隣の席の帰国子女が昔話をするんだが
「レイン・ニーナ・月川です。イギリスに住んでいましたが、親の仕事の都合でこちらへやってきました。どうかよろしくお願いします」
ある日、うちの学校に転校生がやってきた。これがまたとても美人さんなもので、金髪碧眼な美少女の登場にクラス内はどよめき声に溢れた。
そして、たまたま俺――守部智弘の隣が空席だったものだから、転校生の席はそこに決まることとなる。
そこまでは良かったさ、そこまでは。
ただ、休み時間になるたびにクラスメイトがごった返し、月川の席の周りはとても騒がしくなった。
しかしそんな光景は一時的なものでしかなく、彼女が転校してきてからひと月ほど経過したころにはクラスメイトが押しかけてくるということは無くなった。
気付いたらそんな彼女に、俺は気軽に話しかけるような間柄となっていた。
「なあ、月川。こっちに来る前はどこに住んでいたんだ?」
「イギリスよ」
「そうじゃなくてだな……」
「ふふっ、守部くんが言いたいことは分かってるから大丈夫。エレスメア・ポートってところ」
ああ、あそこか。幼かった頃に親父に連れられて行ったことがあるな。
親父は『ネイティブな言語はその土地でしか学べないんだ!』とかよく力説していたが。
「エレスメア・ポートっていうとリバプールの近くの?」
「そうね。……って何で知っているのよ」
「そりゃあれよ。地図アプリで旅行気分を味わったことがあるからな」
「何それ。変わった趣味ね」
嘘です。
そう、嘘をつかなくてはいけない理由があるのだ。
月川は窓の外の景色を眺めながらため息をつく。
「はあ――ヒーローはどこに居るのかしら……。ねえ、守部くん。ヒーローって名前は日本じゃ一般的じゃないの?」
「俺が知る限り一般的ではない」
「そうなんだ。あのね。昔の話になるんだけど、一時期私と良く遊んでいた男の子がいてね。その男の子は自分の名前はヒーローだって言ってたの」
出たよ、この話。
「耳にタコが出来るほど聞いた」
「いいじゃない、話し相手になってよ。それでね、彼は日本っていう国から旅行に来たって話をしていてね――」
あまりにも楽しそうに話すものだから、話を遮ることを躊躇してしまった。
楽しそうに話すのはいいよ? そのヒーローくんとの思い出がとても大事なんだろう。
だけどな、そのヒーローって名前の日本人の男の子、俺なんだよ。
◇
時は遡ること数年前。
まだ小学生だった俺は親父に連れられてイギリスのエレスメア・ポートという地に来ていた。
なんでも親父の古い友人がこの地で働いていて、その友人に会いたくなったからやってきたというのが一つ目の目的。
では二つ目の目的が何かというと、俺の英語力向上だ。
物心がついた時には親父は外資系の会社で働いていて、母はOLをやっていた。
そんな共働きの家庭が抱える問題が、『昼間子供をどうするか』というものである。
一般常識で考えれば保育所や幼稚園に預けるのが普通だろう。
だが親父はそうしなかった。
あの親父、あろうことか当時三歳の俺を自分の会社に連れて行きやがった。
で、親の同僚はこう言ったわけ。『ワーオ! なんて可愛らしい子なんだ!』と。
まさかの会社総出で幼児受け入れ態勢である。
この会社、日本語だけではなく当たり前のように英語が飛び交う。
そんな場所で幼少期より英語の英才教育を受けた俺がどうなったかというと、日本語も英語も話せるバイリンガル少年となった。
その生活は俺が小学生になるまで続いた。
親父が務める外資系企業から独立して会社を興した人物がエレスメア・ポートに居たって訳。
その親父曰く、いつか彼に会いに行こうと考えていたらしい。
そして俺の語学留学も兼ねたそれはとある出会いをきっかけとし、転機を迎える。
『いたっ!』
ホテルにチェックインするために移動していた俺と親父だが、公園の前を通りかかったところでそんな悲痛な声が聞こえてきた。
公園で遊んでいた女の子が転んでしまったらしい。
「智弘。困っている人がいたら、どうすべきだと思う?」
「助ける」
「そうだ。お前は良い子だ。よし、行ってこい!」
親父に背を押されながら、俺は蓋を開けていないミネラルウォーターを片手に彼女に近寄る。
『大丈夫?』
『……大丈夫』
女の子は涙目になりながらも立ち上がる。
だが勢いよく転んでしまったようで、案の定膝には擦り傷が出来ていた。
その擦り傷を見た俺はペットボトルのキャップを開ける。
『ちょっと痛むかもしれないけど、手当てするから……じっとしてて』
『うん』
彼女は手で涙をぬぐいながら、懸命に痛みをこらえる。
俺が傷口を水でゆすぎ、異物を洗い流してあげたところで傷の処置は完了となった。
「これでよし、と」
「あ、にほんご」
俺の独り言に彼女が日本語で返事をした。
まさかイギリスの公園で日本語を聞けるとは思いもしなかった。
「君、日本語話せるの?」
「ちょっとだけ。おとうさん、にほんじんだから」
日本語を話せるのは本当にちょっとだけらしい。
だから俺は彼女が話しやすいように英語で話すことに決めた。
『英語の方が話しやすそうだし、こっちで話そう。俺、智弘っていうんだ。君は?』
『私はレイン。ト、トゥー……トゥーモヒーロゥ……。なんか言いにくいよ』
『じゃあヒーロゥでいいよ』
『それならヒーローって呼ぼうかな。そっちの方が呼びやすいし』
ということで俺の呼び名はヒーローに決まった。
夏休みを利用したその旅行では、当初はイギリス各地を回ると親父は計画していたらしい。
だがその少女との出会いを機にその計画は破綻し、親父はエレスメア・ポートに三週間滞在することを決めたのだとか。
一方で、ヒーローこと俺とレインの仲は着実に良くなっていった。
黒歴史を何個か作った気もするが、それは見て見ぬふりをする。
そんな幼き日の思い出を月川はまだ思い出せないようだった。
当時はまだ日本語が堪能ではなかったというのが大きいのだろうが。
◇
「――でね、そのヒーローはこう言ってくれたの。『また何かあったら俺が助けに来るから』って」
おいやめろ! 俺の黒歴史を掘り起こすんじゃない!
