああ……昨日よりはだいぶましになった」
「それは良かったです!」
彼は見るからに体調がよくない。だが、必死に命を繋ぎ、そして努力を続けているのだ。今も寝台の上で簡易的な机を置いて上半身を起こし、手紙を書いたり資料を読んだりしている。それはやはり自分が第一子である以上、公爵家を継ぐ責を負っているという意識の表れだろう。
その姿にコーデリアは今までの自分と共通点があるような気がして、ほっと心に安らぎを感じる。そして願わくば自分も彼の心に安らぎを与える存在になりたい、と思うのだ。
「……でも、あまりご無理はなさらないで下さいね」
「ああ、君のためにも気をつけなくては」
「?」
今、ヴィクトールの言葉には何か含みがあったように聞こえた。だが彼を問い詰めてこれ以上負担をかけるような真似をしたくない。コーデリアは疑問を自分の中で抑え込んだ。
◆
このように公爵家のあちこちで謎を感じつつも、コーデリアは実家にいる時よりもずっと幸せに暮らしていた。
三ヶ月もすると痩せた身体にはふっくらと健康的に肉が付き、頬は薔薇色に、夕陽色の髪は艶を取り戻した。今や彼女はどこから見ても美しい貴族令嬢である。
また、ヴィクトールの世話役である、ベテランメイドのエバとも次第に心を通わせるようになっていた。
彼女は最初、「悪名高い令嬢が公爵家にやってくる」と聞いて警戒していたらしい。だがコーデリアがヴィクトールの婚約者として真摯に向き合う姿勢を見て、考えを改めたのだ。
そんな頃に事件は起きた。
「坊ちゃま、お医者様が薬を今回から変更されたようです。よかったですね。前よりも美味しそうな匂いがしますよ」
エバがそう言い、カップに入った薬を持ってきた時。いつものようにヴィクトールの寝台の傍についていたコーデリアは、そのピンク色の液体から立ちのぼるふわりと甘い香りに心当たりがあった。
「だめです! それを飲んではだめ!」
突然椅子から立ち上がりヒステリックに叫ぶ彼女の、ただならぬ様子にヴィクトールたちは驚いている。
「コーデリア?」
「でも……奥様が呼んだお医者様が特別に用意されたお薬で……」
エバはためらっていた。いくらコーデリアがダメと言ったとしても、ヴィクトールの投薬を止めれば責任を問われるのは彼女になってしまう。まだコーデリアはヴィクトールの婚約者で、公爵家の客人扱いなのだから口を出していい立場ではないのだ。
コーデリアはぐっと眉間を狭め、少し思案したが、すぐに覚悟を決めてくっと顎を上げた。
「では、その薬を私が飲んで、なんともないか毒見をさせてください」
「えっ!?」
エバが驚いたスキをついて、コーデリアは薬の入ったカップをさっと取り上げ、一気に飲み干す。
「コーデリア様!」
「これで暫くの間、何も起きなければいいでしょう?」
コーデリアの行動に、その場の全員が度肝を抜かれた。公爵夫妻がその日外出していたのは幸いだった。そうでなければこの奇行についてメイドや執事が告げ口をしていたかもしれない。
だが公爵夫妻が帰宅する前にことは起きる。半時もしない内にコーデリアの顔色がみるみる悪くなり、吐き気をもよおして薬ごと全て吐き出したのだ。
胃の中が空っぽになり吐き気が止まってから、げっそりとしたコーデリアがヴィクトールの部屋に戻る。と、彼女以上にげっそりとしたヴィクトールが寝台から半身を起こしていた。彼は震える唇で残酷な言葉を告げる。
「コーデリア……君は実家に帰った方がいい。今すぐ荷物をまとめるんだ」
「! 何故ですか!?」
「おそらくこれは母上の罠だ。君が悪女と言う噂を聞いて、それを利用するつもりだろう」
「罠……?」
「今日、母上は屋敷にいないだろう? 俺に毒を盛った罪を君になすりつける気だ」
コーデリアの身に稲妻のように衝撃が走る。悪女という不名誉な噂、家に戻ってくるなと言っていた父、話が旨すぎる縁談、不可解な公爵夫人の態度……今までの疑問の全てがぴったりとパズルのように当てはまった。
だが彼女はヴィクトールの言葉を一度は否定する。何故ならコーデリアには納得できない理由があったからだ。
「いいえ、きっと何かの間違いですわ」
ヴィクトールは力なく微笑んだ。全てを諦めたかのように。
「もうあの人は俺が病死するのを待てないらしい。俺が死ねば、弟が公爵家を継げる。母上は俺よりも弟の方を愛しているから……」
再びコーデリアの身に、衝撃が走った。
勿論第一子であるヴィクトールが亡くなれば、それは他の者が家督を継ぐ「特例」になる。けれども彼女は公爵夫人がヴィクトールの命を脅かそうとするなど、先程まで考えたこともなかったのだ。
「そんな……そんな馬鹿なことって! このような罪が許されるわけないわ!」
「こ、コーデリア?」
彼女は両の拳を握り、身体を震わせていた。奥歯を噛み締め、瞳の奥に光がゆらゆらと揺れている。
彼女は今までの人生でこれほどまでに怒りを表に出したことはなかった。自分が虐げられていた時でさえも。
「……だって! 公爵夫人はヴィクトール様の実のお母様じゃないの!?」
その叫びには悲痛なものが混じっていて、ヴィクトールもエバも、他のメイドたちも言葉を失う。
「……」
コーデリアはぐっと唇を嚙むと、くるりと振り向き寝室を出て行った。ヴィクトールの部屋を出たところで、こらえていた涙がぽろりと彼女の頬を転がり落ちる。だがすぐに頬と目を拭い、早足で自室に向かう。
(泣いてはだめ……! 私が泣いたと知ったらヴィクトール様はもっと傷つくわ。一番つらいのは、あの人のはずだもの……)
彼女にとって実の母というのは優しさと愛情の象徴だった。母が生きていた時は愛されていた記憶しかないからだ。
だからこそ、コーデリアの中には半ば諦めのような気持ちがあった。
今まで自分が実家で虐げられてきたのも、この家で公爵夫人に冷たい目で見られるのも、血のつながりのない義母だから仕方ない……という気持ちが。
けれどもヴィクトールは違うのだ。自分を産んだ母親に疎まれ、死を願われている。それがどれだけ残酷な事かと考えるだけでコーデリアの中に怒りの炎と絶望の雨が生まれ、ふたつは絡み合い渦巻き、嵐を作る。その嵐は彼女を突き動かす原動力になった。
彼女は自室に戻ると急いでクローゼットを開けた。伯爵家から持ってきた数少ない嫁入り道具のひとつ、蔓で編んだみすぼらしい籠を手にすると、慌てて追いかけてきたエバに質問をする。
「この近くにすぐ行ける森か林はある? 野草を摘みたいの」
「は、はぁ……ございますが」
「じゃあ案内して。それから後で調理場を貸して! 乳鉢とすりこぎ、あと小鍋も用意してください。ええとそれから……」
「まだございますか?」
「今のお医者様は信用できないわ! 私に一人、当てがあるの。公爵夫人には内緒でその人に手紙を出したいわ。できる?」
「そ、それはできますけれど……コーデリア様、いったい何を?」
エバは今日だけで何度驚いたことだろう。先ほどまでヴィクトールの身に降りかかった理不尽を自分のことのように怒り、涙していたコーデリアはもう気持ちを切り替え、未来を見据えていた。
「ヴィクトール様をきっと治してみせるわ! 今までの私の人生で手に入れたもの、全てをかけて!」