1 夜の帰路
鈍色の石畳に細やかな雪が静々と落ちる。まだ日が昇り切っていない、暗い夜明け前。街路灯に暖かく照らされた男は、やがて積もるだろう明日の雪道を力なくを歩いていた。足を引きずるように歩き、身魂共に消耗し切っているという風体である。
男はコートの右ポケットに魔石を握りしめ、魔力をほんの僅か流し込む。すると込められた魔力の分だけ魔石は熱を発し、男に僅かな暖を与えた。手先だけでも暖かく。そんなキャッチコピーに釣られて購入した商品だった。男は手先に感じる暖かさが広告の通りだと表情を変えずに苦笑する。
(寒い)
しかしその寒さに対して、暖かさはあまりにささやかだった。雪が降る程なのだから気温は当然低い。男は魔石に更に魔力を流し込む。少しずつ魔力を流し込むと、少しずつ魔石の温度が上がっていく。全身に暖かさが行き渡らないだろうかなどと考えるが、暖かいのは変わらず右手だけだった。結局は誤魔化しでしかないと悟った男は溜息を一つ零し、懐炉と呼ばれるその魔石を軽く握り続けるだけに留めた。
男は自宅を目指して足を動かしてはいるが、その歩みはとても遅い。ともすれば、倒れそうになっているのを堪えるために足を前に出しているようにも見える。眠気と疲労に少しずつ腰が曲がっていくが、それでも足だけは止まらない。ゆっくりゆっくりと、男は仕事帰りの家路を歩く。
(晩御飯、家に買い置きはあったか)
綺麗とは言えない、二階建ての集合住宅の二階。階段を上ってすぐの自室に思いを馳せる。冷蔵庫には何か食べられるものはあっただろうか。男は歩を更に遅くして数秒考えこむが、頭の中に靄がかかったように思い出せない。頭がまともに働かない程のひどい疲れに、男は空腹を覚えていたことを思考の外へ投げ捨て、遅くなった歩調をそのままに歩き続ける。
細雪の中歩き続けた男の体は冷え切っていた。家まではもうそう遠くない。左手に持ち替えた懐炉と右手に残った暖かさの余韻は、それの行き届かない全身により強い寒さを感じさせていた。疲れで鈍くなった感覚に、それでも突き刺さってくる外気が男を苛む。
(まだ、ここか)
帰宅まであと五分程度だろうと男は見込んでいた。それが五分経った今、帰路は残り半分と言ったところであった。男は日常を生きるために働いた結果、倒れそうな程の疲労を湛えて帰路に立っている。
どのような土地であれ、倒れた人間が何事もなく無事ということはそうそうない。行き倒れがいれば当然盗難を行う誰かもいる。生きるための営みが結果的に自分を苦しめることになりかねない。それを嫌った男は石のように重い足を引きずり続けたが、その足取りにはもう力がなく、ゆらゆらと漂う海月の様相だった。
「あ、っ」
五分程度の道程に十分をかけてようやく自宅が見えた頃。男は小さい声と共に限界を迎えた。ふらりと体が右に傾く。右手を冷たい壁に添えて体を支えて数秒、男は瞼の異常な重さを自覚した。
(冷たい)
壁の冷たさに手の温度を奪われると、眠気から少しだけ覚める。もう少しの道程が長い。冷えた右手に懐炉を持ち替えると、あまりにも遅い自分の歩みに軽い苛つきすら覚えながら、それでも足を引きずっていく。が、それも数歩限りだった。体はゆらりと振れる。
(ああ、手、出さないと。壁、伸ばして。痛いだろうな、倒れる)
男は手を出し体を支えようとしたが、目測を誤って更に体勢を崩す。
(無理だな、これは)
倒れると確信するが、鈍くなった頭ではもう対処が思い付かない。そもそも、崩れかかった体勢を押し止めるにはもう時間が足りない。男の状態は傾いていき、自力ではもう修正が不可能なほどの勢いで地面へと落ちていくと、
とすん、と、柔らかい何かにぶつかった。
「あ、危なかったぁ」
男は朦朧とした意識で自分を支えた何かを見つめた。見れば、クッションか何かかと思ったそれは少年だった。年の頃は十代前半だろう。変声期前の高い声が、男の意識を僅かに現実へと引き戻す。少年は安堵に一息を吐くと、心配そうに男を見つめる。
「大丈夫ですか?痛くありませんか?」
少年は男の懐に入り、肩を貸すようにその体を支えていた。少年の膝が崩れそうに震えているのを認めると、男は急激に意識を取り戻し、今度は目測を誤ることなく壁に手をついた。
「大丈夫だ。ありがとう」
体勢を回復すると、男は穏やかに礼を言った。少年はにこりと微笑んで男から少しだけ距離を取ると、何かを探すようにきょろきょろと辺りを見回した。
「お兄さん、家はどこですか?」
「ああ、すぐそこだ」
奇怪な行動に得心した男は、ゆっくりと正面に見える集合住宅を指差す。目と鼻の先程の距離にあるそこが、男にはひどく遠く感じた。
「また倒れたら危ないので、ご一緒しますね」
少年は男の傍らに立つと、いつでも支えられるだけの距離を取って男と一緒に歩き出した。亀のような歩みであったが、少年という予期しない刺激に、男の意識ははっきりと冴えていた。心なしか、先程までよりも歩みが速くなる。
「いつもこのくらいのお時間なんですか?」
少年の問いに男は首肯する。声を出すのも疲れるという風体を認めると、少年は無言のまま男に寄り添って歩き続けた。そしてすぐに集合住宅の前に着くと、少年は何も言わずに階段を一緒に上り、男の部屋の前に到着していた。
「とてもお疲れだったんですね。無理しちゃダメですよ」
心配顔で言うと、少年は錆びた鉄の階段をたん、とんと軽やかに降り、男に向かって大きく右手を振った。左手を口元に添え、少年は男に呼びかける。
「しっかり休んでくださいねー」
元気よく言うと、少年は振り返って歩み去っていく。先程よりも少し強まった雪に寒さを思い出した頃、釣られて小さく手を振っていた男はようやく自室の扉を開けた。
男は中に入ると、考えていた食事のことや、そもそも空腹のことさえも忘れてベッドに直行した。布団の心地よさに逆らうことなく目を閉じると、何かが脳裏に過ることさえなく速やかに眠りに落ちた。