2 厭な男
泥のように眠った後、男が目覚めたのは夕方だった。寝たのに疲れたという不条理を感じながらも、男はベッドからもそもそと這い出て靴を履いた。近頃は室内用と外出用で靴を使い分けていた男だったが、昨晩は習慣になりかけていたそれを忘れてベッドに潜り込んだらしい。
「……はぁ」
室内を綺麗に使おうと思っていたのにこれでは掃除が必要だ。溜め息とは裏腹な淡々とした所作で、一人床の足跡を拭き取る。玄関からベッドまで一直線に伸びた薄い足跡を全て落とした頃、茫としていた頭がようやく目覚め始めた。
「ん……あぁ……」
手に持っていた雑巾を床に放り投げ、これでもかという程に体を伸ばす。体に血が巡り、心なしか体温が上がったように感じると、男は自分が昨夕から何も食べていないことを思い出した。腹の虫もその自覚に同調して囀る。
(何か食べ物、パンがあるか)
テーブル上のバスケットをのぞき込むと、一食分程度はあるだろうかという量の食パンが残っていた。男にとっての朝食が決まると、もう薄いそれを更にぺらぺらの二枚に切り分け、キッチンのフライパンでトーストにする。
(今日はジャムの日か)
昨日はバターと卵の日だったことを思い出す。となれば今日はジャムの日だろうと雑に考えてテーブル上の瓶を開けると、スプーンで掬ってトーストの上に塗り伸ばした。
まだ熱いそれを手に取ると口を小さく開け、小動物のようにパンを噛み千切って咀嚼していく。サクサクとした音が室内に溶け、口内では音に違わない心地の良い食感とジャムの甘酸っぱさが満ちる。
長くはない時間で薄っぺらい二切れを食べ終えると、しかし男の空腹はより強く自覚できるものとなった。半端に食べたせいか、腹の虫はぐるぐると低く唸っている。
(……買い物に行こう)
男は胃の辺りをさすりながら立ち上がり、手早く支度をすると部屋を出た。外は今朝よりは暖かく、雪はもう止んでいた。玄関の目の前にある階段に足を掛けると、今朝の記憶がふと蘇る。
(そういえば、親切な子供に助けられたんだった)
階段を降り、少年が手を振っていた位置を通り過ぎる。少年の顔を思い出そうとするが、男はそれを上手く思い出せなった。声だけはしっかりと思い出せたが、その姿かたちはどこか朧となっている。
考えながら数分、少年に助けられた時よりも遥かに速い速度で歩くと、あっという間にいつもの商店街へと到着した。店はどれもやや寂れており、お世辞にも栄えているようには見えなかった。
男はいくつかの店を巡り食料や日用品などを購入した。片手で持てる量の荷物を紙袋に抱え、必要なものはもうないとばかりに帰路を向く。と、先程食べたパンで、もう自宅には主食が無いことを思い出した。
(米は手間が掛かるし、今回もパンにしておこう)
男は振り返ると商店街の奥へと足を伸ばし、目当てのパン屋が休日なのを確認すると軽く落胆した。今日からしばらくは米かと内心で言ちりながらも、足は米屋に向かう。
一直線に伸びた商店街の左側から右側へ。時間を気にせず悠々と歩く男は、どこか薄暗く治安の悪そうな商店街を散歩するように歩く。いつもなら行かない店に行ってみようかとか、利用してみたいが値段が気になる飲食店があるだとか、なんとなくやってみたいという気持ちを頭の片隅に置く。どうせ実現はしないだろうとも思っていたが、それはそれ。想像することは楽しいのである。
そうこうしている内、男は米屋の前に到着した。黄色いもの、やや黒いものや赤いものなど、いくつかの品種が売られている。
(欲を言うなら白いものがいい)
店主の視線を受けながら品ぞろえを眺める。価格は男の財布に対して余裕のあるものだったが、男は米というもの自体があまり好きではなかった。炊き上がるまでに手間も時間もかかる。まだまだ体の疲れを自認する男にとって、そのマイナスは小さいものではなかった。味や食感は好きだが、簡便性に欠けるといった印象だったのである。
一分程度悩んだ末、男は考えることが面倒臭くなった。複数ある白く丸みを帯びた米の中から一番安いものを数日分購入すると、男は持ち手付きの袋に入った米を受け取った。元々持っていた紙袋とそれをまとめて左手に抱えると、今度こそと足は帰路を向く。
(意外と安くついたな。米もいいかもしれない)
顎に指を添えて一考する。炊く手間こそあるものの、パンを買うよりは遥かにリーズナブルだった。
(そういえば、今年は小麦が不作だとか店長が言っていた)
米が安いのではなくパンが高いのだと男は納得した。いずれにせよ、安上がりなのはいいことだ。予算設定をしていたわけではないが、思っていたより金が余っている。起き抜けに食べたトーストの少なさを思い出すと、男は何かすぐに食べられるものはないだろうかと周りを見渡しながら歩を進めた。
(……米、炊くか)
何度か荷物を逆の手に持ち替える程の距離を歩き、商店街の入り口付近に戻ってきた頃になってようやく、食指を刺激しない商店街の並びに我慢を覚悟した男だったが、その時、視界の隅に小さなパン屋を見つけた。先程見た、休みの店とは異なる店だった。
(……最近できた店か?)
