15 男二人
二人の距離はアトレの歩幅で四歩。バルのそれでは四歩と少しと言ったところ。間合いに入るまではあと二歩と少しもあればいい。言うまでもなく、バルの短剣よりもアトレの長剣は広い間合いを持つ。距離の戦いは、得物の差からアトレに優勢であった。
(……左手は何をしている。攻撃に弱い半身で何をするつもりだ)
アトレは筋力を増強する魔法を発動して少し経つ。常人を大きく超えた力は、朝に騎士を名乗る荒くれ達と戦った時に見せつけた通りである。傭兵の体全体から薄く漏れる青い残影に、バルも身の危険をよく理解していた。
魔法以外を取り、見えている情報だけを考えても、バルにとってアトレはいくつもの面で不利を冠する。体力は若さに叶う理由もなく、得物の長さは倍以上。間合いの戦いでは勝てないことなど、最初から分かり切っている。当然それらの事実はアトレも理解するところであった。
(体力、間合いはこちらが有利。長引かせる程向こうは疲弊する)
だが、バルの構えにそういった気負いは見られない。悠然とアトレを待ち受けるように見える。
アトレの学んだ技法に依れば、バルの取る半身の構えは護身において優れるという。いくつかその理由はあるが、構え自体が攻防のバランスに秀でるものとなっているからだ。
斜めに構えた体は、相手から見れば近い半身と遠い半身に別れる。遠い側への攻撃は難しく、近い側への攻撃は、それを許す箇所が少ないため難しい。
(馬鹿正直に突っ込めばあの短剣に刺されて終わり)
アトレの構えは上段。右肩に片手で担ぐようなそれは、多くの剣士にとって最も体重の乗る一撃を放てる構えだった。踏み込み、体を回し、腕を振る。この構えから想定され、そして許される攻撃はこれだけだった。
バルに体力はない。当然筋力も衰えを見せている。その証拠と言わんばかりに、構えて数十秒しか経たない短剣がゆらゆらと揺れ始めている。緊張からだろう、涼しい季節にも拘わらず汗すら浮かべていた。
「来ないのなら、こちらから」
待ちかねたのだろうか。バルは余裕のない表情を浮かべると、アトレに向かって僅か半歩を踏み出した。間合いの勝負は依然としてアトレが有利なままだ。
(規則正しい。リズムだろうか)
揺れている短剣にいつの間にか一定のリズムが添えられていた。ゆっくりと左右に振られるそれは、まるで指揮棒のようでもある。
(いち、に、いち、に……)
リズムは呼吸と同じタイミングで調べを奏でていく。左に行けばバルが息を吸い、右に行くとそれを吐く。一定のわかりやすい周期は、転ずればバルの攻撃がその呼吸に合わせて行われることを意味していた。
(いち、に、いち……)
頭の中で次のリズムが取られた瞬間、
「―――っ!」
鋭く空気が吐き出されると共に、予想を裏切らないバルの姿が迫る。体重が前へ乗り、身を迫らせる動きだ。
だが、そうするだろうということが分からないアトレではなかった。タイミングを合わせ、肩に担いだ得物を何もない場所へと振り下ろす。
それはバルが踏み込み、短い得物で自身を攻撃する場合に最適な位置へ目掛けた攻撃。得物の長さはアトレの方が上。バルが先手を取ろうと、攻撃自体は踏み込まねば成立しない。ならば、アトレは攻撃を置いておくだけでよい。
アトレのそれはブラドが行った攻撃と同種の攻撃だった。だからだろうか。
(なっ!)
振り下ろされた長剣は空を切る。敗者と同種の剣。それは当然のように空気を揺らし、振り抜かれたアトレの切先は土を裂いて埋まる。その致命的な隙は見逃されることがなかった。
「射る……ッ!」
バルは踏み込んだと見せかけ、元の位置に立ったままだった。だが、変わったところが二つだけある。一つは腕を伸ばした構えから畳んだものになっていること。もう一つは短剣に魔力の色が淡く浮いていること。無論、その位置からではアトレへ攻撃は届かない。バルが全力で短剣を突き出しても、アトレにはその先端すら及ばないだろう。
(まずい……!)
しかし、アトレが感じたのは危機感だった。それも、判断を間違えれば命が消えると確信する程度の。
(避け、いや、防いで……!)
