90.洗いっことお風呂とエインセルの魔法
シエルと2人で入ってもまだまだ人が入れそうな広い浴室には、シャワーのようなものはなかった。
代わりに蛇口と桶はあるので、それを使って体を洗えばいいだろう。
前世でもすべてのお風呂がシャワー付きだったわけではなかったし、珍しいことでもない。
むしろこっちだと、シャワーみたいなものがある方が珍しいけれど。
わたしを引っ張っていったシエルは、手を放して「洗いっこと言うのをしましょう?」と首をかしげる。
そう言えば、そんな約束をしていた記憶がある。
確かビビアナさんと一緒にお風呂に入った時に、拗ねてしまったシエルと約束したはずだ。
あの時にはこんなに早く実現するとは思っていなかった。いや、実現するとは思っていなかった。
やるからには徹底的にシエルをピカピカにしてやりたいけれど、たぶんメイドさんにしてもらった方が確実ではあるだろう。
わたし達の場合汗を流す程度で十分だと言えばそうだし。
「洗いっこって言うのは、お互いの体を洗えばいいのよね?」
「そうですね。髪は例によって汚れをお湯で流す程度ですけど」
「わかったわ。まずは私がエインを洗ってあげればいいのね」
シエルは納得すると、桶にお湯を溜める。
風邪をひかないようにシエルは魔術で温めておこう。攻撃魔術にはならないから、適当に火属性の魔術でも使っておけばいいか。
さてシエルだけれど、誰かさんのせいでものすごく石鹸の泡を作るのが上手になった。
まだわたしの方が上手だけれど、その内追いつかれるだろう。
その間、わたしは用意されている椅子に座って待つ。
「……ひゃっ」
のんびりと待っていたら背中が撫でられた。
シエルの仕業なのはわかっているけれど、変な声が出てしまったので恥ずかしい。
「やっぱりエインの声は可愛いわね」
「……シエルと同じだと思いますけど」
「そうかしら? エインは歌姫だもの。エインの方がいい声をしているんじゃないかしら?」
「言われてみればそうかもしれません」
不意打ちにちょっと拗ねてみたけれど、話をしているとそんなことはどうでもよくなる。
声については確かにシエルの言うとおりだとは思う。
わたしはたぶんシエルほど踊りが出来るわけではないだろう。
話をしながら、シエルの手はわたしの身体をなぞるように滑っていく。
正直結構くすぐったいので、声が出そうになるのを必死で我慢しているのだけれど、もしかしたらシエルに聞こえているかもしれない。
これだけ体が密着しているわけだし。
体の火照りが、恥ずかしさのせいなのか、お風呂のせいなのかはわからないけれど、分からないから後者にしておくことにした。
「エインの肌はフニフニね」
「それはシエルも変わらないですよ。おそらくですが」
「そうよね。だとしたら、ここの大きさも変わらないのかしら?」
何て言いながら、シエルの手がわたしの胸に伸びてくる。
覚悟はしていたけれど触れた瞬間に「ひぅ」と息が漏れるのは我慢できなかった。
やっぱり女性的な感覚には慣れていないところが多いのだ。
シエルの手つきは純粋に感触を楽しんでいる感じがして、止めにくいのがとても質が悪い。
「大きくはないけれど、柔らかいのね。なんていうのかしら? 少し癖になりそうね」
「さ、されている側は、ちょっと、癖にならないでほしいんですけど……」
シエルはわたしの言葉に応えることはなく、代わりにその手を別の場所へと動かした。
◇
洗いっこは強敵だったよ。
一通り洗った後も、人と触れ合うことがほぼ初めてのシエルはわたしの身体の感覚をいたく気に入ったらしく、二の腕とかをフニフニと触るのだ。
それこそ初めて低反発枕を買った子供のように、その行動自体に下心がない。
偶にそうではない触り方をすることもあったけれど、基本は人の温もりを確かめているようだった。
何と言うか、わたしが反応するたびに悪戯っぽく笑うのに、基本はにへらっとしていて、出来ればシエルを傍から見ていたかった。
わたしはとにかくシエルをピカピカに磨き上げることに注力した。
わたしの手が触れると、シエルが気持ちよさそうにしてくれるので、なんだか本気になってしまった。