小さな店だったがよい香りをさせている。焼きたてのパンが売られているのだろうことが察せられると、男はそれに吸い寄せられていった。
店を覗くと色艶の良いパンが綺麗に陳列されていた。男はその中から丸く大きいものを一つ選び思っていたより高い金額で購入すると、待ちかねたとばかりにそれを齧って歩き出した。
(うまい……)
焼きたての香りはもちろん、空腹、疲れ、様々なものが男の味覚を刺激していた。口内は様々な感覚によって満たされていたが、男はグルメというわけでもない。それらを集約した感想が、頭の中にただただ響いていく。
(うん、また買おう)
利用するパン屋はあそこになるだろう。男は休日だった店に心の中で詫び、家路を歩きつつ残りの半分に口を付け始めた。
舌鼓を打ちつつの家路を歩いていると男は妙なものを視界に認めた。やや大きめの一軒家。おそらく捨てられたのだろうか。廃墟となっているそこには何人かの人影が見えている。
人影達は窓から男をじっと見つめていた。男は怪しげなそれに怯えながらも、ちらりと視線を遣る。女、子供、老人。若い男はいなかった。
(難民か。この前の小競り合いから逃げてきたんだろうか)
男は予想を立てるが、それが正しいと確信する術もない。視線を正面に戻すと、男は速やかに歩き去った。さして時間もかからず集合住宅に帰ってくると、男は胸の内に奇妙な感覚を覚えていたことに気付く。
(なんだ。この感覚。……高揚している?)
自覚したそれの正体はわからなかった。いつ抱いたものなのかさえ覚えがない。どこかふわふわとしていて、気持ちの良い感覚だった。米を冷たい水で洗いつつ、男は考え込む。
(わからないな。初めての感覚だ)
結局男は洗った米を水に浸して数分経った後も、その奇妙な感覚について何かを掴むことがなかった。米の浸水が終わるまでの約一時間、言葉にできない高揚感について考え通すことになる。
(今の段階ではわからないな。考えても詮が無い)
結論づけると、男は米を鍋へ移して火にかけた。空腹を覚えていないことに気付くと、男は炊き始めた米を見て溜息を一つ吐いた。
その日は夕方まで眠っていた男だったが、まだまだ疲れは残っていたらしい。炊き上がった米を主食に遅い夕食を食べてベッドで横になっていると、男は知らず、朝まで眠ってしまっていた。
男はよく寝たとばかりに体を伸ばすと、身支度を整えて仕事に出た。町の飲み屋で働く男の出勤時間は日によって大きく異なる。朝から仕入れや仕込みを行う日もあれば、夜のピークタイムにのみ出勤する日もある。今日は前者であった。
朝からの出勤は久々だった男だが、夜よりは楽な仕事だと思っていた。量が多くともやればやるだけ進む仕事が合っている。そう自認していた男にとって、朝の仕事は重労働ではなかった。
仕事を手早く済ませた夕方前の帰り道。男は昨日食べたパンの味が忘れられず、再度その店を訪れた。買い置き用の食パンを一斤、加えて間食用に小さなものを購入すると、男は昨日と同じようにそれを食べ歩いた。
(昨日の感覚は、ないか)
パンが美味かったから高揚感を覚えたのではないか。その予想は外れる形となった。他に何か心当たりがあったわけでもなかった男は、心地の良い高揚感をもう一度感じたいと思いつつも、その正体が一日経った今も掴めずにいた。