思考が浮かぶも、それはもう遅い。地面に埋まった剣を引き抜いて防御に備えるか、それとも剣を手放してでも回避に専念するか。そのいずれをも考える時間すらバルは与えなかった。
バルが素早く足を前に押し滑らせる。同時、畳まれた腕が勢いよく伸ばされると、釘のような刺突剣は自身の長さを遥かに超え、勢いよくその切先を伸ばしててアトレへと迫る。短剣は瞬きの内にアトレの長剣をも凌ぐ長さへとなった。それは更に細く伸び続け、アトレの首元へ殺しを与えるべく迫っていく。
それは”昼の流星”と呼ばれる、戦場の伝説の一つ。最小限度の傷で相手を殺傷する、かつて死神の光とも呼ばれた元騎士バル・テットの奥義であった。
「ぐ、あああっ!」
射かけられた矢のように伸び迫る剣先が首を狙うものであると悟ると、アトレは咄嗟に剣を離し、無理な体勢から地面で転がってそれを何とか避け切った。常人であれば筋肉が断裂するような体の使い方は、アトレの魔法で筋力が増強されているが故に叶ったものである。
空を貫いた銀の矢は、バルが手を引くと同時、見えない程の速度でその長さを戻す。槍よりも長いそれは元の長さへ戻ると、未だ地に膝を付くアトレにもう一度狙いを付ける。
「ふっ!」
二度、三度。それらはバルの宣言通り射るような速さでアトレの青い残影を追う。庭を駆け屋敷の壁を跳んでそれを避けるアトレだが、回避自体はギリギリと言ってよい。あと一瞬でも遅ければ体を掠める程にバルの攻撃はすぐそこに迫っていた。
空を貫く音がアトレの耳元に幾度か届く。魔法により強化された脚力で駆けるアトレだが、それでもその着弾は身を裂きかねない程に近い距離だ。強化した脚力でそれらを何とか躱し切ると、アトレは庭の生垣に身を隠して射手の目から逃れる。
(さすがに見えない的には当てられないようだ)
止んだ攻撃に安堵するが、状況は油断を許すものではない。間合いの勝負は惨敗であった。早ければその一合で決着したものを、考慮の埒外から飛んでくる例外によって潰された結果となったのである。
(あの伸びる剣、見てからはきっと避けられない)
自分の剣は未だ最初の攻防をした場所に刺さっている。わざわざ取りに行くなどすれば射殺されるのが落ちだろう。だが、じっくりと考えている暇もない。
「鼠のように逃げ回るのがお得意なようで」
挑発のような文句だが、その顔に一切の油断が見られない。むしろその狙いは相手に自信が油断していると思わせるためのものだった。アトレが無思慮に挑発に乗れば、狙いは瞬時に合わされてその体に風穴が開くことだろう。
アトレもバルと同様に油断なくその意図を察すると、音を立てないよう生垣の隅に歩み寄る。
(魔法、挑発、初手の騙し討ち。できることは全部やるという風だな。どうしても勝ちたいらしい)
背の高い生垣は、アトレであっても飛び越すことは叶わないだろう。バルはその端から出てくるであろうアトレに狙いを定めつつ、そちらとは逆、アトレが生垣に入り込んだ方の端へじりじりと歩を進める。照準で逃げ場を潰しつつ、裏切られた予想へは自身で対処する。
殺しもしない足音は、タイミングを見計らっての奇襲に対する自信だろうか。アトレは草花を踏み潰すそれが少しずつ近付くのを感じる。
(逃げれば狙い撃ち。戻れば多分、得物を伸ばさずに接近戦になるだけだろうか)
そうなったとしても、純粋な馬力勝負ではアトレに分がある。魔法で筋力を強めていなくとも、若さをはじめとした肉体的アドバンテージはバルにはないものだった。
現状、武器もなく逃げ回るアトレは、狩りの標的と言っても間違いではないものだった。が、対抗し得る武器があるとすれば、それはおそらく体力だった。
(だが、負けないだけなら屋敷に入ればいい。中に刃物の一つでもあるだろうし)
その発想はしかし、アトレの信条に引っかかった。傭兵は頼まれた分だけを助ける。そして今回の依頼者は、戦っている相手本人だった。
(………屋敷を傷付けたくない、か)
バルは確かにそう言ってアトレを庭へ誘った。今までに行われた攻撃も、思い返せば屋敷には当たらないように繰り出されていた。
(傭兵は、頼まれた分だけを助ける。……必ず)
アトレは何かを心に決めると、バルが訪れるであろう方、生垣に隠れ入った方の端へと、体勢低く駆け出した。
(屋敷は依頼人の弱点だが、同時に守るべきものでもあるらしい)
人とは思えない程の速度でそこに到着すると、足音はすぐ近くにまで迫っている。だがアトレは足を止めず、低い体勢を維持して生垣の端から飛び出した。
(こちらの足音も聞こえているはずだ。隠れ潜むよりも……!)