確かにあの時そう言ったさ、格好つけたいお年頃だったんだよ。
「でね、彼は私の家に来たこともあるんだけど、パパとママに気に入られちゃって……婿に来ないか? なんて言われたりもしていたわね」
「そうっすか……」
もうやめてくれ! でも彼女になんて説明したらいいのか分からない!
自分で言ってて恥ずかしくなってきたのか、月川の頬は赤みを帯びていた。
恥ずかしいならもうこの話題、やめにしようぜ……。
俺のライフもそろそろ持たない時が来ている。
そんな俺の意図を汲み取ってくれたのか、授業の開始を知らせるチャイムが教室中に鳴り響いた。
四時限目は英語。授業は滞りなく進む。
カッカッという黒板にチョークが当てられる音を聞きながら、俺はノートにそれらを書き写す。
「では……そうですね、月川さん。この文を読み上げてください」
「はい」
凛とした声で返事をした月川は立ち上がる。
『老人は言いました、”この箱の中には夢が詰まっている。しかし開けてはいけないよ。もし開けてしまったら、その夢は一生叶わなくなる”と』
「はい、ありがとうございます。発音が素晴らしいですね。では次の文章を……守部君、読んでください」
「はい」
まさかの俺指名か。英語担当の星先生は普段なら俺を指名しないんだけどな。
『老人は杖を持ち、少年の額に杖の先を当てました。”なあに、君なら夢を叶えられる。他の人に見つからないように鍵を大事に保管することだね”と老人は言い残し、店の奥へと進み、姿を消しました』
「ありがとうございます。守部君も月川さんに負けず劣らず、素晴らしい発音でした」
つまり俺は月川への当てつけか。
日本にもこれだけペラペラと英語を話せる青年がいることを見せつけたかったのだろう。
「……守部くんの英語、イギリス訛り」
そう呟く月川。
やばい。俺の第六感が警鐘を鳴らす。
下手したら俺がヒーローだとバレてしまうかもしれない。
「智弘、トゥーモヒーロゥ、ヒーロー……」
月川は顔を赤くしながらこちらをチラチラと見てくる。
もう駄目だ。ばれてますねこれ……。
◇
で、多分正体がばれたであろうヒーローくんこと俺と月川の関係性がどうなったのかというと――
「でね、そのヒーローは私をいじめてくる男の子たちを撃退してくれて、こう言ってくれたの。『お前ら、それでも男なのか? こんなかわいい女の子をいじめるとかありえねー』って」
「その少年は純粋な子ナンダナー」
「あら、話が分かるのね。守部くんとは仲良くできそう。その後彼はこう言ったの。『好きな子には優しくしろよな。俺ならそうするし、もうそうしてる』って」
「月川さぁ……お前なあ……」
話を聞いてぐったりしている俺を見ながら、月川のやつはニヤニヤしながらそう言う。
俺が正体を隠してたって事実を理解しても、彼女は怒りもせずに対話をしてくる。
それだけで少なからず好意を持たれているということが分かる。
ただ昔のことを持ち出してはからかってくるのは勘弁してほしいが。
『ねえ、昔みたいにレインって呼んでくれないの?』
彼女はそんなことを英語で問いかけてきた。
『何故英語で話す』
『懐かしいからかな? あとクラスメイトに話の内容がばれないようにしたいし』
目を細めながらこちらを眺める彼女。
『やっぱヒーローの件、ばれてる?』
『それはもう』
『そっか。名前呼びかあ……どうすっかな』
月川は椅子ごとこちらに近寄ってきて、俺の目をじっと見つめる。
まだ少年と少女だったあの時とはもう違うんだけどな……。
それを皆まで言わなくても彼女も理解しているだろう。
だがやられっぱなしというのも納得できない。
ここは一発やり返してやるか。
「そうだなこれからは月川のことを名前で呼ぶことにするよ。昔のように仲良くしようぜ、レイン!」
クラスメイトの大半がこちらを向いた。
それもそのはず。この発言、敢えての日本語である。
「なっ、ななななな……!」
やってやったぜ。