襲来
星明り一つない夜の農場で揺らめく焚火が煌々と輝いている。サファイアは火の前に腰掛けながら武器の手入れをしているが、その目線は忙しなく周囲へと向けられていた。
(雲というのは恐ろしいわね。まさかここまで視界を奪われるなんて……この明かりのせいで目が暗闇に慣れないけど、これがないと本当に何も見えなくなってしまうのよね)
鳥か何かの鳴き声と剣を研ぐ金属音、それに時たま吹く風にそよぐ木々の騒めき。なにか異常がないか神経を尖らせている彼女の耳に、乾いた音が入ってくる。その音に反応し、すぐさま切っ先を音する方向へと向けた。
「誰!?」
「そ、そんなおっかないもの向けないでくれよ! ベッジだ! ここの息子の!」
予想外の人物に驚きつつも安堵したように肩の力を抜いたサファイアは、呆れた声で聞き返す。
「こんな夜中にどうしたのかしら? 貴方のお母様に叱られるわよ」
「気づかれなかったらなんてことないよ」
「感心しないわね。そういったものの考え方」
「アハハ……こりゃ手厳しい」
バランスを取りながらぎこちなく歩く姿はどこか痛々しいが、その表情に昼間のような暗さはない。むしろなにか毒気が抜けたようなスッキリとした顔であった。彼はそのまま焚火を挟んで彼女の正面に座ると、惜しむような表情で空を見上げる。
「せっかく来たってのに曇ってるなぁ。まぁ、また見に来ればいいか」
「空になにかあるのかしら」
「星だよ、星。小さい頃から見ててなぁ。ほんと綺麗なんだぜ? 悩み事がある度にな」
「見て……どうにかなるの?」
「どうなるかは自分次第だけどよ。でも、このでっけぇ空を見てるとな……悩みもなんとかなるんじゃないかって思えるんだ。今は真っ暗だけど」
そう語る彼の口調は確かな自信を感じさせ、彼女は昼間の事を知っていたがゆえに不可思議そうな顔をする。
「立ち直るの、ずいぶんと早いのね。右腕を無くしたのに……」
「それに関しちゃ、あんたらにお礼を言いたいんだ。話を聞いてくれてありがとう。単純かもしれねぇけどさ……言葉にしたらなんか自分でもビックリするぐらいスッキリしちまった」
「それはどういたしまして」
(にしても言葉にする、ね……)
サファイアの脳裏に過去の出来事が浮かび上がり、表情が曇る。その変化にベッジは気付き、おどけた口調で話を続ける。
「もしあんたもそういった事があるなら、俺に話してみてくれよ。弱音は吐くなっていうけどさ、一度ぺってしちまった方が楽な事もある」
「ありがとう。でも……ごめんなさい。私は弱音なんて吐けないわ……吐いちゃダメなのよ。絶対に」
ベッジはそれに対してなにも言い返せずに、なんとも言えない渋い顔をする。
微妙に気まずい沈黙が流れる二人の間に、意外なものが顔を出した。雲の大きな切れ間から地上を覗く、丸々と、それでいて煌々とした満月である。彼の登場によりそれまで真っ暗であった夜が、近場を歩く程度なら問題ないほどに明るくなった。
「あっちゃ、今日は満月だったかぁ。こりゃどのみち見れなかった」
「じゃあベッドに戻ったらどうかしら? 寒い時期を過ぎたとはいえまだ夜は冷えるわよ」
「そうだな。星はまた今度みにくりゃ……あ?」
帰ろうとしたベッジの耳に異音が入ってくる。サファイアがその音のする方向へ視線を向けると、そこにあったのは昼間にワーカー達がせっせと作っていた間に合わせの壁があった。
木を削るような乾いた音がいやに響き、なにが来るかも分からないのに二人の背筋に冷汗が流れる。なぜか分からない。分からないが確信があった。恐ろしいなにかが向こうにいると。
「ベッジさん、早く……!」
しかし遅かった。木が砕かれる音が静寂を破ると同時に黒い影が二人めがけ、尋常ならざる速度で猛進してくる。未だに反応できてないベッジ。彼を駄目だと判断した彼女は驚愕の行動に出る。
「腕を胸の前に上げて!」
「は?」
「早く!!」
鬼の如き形相に怖気づいたベッジはピシャッと言われた通りの構えをとる。その瞬間、彼女の鍛え上げられた拳が彼の残っていた左腕へとめり込み、それなりに重いであろう肉体を弾丸のように弾き出した。
突如殴られた事に対する困惑、左腕が消し飛んだのではと錯覚するほどの激痛、飲み込めきれない変化した状況、何故か空しか映らない視界。吹き飛ぶ彼が全てを理解したのは、地面に叩きつけられた痛みに耐えながら起き上がり、彼女の方を向いた時だった。
「あ、あぁ……! き、来やがった……!」
焚火に照らされ浮かび上がる黒い体毛を持つ二メートルを超える巨体。そんじょそこらの刃物が霞んで見えるほどに鋭利で太い爪は、見るだけでも死を予感させる。
剣を宝飾で硬質化させ、振り下ろされた爪をなんとか受け止めていたサファイアの思考は激流のように動いていた。
(どうして急に……!? 人を食べるなら昼間のワーカー達を狙った方が確実だったはず……夜を狙っていたのなら、昨晩に現れていないのがおかしい……!)