男の足は廃墟の前に差し掛かる。そこには昨日と同じように、男をじっと見つめる視線がいくつかあった。それを感じると煩わしいとばかりに男は歩を速めた。パンを齧りながら廃墟を通り過ぎた頃、またも奇妙な感覚を覚える。
(昨日の感覚と同じだ。……なんだろうか、気分がいい)
どこか浮ついたそれの正体は、男にはまだわからなかった。
それから毎日、男は同じように廃墟の前でパンを食べた。時にはゆっくりと、時には急ぎ足で。高揚感は日に日に自覚できるものとなっていく。言語化できない、自らの語彙にないその感覚は日に日に大きくなってきていた。
そんなことを数日繰り返してようやく、男は難民達の視線の先に気付いた。それは自身ではなく、持っている荷物や食べているパンだった。
(欲しいんだろうか。いや、当然か)
難民は当然貧している。廃墟に寄り集まって暮らしているのだから、その暮らしぶりはまともとはかけ離れているだろう。男は頭の中で難民と自分の暮らしを比較する。
(俺は、どうだろう。まともに暮らせているだろうか)
労働、少ない給料、よくなる見込みのない暮らし。だが、安定だけはしている。それは普遍的で、町どころか国民全員が欲しているものをいくつか含んでいる。満たされてはいないが、生きていく上で困ることもない。
廃墟が横から後ろに流れていく間際、男はちらりと難民に目を向けた。目が合うと顔を背ける彼らに、男の感情はどこか波立つ。それは暗い感情であったが、怒りとも悲しみともつかない。が、その正体を掴もうとする程、胸の内は高く鼓動する。
廃墟の半ば程を過ぎた足を少しだけ緩める。見せつけるようにパンを一口齧る。男には自分が滑稽に思えた。何をしているのだろう。くだらないことをしている。パンなんて、少し金を出せば誰でも買える。そんなものを見せ付けて何になるというのか。それでも男はその衝動に抗わなかった。
(俺は飢えていない。もう飢えない)
男は安心感を逃がさないとばかりにパンを嚥下する。いや、もっと深い感覚だろう。安心感というよりも、安全な場所に自分だけがいるというより深い安堵。男はそれを覚えると、自分が感じたことの無い強烈な高鳴りを覚えた。
(これは……)
男は更に歩幅を狭める。難民達によく見えるようにパンを持ち替え、大きく頬張った。小麦とバターの味わいを感じつつもその口角は僅かに上がる。
「ふふ……っ」
くすりと笑い声が漏れる。男はもう自分の感情を理解していた。それを享受することに行動の全ては向けられている。
(いい、気分だ……)
腹の底に暗く重い物が澱んでいく。それが大きくなる程、胸に満ちるそれも激しくなっていく。
(たかがパンを食べてるだけ……それだけなのにどうしてこうも……)
鼓動は強くなっていく。呼吸が短く激しくなる。足元もどこか不安定だ。ふわふわとした感覚が身を包み、頭の中も沸騰している。
ぼんやりとした視界と思考で、男はその感覚を言語化した。
(わかった。これは優越感だ……)
男は自分の感情を今度こそ理解すると、僅かに上がった口角を更に釣り上げた。それを誤魔化すように小さくなったパンを口に放り込んで咀嚼すると、通り過ぎる寸前の廃墟を見遣る。
(はは、まだ見てる……)
襤褸を着た難民達の視線は男の口元だった。紙一重でぶつからない視線にすら男は優越感を感じ、やがて壁が彼らを隠すと、男は誰にも見られていないことを自覚して醜く笑った。