第一話 『私、悪女ですから旦那様を虐げていますの』
全六話のお話です。
今回もシリアス……と見せかけて、最終話だけコメディー要素が少し入っています。
よろしくお願いいたします。
王宮で開催した夜会に若きベルトラン公爵夫人が参加した。
彼女は結婚する前は伯爵令嬢で、家督を継ぎ女伯爵となる予定であった。
しかしその時代から『表』の社交界にはめったに顔を出さない人物だったため、それはそれは驚かれたし、一気に会場の人々の噂の的となった。
ただし、それは悪い噂の的なのだが。注目の人物は「悪女コーデリア」と呼ばれている。
「あれが……」
「初めてお顔を拝見しましたわ。あの派手な見た目はやはり噂通りなのでは……?」
皆は遠巻きにヒソヒソと囁くばかりで、誰も彼女に近寄ろうとしない。
尤も、誰かが彼女に近づこうものなら、横にいる夫……つまり爵位を継いだばかりの若きベルトラン公……が噛みつかんばかりに威嚇しそうな雰囲気だったのだが。
しかし、すらりと均整の取れた身体に豪華なドレスを纏った彼女は美しかった。珍しいオレンジ色の髪は眩いばかりに輝き、そこから後れ毛がこぼれ落ちてかかる項は抜けるように白く、人妻の色気が存分に漂う。
彼女は独身時代には実家のデヴォン伯爵家の財産を食い潰すほどに贅沢三昧をし、更には妹を虐げ、いかがわしい『裏』の社交場で男遊びを繰り返していたそうだ。
挙げ句の果てには妹に来ていたベルトラン公爵家からの縁談を横取りして、公爵令息を籠絡し夫人の座に収まった。が、その夫が家督を継いで公爵となった今でも彼を虐げているという噂である。まさに絵に描いたような悪女ぶりだ。
「ベルトラン公爵夫人、ご機嫌よう。お久しぶりですね」
夫である公爵が王族に呼ばれ、彼女から離れた頃合いで。待っていたとばかりにひとりの男が近づいた。実に軽薄な雰囲気の男性である。
「あら、どちら様でしょうか。私は貴方様とは初対面かと」
コーデリアはにっこりと微笑むが、そこには拒絶の意思が見え隠れしている。男はキザな芝居がかった様子で嘆いてみせた。
「ああ、なんて薄情なひとだ。銀の翼の仮面をお忘れで? あの時貴女は狐の仮面を被っていたが、その夕焼けを思わせる髪は間違いない」
「いいえ間違いですわ。私は銀の翼や狐の仮面どころか、そんなものを身に着けなければならないような集まりそのものに全く覚えがございませんもの」
悪女と呼ばれている女は、今度は笑顔のままハッキリと拒絶を表明し、仮面をつけた男女が戯れる『裏』の社交場との関与を否定した。だが目の前のコーデリアの美しさに魅了された男は引き下がらない。
「もうあれから一年半も経っているからお忘れなのも無理はない。でも僕はあの熱い夜を忘れられないんです」
「……熱い夜だと? リア、俺以外に夜を共にした男が居たのか?」
厳しい声が割って入り、男はびくりとしてからソロソロと声のした方を振り返る。そして情けなくも「ひえっ」と小さな声を漏らした。後ろにいたのは冷たく男を睨む若き公爵。紛れもなくコーデリアの夫、ヴィクトール・ベルトランその人である。
彼の身体はやや細身ではあるが、そこから立ちのぼる殺気はそれだけに鋭く磨かれ、レイピアの剣先を突き付けられているような気分になるほどだ。しかし悪女と呼ばれる女はその殺気を気にもせずコロコロと鈴を転がすような声で笑った。
「ふふふ、嫌だわ旦那様ったら。私が愛するのは貴方だけだとご存知でしょう?」
「君を疑うわけじゃないが、余りにもその無礼な男がしつこいのでね」