魔獣の唸り声と吐息を間近になおも考えを巡らせる。そして突如、それまでに得た情報が彼女の脳内で繋がり答えへの一本道となり始める。
―右腕を喰われちまったんだ。
―昨日は一日中ベッドの上だったよ。
―熊はとにかくしつこいんです。自分の獲物だって思ったものには特に。
最悪の答えが浮かび上がり、殴り飛ばした彼に喉を潰しかねない声量で叫ぶ。
「ベッジさん早く逃げて! 狙いは人間じゃない!」
「は、はぁ!?」
「覚えたのは人の味じゃなくて貴方の味! 魔獣は貴方を食べる為に、姿を確認できるまで待ってたのよ! ……くッ!!」
圧倒的な猛獣のパワーにどんどんと姿勢が低くなっていく。このままでは力に任せて押し潰される……と死の気配を感じ取った彼女は、低くなった姿勢を活かしエビが背中を丸めて素早く移動するような動きで後方へ飛び出してベッジの近くへ陣取る。多少無茶な動きをした為か着地に失敗したが、彼女は急いで顔を上げて魔獣の方へと向いた。
その時、その眼に映ったのは満月の逆光でクッキリと浮かび上がった黒い影法師のようなシルエット。二本の脚で立つ黒一色で塗りつぶされた巨体は有無を言わせない威圧感を放ち、それを見たベッジは心底恐怖し、呼吸をする事を忘れる程だった。
そしてサファイアは、その黒い影を見て過去を思い出していた。彼女の手は異常なまでに震え、呼吸は今にも絶命しそうな程に荒く乱れたものとなり、目には涙が浮かんでいる。そんな体の反応とは対照的に、彼女の心だけは恐怖で振り切れたせいか冷静であった。
(……あの日も夜だった。そして、まだ小さかった頃の私が見たあの化け物も……こんな黒さだった。私はなにもできないで、怖がる事しか……でも! でも!!)
「い、いい……今はぁッ!」
立ち上がって向けた切っ先は震えで定まらず、腰もどこか引けて戦闘態勢とは呼べないが、トラウマを押し殺しながらではそれが彼女の精一杯だった。
だが獣にそんな事は関係ない。この時点で熊の魔獣はサファイアを「食事の邪魔をする鬱陶しい奴」と判断しており、それを殺そうとするのは食事に集る蠅を人間が手で払いのけようとするのと同じぐらいに迷いのない。それでいてそれほどの覚悟もいらない軽い行為。
一手、また一手と爪を振るって払いのけようとする度に邪魔者は動けぬご馳走を引きずりながら後退していく。最初は軽い気持ちだったが、そのうちに鬱陶しいが腹立たしいに切り替わる。次第に爪の威力と速度が増していき、邪魔者の長い一本爪では受け流せなくなり始めた。そして僅かな隙に入った胴への一撃は邪魔者を大きく吹き飛ばしたが、それでもご馳走を手放さずに再び距離が空く。魔獣は頭の血管が炸裂しそうな程に怒り狂った。
「かはッ……! 軽いけど頑丈なよ、鎧……言葉通りだったわね……!」
(鎧の傷は自動修復の刻印なんとかなるけど、内臓を少しダメージが入ったかしらこれは……!)
