164.一日目の終わりと魔法陣と小柄な少女
「今日は一日いかがでしたか?」
「どうかしら? なんとなく過ぎていった気がするわ」
「確かにシエルメール様からすると、すでに知っていることのほうが多かったかもしれませんね」
「でもそうね。魔物学は少し面白かったわ」
一日が終わって、戦闘訓練という名のマラソンでかいた汗を流すために、ミアにお風呂に入れられた。要するにミアに全身洗われるのだけれど、ミアはまるで赤子を扱うかのように優しく優しく洗っていく。
洗われている方としては少しくすぐったく、ミアが「シエルメール様の肌は相変わらずお綺麗です」と言ってくれるたびに誇らしく思う。
ミアが洗うときには結界を解除しているので、数少ない人とのふれあいという意味では、この時間は特別な時間だといえる。
そしてわたしではシエルに与えられない時間でもあり、うらやましく思う。
「魔物学ですか?」
「ええ、私は魔物の生態とか知らなかったのよね」
「シエルメール様は低級の魔物であれば、一撃で倒されてしまいますからね。昔からそうなのですか?」
「サイクロプスの時は一撃というわけにはいかなかったのよ。でもエインが守ってくれるから、いくらでも試行錯誤できるのよね」
「サイクロプスというと……」
「初めて戦った魔物ね」
今となっては懐かしい初戦闘。そしてシエルに守ってもらい、シエルにお姫様といわれるきっかけとなった恥ずかしい記憶。
でもあの時のシエルは格好良かった。
「初戦闘がサイクロプスというのは、ワタクシにしてみれば絶望的な状況ですね」
「いまのミアなら倒せるんじゃないかしら?」
「前衛がいてくれたら倒せるかもしれませんが、一人では無理ですよ」
「私も一人では無理よ?」
「エインセル様がいるからこそなんですね」
「ええ、ええ! エインがいないと私は今頃死んでいたものね」
シエルの言葉にミアが困った顔をする。
反応に困るのに、言っていることが紛れもない事実なので余計に質が悪い。
『学園といえば、お茶会しましたね』
「ああそうね。お茶会をしたのはエインだけれど」
「お茶会ですか?」
「レシミィイヤ姫と授業が同じだったから、その流れで昼食をとって、お茶会になったのよ」
「良かったのですか?」
「受けたのはエインだから正確にはわからないけれど、ある程度レシミィイヤ姫との交流が必要だと思ったのではないのかしら?」
『そうですね。聞きたいこともありましたし。成果は微妙でしたが』
禁忌に触れようとしている人物の候補は増えなかった。
学園長が優秀だろうことは、話を聞く前から分かっていたし。
「禁忌に関する人はわからないままね」
「戦闘訓練のほうはどうでした?」
「どうだったという程でもないわ。走っていただけだもの」
「最初はそうなるんですね」
「体力は必要よね。今日一緒だった人たちよりも、ミアのほうが体力あるんじゃないかしら?」
「ワタクシは魔力で誤魔化していますから」
「そういえばそうね。だけどミアなら疲れても、エインが守ってくれるんじゃないかしら?」
「ふふ、それはとても光栄なことですね」
ミアは守るだろうけれど、相手がフィイ母様とかトゥルとかになってくると、守り切れるかわからない。その時にはシエルを全力で守るだろうし、なんて。
実際のところ余力でよければミアは守るだろう。邸の人とか、カロルさんとかシュシーさんとかも守るとは思うけれど、彼女たちの場合そんなにピンチに陥らないと思う。
いや、一回シュシーさんは守ったか。
学園だとパルラは気にかけると思う。あとは姫様。姫様の場合死なれたらたぶんわたしたちが困るというのも理由にあるけれど。
「はい。それではごゆっくりお寛ぎください」
シエルを洗い終えたミアがそういって浴室から出ていく。
それを見送ってシエルがのんびりと浴槽に足を踏み入れた。
◇
「魔法陣とは詠唱魔術では行えない、複雑な魔術を使うために必要なものである。
その分扱いも難しく、ある程度の魔力量とコントロールが必要不可欠になる。それゆえに、本来なら詠唱魔術から魔力をコントロールすることを覚えていくのだが、ここにいるということは最低限魔法陣を使用できるだけの実力があるということであるため、本授業では行わない。
もしもコントロールに自信がないものは、一般魔術の初級を受けるように」
入学後2日目の最初の授業は魔法陣学。初級という話を聞いて授業をとったけれど、授業としては一段階上の授業だったらしい。
受けられたから別に構わないのだけれど、道理で周りの人たちが見たことない人ばかりだと思った。
学年が上の人もいるらしく、体が大きくて、威圧感がある。一年生よりは。威圧感で言えばサイクロプスのほうが数倍ある。
姫様など一年生もいないわけではないので目立たないかなとは思ったけれど、どうやらそういうわけにもいかず、授業前はこちらを見ている人が結構いた。
一番こちらを見ていたのは、男子生徒ではなくてわたしの隣――授業の関係で基本的に午後がシエル担当――の席に座った女子生徒。
わたしが言うのもなんだけれど小柄な少女で、教室に入ってからだいぶ挙動不審だった。
身長から見て一年生のようだけれど、同じクラスにはいなかったと思う。
黒髪でボブヘア。周囲に対して常におびえているような、引きこもり的な雰囲気を持った女の子。
わたしの隣に来たのはたぶん、パルラと同じ理由なんだと思う。小さい子がいたからとりあえず隣に来たのだろう。で、こちらを盗み見た結果、目を丸くしてじっとこちらを観察していた。
マナー的にはどうかと思うけれど、実害があるわけでもないし、こちらもあちらのことに気が付いたのでどっこいどっこいということにする。
