2-5:迫る遠音と矛盾
ぱっと目が覚めたとき、空に星が輝いていた。太陽はとっくの昔に沈んでいたようで、人っ子一人見当たらない。時計塔の短針を確認すると十。一般人がのこのこと外出してよい時間ではない。
飛び起きて、落ちていた鞄をたぐり寄せる。寒さで数回くしゃみをした。
どうやらシスターは先に帰ってしまったらしい。私を気遣っての行為だろうけれど、どうせなら帰り際に起こしてほしかった。
中庭から研究棟への道のりを思い描き、一心不乱に走り出す。風に乗って空薬莢の臭いが漂ってきて、走る速度を上げる。
暗晦の夜空に花火よりも数倍強い閃光が上がる。小石が一つ一つ数えられるほど照らされた地面。背後から襲ってくる白光に捕まらないよう、足がもつれるまで必死に走った。
ある程度の距離をとってから、誰にも見つからなさそうな死角で息を整える。このままここで夜を明かすつもりはない。上空のいざこざに巻き込まれないよう注意しながら、低姿勢を保って研究棟まで抜けようとする。
建物の角を曲がった先に、揺らめく影を認めて急停止した。数秒体が硬直してしまうも、深呼吸を繰り返して落ち着かせる。影を目視できない位置まで下がり、迂回ルートを脳裏に描く。
人の姿は見えないのに学院の敷地内に誰かがいる。再び背後で閃光弾が上がった。いや規模からして魔法なのではないだろうか。太陽があるのではないかと勘違いするほど頭上の夜闇が払われていく。
足音が聞こえて木陰に身を隠した。体を丸くして音が遠くなるのを待つ。まばらな軍靴の斉唱は暗闇の中で不気味に響き渡っていた。学院を徘徊する警備隊のものであれば何かしらの声や合図や独り言が聞こえてくるはず。今夜はそれがない。静寂の中で音といえる音は足音とときたま遠方から伝わる轟音。とはいえ街の住民にとっては真昼の工場音よりは些細なものだ。事実私だってここに暮らしているのに気付かなかったではないか。
形のない恐怖に駆られて、感覚が研ぎ澄まされる。通り抜ける風の音にさえもおどろおどろしさを覚えてしまい、研究棟への道のりがやけに遠く感じた。
「止まれ」
どこからか声をかけられ、心臓が口から飛び出そうになった。唾を飲み込み拳を握り締めて、片手をポケットに潜ませて警戒する。
ぐるりと周囲を見渡しても暗闇のせいでそれらしき人物を発見できない。こちらからはわからないのに、向こうは判別できているのか。恐らく魔法使いとしては向こうが格上だ。できれば穏便にすませたい。
まずはそちらの正体を見せて――。対話へつなごうとして言葉が出ないことを思い出す。あの日から何年も経っているのに習慣が抜けていないとは。こちらからはどうすることもできず、尚更手網を握られることとなる。
「手を挙げろ」
指示に従い両手を挙げる。最大限まで引き絞られた緊張はあと数秒で爆発してしまいそうであった。
「なんだお前……真夜中に散歩の趣味でもあるのか? 早く帰れ」
どうやら相手は私が敵でないとわかったらしい。腕を下ろせ、と命令されてその通りにする。
早く帰れだなんて、言われなくてもわかっている。帰ろうとしているときに足止めしたのはそちらじゃないか。ただし真夜中云々は正論であるためぐうの音が出ない。
「……俺が送る」
これは彼なりの心遣いなのだろうか。若干低めの少年らしき声を信じてみてもいいかもしれない。こちらを騙そうとする気配はなく、背後を歩くなんてストーカーみたいで気持ち良くはないが、提案を無下にはできない。ついてこないでと言えない以上、向こうが勝手についてくるかもしれないが。
「反論なしか。了承と受け取るぞ」
カタンと小さな音が聞こえた。もしかして上から飛び降りたのだろうか。後ろにいるであろうに気配は一向に感じない。不気味だ。まるで影みたいだ。
後ろを振り返らずに私は歩き出す。
聞きたいことはたくさんあった。遠くから聞こえる音や、敷地内にうろつく何者かについて。話せるならば大量の質問を浴びせていたかもしれない。
(そうだ、話せたら――)
昼過ぎに試した祈祷魔法は失敗した。魔法使いとして成長した現在でも失敗したのだ、一生声が戻らない可能性だってある。ただし折れてはいない。立ち上がれる。体に染み込んできた毒(呪い)を振り払うために、茨の道を歩もうと。
「お前、生きてて楽しいか?」
研究棟が見えたあたりで背後にくっつく影が問いかけてきた。
影なのに話すのかと心の中で突っ込みながらも結論はとっくの昔に出ている。私は少なくとも楽しいから生きているのではない。楽しくないから生を感じないのではない。ヒース兄妹に救われてから、この体は自分一人のものではない。声が出せなくても十分に日々を謳歌している。
(あれ――?)