強力な一撃に倒れ伏しながらも、サファイアの闘志は消えない。痛みとトラウマで震える体を無理やり起こし、魔獣の前へ立ちふさがる。獣の後方にはこちらへ駆けつけてくる騎士達の姿が見えていた。
(もう来たのね……でも、あの装備は対人用の中でもとりわけ軽量で機動力を意識した装備。魔獣相手には力不足……!)
「サファイア様、お逃げをぉ!」
彼女の身を案じて必死の叫びを上げた旧知の騎士ジョニーの言葉は、逆に彼女の拘りを強く刺激してしまった。彼女の目に、決意に似た別の何かが宿る。
(逃げる……? この私に逃げろですって? そうした結果があの姉さまの……! 私のせいで!)
「逃げて、生きて……恥を晒すなら……戦って……戦ってぇ!」
「駄目だ! サファイア様ぁ!」
剣を振り上げ、己の命を顧みない特攻をする。騎士達の誰もが心の中で駄目か、と最悪の可能性を考えていた……がしかし、一発の銃声がその可能性を打ち砕いた。
「魔弾【テンパーバレット】!」
火薬が炸裂するような音にその場にいた全員の目が奪われ、魔獣は怯えるような仕草をする。サファイアがその方向を見ると、そこにはやはりクレイ・フォスターとミリア・ガーランドが居た。二人はすぐさま彼女の元へ駆けつける。
「ご無事で?」
「ね、寝てたんじゃ……?」
「僕は一番最初に寝てましたから完全に目は覚めています。ミリアさん、ベッジさんを安全な所に」
「はい! ベッジさん……気絶してる!? んぐぐぐ、重い……!」
獲物に手を掛けたミリアに反応して魔獣は牙を剝きだすが、クレイがすかさず魔弾を放ち威嚇する。魔獣はまたしても音の大きさに驚いたのか一歩後ずさりした。
「テンパーバレットはあくまで大きな音を出すことに特化した音の魔弾の一種、このハッタリがいつまで続くか分かりません。協力を」
「ど、どうして私を助けたの? 私が襲われている間に撃てばそっちの方が……それとも、私はそんなに弱そうに見えるの!?」
「……どうか落ち着いてください。魔獣に比べたら貴女も僕も弱いですよ。一人で挑んでも負けるに決まってるじゃないですか」
クレイの言葉に反応し、彼女は呼吸を整える。錯乱しきっていた表情はすぐさま落ち着いたものとなった。
「……ごめんなさい。貴方には関係のない話だったわね」
「貴女がどこかで自分の拘りによって死んでも、僕にとっては知った事ではありません。でも今日の事とはいえ僕は貴女と知り合って、今は一緒に仕事をしてるんです。初対面でも見殺しにするなんてできませんよ。それに……」
「……?」
「今回の依頼は共に魔獣の排除。それはここに、ベッジさん親子に安心をもたらす事を意味します。なのにそれを忘れて、自分の命を勝手に捨てようとしてたのが少しだけ腹立たしかっただけです。貴女がやられたら後は彼が喰われるだけですよ」
「それは……! ……そう、ね」
サファイアは深く恥じた。錯乱してたとはいえ依頼主の事を全く考えていなかった行動をとった己の身勝手さに、冷静でいられなかった己の未熟さに。
そこへ騎士達が到着し、魔獣を半円状に囲むような陣形をとる。抜かれた剣は短く取り回しを意識したもので、熊の皮を貫けるかは怪しいものだ。
「騎士さんはざっと十人……十二対一ですね」
「でもあの装備は魔獣用ではないわよ。斬りかかっても……」
「装備はそうかもしれませんが、あの人達はこの国を守る為、日夜鍛錬に励む戦士達。ならばやり方次第では無茶ではない。どうですか?」
「……そうね。貴方達、不用心に近づいてはだめよ! その鎧なら骨ごと削がれるわよ!」
サファイアからの忠告に騎士達の顔は変わらない。誰一人として怯えた様子の者はおらず、全員が覚悟を決めた静かな戦士の顔をしていた。
魔獣に得物を向け、クレイは静かに微笑む。
(逃げられれば森の中、そうしたらあっちの縄張りで戦うことになる。勝負はここ、人間の縄張りでつける!)
「魔獣討伐、開始……!」