バルの目からはアトレが眼前に飛び出したようにしか見えなかっただろう。それは正しいが、アトレは遠くから勢いをつけ、速度の乗った状態で飛び出したのである。単にそうするより、その速度は大幅に速い。
(こちらから出てきたのなら話は早い。魔法を使わず、接近戦で仕留めるまで!)
無論、得物を持つバルの方が接近戦においても利を有する。逃げられたとしてもその背中を射抜けばよい。バルの考え方はそのようなものだった。そして、有利であれば必ず勝てると思い上がっていた。
(若い……。直線的だ。だからこそ、死ぬ)
バルは若きから勤め上げた元騎士として、アトレの行動に妥当性を与え続けた。規則正しく揺れ動いた短剣も、アトレへと近付く足跡も、アトレの行動を誘発させるものでしかなかった。
(リズムを与えればそれに乗り、足音を与えればこちらに引き寄せられる。愚直で美しく……若い!)
飛び出しに応え、短剣は伸ばされることもなく眼前のアトレへ突き出される。釘のようなそれは、この場においては断罪の杭だろうか。だとすればバルが言ったように、アトレには許されない罪があるのだろう。
アトレはその先端の軌道を大方見込んではいたが、だからといって手でいなすような達人芸ができるわけではない。それほどの才能も研鑽も持ち合わせていないアトレに出来ることは、その攻撃に向かっていくことだけだった。
(愚直。死に様だけは評価しよう)
バルがアトレを若いと評するならば、アトレもまたバルを評していた。自分の行動を制御したがる老人だと。
(あんたにとって俺は若い。直線的に出てくると、いや、俺の心理さえ見越してこの展開を予想しただろう。奇襲があるかもしれないと)
奇襲を狙うなら、通常それは相手に対し優位な状況を作り出すために行うものだ。だが、アトレのそれは相手に気取られていた以上、単に飛び出しただけとなる。だが、その勢いバルの予想を遥かに上回った。
落ちる星のようにアトレへ迫った短剣は、持ち主の脇を抜けた敵の背を僅かに削る。皮鎧の背当てを深く抉ると、そこからは鮮血が飛び散った。
「グッ」
アトレは痛みに短く唸ったが、構わず老執事の背に駆け抜けた。
バルは攻撃に繰り出した手を払いながら敵がいるはずの背を向く。だがそこには誰もいない。風となって駆け抜けたアトレは、既に自分の得物に達していた。
アトレが勢いに任せて地面に刺さった剣を強引に抜き抜くまでの約一秒。バルは攻撃に流れた体をようやく立て直すと、こちらに向かい来るアトレを捕捉した。
(またも馬鹿正直に……!)
正面から真っ直ぐにバルを目指すアトレは、しかしバルがそれを認識すると同時に肉薄した。その速度は生垣を飛び出した時よりも尚早い。咄嗟に短剣を突き出すがそれは外れ、後退りしながら何度そうしても、バルはアトレを捉えきれない。
「外すのが上手いようだ」
挑発し返すアトレに、幾度も攻撃を外し続けたバルはとうとう冷静さを失った。声なき咆哮を上げながらアトレへ闇雲な攻撃を繰り返す。身体を強化し、見てからでもそれを避けれられる程度の反応速度を持ったアトレにとって、老人の剣は止まってすら見えただろう。
繰り出し続けられるバルの攻撃から一つを選んで、アトレはその得物を高く跳ね上げた。強烈な一撃に、バルの右手から短剣は弾かれる。弧を描き花壇にそれが突き刺さるまでのわずかな間、バルはしかし勝機を諦めていなかった。
「若造がァッ!」
アトレの振り上げた剣に対し、バルは左腕を構える。明らかな防御の構え。だがアトレの脳はそれに警鐘を鳴らした。バルの声が明らかに攻撃的な色を見せていた上、構えられた腕は魔力に淡く光っていたからだ。
が、剣を振り下ろし始めていたアトレは、危険を感じつつも攻撃を強行する。体はもう止まらない。止めようとして止まる状態を逸している。ならば、もうそれを振り切るしかない。
剣が振り切られる直前、バルの構えられた左腕、袖の中に隠された篭手から銀の棘が生えている。短剣と同様の魔法で無数に伸びたそれは確かな殺傷力を有し、そして空を裂く程の勢いでアトレへと短く伸びる。