そして今は、シエルと並んで湯船につかっている。
髪を湯につけるなんて御法度かもしれないけれど、結界コーティングで髪もお湯も汚れることはないので、2人して気にせずに入っている。
おかげで髪がぶわーッと広がり、シエルとわたしの間に白と黒のマーブル模様が生まれてしまった。
綺麗ではあるけれど、結界がなかったら互いの髪が絡まって大変なことになっていただろう。
手をつないで肩を寄せ合って入っていたのだけれど、ふいに手を離したシエルがおもむろにわたしを自分の膝の上に置いた。
そして後ろから抱き着いてくる。
前にビビアナさんとしたことを真似たいんだろうな、と動機は予想できたのでわたしも抵抗することはせずに、シエルの腕の中に納まった。
でもさすがに膝の上はシエルが重そうなので、足と足の間に入り込むような形で座る。
それからシエルの腕に触れる程度で手を添えた。
後ろ抱きと言うのだろうか、男性が後ろから抱き着くイメージだけれど、こうやって女性からされるのも悪くはない。
わたしからやったとしても、見た目は女の子だろうけれど。中身は分からない。正直もともと男だったみたいなイメージしかない。
両性と言うか、無性と言うか。でも体に引っ張られて、女性としての意識の方が強いのかな。
何て考えていたら、シエルがわたしの肩に頭を乗せる。
その頭を撫でながら、話しておいたほうが良いよなと言う話をすることにした。
「実はシエルに話していないことがあるんです」
「何かしら? もともと男性で、別の世界から来ていて、神様になっている途中で、他にも話していないことがあるものかしら?」
そう言われると今更何をみたいなところはあるか。
でもシエルが前々から気になっていた話ではあるだろう。シエルの髪を手で梳きながら話を続ける。
「エインセルの由来です」
「話してくれるのね?」
「ええ、もう黙っておく必要が無くなりましたから」
「そうなのね。それなら教えてくれるかしら?」
「はい。エインセルって言うのは、元居た世界の妖精――悪戯好きな精霊みたいなものでしょうか――が由来です」
「エインが居た世界にも精霊が居たのね?」
「いいえ、わたしが知る限りいませんでした。物語の中にだけいる架空の存在です。
妖精は主に小さな人のように描かれて、人を助けたり、悪戯をしたり、そしてたくさんの種類が居ます」
なんか思っていたところと違うところで、壁にぶつかってしまった。
妖精を説明するのって結構難しい。
わたしの説明で何とか理解してくれようとしているシエルが「うーん……」と唸っている。
「精霊にも見た目がたくさんある、みたいなものかしら?」
「そんな感じで良いと思います。その中の1人がエインセルです。
また同時にわたしが居た世界のある地方で『自分自身』を意味している言葉です。
ある日エインセルの妖精は、暖炉の近くで遊んでいた男の子のもとに現れました。
エインセルは自己紹介をして、男の子もまた『僕はエインセルだよ』と返します。
2人は仲よく遊んでいましたが、男の子の不注意で妖精に火傷させてしまいました。
妖精は泣き出し親を呼び出します。やってきた親は泣いている我が子に『誰がこんなことをしたのか?』と尋ねました。
それに妖精は男の子が自分のことをエインセルと自己紹介したので、「エインセルよ」と返しましたが、親は困ってしまいそのまま子供を連れて帰ってしまいました。
みたいな感じの話だったと思います」
ディテールは違うと思うけれど、大体こんな感じだった。
改めて見てみると、エインセルが可哀そうだなと思わなくもない。確か説によっては、親に怒られるのもあったはずだし。
「エインの名前の由来は分かったわ。でもどうして黙っていたのかしら?」
「エインセルがわたしが消えるスイッチになっているからです」
「エインが消えるのはダメなのよ。ダメって約束したわ!」
予想通りシエルが過剰反応する。わたしを逃がさないとばかりに、首に回した腕に力を入れ、体全体を密着させた。わたしは落ち着かせるように、シエルの腕を優しく撫でる。
