研磨
明かり一つのない漆黒の中で瞼を開けると、目の前には見慣れた天井が広がっている。体を起こし、視線を下げると見えるのは上品なベッドカバー。その鮮やかな刺繡はここが裕福な家である事を示している。
「ここは……いつの間に!?」
「あぁ、サファイア様。目覚められたのですね。傷は痛みますか? 調子の方はどうでしょうか?」
幼少の頃から世話をしてくれていたメイドが彼女の前に姿を現した時、99が100になった。ここは自身の実家であるマッケンジー邸だ、と。
思わず掴みかかりそうな勢いで乗り出したサファイアを、メイドは優しく微笑みながらゆっくりと元の姿勢に戻していく。
「わ、私、記憶がないのだけれど……魔獣の背中にしがみついて、それで心臓を抜いた所までは覚えているのよ」
「魔獣はクレイ・フォスターの攻撃で絶命。サファイア様はその場で気絶し、ジョニーの治療を受けてここに運び込まれたのでございます。今は昼で、サファイア様が来られたのは日が登る前でしたから……」
「数時間ってところね……あッ! ベッジさんはどうなったのかしら、無事なの!?」
「はい。その農夫ならば特に怪我もなく、ミリアというワーカーと共に発見されたと聞いております」
メイドからの報告に彼女は安堵のため息を漏らし、糸の切れた人形のようにベッドに倒れ込む。魔獣の死骸はどうなったか、クレイとミリアの二人は今どうしているのか、騎士達や現場の損害はどれ程か、と色々な考えが湧いては消えていく。
そこへノックの音が響き渡り、「入るわよ」と誰かが言う。落ち着きながらも鋭い力強さを感じるその声をサファイアが聞き間違えるはずもなく、彼女は急いでベッドから降りようとする。しかし傷がまだ完全に治りきっていなかったのか、激痛がそれを阻止した。
「ッ! ……シンシア、肩を貸してちょうだい!」
「サファイア様。ご無理をなさらない方がよろしいかと……」
「でも……!」
「よき主は忠告もしっかり聞くものよ。サフィー」
右目を隠す深い赤の長髪に紅の瞳。部屋に入るだけの動作からも漂う気品は、女性にしては高いその身長をより高く感じさせる。その女性はメイドのシンシアがそっと置いた椅子にそのまま座るとメイドに何か耳打ちをする。「畏まりました」と言って彼女が部屋を出ていくと、再び口を開いた。
「無事でよかったわ」
「このような姿で申し訳ありません……ルビー姉様」
ルビー・マッケンジー。マッケンジー家の長女にして、ジュエリーショップを営みながら宝石商として各地を転々とすることもある才女であり、その財力であらゆる文化活動を支援するノブリス指折りのパトロンの一人でもある。
「恥じることではないわ。貴女が仕事をした証ですもの。肩の傷はどうかしら? かなりの深手であったとは聞いてるけど」
「動こうとすると痛みが来ます。でもこれくらいなら……」
「……安静にしていなさい。今は意地を張るべき場面ではないわよ」
彼女はルビーの言葉にばつが悪そうな顔をしながら黙りこくり、そのまましばらく気まずい沈黙が続いた。その間にメイドが持ってきたティーセットに手をつけ、ルビーがため息混じりに言葉を漏らした事で会話は再び動き始めた。
「貴女がワーカーになるって言った時は驚いたけど、まさか魔獣を討伐するまでになるとはね……ここを出てから三年かしら? 早いものね、時って」
「でも止めは刺せず、気を失って」
「大事なのは過程よ。貴女は討伐という結果ヘ辿りつくまでの過程で大きな貢献をした。それで十分よ」
「……はい」
渋々といった感じの返事をするサファイアにルビーは頭を抱える。ルビーは彼女がワーカーになろうとしたきっかけに心当たりがあったが、それを強く聞けずにいた。なぜならサファイア・マッケンジーという人物はある時を境に家族に弱みを見せる事を極度に嫌がっていたからだ。
以前からそれとなりに聞いてはいたが、その度に彼女は笑顔ではぐらかすばかりであった。しかし、今回の一件でルビーにも姉としての覚悟が決まったのだ。その声色は厳しくも不安そうな、純粋に家族を案じる姉の声であった。
「サフィー、この際だからハッキリ聞くけど……あの事件、あれがきっかけなの?」
「……そうです」
「前も言ったけど、私は別に気にしても後悔しては」
「姉様は後悔してなくても……私はずっとしていました」
サファイアは姉の言葉を食い気味に遮る。感情を押し殺すようなその言い方にルビーは言い返す事はしなかった。あの事件以来、剣士としての腕を磨きながらも強い感情を表に出そうとしなくなった妹から久方ぶりに感じるものがあったからだ。
「まだ幼かった……言い訳にはなります。でも歳をとるにつれ、後悔は膨らんで……不安と情けなさも大きくなっていきました」
「情けなさ?」
「姉様は文化の庇護者として、兄様は国の守護者として実績を積み重ねてきました。それに対し私は何も……」
「私達と貴女は十も歳が離れてるのよ。そう簡単に追い付ける時間ではないわ」