『隣の人どうしたのかしら?』
『とても目が良いみたいです』
『そうなのね。大丈夫かしら?』
『大丈夫だと思いますよ』
『私たちを敵に回すような感じの子ではないものね』
それにわたしたちのことをばらされたところで、というのもある。
仮にフィイヤナミア母様の義娘であることがばれたとして、潜在的なちょっかいをかけてくる人は減るだろう。代わりにわたしたちの力を利用しようとする人が現れるかもしれないし、中央をよく思っていない人に命を狙われる可能性はある。
でもシエルもわたしも力を貸すことはないだろうし、命を狙われても返り討ちにするだけの自信はある。
『ですので、とりあえず普通に授業受けましょうか』
『そうね』
とやっている間にも授業は進んでいる。一応聞いてはいたけれど、わたしがわからないところはなかった。というか、今からでも初級の一般魔術を受けられるみたいなことを言っていただけだし。
「魔法陣を書く時に必要なものを……君、答えてみなさい」
「魔法陣用に作られた魔力を通しやすいインクを使ったペンです」
『そんなの必要なのね』
『わたしも今知りました。一般魔術の授業で使った魔法陣が魔力を流しやすいと感じていましたが、そちらのほうが一般的だったんですね』
今までは適当に紙に書いたり、シエルなんかは地面に跡を残したり、していただけなのでそんなインクがあることも知らなかった。
『あの屋敷の本には書いてなかったですよね?』
『書いてなかったわ。基礎過ぎて書いていなかったのかしら?』
『もしくはあえて書いていない本ばかりを置いていたかですが、驚きましたね』
『そんなインク使わずとも使えていたものね』
シエルと話をしながら、先生の言葉にも耳を傾ける。
「そうだな。それが基本となるが、それが必須というわけではない。
例えば宮廷魔術師クラスになれば、ただの紙とペンを使った魔法陣を発動させることもできる」
「先生はできるのー?」
「簡単なものであればできるな」
「ハンターだとどれくらいなの?」
「B級ハンターといったところか」
うん。この授業の先生は姫様から優秀な人として名前が出ていなかったので、それくらいのものだろう。
というか、シエルも10歳時点で宮廷魔術師クラスだったのか。まあ、わたしのせいだろう。
基礎がしっかりしていると考えれば、何も問題ないので気にしない。
宮廷魔術師クラスと先生は言っていたけれど、宮廷魔術師=B級ハンターというわけでもない。そもそも宮廷魔術師は幅が広い。入りたても、ベテランも、宮廷魔術師になるわけだし。
でも考えてみれば、魔法陣とは一体何なのだろうか? ちょっと思うところがあったのだけれど、わたしの思考とは別の方向へと授業が進んでいく。
「この授業では魔法陣の使い方ではなく、書き方を教える。書き方を知れば、安全な魔法陣を書くこともできる。まずは発動できる魔法陣ではなく、失敗しても大丈夫な魔法陣を書くことが目標になる」
ここらで隣の様子をうかがってみると、なんだかお隣さんがホッとしていた。
うん、これでわたしの予想は確定だと思う。当分魔法陣を使うことはなさそうだから、安心したんだろうなと。
「それから魔法陣は魔道具にも使うから、この授業をとったものもいるだろうが、中級以上は実践的な魔法陣になっていくからそのつもりでな」
確か魔道具向けの魔法陣学というのもあったと思う。これは魔法陣学と魔道具学の初級以上の成績が必要だったはずなのでわたしたちは取ることができない。魔法陣学はともかく、魔道具学のほうがまるで駄目だった。
魔道具に関しては、魔法袋を改造したくらいだから当然か。
隣の彼女はもしかして魔道具師志望だったりするのだろうか? 彼女の目を持ってすればいい仕事ができるのだろうか?
「そういうことで、次回からしっかり授業をするからそのつもりでいるように」
そうして気が付いたら授業が終わっていた。どの授業も初回はそこまで本格的には授業をしないのかもしれない。
だとしたら今週は退屈しそうだ。
『さてどうしましょうか』
『今日はまた授業が1つ空くのよね?』
『昼休みを挟むので結構時間が空きますね。昼ご飯の時間を考えても、ちょっとした依頼くらいなら達成できそうです』
昨日は姫様とお茶をしていたけれど、今日は最初から近づいてくる様子もなかったし。
言っていたように、別の人をお昼に誘うようだ。
『とりあえずお昼ご飯を食べましょうか』
『何を食べるのかしら?』
『シエルが選びますか?』
『あら、エインが選んでいいのよ? 私はなんでも楽しみだもの。それよりもエインが何を選ぶのかが知りたいわ。昨日はレシミィイヤ姫に合わせていただけだものね?』
隠していたわけではないけれど、レシミィイヤ姫に合わせていたのも気が付かれていたらしい。
それから、たぶんこれは遠慮しているとかではなくて、本当にわたしに選んでほしいと思っている感じがする。
『わかりました。それでは好きに選ばせてもらいますね』
『これでエインの好みがわかりそうね』
なんて嬉しそうにシエルが言う。前世がある分、好みは大きく違ってくるだろうし、わたしの好みは分かるかもしれない。でもわたしも食べ物であれば大体なんでも食べられるようになったから、どうなのだろう?
『シエルは何が好きですか?』
『リスペルギアを出てから食べたものは大体好きよ? でも、甘いものがより好きかもしれないわ』
『シエルも女の子ですもんね』
『あら、どういう意味かしら?』
シエルと話をしながら学食に向かうわけだけれど、隣の彼女がこっそりついてきているのはどうしたらいいだろうか?