ピアニスト
ピアニスト
安岡 憙弘
わたしはピアノをひくとき自分というものはいないとおもっている。それどころかピアノすらなるべくひかないようにしている。ピアノというものは小説とおなじで人にみせびらかすためのものではない。苦しみやかなしみその他いろいろなことからのがれるために芸術というものはあるのだとかんがえていた。
したがって世俗的な目てきのために芸術をすることは最低のことであってわたしの神経をもっとも逆なでするものであった。芸術家であるからにはうつくしいものをめざさなければならない。仲よし同士でなれあっていては芸術は完成しない。小説もピアノもひとりでするものだ。
もっとも美しいものをつくりだしてはじめてすべてのくるしみから解放される。だからわたしはピアノをひくときに感情はこめない。よろこびもかんじない。ただだれもいない部屋で孤独を
たのしみながらひいている。なにもなくなってしまうまで。