「どなたかと私を間違えてらっしゃるのよ。私は何度も人違いと申しましたのに」
コーデリアは美しい微笑みを崩さぬまま、首を傾げた。
「おかしな話でしょう? 私は仮面を身につけるような場に行ったことはないけれど、そういう場でわざわざ本名を名乗る人間がいるものかしら?」
「……だそうだ。どうやらその女は俺の妻の名を騙り、我が公爵家の名に泥を塗るつもりらしいな。お前はその名誉毀損の手伝いをしているわけだが? そんな真似をする人間がどこの馬の骨か、名を聞かせて貰おうか」
ヴィクトールがさらにすごむ。男は今度こそ本当に震え上がった。
「い、いや……申し訳ない。本当に人違いだったようだ。これで失礼する」
そそくさと退散する男に「フン」と一瞥をくれた後、うってかわって温かい眼差しを妻に向けるヴィクトール。
「リア、すまなかった。俺も久しぶりの夜会だったからつい知人に呼ばれて引き留められてしまったが、君を一人にするべきではなかった」
彼は宝物を手にするようにそっと彼女の腰に手を回す。妻はその手に自分の手を重ね、見つめ合い微笑みを返した。
「大丈夫、気にしておりませんわ。でも、もうあんな輩に絡まれないように、今後は旦那様と一緒にいた方がよさそうですわね」
「ああそうしよう。俺の友達に君を紹介しないとな」
「まあ、ふふ。よろしいんですの? 皆様に『これが噂の悪女か!』なんて揶揄われてしまうかもしれませんよ」
彼女は悪戯っぽい、魅力的な笑みを見せる。
「そうなったら『ええ。私、悪女ですから旦那様を虐げていますの』と答えてしまうと思いますわ」
随分と過激な言葉にもかかわらず、ヴィクトールは嬉しそうに答えた。
「勿論。僕はこの妻に毎晩虐げられていると自慢してみせるよ」
二人は仲睦まじく身を寄せ、とても楽しそうに会場を横切って友人の待つテーブルに向かう。
◆◇◆
約一年半前のコーデリアは、今の様子からは想像もできない状況だった。
彼女が住まうのはデヴォン伯爵邸の離れ。離れと言えば聞こえは良いが、本邸の屋敷に比べると随分と格の落ちる建物だった。
彼女はその離れで自ら料理をしている。竈の前に立ち、鍋の中で煮込まれている緑色の葉をじっと見つめていた。その目はややうつろで、橙色の髪は薄汚れてくすみ茶色に見える。
痩せぎすの身体を包むのはドレスではなく、一人でも着られる洗いざらしの粗末なワンピースに、小さなエプロン。
今の彼女はどこから見ても貴族令嬢ではなく、せいぜい貴族に仕える使用人といった風情だ。
当然ながら、仮面を着けて『裏』の社交場で遊びに耽るどころの話ではない。
「ほら、今日の食事だよ!」
ひとりのメイドが食事を運んできた。本当に使用人同士の会話ではないかというほど粗雑な言葉遣いで、コーデリアを敬う心は欠片も感じられない。
ガチャンと激しい音を立ててテーブルに置かれた食事の内容も、固いパンにチーズが少しと、非常に貧しいものだ。
「……」
コーデリアはメイドのでっぷりと肥えた身体をチラリと見た。
「なんだい。伯爵様の用意してくださった食事に文句があるなら捨てちまうよ!」
「いいえ、いいえ。喜んで頂きますわ」
口ではそう言ったが喜んでというのは嘘だ。このメイドは今、食事に文句があるなら捨てると言った。私が食べるではなく。つまり、彼女はもう充分に食事をしているのだ。
恐らくは、もっと良い物である筈のコーデリアの食事を本邸から離れへと運ぶ際に、自分の食事とすり替えているのだろう。
コーデリアは心の中で呟く。
(愚かな人ね……)