「ッ、ああァッ!」
アトレは咄嗟に剣を寝かし、勢いのままに幾本かの棘を叩き砕いた。が、幾条にも伸びるそれは、無謀な攻撃をしたアトレの体を当然とばかりに貫いていく。腹に、肩に、腹に、小さな風穴をいくつも開けていき、それらが腕へ引き抜かれれば、流れ出た血が庭を汚す。
「浅いか……!」
だが、それらの傷はどれも小さく浅い。傷こそ多いが流血は僅かで、精々皮膚を突き破った程度だろう。しかしアトレの攻撃を防いだという事実は変わらない。
アトレは突然の攻撃に勢いを失い、その場でたたらを踏んだ。浅いといっても傷は多い。行動に支障が出るのは当然と言うべきだった。
再度優勢が入れ替わるその隙に、バルは戦闘前にそうしてみせたように、右手の袖から滑り出たもう一本の短剣を手に収ると、目の前の敵に向かって力のままに突き出した。
「シィッ!」
今度こそ避けられない。隙の最中を狙い撃つ攻撃だ。必殺の一撃は必ず命中する。外す道理はまるでない。だからこそ駆け引きはもう必要ない。正面から真っ直ぐに、バルの攻撃はアトレへと伸びる。
(勝った……!お嬢様……!)
必勝の祈願は、自ら害したその人に捧げられる。想像の中の人物は微笑んでそれを迎え入れた。
「ッ!」
だが、その人物が微笑んでいたのは、眼前の敵にではなかったか。バルはそれを失念していた。重い金属音と共に、自身の腕が弾かれていくのを感じる。
繰り出した必殺必中の攻撃はしかし、右手一本で乱雑に振られた長剣によって武器ごと弾かれた。飛ばされた二本目の剣は生垣に埋まり、そしてバルに三本目の用意はなかった。
横に弾かれた腕につられてバルの体は流され、そして左腕の防御が間に合う状況でもない。攻撃に全力を傾けた体勢をすぐに戻せるほどバルの体は靱くなかった。
「おおおお!」
アトレの空いたもう片方の手が伸び、その拳が迫る。青い残光を伴うそれは魔法が健在であることを示している。まともに食らえば無事では済まないだろう。死に至る可能性すらあった。
必中の攻撃を外したバルは、今度は体の操縦もままならないまま大きな隙を晒し、返される必中のそれに相対する。
(死ねない、負けたくない……!私はまだ……ッ!)
―――あなたのことは好きよ。
一瞬の後に待つ敗北。その間際に過ったのはいつの記憶だろうか。
―――男として愛してくれているのでしょう?
二つの声があった。片方は自覚無き気持ちへの返答で、もう片方は恐らく叶わぬと諦めた慕情へのものだった。
(負けられない。負けたくない。この気持ちを失いたくない!!)
半ば諦めを見せたバルの心は、それら二つを思うと燃えるように熱を増していく。
(動く……!動け!)
心に呼応されたように体も熱を帯びていく。強引に動かそうとする体は痛み、ぶちぶちと音を立てて筋肉が千切れていく。だが、攻撃の勢いが残る体は動き出していく。
「ッゥォオオアアッ!!」
体を限界まで酷使し、捩じり、転がり、バルは迫り来る拳を何とか躱す。腰、右腕、そして軸となっていた右脚の筋肉の痛みに耐えつつ、バルはしかし立ち上がってみせた。
「ハァッ、ハァーッ……」
苦悶に表情を歪めながらも息荒く立ち上がる姿は、とても戦えるように見えない。アトレは剣を納めると、勝負あったと言うように語り掛けた。
「……もう、終わりだ」
「何を言っている……。まだ、まだ動く!」
言いながら、バルは手落した武器すらも持たずアトレへ一歩進み寄る。右足の踏ん張りが効かず、体はふらふらと壁へもたれかかった。
「もうやめろ。これ以上は」
「お前が、お前が言うなァッ!」
「……生殺与奪を握っているのはこちらだと思うが」
「黙れ青二才が!まだ、まだだ……!かかってこい!早くかかってこい!!」
アトレが無言で剣を抜いたその時だった。
「じい!もうやめて!」
いつの間にかテラウが一人、庭に立っている。悲痛な表情はバルの身を案じているのだろうか。恐る恐るバルに近寄る表情は、紛れもなく心配のそれだった。
「まだ、やれ……ぐ……」
「もう終わりだ。手足を痛めているのは見ればわかる。無理な体勢で躱したからだろうな」
