『感情を知る』
結論を出した私は、考える間もなく空を駆けた。
まずはこの目で私の棲む世界を見ることにした。
私が産まれ落ちた世界は『ダンジョン』と云い、ドラセナはこのダンジョンを『アリの巣のような迷宮』と例えていた。
数多もの層が積み重なってできた、人間にとっては不可思議な世界だと言われている。
彼女がアリの巣と例えたのは、人間の棲む世界は私たちの上に存在しているからだ。
つまり、私からすれば彼女たちの世界は一種の『頂上都市』とも呼べるのだろう。
彼女曰く、私が棲む層は遥か地下に存在する『ネスト層』と呼ばれ、この層は特に危険な層と呼ばれている。
ネスト層の上には計50の層で構成され、51からはネスト層に分類される。
理知的に、そして分かりやすく言うならば、この世界は『巨大多層型地下ダンジョン』という訳だ。
彼女たち、否、冒険者は此処をこう呼ぶ。
底無しの迷宮、果てが見えぬ暗闇。
故に人間は、この世界を『オリフィスの深淵』と名付けた。
まるで蜂の腹のように狭まった、人間たちが棲む世界の理がねじれた空間。
未知と恐怖に支配された、地獄のような世界。
私はこの世界を憎く感じていた。
幼少の頃から、私は争いをあまり好いていない。
痛いのは嫌いだし、殺した時の感触だって心地の良いものではない、寧ろ気持ちが悪くて不快なものだ。
だけど生きるためには食べ物が必要で、食べ物を得るためには生き物を殺す必要があって。
殺すとは生きることだと強いられるのは仕方のないことだと思う、我々の命は数多の屍の上で成り立つものだから。
だからある者は群れを作って生き延びようとし、ある者は大地を統べて皆を統率する。
最低限命を取り合わないため、そして自分たちの命を保障するために。
しかしこの世界は争いを強いて、我々の命を選別しようとする。
群れは破壊され、例え子供であろうと無惨に喰い殺される。
統べし者は叛旗を翻され、堕ちた首を曝される。
我々の本質は惨虐であると、そう世界が決めつけているような気がして、私は憎くて仕方がないのだ。
なのに、なのに。
愚かしくも、私はこの世界の景色に魅入られていた。
数日ほど遠出をするつもりだった。
なのに私は夢中になって、今となっては日数は指で数えられないほどこの世界を走り回っていたのだ。
水の中に浮かぶ月と星。
青空を支配する3つの太陽。
赤い氷の大地と雪の海。
蒼い焔の滝に緋色の空。
私にとって、今まで観ることすら叶わなかった景色だった。
いや、叶えようとすらしなかった。
この怨めしい世界がこんなにも美しいだなんて、私は知る由もなかったし、知ろうとすらしなかったのだ。
己の無知さと愚鈍さに心底軽蔑する。
もっとこのような側面を知っていれば。
私がもっと、この世界のことを知っていれば。
「この景色を、君に見せれたのに」
思ったことが、声となって出た。
直後、視界が滲む。
目の前に映っていた光景が、水の中で揺らめくように、滲んで、崩れていく。
これは、一体……。
目にゴミでも入ったのかと思った、だけど違う。
どれだけ目を擦ってもこの滲みは止まないし、それどころか目の前が見えなくなってしまうぐらいだ。
ふと気付いたのは、私の手にぽたぽたと雫が落ちていること。
その根源が私であると知るのに、時間はかからなかった。
「な、に……これ」
目から溢れ落ちるそれに、私は困惑を隠せない。
とめどなく、止まることを知らないそれは、水に浴びたかのように頬を濡らした。
私はこれについて、ドラセナから聴いたことがある。
人間は悲しかったり嬉しかったりすると、目から『涙』というものを出すらしい。
人はそれを『泣き』と呼び、一種の感情表現だと彼女は教えてくれた。
涙が出る度合いは人によって様々で、すぐ泣く人もいれば全く泣かない人もいるらしい。
私のこれも涙なのか、私は泣いているのか?
分からない、もう何も分からない。
答えを教えてくれる人は、もういないから。
『あなたは、泣いたことがあるの?』
記憶の中の私は、彼女にそう問う。
何を言い出すかと思えば、とでも表せる彼女の顔はとても美しかった。
自分の足を机代わりにして、頬杖をついた彼女は妖艶で、美麗で。
『さぁ、どうだろう。もう最近は泣いてないかな』
思わせぶりをさせてきそうな言い方に、少し腹を立てかけたのを今でも覚えている。
意地悪で、我儘な君のことが嫌いだった。
答えを渡すまでは、私のことを面白がって揶揄う君が嫌いだった。
でも、そんな君を密かに愛おしいと感じていたのだ。
『でもね、キミと逢えて幸せなのは確かかな』
『……それも、私を揶揄うための謳い文句か?』
『お好きに捉えてちょうだい。気持ちは知られたくないの』
そう言って外方を向いた君に、当時の私は理不尽な怒りを抱いていたと思う。
本当に自分勝手だなと、本当に良い性格をしていると、口には出さない悪辣な愚痴が心の中で木霊していた。
だけどこの記憶をもう一度見返すと、私の目は節穴だったのだと思い知らせてくる。
外方を向いた君の声は、どこか震えていた。
何かをぐっと堪えるかのように、少し見えていた唇は少し噛み締められていて。
頬に何かがきらりと、煌めいていた。
「あぁ……そう、か。本当に、君という人は……」
あの声の震えの正体を知る。
私の震えている声が、それを証明してくれているから。
唇を噛み締めていた理由を知る。
この溢れる涙と感情を抑えるための、無意識の行動だから。
煌めいていたそれは、きっと涙だった。
「う、うぅ……え、ゔ……っ!!」
そうだ、この妙に清々しい気持ちは、きっと私が必死に蓋をしようとしていた仮初の感情に過ぎない。
本当の気持ちは今にも死んでしまいそうなぐらい、寂しくて、寒くて、辛くて、苦しくて仕方がなかったんだ。
私は今、どうしようもなく哀しいのだ。
この胸が張り裂けんばかりに溢れ出てくる感情のせいで、私はらしくもなく泣いている。
どれもこれも君のせいだ、君が私に感情なんてものを教えたから。
「こんな、こんなことに″……なる、ぐらいな″ら……!!」
こんな気持ち、知りたくなかった。