「そうです。でも……私が何もできなければ、悪く言われるのは父様です。姉様達と私の違いは……そこですから」
姉はそれに何も言えなかった。ルビーとブラッドは前夫の子供であり、サファイアは後夫の娘であった。半分だけ血が違うが故の孤独と焦りばかりは、ルビー自身も安易に踏み入ってはならない領域だと思っていたからだ。
「家族は私の誇りです。だからそれに見合った存在になりたかった。何もできなかった幼かった頃と決別し、姉様や兄様のようななんでもできる……」
「……その覚悟の結果が自殺同然の行動かしら?」
空気が凍り付く。静かだが言葉の端からは並々ならぬ怒りの感情が滲み出ていた。サファイアは首を掴まれたと錯覚するほどに緊張し、全身に冷や汗をかくが姉はその様子を気にも留めず続けた。
「報告の中に、依頼者の安全を無視して特攻まがいの事をしようとしていたとあったわ。直後にワーカーの助太刀でなんとかなったともね」
「ジョニーに、逃げろと……でも私は逃げるのが嫌で」
「誰よりも逃げてる癖にかしら?」
冷たくぴしゃりと言い放つ彼女に対し、サファイアは僅かながらの不満を覚えながらも黙っていた。ルビーはその直後に今度は自嘲気味な声色でこう続けた。
「人の事は言えないけど……ようやっと分かった。サフィー、貴女のどうしようもなく弱い所と私の弱い所」
「私はともかく、姉様に弱い所なんて……!」
「あるわよ。貴女と向き合おうとしなかった。貴女を信じてると思いながら、踏み込む事をせずに傷つけないようにと振舞っていたわ。それはつまりサフィーの強さを信じてあげられなかったって事よ。姉なのにね」
「……」
「そして、サフィー。貴女の一番の弱さは……弱い部分を、出来ない事を認められない事よ」
サファイアは目を見開く。それのどこが悪いのかと必死に考えるが、答えを出す前にルビーが語り始める。
「言ったわよね。なんでもできる私達に憧れたって……そう見えたのなら嬉しいわ。でもね、私ができる事なんてそんなに多くないわ」
「で、でも! 目利きにデザイン、それに王妃様へジュエリーのアドバイスだって!」
「それはできて当たり前。だってそれが私の生業で、それで生きていくって決めた事だもの」
「なら、えぇっと……! 裁縫、料理、剣技も!」
「縫物ならシンシアの方が綺麗だし、料理のクオリティもシェフの方が圧倒的に上よ。剣技だってあの子が最強だし、今ならサフィーにだって負けるわ」
サファイアは思わず口をあんぐりと開けて固まってしまった。彼女にとって姉や兄は絶対的な強さの象徴であり、あらゆる面で自分の前に居続ける追いつけぬ目標でもあったからだ。そんな存在があっさりと出来ない事を認めて困惑していた。
「いい? サフィー。人ひとりができる事なんて指で数えられる位よ。人生っていうのはできる事を知るのも大事だけど、できない事をできないと認めてさっさと見切りをつけるのも同じくらい大事よ」
「しかし、訓練を積めば!」
「そうね。できない事をできるように努力する事は美しいし、できるようになればそれ程素晴らしく喜びに満ちた事はないわ。でもね、それとよく似ていながら全く素晴らしくない事が一つあるわ」
「素晴らしくない事?」
「できぬと分かって、もしくは理解しようとせずに無駄な努力を無思考で繰り返して時間を浪費する事よ。そこから脱却するには自分にできないこと、つまり弱さを認めて立ち上がらないといけないわ」
「わ、私がそうだと言うのですか!?」
「えぇ、サフィー。報告は以前からして貰っていたけど、貴女は一人でやりたがる癖があったようね。極力他者と協力はせずになんでもかんでも自分一人で遂行して、力を誇示しようとした。失敗も多かったみたいだけど」
開いた口が塞がらない、といった表情から一転。口をグッと閉じて訴えかけるような目でサファイアは姉を見つめ続ける。
「貴女は現実を直視しようとせず、いくらか無茶な行動もあった。その終着点が命を顧みない特攻よ」
「生き恥を晒すくらいなら!」
「生き残るのが恥ならば役立たずのまま死ぬのは大恥よ! サフィーの力と頭なら抱えて逃げに徹する事も可能だったでしょう! 死ぬことはできる事にあらず、生きて成す事ができることよ!」
そこまで言い切ると、空気の入った風船がゆっくりと萎んでいくようにルビーから怒りの気配が消えていく。そうして最後に残ったのはやつれたように見えるほどの悲痛な表情であった。
「……だからお願い。命を捨てるような真似はしないでちょうだい。家族を失うって本当に辛いのよ……!」
サファイアの頬を震える両手が包み込んだ。
最後の一言。それが彼女の心に響いて止まず、反響し続ける。処理しきれぬ感情は涙となって溢れ、頭ではゆっくりと自分の中にあった言い知れぬ不安を紐解いていく。
(あぁで……そうか、私は憧れる事で……)
「ごめんなさい。姉様……!」
無自覚に心を包んでいた氷が、ゆっくりと溶けだしていった。




