1-2:違和感
険しい山脈と広大な海に囲まれた国、エステル。遥か昔より魔法が信じられており、魔法使いは現代でも産業や国防において第一線で活躍している。より魔法使いとしての技量を磨くため、そして魔法を解き明かす研究のために開校されたエステル魔法学院には毎年多くの少年少女が入学してきた。
かくいう私もその一人であり、入学してきてちょうど一年が経過したところである。
エステル魔法学院の正門には今日も人だかりができていた。反射的に歩みが止まる。人だかりを構成しているのは主に女子生徒であり、顔ぶれから集団の中心を想像できるほどこの学院では見慣れたものだった。近々一年生も加わるだろう。
「きゃーっ。アイラー、見た? アル力ネットさまが私を見て微笑んだわ!」
興奮したレーネが私の肩を叩きながら叫んだ。ばしばし。びしびし。嬉しさは十分に伝わっているから叩くのをやめてほしい。一回叩けば気付くから。私の肩はタンバリンでもカスタネットでもないから。
集団の中で一つ頭が飛び抜けている存在がこの賑わいの原因だ。煌びやかな金髪は日の光を浴びて輝き、まるで宝石のように角度によって色味を変える。柔和な笑みに拒絶の色は一切なく、それが女子生徒達にあわよくばお付き合いできるかもしれないという淡い幻想を抱かせる。彼の名前はレーネのせいで覚えてしまった。アル力ネット・リンデン。名前が長くて署名には苦労しそうだ。
彼に一目会うために早く家を出るレーネもレーネだ。学院の敷地内に研究棟(家)があるというのに、毎朝迂回して学院前で立ち止まらなくてはならない身にもなってほしい。けれども心の中ではレーネのミーハー性をうらやましくも思っている。好きという感情を全身で表す。誰もが皆できることではない。
「みんな集まってもらってごめんね。僕はそろそろ出かけなければならないんだ」
えー、という悲しみ混じりの黄色い声が随所から上がる。ただこのやりとりも何回も繰り返されたものであったため、輪の中心を誰も引き留めなかった。飼い主を送り出す忠犬のようにじっと背中を見つめている。
「魔法の腕はパーフェクト、武術も右に出る者なし、加えてあの麗しいお姿だなんて、天は二物も三物もお与えになるのですね! アルカネットさまが主席なのも当然だわ!」
恍惚とした表情を浮かべるレーネの傍らで、なるほど大半の女子にとって雲の上の存在なのかと私は納得していた。
ふと雲の上の存在と目が合った。私にとっては目が合うことよりも、視線が気付かれるほど彼を遠くから眺めていたことの方が恥ずかしかった。居たたまれなくなってしまい、『先に行ってるね』とレーネにスケッチブックを見せて、私は駆け足でその場から離れた。
学院で行われる講義は座学と実践の二種類に大きく分けられる。魔法がどのように周知され発展していったのかという魔法史。魔法の構造や発動を学ぶ魔法基礎学に、普段の生活で魔法を有効活用する術を探す魔法応用学。薬学や医学の講義もあり、魔法を完全に理解する道は遠いと知る。
「アイラー、アイラー。今日の一限なんだっけ?」
講義開始寸前にレーネが講堂に飛び込んできた。
私は魔法応用学の教科書をレーネに見せて、教卓へと視線を戻す。間もなく訪れた講師の姿に背筋がすっと伸びた。ノートを広げていつでもメモできるようにしておく。
「ほんと、アイラーは真面目だねぇ」
頬杖をつきながら呟いたレーネは興味なさそうに目蓋を半分閉じている。大きなあくびをしないだけでもマシであるが目立つのでやめていただきたい。
講義を受ける態度は十人十色であり、講師も一人一人を咎める気はないのか順調に話は進んでいく。
「本日の授業は魔法応用学です。一年次に魔法基礎学を履修した皆さんならばすでにお知りであると思いますが、魔法は今や奇跡ではありません。数百年の歴史の中で、ついに魔法は変換事象の一部であると証明されました。錬金術と魔法はほぼイコールといっても過言ではないのです」
講義中の発言から必要と思った部分のみメモする。
火を生み出すには別のエネルギーを変換させればいい。水を生み出したいならば水蒸気を冷やせば良い。風を吹かせたいならば風車を回し続ければいい。魔法の本質はエネルギー変換である――と高名な魔法使いが宣言したのは何年前であったか。
無意識に己の喉元へ手が伸びる。魔法がエネルギー変換であるならばこの魔法は一体何なのだろう。
睡魔はいたずらしてこないが、いまいち集中できない。原因が講師の発言への不信であることは憎ましいほどわかっていた。
一瞬だけ講師と視線が重なったが、避けられるように離された。そして何かうしろめたいことでもあるのか講師の話は早口になる。
「それでは皆さん、注目してください」
講師の手の中には花火のくす玉があった。導火線に火をつけると中の鉱物と反応して爆発する仕組みだ。観賞用の花火は威力を小さく、かつ長持ちするように改良されている。講師は火打石をこすり合わせ、生まれた熱を導火線へ伝わらせる。すると心地よい音とともに一人用花火が上がった。
「このようにあらゆる魔法には前準備が必要となります。この準備段階においてどれほどのケースを想定できるかが魔法使いの格を決めるのです」
「……嘘くさ」
隣でレーネが悪態をついている。この講義が始まってからご機嫌斜めといった様子なのはどうしてなのだろう。
場は水を打ったように静かになり、前に座っていた生徒も振り返るようにして、発言者であるレーネが槍玉に挙げられた。
「レーネさん、異議申し立てがありましたら受け付けましょう」
まずい、注意されたと内心焦る私をよそに、レーネは物怖じせずに立ち上がった。彼女は周囲の冷ややかな怪訝にもめげず毅然なまま無言を貫き通し、「何もありません」と目を伏せて着席すると、
「魔法は……高尚なものじゃない」
親の仇を恨むかのような憎しみにあふれた声色だった。歯ぎしりの音まで隣にいた私には聞こえてきた。きりきりと糸が切れそうな緊迫感。レーネの発言は嘘ではない。根拠もないというのに私は信じてしまった。
講義が再開されてからもう一度、己の喉元へ手を伸ばす。誰も私の喉にかかった魔法を解いてはくれない。