「はい。もう消える必要がないかなと思って話すことにしたんですよ」
「本当ね? 嘘じゃないわよね?」
「もちろんです」
わたしが応えると、シエルから力が抜ける。
それでも密着させた体はそのまま。頬っぺたもくっつきそうだ。
お風呂と違った温もりに、何も間に挟まない肌同士の接触に、そのまま身を任せたくなる。
「そもそもどうやって消えるかですが、エインセルは要するに『自分自身』という意味があります。
エインでも『自分』くらいの意味はあるでしょう。
ですからシエルがいくらわたしをエインと呼んでも、シエル自身を指しているのと変わらない、と傍から見るとそう感じているとも言えるでしょう」
「エインが結界を張ってくれているのよ、って言っても、自分が張ったと言っているようなものなのね」
「半信半疑と言うか、出来たらいいなくらいの気持ちでしたけどね。
魔法を使うには何か代償が必要になるのは知っての通りです」
おかげで、わたしは攻撃魔術が使えない。
たぶん回復魔術も使えない。回復については歌姫でカバーできるけれど。
「ですからわたしは、わたしが持つ魔術の技量をすべてシエルに受け継ぐ魔法を考えていました。
そうしたら、シエル自身で結界を張ることが出来るようになりますから。
その代償はわたしと言う存在です。わたしが居たという痕跡すら残さず消し去るものです。
記憶の改竄も発生しますし、本来は出来るか怪しいのですが、エインセルと言う名前を使っていたので何とかなっていたようです。
すなわち魔法を発動させれば、わたしがしたことはすべてシエルがしたことになります。
エインセルの名前を知っているのも、エインセルと呼んでくれていたのも、この屋敷の人以外だとシエルだけですしね。
フィイヤナミア様は神の使いなので除外したとして、わたしをお世話してくれたメイドさんが自分をお世話したことになる違和感は残ると思いますが、後は特に大きな問題はなく皆の認識からわたしが消えたでしょう。
この屋敷に来る前に出会ってきた人たちは、だれもエインセルなんて知りませんから、記憶の改竄は不要ですしね」
本当にできるかどうかなんて、わかっていなかった。
出来たらいいなくらいのおまじない的なものだったけれど、最高神様からのお墨付きをもらえたということは、これで魔法になるのだろう。
と言うかアレか、最高神様の力が有り余っていたからこそ可能だったのかもしれない。
何にしても、シエルが神になりたくなかったり、わたしの正体を受け入れられなかったり、わたしを不要だと判断したりした時にはこの魔法で消えるつもりだった。
「それなら、今もまだその魔法は使える状態にあるのね?
どうしたら、使えなくなるのかしら?」
「わたしに別の名前を付けて呼べば使えなくなります」
「……それは困ったわ。困ったわね。エインはエインって感じがして、他の名前は違和感があるわ」
まあ、シエルに名前を考えてもらうことのハードルの高さは分かっていた。
それに違和感もわかる。今更わたしも夢村怜音の名で呼ばれても違和感があるし。
だとしても、シエルが思いつかないのであれば、前世の名前で呼んでもらうのが確実だろう。
最高神様ですら口にしなかったのだから。
だけれど、今の見た目で夢村怜音って言うのも似合わない。
「それなら、1度だけで良いのでユメと呼んでください」
レオも考えたけれど、ユメの方が女の子っぽい気がする。
わたしの言葉にシエルは首をかしげるのだけれど、顔が近いせいでシエルの頭がわたしに当たる。
その可愛い頭をとりあえず撫でると、シエルがくすぐったそうに目を細めた。
「それは前の名前なのかしら?」
「前の名前のあだ名の1つ……でしょうか。一番今の見た目にはあっていると思いますから」
「そうなのね。
……ねえ、ユメ。私はユメが好きよ。大好き。だからいなくならないでね?」
「ええ、もちろんです」
わたしも頭をシエルの方に傾ける。髪越しの接触だけれど、なんだかとても安らぐ。
同時にわたしが消える魔法が使えなくなったんだなと、感覚で分かった。
シエルがどうなったのか目で訴えてくるので「使えなくなりましたよ」とつぶやいた。