「私は、これしきでは……!」
言葉の途中でバルはとうとう膝を屈する。耐えきれない痛みが体に走っているのだろう。何度か立ち上がろうとしてみせたが、寄り添ったテラウの手を握るとバルは固まってしまった。
「もうやめて……。こんな意味のない戦いをして、じいに何が残るというのです」
「意味は、私にあればよいのです。お嬢様にはわからないでしょう」
「じい……」
「さあ、下がって。私はもう一度……!」
壁に手をつき、バルは苦悶の表情で立ち上がった。よろよろとアトレへと近付くと、腰の入らない拳でアトレの顔を殴り付ける。が、速度も重さも、意気すら萎えたようにさえ見えるそれはひらりと躱される。自身をさえ支えきれないバルは、短く呻くと再びその場に膝をついた。
「やめろ。もう終わりだ」
「じい、もう、もうやめましょう。あなたを許したいのです。だから……」
「傭兵が、お前も傷だらけではないか……。私が終わりならお前も終わりだろう!」
それはあまりにも暴論だった。現にバルは膝をついているし、アトレがその命を奪おうと思えば、赤子の手をひねるようにそれは叶う。
だが、そもそもバルの理屈は成立していなかった。
「……すまないが」
バルがアトレを再度見ると、篭手から伸ばした棘で貫いたはずの傷はまるで見られなかった。流血の後は残っているが、その傷跡は全て塞がっていた。
「浅い傷はすぐに治る体質なんだ」
だが当然、勝負を続けたいバルにそのようなことは関係ない。うめき声と共に傷む体を押して立ち上がり、再度アトレへ殴りかかる。アトレはそれを避け、バルはまた殴る。何度かそれを繰り返すと、二人の間にテラウが割り込んだ。
「もう、やめて……」
アトレに背を向け、涙ながらにそう零したテラウを前に、バルはとうとう膝を屈する。
「…………私の、負けだ」
負けられないと己に律した勝負。その結果は明らかなものだった。傭兵は勝利し、執事は敗北した。傭兵にとっては、ただそれだけのものではあったのだが。
「……ああ。依頼は果たした」
「そうだったな。依頼したのは私だった」
「報酬はウェルタからもらう。あんたは……もう休め」
「……」
バルは庭に仰向けで倒れると、敗北を認め顔を腕で覆った。零れる涙が本人にとってこの勝負の大切さを語っている。その意味を察することは誰にもできなかった。
「テラウ!」
声は遠くからのものだった。庭の先を見れば、ウェルタが腹の贅肉を揺らして駆け寄ってきている。その後ろにモノもついてきていた。ウェルタの後ろをとことこと駆けている。
ウェルタの姿を認めると、テラウは毅然とした表情でバルを見下ろした。語り掛ける声色は硬く決意に満ちている。
「じい。私は全てをお父様とお話します。あなたがやってしまったことも、そして尽くしてくれたことも。だから、きっと大丈夫」
バルは何も言わなかった。ただその場で静かに涙を流すのみで、覆われた顔からは表情を読み取れない。
「おにーさん、無事、ではありそうですね」
テラウの眼前に止まったウェルタを追い越して、モノがアトレに語り掛ける。見れば鎧のそこかしこに小さな穴が開いている。異様なその姿にモノはぎょっとし、それを興味深そうにじろじろと眺める。
「なんか鎧が穴だらけですね?」
「気にするな。報酬を貰って買い替える」
二人が出会ってから時間は経っていなかったが、モノから見てアトレの返事は普段と変わりないものだった。無骨で端的な返事にも慣れたのか、それとも無事だったことを喜んでいるのか、モノはどこか機嫌よく返す。
「はい。明日一緒に行きましょう」
頷くと、アトレはテラウと話すウェルタに向いた。庭草を踏み均してその傍らまで歩くと、ウェルタもそれに気付いたようだった。
「ウェルタ。後はあんたらに任せる。……依頼は終わりだ」
「……ああ。報酬はリオに持たせてある。すまないが……」
「わかった。どうせもうお暇する。モノ、行くぞ」
「え、ちょっと、もー。何が何だかわからないままですよー」
短いやり取りを済ませると、アトレはモノをつれ、庭を回って屋敷の玄関口へ向かった。




