1-4:真夜中の出会い
帰ってきたレーネに、何かあったのか問いただされた。いや正確には「何もなかったはずがない」と執拗に迫られた。私が『秘密』と右手の人差し指を立てると、レーネの表情がにやりと歪む。
「そーですか、そーなのですか。レーネちゃん、ときめきの波動びんびん受け取っちゃった」
ときめきの波動って何だろう。わかるように訳してほしい。二歳しか違わないはずなのにレーネは未来に生きすぎだ。
「アイラー、いい人ができたら教えてよ! 応援するから」
『そんなんじゃないって』
いい人ができたとか、自分には縁のない話だ。初恋もまだだというのに。
『レーネの好きな人はアルカネットさん?』
「好き? 違うわ! あたしの愛は一言で語れるものじゃないの!」
反撃として向けた言葉も簡単に打ち落とされた。むしろ火に油を注いでしまったようで、今夜は寝るまでレーネの話に付き合わされそうだ。
「アイラーもアル力ネットさまの伝説を聞けば考えが変わるわ! 文武両道、見目形も王子様で家柄も良いときた。これで崇めないで何を崇めればいいの!」
『神様とか』
「違うの、そうじゃないの! 彼は偶像じゃないの、実際に触ることができるの! あっ、そういえば来月に二年主席と三年主席による記念試合が予定されてるんだって! 絶対見て、見逃さないで! 引きずってでも連れて行くわ!」
畳みかけられたせいで、最初の主題もどうでもよくなってきた。彼女が先輩に向けているものは崇拝であり、何を信じるかは個人の自由であるのだから横槍を入れるのは無粋。放置しておこう。
『二年の主席って誰だったっけ』
「さあ。協会やら何やらに引っ張りだこだとは聞いてるわ。試験の日にしか顔を出さないのに、不動の一位をかっさらっていくなんておかしいとは思わない? 平等性に欠けるわ」
レーネは嘘をついている。瞬時にそう判断した自分にうろたえそうになった。文脈中におかしな点は一つもない。私は二年主席を知らないし、主席が学院をさぼりがちであることも事実だ。でなければ顔も素性も知らないのはおかしい、とも思ったが学生数を思えば仕方のないことか。
『卑怯かは学院が決めることだよ。ただ忙しいなら試合に出られるかな?』
「まあ、いい思いつきっ。二年の主席が休んだら代打であたしが選ばれたりしないかなー、うふふ。アル力ネットさまと剣を交えられるなんて素敵」
レーネの世界は先輩を中心に回っているんじゃないだろうか。
長話が終わる頃には月も昇りきっていた。自室に戻ると、明かりをつけなくても月明かりでぼぅと外が一望できた。夜の学院は昼と夜でまた印象が違う。何人たりとも寄せ付けない、神聖な地。所々光が漏れている部屋では今まさに魔法発展のための研究が行われている。
声を出そうと喉に力を込める。出てきたのは通り抜けるような弱々しい風だった。
月の魅力に引きつけられて、そのまま暗闇の部屋で外を眺めていた。私の体も月光を浴びて白く浮かび上がっているように見えるのだろうか。少しでも月に近づきたくて窓を開けた。涼しい風が髪をそよがせ、火照った体を冷やしていく。
遠くで黒い物体が動いたとき、最初はそれが鳥か何かだと思った。あまりにも激しく動くため見間違いだろうかと目をこすっていたら、衝撃と共に視界が遮られた。背中を強かに打ち、痛みで体をよじっていると、上から声が降ってきた。
「しくった、人がいた……」
床に倒れ込んだ自分の上にのしかかるようにして誰かがいた。この人が窓から入ってきて私にぶつかったのだと理解し、抵抗する直前に手で口を塞がれた。
「騒ぐな。しばらく匿ってくれ」
声からして男の子のものだった。やや高めのテノールに偽りの響きはなく、彼は私の口を手でふさいだまま外へ注意を向けている。途切れない警戒にどこか慣れたものを感じさせた。
私は舞い込んだ非現実に返す言葉もなく、浅い呼吸を繰り返しながら時間が去るのを待った。そうしているうちに自分は組み敷かれているのだということにも気付いてしまい、湯上がりの火照りをぶりかえしてしまった。早鐘を鳴らしている心臓が止まってしまわないか気が気でならない。これがもしも事件の類であるならば物理的に心臓を狙われる可能性もあるために、冷や汗が気持ち悪く寝間着を濡らした。
「いい子だ。もう少し」
闇の中で一瞬、彼と目が合った。深淵に引きずり込まれてしまいそうな黒真珠の瞳。髪も同じ色であり、夜の中で生まれたような人だと呑気にも感嘆してしまった。
脂汗がじわりと額を流れたとき、彼の体が私から離れた。
「巻き込んで悪かった」
立ち上がった彼の体には無数の傷が刻まれていた。暗い色の衣服も引き裂かれ、新しい傷からは液体が垂れている。
窓から飛び立とうとする彼の腕を私は無意識につかんでいた。なぜこのような行動をとってしまったのか自分でも思考が追いつかず、苦し紛れにテーブルの上に置いた救急箱を指さした。
窓を閉め、治療のために明かりをつける。光で灯された彼の顔は自分が想像していたよりも幾分幼く、同年代かやや年下の印象を受けた。ただそう仮定すると、獲物を狩るような野性的な目つきだけが異質であった。鋭い牙で対象を噛みつき、ひきちぎりそうな勢いに気後れしてしまいそうになった。
「何見てんだ。早くやってくれ」
急かされて我に返る。彼の多数ある傷の中から特にひどいものをいくつか選び、薬草をまぶしたものをすり付けて、ふっと息を吹きかける。魔法にも医学や薬学といった分野がある。これから私が行うものはその中で最も得意とする方法だ。
(怪我が治りますように)
唇を動かして治癒を願う。そしてこの魔法は完了した。みるみるうちに怪我が塞がっていくのを固唾を呑んで見守る。
「……すげぇ。こんな魔法があるんだな」
――魔法は奇跡ではない。神秘でもない。変化であり常に対価を求める。人へ作用する魔法は大抵が人間の脳を騙しているのである。例えば青い花に赤くなれと命じれば、人の目で赤くなったように見えるだけで実際は赤くなってなどいない。飛行魔法といった大きな現象操作となればまた違ったものになるが、人々が魔法と崇めたものの大半はまやかしに過ぎなかった。
祈祷魔法も科学的に論証すればまやかしなのかもしれないが、私は幼い頃からこれが得意であった。
「ありがとな」
顔をくしゃっとさせて、彼は笑っていた。年相応の笑みに彼の歩んできた人生が見え隠れしていた。
見ているだけで私の手は小刻みに震え始めた。実際に経験した彼の深淵を一割も覗いていないだろうに、心が拒絶しようとしている。彼の怪我の理由についても思考停止してしまう。
「今日のことは忘れてくれ」
別れは予期されたものだというのに、平静をかき乱される。あなたは忘れることができるのか。そう問いたくても問う術がない。
夜から生まれた彼は夜の闇に音もなく吸い込まれていく。ここが二階であることを無視し、窓から飛び降りた彼の背中を見つけることは四つ葉探しより難しく、空気をつかむようなことだった。