1-6:宴もたけなわ
祈りを終えて、本来の目的地である図書館へ向かう。蔵書数は国内随一であり、珍しい書物を探し求めて外部から人がやってくるほどだ。外部の人は受付を済ませた許可証を首から下げている。学院の学生や職員は自由に出入り可能で、本の貸し出しの際には身分証が必要となってくる。
私は魔法に関する本を数冊選び、奥の学習スペースに腰がけた。図書館に入り浸るメンバーはだいたい同じで、すでに顔見知りとなっている。互いに不可侵であるため声をかけたことはない。
紙とペンを横に置き、本を斜め読みする。一年生の間に魔法関連本の大半を読み終えてしまった。自分の探している答えは今日も見つからない。失意の念で溜息がこぼれ、重い腰がなかなか上がらない。
今日の夕飯は何を作ろう。少しでも前を向くために頭を切り替えた。
図書館を出て、自宅に続く道で黒猫を一匹見つけた。日が落ちていく中で黒い毛並みに黄色の光彩は禍々しいオーラをかもしだしている。人を嫌うと有名な猫は尻尾を立たせ、じっとこちらを見つめていた。やがて鳴き声を一つ上げると人が入れない細道に滑り込んでいった。
学院の敷地内に猫がいるのは珍しい。頭の隅っこでそう思いながら研究所(自宅)の扉を開ける。
賑やかな話し声が耳元を通り抜けていく。目は声がする方向へ自然と動く。玄関の広々としたスペースに見知らぬ男性と女性がいた。二人は客用のしゃれたテーブルにつき、グラスを回しながら談笑している。
「おかえり、アイラー」
声をかけてきたのはクレランスさんだった。手には料理の皿があり、それを来客のテーブルの上に置いていた。
「おっ、それクレスの手作り? じゃあ味はお墨付きだな」
男性がわっと声を上げた。突然の大声に私は萎縮してしまう。
「アイラー、すまない、驚かせてしまったか。彼はマルコ、奥にいる彼女がジュリアマリアだ」
「どーも。よろしく!」
握手を求められ、マルコさんに手を差し出す。すると両手で握られ上下にぶんぶん振り回された。
「…………ジュリアで構わない」
マルコさんとは対照的にジュリアさんは物静かな女性のようだ。自己紹介中にも眉をぴくりともさせず、能面のように心を隠すのが上手い。薄い唇をグラスにつけて仰ぐだけだ。料理は二人の前に並べられているが、ジュリアさんの食事の手はほとんど進んでいない。
『はじめまして。アイラー・ヒースと申します。よろしくお願いします』
間を開けずに私も自己紹介を行った。スケッチブックを広げた瞬間、マルコさんが唾を飲み込んだのがわかった。こういう反応をされるのは初めてではない。ジュリアさんは相変わらずグラスをぐらぐら傾けている。
「アイラーは諸事情で話せないが、耳で聞くことはできる。時間はかかるだろうが……どうか仲良くしてやってくれないか」
クレランスさんの言葉にマルコさんもジュリアさんも頷いた。二人の大人な態度にぞんざいさはない。
「こうしてクレスの秘蔵っ子と出会えたってことは、オレもずいぶん信用されたってことだよな。張り切ってばりばり仕事するぞー」
「……ふっ。単純だな」
マルコさんとジュリアさんのやりとりに耳を傾けながら、『私が秘蔵っ子?』とクレランスさんの腕を引く。返ってきた言葉は「知らなくていい」だった。視線をそらして困った顔で言うものだから、悪い意味ではないと受け取っておく。
宴会は夜まで続いた。酒やワインを導入すると熱も混入してしまったらしく、クレランスさんがでろでろに酔っているところを久しぶりに見た。最も上戸だったのはジュリアさんで、身にまとっていた豪奢なドレスの色を飲んだワインで変えられるんじゃないかってぐらい豪勢に流し込んでいた。
補習で遅くなったレーネは帰宅すると、開口一番「臭っ」と鼻を押さえた。しかし進んで兄の介抱に努めていたのも彼女であったため、家族愛をひしひしと感じた。
賑やかな時間が楽しくて、宴会が終わってからも私の高揚は収まらなかった。自室では鼻歌を歌い、予習をするときも心が羽のように軽い。入浴して酒臭さを落とし、もう眠るだけだというのに体がうずく。起きているのに夢心地。今、先日の黒髪の彼が来てくれたら取り乱してしまうに違いない。
寝返りを打ってほくそ笑んでいたら、小さな物音が聞こえて体を起こす。
こんこん。一度ではなく、何回か聞こえてくる。どこからだろうと部屋の中を見渡していると、両開きの窓が小刻みに震えていた。
「みゃぁ」
ふにゃけた鳴き声にぱっと自分の頬も緩む。窓の鍵を開けて確認すると、黒猫が一匹窓枠にしがみついていた。
急いで猫を拾い上げる。建物を登っている最中に誤って滑ってしまったのだろうか。幸運なことに外傷は見受けられず、ほっと胸をなでおろす。
黒猫は私の手から飛び降りると、今度は私の足に頬をすり付けてきた。猫の積極性にくすぐられながら、私も猫の頭を撫でる。
(可愛いなあ。人慣れしてるってことはどこかの飼い猫かも?)
頭だけでなく、首や腹もこちょこちょといじくる。猫の甘ったるい声が充満し、私の寝る前のハイテンションに拍車がかった。
猫を抱き上げ、ベッドに連れ込む。男の子かと確認しつつ、猫に語りかけようとして声が出ない事実を突きつけられた。ふりふり踊っていた気持ちが撃沈する。触ること以外、この猫との対話方法がなかった。
昔はちゃんと声が出ていた。ある時期を境に、今となってはどんな事件があったのかも覚えておらず、声を失ってしまった。路頭に迷っていたところをクレランスさんに保護され、研究棟兼保護施設に案内された。検査を受けたところ、声帯に異常なしと出た。心理的なものかもしれないと何年もかけて治療を受けて、今の自分がある。
心理的外傷は全く残っていない。事件を忘却していることこそがトラウマだと診断されたが、私には昔よりも今の方が大切なのだ。穴はほじくらないでほしい。埋めたままにしいてほしい。
「にゃあ?」
猫がこちらを見上げていた。丸い瞳を見ていると何もかもが洗われていく。撫でていたら猫の頭が濡れていることに気付く。視界が滲んでいるのは嘘ではなかったのか。
えずきそうになった。馬鹿な涙腺の方が素直だった。夜泣きなんて性に合わないのに、ぽろぽろとこぼれていく。
(きみのせいじゃないよ)
小首をかしげている猫に心の中で謝る。猫の不安そうな声が申し訳なくて、「ごめんね」と伝えることもできないのが苦しい。
(そろそろお帰り)
猫から手を離して、窓の近くに下ろす。このまま窓を開けていたら気まぐれに出て行くだろう。
予想に反し、猫は出て行こうとしなかった。窓を開けたまま今夜は寝ようか。電気を消して、寝床につこうとすると、猫の姿は消えていた。