そこで決定的な矛盾に気付いた。
進む足だけは止めなかったため、私の戸惑いについて後ろの影は勘付いていないだろう。
なぜ自分が声に執着しているのか。取り戻すためだけに数年を費やし、魔法学院に進学したのか。後悔はないと胸を張れる自信はどこから来るのか。
結局彼の質問には答えなかった。研究棟八号館、愛しの我が家は目と鼻の先に迫ってきている。
背後に気配を感じながら、扉に手をあてて引く。
家の中に滑り込み、玄関の扉をパタリと閉じて、一人になってしまった名残惜しさと安心感が一度に襲ってきた。
夜もふけているというのに、クレランスさんやレーネの姿はない。時間も時間だ、もう自室に戻っているのだろう。明かりがついたままなのは私への配慮に違いない。
ふと心地よい音楽に足を止めてしまう。耳をそばだててみると奥の娯楽室から聴こえていた。小刻みに震える音は高く、きんとした品があった。その強弱の変化に素人には真似できない技術を感じた。
娯楽室の扉は隙間が空いており、光が漏れ出ていた。覗きこむようにしながら音の主を探す。
赤色のドレスを着た女性がバイオリンをのびのびと弾いていた。手の動きはときに激しくときに緩やかで同じ調子である瞬間がない。
まるで海のように押し寄せる音の波は知らず知らずの間に私を飲み込んでいた。ぷかぷかと水面に揺られ、雑念が取り払われていく。
ジュリアさんと目があって、演奏の終わりを知る。思わず拍手をするも、彼女は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
再演は前触れなく始まる。彼女にとってバイオリンを演奏するということは息を吸うようなことなのだろう。力まずに弓を引く様子は遊びを覚えたばかりの子どものように自由だった。指を動かせば音楽が生まれている。そう錯覚してしまうほどに彼女にとっても音楽は大切なのだろう。
「……希望は」
切れ長の赤い瞳がこちらを見ている。問いかけだと気付いた私はスケッチブックにお気に入りのタイトルを示した。
曲名を確認し、ジュリアさんは息もつかずに弾き始める。
紛れもなく惹き付けられる演奏であった。人通りの激しい喧騒の中であってもこの音は響くだろう。コンサートホールで聴けば耳も心もとろけて侵されるかもしれない。
レーネが騒がしくやってくるまで、物静かな演奏会は続いていた。
「厄介だ」弓をげんからはなし、そっと腕を下ろしたジュリアさんは呟いた。「ヒースが君を我々と離そうとしたのも頷ける」
背中をこちらに向け、ジュリアさんはうつむく。
「明日はブレッヒ宅へ向かうのだろう? 今日のことは忘れてくれ」
忘れろという一言に先日の一件を思い出し、素早くスケッチブックにペンを走らせる。
『素敵な演奏を、忘れるなんてできません』
「そうか。あんな姑息なものを素敵だと言ってくれるのか。……聴き手がいるならば私も応えよう」
次の演奏会の約束をして、ジュリアさんは帰っていった。真夜中であるというのに帰り道を恐れず突き進む背中に、勇猛さよりもそこしれなさに不安を抱いてしまった。レーネにジュリアさんはいつもあんな感じだと告げられて、その思いは増した。
「あー、平気平気、外に迎えの車が止まってるの。だからあんぜーん。運転手もいるしね、心配いらないの」
車という一言に一瞬目の前が遠くなった気がした。
車は高価なものであり、一般市民の手の届くものではない。それなのに車とお抱えの運転手を有しているとは。ジュリアさんとクレランスさんはどのような関係なのだろう。
「気になるって顔してる。わかりやすいなあ。まあ怪我してないようだしいいや、細かいことは」
廊下にいたはずのレーネがにやついたまま部屋に入ってきて、私は思わず目を疑った。
電球が照らしたレーネの姿は凄惨なものであった。膨らむフレアスカートはところどころ引き裂かれ、片膝には砂利がつき血も滲んでいる。そして学院の学生ローブについた染みが何であるか、頭が理解を拒んでいた。毎日丁寧に整えられている髪も今晩はなんだか雑で、暴風にでもあてられたのか崩れている。
「……これ? さっき階段で転んじゃってさー」
見えついた嘘を吐いたレーネ。家の中で転んで砂利がつくはずがない。この前マルコさんが遊びにきたときに、最近訓練していると言ってたけどそのときにできた傷だろうか。だとしても今更ごまかす必要がない。
このとき確信した。レーネが何か大きな隠し事をしているということを。けれど今にも倒れそうな親友を見ていると、まずは治療と気持ちがはやり、問いただす気にはなれなかった。